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『思想のドラマトゥルギー』はスゴ本

Tumblrで出会った寸鉄がこれ。

“あなたを突き刺し、打ち砕き、恥じさせ、叩きのめした後に手を伸ばして学びに導くものこそ名言、名著。俺の言いたいこと全部言ってくれてる系は、あなたのしょぼいプライドを満足させて金をむしり取る道化。”

 人でいうなら読書猿さんやな、厳しくかつ優しく導いてくれる。まさかとは思うが、もしご存じなかったならば、今すぐ[読書猿]へ行きなさい。ブログが膨大すぎるなら、エッセンスを凝縮した『問題解決大全』『アイデア大全』を読みなさい。きわめて実践的な名著であり、あなたの人生の財産となること請け合う。

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 そんな読書猿さんが、何十年もかけて読んでいる本が、『思想のドラマトゥルギー』だという([とても遅い読書:10年かけて読んだ本のこと])。先に断っておくが、けして難しい本ではない。対談集で、筆致は口語体のままを残し、軽妙洒脱という言葉がぴったりの、たいへん読みやすい本だといえる。

 だが、手にしてみればすぐにわかる。林達夫と久野収という知識人が、興味の赴くまま、知で殴りあう様が凄まじい。西洋哲学や思想史がベースなのだろうが、そこに収まらず、美学、文学、演劇、風俗、詩劇から歌謡、ハイカルチャーから俗なものまで続々と出てくる。

 広いかと思えば深く、深いかと思えば濃く、濃いかと思えば熱い議論が展開される。互いが相手を知のオモチャだと思っていて、力いっぱい振り回しても壊れないつもりで、本気で遊びにかかる。衒学のギアが上がるにつれ、テーマと論点がドリフトしまくる。ふり落とされないようにつかまっているのがせいいっぱいである。出てくる書名と著者名が膨大で、巻末の索引を熟読する。おかげで読みたいリストがもりもり増える。

 いいな、と思うのは、本の紹介合戦にならないところ。いまどきの「知の巨人」がこのテの対談をすると、名著名作を並べ立てる。紹介文句はWikipediaを3行しただけで、その中身を、どう咀嚼して、どの辺の肉となり血となっているのかが不明なり。ひたすら名著の威光(?)を盾にして自分を守っている感じ。いっぱい線を引いて書き込みをして、すごいね、というだけである。

 林氏は、まるでそんな連中を見越したかのように、「ヘーゲル読みのヘーゲル知らず」と喝破する。何千人とヘーゲルを読んでいるくせに、本当にヘーゲルのどこか一面でも(例えば芸術哲学なら『美学講義』)を身につけてものにした、というのはまるで聞かないという。知の対象として「知って」いるだけで、その知をもって「使って」いる人がいないという。

 たとえば、デカルト。『方法序説』を読んで「我思う故に我あり」について賛同しても反論してもいいし、現代の脳科学の進展からデカルトの心身問題への態度と方法的懐疑を批判してもいい。さもなくばデカルト平面と解析幾何学の関係や、べき数の記法について一席ぶってもいい。

 ところが、お二人の対談では、そうしたデカルトの知識のひけらかしにはならない。同時代人のガリレオを持ち出し、デカルトが自覚していた問題を炙り出す。真実を語ればおのずから伝わるというのは嘘であることを、ガリレオ自身よく分かっていた。だから彼は、レトリックを駆使して対話体の『天文対話』や『新天文対話』を書いたという。

デカルトは独りで勉強するのは好きだが、書くことは嫌い、議論するのも嫌いとだだをこねこね、「レトリック抜きの哲学」で行くんだなどと涼しい顔をして見得を切ってみせたが、すぐあとで、事、志とまるで違うという羽目に陥ったことに気がついた。デカルトは、コミュニケーションの問題が落丁になっていたんだな。真理を言うということは、結局はそれを「他人」に納得させることでしょう。(太字化は筆者)

 正しいことを言うことと、それを正しく伝えられることは別である。だから、古代から哲人は、説得の技術であるレトリックの重要性をよく認識していた。具体的には、「ペンを手にして」書物を読む。思想の相克ドラマの中で、賛同ならば補論を、敵対ならば反論を掲げ、ぶつけ、捏ね上げる。そこから生まれるセリフを再編集し、名句のノートを作る。エラスムスやモンテーニュの金言集や『エセー』が有名だが、そうした格言集はもともと自家製の取材活動の成果物だったのだ。

 そして、説得は一方的ではない。ソクラテスに限らず、必ずそれぞれの立場からの議論が伴う対話の形をとるという(ここでプラトンのソクラティック・ダイアローグに話がドリフトするのが楽しい)。靴屋とソクラテスが靴づくりについて問答する際、学者たちは、ソクラテスが言ったことだけに注目し、あとの登場人物はその引き立て役として軽くあしらっているだけだという。だが、その場の全員が対等だからこそ、人に拠らない(感情論に陥らない)で立論できるロゴスが精彩を放つというのである。

 ガリレオの科学論の伝え方から始まって、デカルトにとっての障壁を超えるためのレトリック、さらにその具体論としてのモンテーニュを経て、哲学の実践は「対話」にあるということをプラトンを通じて確認する―――これが、わずかなあいまの対話に詰め込まれており、どろり濃厚なばかりか、読むべき本も再読すべき本も積みあがる仕掛けだ。

 読めば読むほど刺さる話ばかりだが、もっとも深々と刺さっているのはここだ。

デカルトにしてもパスカルにしても、ロゴス、レトリックを通じて生き、闘い、死ぬ術としての哲学ですね。そういう「術」としての哲学が軽蔑されていて、「学」としての哲学ばかりがもてはやされる。(太字化は筆者)

 つまり、ひたすら真理を追究するための学問というよりも、むしろ、生きる技術とも言うべきなのが、哲学なのだ。もっとテクニカルに、世界と対話し、相手を説得し、自分を納得させるための諸々の話す技術、聞く技術、考える技術を体系化したものと言ってもいい。「考えた通りに生きよ、さもなくば、生きたとおりに考えてしまう」という言葉がある。この文脈での「考える」に相当するのが哲学なんだろうね。

 上記は、第13章の「レトリック・イン・アクション」の10ページたらずの感想である。もちろん、他にはもっと別の、広く話題で深く語りあっている。これ、立ち止まって調べて読んでいたら、それだけで別の注釈本が書けてしまうほど濃厚なり。

 読み返すたびに発見と好奇心が刺激され、積読山が盛り上がる。読書猿さんと同じく、10年かけて再読を繰り返そう。読書猿さんよい本を教えていただき、ありがとうございます。

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