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最も危険な読書会(B&Bでブックハンティング)

 下北沢にあるビールが飲める書店「B&B」で読書会をしたので報告する。結論から述べると、積読山がさらに高くなっただけでない。本を通じて知らない人と友になり、友人とはもっと親しくなる、素晴らしい読書会だった。B&B マジおすすめなので、松丸本舗難民は皆行くように。

『別冊 諸星大二郎』が大幅に!

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 ふつうの読書会は、ある一冊の本を決め、参加者はあらかじめ読んできて、その本について批判や議論を展開する。スゴ本オフは、あるテーマを決め、それに沿った本を持ってきて、お薦めポイントや作品への愛を語る。だが、今回やったブックハンティングは、書店の棚を皆で巡り、気になる作品やお薦めを、互いに紹介しあうのである。

日曜の朝から女性器とか巨乳について語り合う

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 本が好きな人は、孤独な狩人である。静かに書店を巡回するのが常である。それが、店を借り切り、皆でワイワイおしゃべりしながら宝探しする。いつもなら見過ごしていたジャンルや、スルーしていた棚に、実はストライクゾーンど真ん中の作品が潜んでいることを教えてもらう。

棚ごと欲しい(その1)

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棚ごと欲しい(その2)

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棚ごと欲しい(その3)

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 ふつうの読書会なら一冊だけ、スゴ本オフでも数冊という限界が、「書店全部」に拡張される。さらに、ただでさえ面白そうな本がセレクトされている B&B ですると、お財布がトンでもないことになる。ブックハンティングが、「最も危険な読書会」と呼ばれる理由は、おわかりいただけたであろうか。

水声社の充実度が素晴らしい

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何度も挫折している2冊

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これも何度も挫折している(難しい)

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 まだ松丸本舗があった頃、[松丸本舗でブックハンティング]して「6時間ぶっ通し書棚巡り」なんてムチャもしていたが、今回は2時間に限定した。一瞬だったので、隣のサイゼリアで延長してブックトークしてきた。

これは読むだけでなく「使う」本

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 これは読みたい! と強烈に思ったのが『別冊 諸星大二郎』なり。2011年発行されたムックに100頁の新規掲載を加えマシマシ状態となっている。「暗黒神話」「孔子暗黒伝」「妖怪ハンター」「マッドメン」「西遊妖猿伝」「栞と紙魚子」「諸怪志異」など、55作品を徹底解説、全351作品リストも最新化されている。しかも、いま銀座の[スパンアートギャラリー]で原画展をやっていて、6/10までなので、早々に行かないと(紹介したOさんはこのあと銀座に向かった)。

 何度もお薦めされ、読もう読もうと思ってて、今回も強力にお薦めされたのがダニエル・エヴェレット『ピダハン』。ピダハンはアマゾンの奥地に暮らす少数民族で、そのユニークな言語と認知世界を描き出したノンフィクション。ピダハンの文化には「左右」「数」「比較」の概念がない。伝聞もなく、すべては自分の経験として語られる。面白いだけでなく、私たち常識だと思うものが「無い」のではなく、別の概念で世界が成り立っているのだという気付きも得られる。ところどころで言語学者チョムスキーをディスってて、そこも読みどころだという。

狩りの獲物

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『星の王子さま』とゲイの共通点は......

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ボレスワフ・プルス『人形』は端的に言って鈍器

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『陰影礼讃』の写真集!

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『うちは精肉店』は素晴らしい

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『ブッチャーズ・クロッシング』は傑作

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 全く知らない、でも凄いのに出会えたと確信を持ったのが、シオドーラ・クローバー『イシ』だ。北米最後のインディアンを描いたノンフィクションである。白人の迫害から逃れ,山中に隠れ住んでいた一人の男が、文明社会に姿を現わす。文化人類学者のアルフレッド・クローバーは、自分の名前を明かさない彼の面倒を見て、友達になろうとする。このアルフレッドと、著者シオドーラが結婚してできた子が、アーシュラ・ル=グウィンといったら話ができすぎだが、本当のことである。真の名を明かすことは本質を捉えられることだとしたゲドの物語とつながってくる。

 ピピピッと来て衝動買いしたのがスチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』である。ユーモアにあふれ、美しく、温かく、緩急自在の7つの短編集とのこと。紹介するTさんが本当に嬉しそうに熱っぽくお薦めするのと、訳した柴田元幸さんが「これまで訳したなかでいちばん好きな本」と断言してるので、これは読まねばと即決した次第。人生初のレイモンド・カーヴァーやポール・オースターと同じ印象を受けたのだが、こういう直感はたいてい当たる。楽しみなり。

わたしの獲物

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 わたしが選んだのは、山本貴光『文学問題(F+f)+』である。世に出た瞬間、手にする前からスゴ本だと思っていたが、積読山に埋もれさせるのが嫌で買わなかった。だが、買わないと読まない本だということが分かったので、この機に背伸びする。文学とは何ぞや? それは、F(観念)+f (情緒)であるという漱石の議論を下地に、古今東西の文学論を総ナメし、これからの文学を語る。通読するだけでなく、読んだ後は「引く」ように利用するのが、正しい使い方じゃないかしらん(学習参考書のように)。しゃぶりつくしてみよう。

 あっという間に終わってしまい、足りないブックトークは隣のサイゼリアで続ける。これ、サイゼ飲みと組み合わせたら、B&B でブックハンティング→サイゼで休憩を組み合わせて無限に本屋で遊べるぞ(そして我が財布が最大のピンチに陥るのだった)。

 参加いただいた皆さま、B&B さん、ありがとうございました! またやりましょう~

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お尻の穴から世界を見る『アナル・アナリシス』

 お尻の穴から世界を見ると、もっと自由になれる。わたしの「常識」に一撃を喰らわせる一冊。


N/A

 お尻とは、好奇心の入口であり、美の象徴であり、煩悩の出口でもある。液・固・気体を自動識別する外界とのエアロックであり、巧妙精緻なインターフェースを備えた器官でもある(お尻の偉大さについては[お尻を理解するための四冊][女は尻だ、異論は認めん。]に書いた)。

 これほど重要であるのもかかわらず、日常会話では「無いこと」「意識させないこと」として扱われている。直立した人体の下方に位置するが故に、底辺(bottom)と同義とされたり罵倒句(**s hole!、ケ■を舐めやがれ!)になる気の毒な存在でもある。

 だが、反対にお尻の穴を中心として考えることで、自分が狭い了見に囚われていたかに気づく。BL や LGBT(うち、特にゲイ)に抱いていた考え方も、男根主義の影響を受けていることが分かる。それが本書、『アナル・アナリシス』である。


N/A

 『アナル・アナリシス』は、文字通りアナル(お尻の穴)からアナリシス(分析する)試みだ。文学作品や絵画、映画の解釈を通じ、そこでアヌスがどのように描かれているかを分析、その「描かれ方」が何に基づき、どのような影響を受けているかを深堀りする。本書ではこれを、アヌスから読み解く「アナル読み」と定義し、わたしの「常識」に挑戦する。

 たとえば、同性どうしで愛し合う際の役割として、タチとネコ(攻めと受け)がある。これは、主導権を握り積極的に攻めるほうがタチで、支配され受け入れるほうがネコだと考えていた。BL の場合、ペニスを挿入するほうがタチで、されるほうがネコになる。

 しかし、同性どうしの愛を描いた作品を「アナル読み」すると、そこに異性愛を規範とする社会影響が見て取れるという。すなわち、ペニスを挿入する男性が支配権を握り、それを受け入れるヴァギナを持つ女性の組み合わせが「ノーマル」とされる家父長制の支配構造が投影されているというのだ。

 本書の「アナル読み」は、いったんこの「ノーマル」を取り払うことを促す。すると、同性どうしの愛は自身のセクシュアリティに深く結びついており、決して単純なものではないいことが分かる。本書では BL 小説を用いながら、ネコであることは自身のアイデンティティの再発見である例を示す。

 男性どうしのロマンスを描いた作品だと、映画にもなったアニー・プルー『ブロークバック・マウンテン』が有名だが、目新しくもなければ斬新でもないという。アメリカで生まれた物語にはいたるところにホモセクシュアリティの性的葛藤がみられ、本作はその長い伝統の一端に過ぎないらしい。

 むしろ『ブロークバック・マウンテン』の意義は、『白鯨』や『ハックルベリー・フィンの冒険』のようにジャンルの枠を超え、アメリカ文学に根付くクィア性をこれ以上ないくらい明確にしたことにあるという。

 さらに、「アナル読み」により、この「攻め・受け=支配・被支配構造」は様々な作品に見出すことができるという。アジア人が出演する北米のポルノ作品のほとんどは白人優位であり、アジア人はネコの役割を与えられているという。「アジア人とアヌスは同一視されているのだ」という表現は過激だが、これはペニスによる支配・被支配構造を投影したものなのだろう。

 反対にこの構造を逆転させたのがケント・モンクマンの絵画で、カナダの入植者の尻を叩く先住民を描いた『クリー族の長』を例に挙げている。人種問題として「攻め・受け」を分析した「アナル読み」により、問題の根深さを知ることができる。

 「ヴァージニティ」の議論も興味深い。ヴァージニティの喪失という概念は、異性愛を規範とする家父長制の文化を反映していると説く。男性はヴァージンの女性からヴァージニティを奪う立場と考えられ、結果、ヴァージニティは女性の問題とみなされる。

 だが、異性愛的規範から考えると、まるで様相が変わってくる。レズビアン、ゲイ、トランスジェンダー、バイセクシュアル、誰もがヴァージンという言葉を違う意味で使っているというのだ。

 たとえば、ゲイはどうやってヴァージンを失うのか。挿入する側か、挿入される側か、もしくは両者か。レズビアンがヴァージニティを失うにはペニスバンドを使わねばならないか。

 あるいは、オーラルやアナルなどの性体験は豊富でも、ヴァギナに挿入されたことのない女性のことを「テクニカルヴァージン」というが(本書で初めて知った!)、そのヴァージニティは何に由来するのか。こうした疑問を考えるには、これまで共通認識と思い込んできた性の枠組みを、いったん離れなければならない。

 本書は、こうした男根中心主義に支配された社会規範に真っ向から挑み、挿入する側が攻め、される側が受けという単純な図式にあてはまらないケースが沢山あることを指摘する。挿入されるからといって男性としてのアイデンティティが失われるわけではなく、お尻の穴を通して自分のセクシュアリティを自覚し、新たにアイデンティティを構築するのだと主張する。


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 確かにその通り。本書で展開したまさに同じ話が、わたしの少ない BL 経験の中で裏打ちされている。最近なら、のばらあいこ『秋山くん』だ。美形・細マッチョでケンカも強い秋山くんに勢いで告白してしまう普通の男の子の話だが、「強い男=秋山くん」がネコなので虚を突かれる。では、「愛の強さ=タチ」かと考えると、そうでもない。主導権を握っているのは秋山くんなので、「挿入するほう=支配役」でもない。わたしの「常識」こそが時代遅れなのかもしれぬ。

 お尻の穴から世界を見ると、慣れ親しんだ「常識」が揺らいでくる。その分だけ、常識から自由になれる一冊。

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世界は不公平である『My Room 天井から覗く世界のリアル』

 世界は不公平である。金持ちと貧乏人がいて、美形とそうでない人がいて、幸せな人と不幸せな人がいる。そんなことは分かっている。そんなことは分かっているが、これほど如実に見せつける視点が新しい。

My Room

 55ヵ国1200人のベッドルームを、天井から並べた景色は、今の世界のサンプルそのもの。民族や文化だけでなく、その部屋の主の生い立ちやライフスタイル、思想までをも垣間見ることができる。

 どの部屋にも共通するのは2つ。ひとつは、天井を見上げている笑顔、もう一つは、自分の宝物を広げているところ。天井を見つめるのは、18歳から30歳の男女で、その若者がいまいる状況、何を望んでおり、どうしたいかといった身の上話を語ってくれる。

 たとえば、アメリカ合衆国ダラスの「銃のコレクションがある部屋」。ベッドの上には、拳銃やショットガン、アサルトライフル、防弾チョッキ(?)が並んでいる。銃社会アメリカを象徴するかのような部屋で、これまた全米ライフル協会を代弁するかのようなメッセージを読むことができる。曰く「人を殺すのは銃ではなく、銃を持った人なのです」。身を守るために必要だと説くが、安いのは200ドル、高いのは2,000ドルという8丁は多すぎやしないか。

 あるいは、インドのスラム街の「家族10人で眠る部屋」もすごい。6畳ぐらいの空間にベッドが一つ、冷蔵庫が一つ。この部屋に、両親、兄弟、姉妹、従妹、義兄弟、義姉妹が身体を寄せ合って寝泊まりする。映画にもなった小説『スラムドッグ・ミリオネア』の舞台となったダラビの部屋だ。「裕福な地区ができると、自然とその足元にスラム街ができる。富める者と貧しい者はお互いを必要とする」言葉が重い。

 日本もある。「ロリータファッションの部屋」である。ピンクを基調としたカワイイ小物や服を部屋いっぱいに並べ、本人もロリータファッションに身を扮して見つめている。「服装のルールに寛容な国に住んでいてよかった。ファッションの街パリではみんな黒しか着ませんが、日本ではだいたい何でも許されます」とのこと。言われてみれば、たしかにそう。日本では、着るものと食べるものにタブーはない(ように見える)。

 ニュースの「その後」をうかがい知る発言もある。エジプト革命の最前線だった部屋の主からは、「アラブの春」への疑義が挙げられる。革命は下品な本能を煽り、何百人もの人々が殺され、誰も観光に来なくなり、経済は大打撃を受けたという。南アフリカで貧しい暮らしをする女性は、「ネルソン・マンデラは自由のために闘ってくれたが、何も変わっていない。こんなにも不平等なのに、どうして希望と意志を保てばよいのか?」と訴える。

 ドバイの富豪「エマラティ」の部屋は見たほうがいい。石油の開発で大きく発展し、利益と権利を独占するUAE出身者のことを「エマラティ」というとのこと。深紅の敷布の上に高価な時計や小物を並べた若者の部屋である。「僕の世代はあまり努力する必要もなく生活を楽しむことができ、何より大きくて豪華な家で快適に暮らせます」という素直さが逆に重い。

 「農業は大嫌い」と嘆く18歳の女の子の土間部屋。汚れたコンビニ袋(のようなもの)が一杯に広げてあるマダガスカルの少女の部屋。サイバーカフェで英語を学び学位を得るエチオピアの少年の部屋。ほとんどモノがないのに、枕元にはiPhoneらしきものが転がっているシリア難民キャンプの部屋。モノが無いのは、「それが別の部屋に置いてあるぐらい豊か」からなのか、あるいは「モノそのものを持っていないほど貧しい」のかの二択だ。PC を持っているなら、Dynabook か Dell がほとんどである。

 著者・撮影者である John は、「なぜ部屋を撮るのだ?」という質問に、こう答える「部屋は人の最も親密なことが凝縮されていて、様々な生き方を表しているから」。

 部屋を通じてライフスタイルを知る、この感覚は、都築響一『TOKYO STYLE』に似ている。小さい部屋でごちゃごちゃと気持ち良く暮らしている「日本の空間」を切り取った写真集である。あるいは、ブランドにハマった庶民を「買った服」とともに撮影した、同じく都築響一の『着倒れ方丈記』[書評]を思い出す。写りこんでいる皆さん、ホント幸せそうな顔をしていらっしゃる。「消費社会の犠牲者」とレッテル貼るのは簡単だが、これほどハッピーな犠牲者もなかろう。借金してでも服が欲しいとか、服の収納のために家を買おうとか、突き抜けた次元にいらっしゃる。

着倒れ方丈記

 もっと広く、ある視点から世界をサンプリングしたものなら、世界各国で暮らす「普通の人々」の食事一日分を、その摂取カロリーとともに撮影した『地球のごはん』[書評]、あるいは世界24か国をめぐり、そこに住む家族と1週間分の食材をポートレイトにした『地球の食卓』[書評]といったルポルタージュに似ている。貧困にあえぎ必要な栄養を得られていない人々のカロリーと、豊かな国で太りすぎのためダイエットしている人々のカロリーがほぼ同じという皮肉を見ることができる。

地球のごはん

 生活を斬り口にすると、文化や時代を超えた普遍性をもって問題を露わにすることができる。衣食住、どれを斬り口にしても、世界は不平等であり、不公平である。その部屋に安住している人と、その部屋から脱出しようとしている人、これを「多様性」と括りたくない。

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お好みの本、あります『BOOK BAR』

 土曜の 22:00 より、J-WAVEでやっている「BOOK BAR」が本になった。

 ナビゲーターは杏&大倉眞一郎、2人がお気に入りの一冊を紹介する番組で、10年以上も続いているのに、本になるまで知らなかった。

 どんな本が紹介されるのか、さっそく目次を眺めてみると、これが見事にバラエティ豊かで面白い。いわゆる平積みされている「売れセン」を外しつつ、文芸、エッセイと肩の凝らないものから、硬めの翻訳モノ、文学、ドキュメンタリーが並んでいる。

 たとえば、ポール・ディヴィス『幸運な宇宙』を大倉が紹介する。

 マルチユニバースやビッグバン仮説を解説するポピュラーサイエンス本なのだが、ミソは「幸運な」にある。すなわち、宇宙物理学を深堀りすると、宇宙そのものが「人間にとって」非常に都合よくできあがっている事実に突き当たる。よくある人間原理の話になるだろうなぁと追っていくと、杏が小学生のときに見た屋久島の星空の話になり、さらにギリシャ神話に転がっていく。

 あるいは、杏がお薦めする『秘島図鑑』。

 日本には7000以上あると言われる「行けない島」のガイドブックなのだが、(会話だからなのか)大倉が「ヒトウ」から「秘湯」のボケをかましてくれる。「行けない島」とは、上陸が禁じられていたり、物理的に接岸できなかったり、政治的な問題を抱えている島になる。特に、海抜100メートルの尖った岩が突き出ている孀婦岩のエピソードが凄い。2003年に登ろうとした人がいて、苦労の末なんとか登頂するのだが、そこで見つけたのが、錆び付いた3本のハーケンだったとのこと。

 また、フェルディナント・シーラッハ『テロ』の話題が重い。

 ハイジャックされた旅客機が満員のスタジアムに突っ込む前に撃墜したパイロットを裁くという筋立てなのだが、「旅客機の164人 v.s. スタジアムの7万人」を天秤にかけられるのかという話になる。単純にマイケル・サンデルのトロッコ問題に落とし込んで終わりにするのではなく、アフリカや中近東からヨーロッパへ脱出する難民を「あえて見捨てる」ニュースや、ブレグジット(EUからの英国離脱)を選んだのは難民受け入れをやめるためといった話に結びつける。

 このように、本そのものの紹介だけにとどまらず、その一冊をきっかけにして、様々な話題に膨らませる。他愛のない話もあれば、立ち止まって考えさせられるものもある。反対に、それはちょっと違うだろと言いたくなるのも一興。この、本から始まる四方山話が面白い。

 既読未読問わず、惹かれる名セリフが光るのもいい。「読んでいなかったのは犯罪級」のポール・オースター『幻影の書』や、「読んだあと、いいため息をつける本」である山本周五郎『おさん』、「圧倒されすぎてこれ以上の説明はできない」っていう感じの熊谷達也『邂逅の森』など、思わず読んでしまいたくなる。これが即興で出てくるのは凄い。

 ノリ的には、NHK『週刊ブックレビュー』を漫談にしたようなものか。まったりゆっくり、好きな本を広げるのに良いかも。

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アストロバイオロジーへの招待 『生命の起源はどこまでわかったか』

 常識とされてきたことが誤りだったということは沢山ある。面白いのは「なぜそれを【正しい】と信じてきたか」を考えるときだ。その【正しさ】は、一種の文化的バイアスとも呼ぶべき認知の歪みに支えられていると睨んでいる。

 ①たとえば天動説。地球は宇宙の中心で静止しており、全ての天体が地球の周りを公転しているとする仮説である。現代に生きる人が天動説に触れる時、たいていガリレオとセットで学ぶため、地動説への過渡期に生きた人ほどピンとこないかもしれない。

 ②地球という惑星に目を向けてもいい。かつては、生物が存続できる程度の充分な水をたたえる「奇跡の惑星」であり、このような星が他にある可能性は、ほぼゼロだと考えられていた。だが、天文観測技術の発達により、似たような惑星がそこらじゅうにあることが分かってきた[“奇跡の惑星”から、ありふれた奇跡へ『系外惑星と太陽系』]

 ③あるいは、進化のヒエラルキーなんてどうだろう。最下層の微生物(分解者)、植物、それを食べる生物群(草食動物・昆虫)、その生物を食べる生物群(肉食動物)といったピラミッド階層図だ。昔の図はこの頂点に「人間」がいたが、今は、ワシやライオンといった肉食獣に代わっている。

 ④さらに、生物の進化の道筋を枝分かれした図にまとめた系統樹も然り。昔の系統樹は、中心線の頂点に「人間」がひときわ大きく位置しており、あたかも生物進化の最終形態として表現されていた。だが今では多様な形態に枝分かれした末端に小さく「人間」が位置づけられている。種に関係なく、現存するすべての生物が進化を遂げ、「現時点における進化の最新形態になっている」が正しい。

 つまり、「宇宙の中心であり(①)、標準的な存在である地球で(②)、他の生物の頂点に君臨する(③)、進化の最終形態である人間(④)」という常識が、誤りになりつつある。

 ところでこの常識、どこかで見たことはないだろうか? そう、聖書に基づいたキリスト教的世界観である。複数の仮説から一つを選び取る際、仮説のもっともらしさ≒【正しさ】により動機付けられる。選び取られた仮説は、そこからさらに自らの【正しさ】を裏付けるべく研究されるため、いっそう強固になる。

 すなわち、この常識だったものを【正しく】しているのは、キリスト教思想であることを自覚したうえで、バイアスを再認識する必要がある(さもないと、自分がどんな歪みに囚われているかが見えなくなるから)。キリスト教的世界観が誤っていると言いたいのではなく、【正しさ】を選ぶときにバイアスを認識しながら慎重たれと言いたい。

 この【正しさ】が、生命の起源についてバイアスをかけている。具体例として、ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』を見よう[書評]。断っておくが、本書は、生命をエネルギー論で説明し尽くしている素晴らしい本である。物理現象としての「生きていること」の本質は、膜電位があり電子やプロトンが生成されていくプロセスだという基本原理から、生命が誕生する最初の事象まで精密に論証してみせる。

 だが、自説を強調するあまり、他説(原始スープやパンスペルミア説、系統学的アプローチ)へ攻撃的になる態度が目に付く。さらに、真核生物のような複雑な生命は宇宙でもまれな存在だと結論づける。「複雑な生命は神に選ばれたこの地球でしか生まれ得ない」と書いてしまうとあからさまだが、そういう思想が自覚・無自覚にかかわらず目に付くため、本書を手放しで絶賛することができない(同じ勢いでビッグバン説が主流である理由は、「光あれ!」だろうが、これはまた別の議論になる)。

 こうした背景において、東京大学出版会『宇宙生命論』のスタンスは、より【正しさ】から自由たろうとしている。「生命の誕生・進化は、居住する天体の特性と切り離せない」という考え方に立ち、太陽系外惑星探査の成果と、地球環境と生命の共進化の理解から、アストロバイオロジーの可能性を探る。

 「アストロバイオロジー」とは、宇宙を意味する接頭語「astro」と、生物学を意味する「biology」を組み合わせた、NASAによる造語で、日本語では宇宙生物学と訳される。この地球で、生命は、いつ、どこで、どのように生まれたのか? 地球以外の天体にも生命は存在するのか? こうした人類の疑問に応えることを目指す学問領域である。

 さらに、地球生命誕生のシナリオをモデリングしたJAMSTEC(海洋研究開発機構)[URL]の成果を著した『生命の起源はどこまでわかったか』は、このような【正しさ】をさらに相対化した後に、現在において最も信頼できる(=確率の高い)モデルを提示している。

 それは、ニック・レーンと同じく深海熱水活動域での生命誕生説であるが、重要なのは他の説を棄却していないところ。さらに、地球での生命誕生シナリオをモデルにしてはいるものの、それに囚われていない、アストロバイオロジー的な文脈で生命進化を捉え直している点が評価できる。

 たとえば、ダーウィン型進化の重要性について。対象となる生命システムが、「複製」「遺伝性質の多様性」「自然選択」の3ステップを繰り返しながら進化する現象で、わたしたちは、この説の重要性を【正しい】ものとして捉えている。

 しかし、ダーウィン型進化説は、生命システムを取り巻く環境が激しく変動する惑星・地球における現象だからこそ重要視されてきたという見方もある。言い換えるなら、地球のスケールを超えたレベルで充分に安定的なエネルギー・環境条件を想定することができる。この条件において進化と生命の本質を考えるならば、この仮説に囚われることは、議論を混乱させる結果になるだろう。

 道具や環境を作り出すことで、生物学的限界を超えて、地球で最も適応できているのは人間だろう。これを説明する最も有力なモデルがダーウィン型進化説だからといって、その【正しさ】があらゆる生命に一般化できると考えるのは、むしろ危険なのではないか。わたしの思考を、もう一段階メタにするために、アストロバイオロジーの観点は非常に価値がある。

 常識を支える【正しさ】について、あらためて考えさせられる一冊。

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女が怖いのではない。『怖い女』がいるだけなのだ

 「男はバカだ」と言うと、主語が大きすぎる。男が愚かなのではなく、愚かな男がいるだけで、一般化には早すぎる。

 しかし、怪談・ホラー・都市伝説から『怖い女』を一般化した本書を読むと、話は違う。こと「女の怖さ」については神話レベルから共通項があるのかも、という気になる。

 たとえばイザナミ。日本列島を生んだ美しい女神だったが、火の神を産んだことによる火傷で死ぬ。再び逢いたい夫は、死後の世界を訪れ、そこで腐乱して蛆がたかったイザナミを見ることになる。イザナミは怒り、夫を追いかける―――生(性)をつかさどる美しい女神は、死を宣告する醜く恐ろしい女神となる。

 『古事記』を起点に、イザナミの系譜をたどる想像力が面白い。現代では口裂け女が後継者になるという。いまどきの若者は知らないだろうが、口元をマスクで隠した若い女が、学校帰りの子どもに「私、キレイ?」と訊ねる都市伝説があった。イザナミを受け継ぐ伝説として、「美しい女」「醜い身を隠す」「追いかける」「捕まると死」という共通点がある。

 そして、口裂け女が口を隠す白いマスク(=パンティ)の隠喩から、割けた口が持つ意味に迫る。それは、ものを食べる上の口だけではなく、愛を食べる下の口すなわち女陰を表す。割けた口はそのまま「歯を持つヴァギナ」(ペニスを食いちぎる[ヴァギナ・デンタタ])を象徴する。「これでも、キレイ?」とマスクを外して露わにすることは、性衝動の両義性、欲望と恐怖の両方が含まれているというのだ。

 さらに、口裂け女とイザナギの間をつなぐ「呑み込む女」として、昔話の食わず女房、ヤマンバ、「祟る女」として四谷怪談のお岩、仮名手本忠臣蔵の累を挙げる。著者は小説とまとめサイトを中心に渉猟しており、テケテケ、カシマさん、だるま女からコトリバコ、そこからパンドラのピトスや「魍魎の匣」まで持ち出すところが面白かった。

 「性」と「生」を与奪する存在としての女というテーマなら本書になるが、この「女」を「食」に置き換えると『性食考』になる。モチーフが重なるのが楽しい。宝物を大便として排泄する若い女のハイヌウェレ神話や、イェンゼン『殺された女神』を引いてくるところなんてそっくりだ。性欲と食欲はともに「生きる欲望」であり、その間にあるのが「女」という構図なのだろう。食べること、セックスすること、殺すこと。これらは独立しているのではなく、互いに交わり重なり合っているのである。

 さらに、日本三大ホラー映画『リング』『呪怨』『着信アリ』の呪いの主がいずれも女であることに着目し、なぜ女の霊が怖がられるのか、神話と関連づけた考察が面白い。ビニール袋に覆われて這う姿から伽椰子は蛇女神の系譜と見なしたり、歪な形だとしても自己増殖を進める姿から、貞子は母性の怖さを持つという洞察はユニークだろう。

 漫画や映画やネットのまとめサイトをまんべんなく渉猟しながら、都市伝説や神話に出てくる「怖い女」の共通項を洗い出そうとする試みは、非常に面白い。

 しかし、観測範囲に偏りがあり、その結果、導き出される「怖い女」にも納得しかねる点がある。「怖い女」とは、究極的なところでは、生殺与奪を司る「母」になれる存在だというのが結論だ。

 それは、「死の恐怖」に裏打ちされた怖さになる。古今東西の死をもたらしてきた悪女を挙げれば事足りる。本書では、キルケやサロメを挙げているが、『ファム・ファタル』を開けば、ロリータやユーディット、セイレンなど死とセックスは近しいという事実をいつでも確認できる。

 だが、死よりも恐ろしい経験があるのだとしたら? 安易に死というエンディングに回収させない、永遠とも思われる生き地獄へ突き落す女なら? 文字通り「死んだほうがまし」「コロシテ…」と思わせる作品なら?

 たとえば、age『君が望む永遠』のマナマナエンドを推薦しよう。いわゆる「ギャルゲ―」と呼ばれるゲームで、選択肢によりシナリオが変化し、複数の女の子と疑似恋愛を楽しむことができる。そんなプレイヤーの下心を見透かしたかのように発動するのが「穂村愛美シナリオ」である。

 そのラスト(マナマナエンド)は、プレイしたことを後悔するトラウマと級なることを請け合う。残念なことに、『君が望む永遠』をプレイできる環境そのものが希少となっているため、[マナマナの恐怖]あたりで片鱗を味わってほしい。

 あるいは、ケッチャム『隣の家の少女』をお薦めしたい。これは、1965年に米国であった[バニシェフスキー事件]を元にした小説だ。監禁と虐待がテーマなのだが、当事者の少女ではなく、傍観する少年の視点から、陰惨な光景を体感できる。

 ここまで残酷なことができるのかと、痛みと吐き気をもよおすとともに、虐待の主が男であるならば、最終的には自身の欲望を満足させる方法を選ぶだろうと想像する。その方法だと終わりがあるが、虐待しているのは養母である。終わらない絶望こそ、最も怖いのかもしれぬ。

 女が怖いのではなく、『怖い女』がいるだけ。だが、怖い女は本当に怖い。自身の経験と照らしながら読むと倍増する一冊。

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説得の技法『論証のレトリック』

 人は感情で動く。この事実に気づくまでに時間がかかった。いかにエビデンスが強固でも、ロジックが完璧であっても、それだけで相手を説得することはできない。相手の立場を理解し、相手の使う言葉を用い、話を分かりやすく喩え、例示し、結論を述べるのではなく誘導する。

 人を説得するには、基本的な「型」がある。その型に沿って整理していくだけで、説得力ある議論ができる。逆に、その型を悪用することで、ウケだけが良い詭弁ができあがる。わたしが苦い経験で思い知る2000年以上も前に、アリストテレスは述べていた。本書は、こうした論証の「型」をまとめた一冊である。

 本書から得られた最大の成果は、「レトリック」についての誤解に気づけたこと。レトリックとは、いわば言葉のあや(文彩)だと思っていた。直喩や隠喩、枕詞、序詞、擬人法、見立て、縁語、掛詞といった、言葉を飾る技術だと考えていた(『レトリック感覚』が名著)。

 しかし、そうした修辞法は、古代ギリシアの言論の技術からみるとそのごく一部にすぎないという。見づらくて恐縮だが、下図がアリストテレスのレトリック理論の全体である。理論は3つの型(説得立証法、修辞法、配列法)により構成され、わたしが知っていた「レトリック」は、3つの型のうちの一つにすぎないことが分かる。

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アリストテレスのレトリック理論の概観図

 本書では、それぞれの型を展開し、それぞれが問答や弁証の術としてどのように用いられていたかを紹介する。本書が面白いのは、アリストテレスやプラトンといった大御所に限定せず、利のために詭弁術を駆使したソフィストたちの手口も込みで見せているところ。悪用の技術を知ることで、いわば詭弁への耐性ワクチンともなっているのである。

 目を引いたのが、大衆を説得するためには、「正しさ」よりも「もっともらしさ」を重視せよという点である。ロゴス(論理的説明)による議論だけでは不完全であり、語り手のエートス(品性)によるものと、聴衆のパトス(感情)に訴えて初めて、説得力が成立するというのである。どうすればよいか?

 まず、エートスによる立証は、聴衆に対し「語り手を信頼に値する者であると判断させるよう語られる」ことによって行われるという。(本当かどうかは別として)語り手は、思慮分別があり、聴衆に好意を持っていると思わせればよいというのである。つまり、「あなたのためを思っている」と感じさせることが重要である。

 次に、パトスによる立証は、聴衆をある感情へと誘導させることによって行われる。怒り、友愛、恐怖、羞恥、憐み、嫉妬といった感情を抱かせて、その感情を引き起こす原因や向けられる相手に関する立証になる。

 これは、巻末の付録が参考になる。聴衆を誘導したい感情を想定し、それに対する原因や精神状態、向けられる相手を組み立てる。たとえば、「怒り」へ誘導したいのであれば、聴衆が苦境に置かれていること、聴衆への軽蔑が「怒りを向けられる相手」から発せられていることを明示するのである。

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感情に関する諸命題の一覧表

 さらに、エートスであれパトスであれ、論証の形をとるべきではないとする。すなわち、「...…ゆえに皆さんは私を信頼すべきである」「......だから諸君は怒るべきだ」という形にならないという(アリストテレスは『弁論術』で明確に禁止している)。ロジックはロジックを明示し、感情は誘導に留めよというのである。

 他にも、「オデュッセウスの告発を背理法を用いて論駁する」とか、「タテマエとホンネの背反を前提として、相手をパラドクスへ導く議論」、あるいは「知識のない大衆を説得させるためのエンドクサ(通念)」など、使い方によってはいかようにも悪用できる技法が次々と紹介される。

 本書が凄いのは、個々の論証の説得性の是非を詳らかにするだけでなく、これを一般化しているところだ。すなわち、「論証を説得力あるものにする」技術ではなく、説得性のある議論をリバースエンジニアリングして、「説得力のある論証に再編集する」技法を「型」にしてみせた点にある。

 「説得はいかにして可能か?」から、「人はどのような条件で説得されるか?」まで考えることができる。自分が説得するとき/されるときに当てはめてみると、さらに面白い。悪用厳禁の上、使っていきたい。

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