デュレンマット傑作選『失脚/巫女の死』が面白い
身に降りかかった不幸に因果を探すけれど、それは自分を慰めるため。
「仕方がなかったんだ」という結論に持っていきたくて、大きな物語とか運命論を持ち出して、それでもって物語のフレームをつくろうとしても、もはや自分自身が信じていない。「世界は合理的であり、因果に基づいて整合的にあろうとする」なんて流行りの認知バイアスの一つだから。
しかし、それ故に面白い。世界はもっと複雑であるが故、単純な出来事でたやすく変転する。こんなシンプルな真実は、渦中に居るときには気付きにくいが、こうして短編小説の形で見せてくれると分かる。グロテスクな哄笑を伴いつつ、ヒリヒリする焦燥感に背中を焼かれながら思い知る。スイスの劇作家、フリードリヒ・デュレンマットの短編集『失脚/巫女の死』がまさにこれ。
「トンネル」の一行目から引き込まれた。こうだ。
二十四歳の太った男がいた。太っているのは、自分の目にする舞台裏の嫌なものが(それを見る才能が彼にはあったし、おそらくはそれが彼の唯一の才能だったが)自分のほうにあまりにも近づきすぎることのないようにするためだったが、彼はさらに、自分の肉体にある穴をふさぐことを好んでいた。
まさにわたし好みの入り口である。この太った男が大学に通うために利用する、いつもの列車がスピードを上げてゆき、トンネルに入ってゆく。日常が非日常に変貌するのだが、それが、いつ、どのようにそうなったのか、分からない。人がたやすくそうなるのか、世界が簡単に非合理になるのか、どっちにもとれるし、どっちにとっても面白い。
「失脚」は、粛清の恐怖に囚われた官僚たちの高度な心理戦を味わえる。ぱっと見、とある共産主義国家を彷彿とさせるが、虚構としての革命を演じ続けなければならないという意味ならば、どこの独裁体制にもあてはまる。
その普遍性を後押ししているのが、登場人物には名前が出てこないところ。固有名詞の代わりに、A、B、Cとある。Aは国家と党のトップ、Bは外務大臣、Cは秘密警察庁長官…とPまで続く。Aは巧みに皆を疑心暗鬼に陥らせ、互いに監視しあうのだが、その役柄が立場まんまを反映していて面白い。
ナントカ大臣という肩書きは、行政を運営する立場に過ぎぬ。だが、立場が人を乗っ取った結果、驚くべき結末に至る。権力を掴んだ人が、権力に乗っ取られるカリカチュアなのかもしれぬ(だから、人名すら不要になるのかも)。
「故障」が白眉である。著者は冒頭からして物語の可能性について疑義を投げかける。神や正義で代替された大きな物語に包まれた因果関係を順につむいだり、あるいは逆につないだりしても、語るに足るほどのお話は既に尽くされているという。
むしろ、後付けて整合性をとための神や正義よりも、ちょっとした事件やきまぐれな事故こそが、これまで正常だと思われてきた人生が実はフェイクだということを暴いたりする。そうあるべく生きてきた"常識"こそが、本当は所与の立場によって作られたものだと気づいたとき、どう行動するか? これは見ものである。
「立場が人を作る」有名な話として、スタンフォード監獄実験がある。普通の人に、囚人と看守の役を割り当てたら、囚人はいかにも囚人らしく、看守は看守のように振る舞いだし、その「演技」が次第にエスカレートしていくという話である。演技が人を乗っ取ったとき、乗っ取られる前の人生がどう見えるか? と考えると面白い。
「巫女の死」は有名な神話が、伏線だらけのミステリーとして化ける様を味わえる。父を殺害し、母を姦淫するという神託を知らぬままに実行してしまうオイディプス伝説を下地に、その神託を行った巫女、謎かけするスピンクス、母であり妻であるイオカステという女たちの口を借りながら、一つの事実が何度も何度もひっくりかえる。
それはあたかも、芥川の藪の中の逆を行くようである。あれは、一つの事実に複数の解釈を語ったものだが、「巫女の死」は一つの解釈(伝説)が複数の事実によって支えられており、たまたま残った一つについてわれわれが悲劇として読んでるに過ぎないことが分かる。
グロテスクかつ計算され尽くした語りのデュレンマットに知り合えて感謝。戯曲『物理学者たち』が一番面白いらしい、探してみよう。
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