« 2018年3月 | トップページ | 2018年5月 »

『思想のドラマトゥルギー』はスゴ本

Tumblrで出会った寸鉄がこれ。

“あなたを突き刺し、打ち砕き、恥じさせ、叩きのめした後に手を伸ばして学びに導くものこそ名言、名著。俺の言いたいこと全部言ってくれてる系は、あなたのしょぼいプライドを満足させて金をむしり取る道化。”

 人でいうなら読書猿さんやな、厳しくかつ優しく導いてくれる。まさかとは思うが、もしご存じなかったならば、今すぐ[読書猿]へ行きなさい。ブログが膨大すぎるなら、エッセンスを凝縮した『問題解決大全』『アイデア大全』を読みなさい。きわめて実践的な名著であり、あなたの人生の財産となること請け合う。

 そんな読書猿さんが、何十年もかけて読んでいる本が、『思想のドラマトゥルギー』だという([とても遅い読書:10年かけて読んだ本のこと])。先に断っておくが、けして難しい本ではない。対談集で、筆致は口語体のままを残し、軽妙洒脱という言葉がぴったりの、たいへん読みやすい本だといえる。

 だが、手にしてみればすぐにわかる。林達夫と久野収という知識人が、興味の赴くまま、知で殴りあう様が凄まじい。西洋哲学や思想史がベースなのだろうが、そこに収まらず、美学、文学、演劇、風俗、詩劇から歌謡、ハイカルチャーから俗なものまで続々と出てくる。

 広いかと思えば深く、深いかと思えば濃く、濃いかと思えば熱い議論が展開される。互いが相手を知のオモチャだと思っていて、力いっぱい振り回しても壊れないつもりで、本気で遊びにかかる。衒学のギアが上がるにつれ、テーマと論点がドリフトしまくる。ふり落とされないようにつかまっているのがせいいっぱいである。出てくる書名と著者名が膨大で、巻末の索引を熟読する。おかげで読みたいリストがもりもり増える。

 いいな、と思うのは、本の紹介合戦にならないところ。いまどきの「知の巨人」がこのテの対談をすると、名著名作を並べ立てる。紹介文句はWikipediaを3行しただけで、その中身を、どう咀嚼して、どの辺の肉となり血となっているのかが不明なり。ひたすら名著の威光(?)を盾にして自分を守っている感じ。いっぱい線を引いて書き込みをして、すごいね、というだけである。

 林氏は、まるでそんな連中を見越したかのように、「ヘーゲル読みのヘーゲル知らず」と喝破する。何千人とヘーゲルを読んでいるくせに、本当にヘーゲルのどこか一面でも(例えば芸術哲学なら『美学講義』)を身につけてものにした、というのはまるで聞かないという。知の対象として「知って」いるだけで、その知をもって「使って」いる人がいないという。

 たとえば、デカルト。『方法序説』を読んで「我思う故に我あり」について賛同しても反論してもいいし、現代の脳科学の進展からデカルトの心身問題への態度と方法的懐疑を批判してもいい。さもなくばデカルト平面と解析幾何学の関係や、べき数の記法について一席ぶってもいい。

 ところが、お二人の対談では、そうしたデカルトの知識のひけらかしにはならない。同時代人のガリレオを持ち出し、デカルトが自覚していた問題を炙り出す。真実を語ればおのずから伝わるというのは嘘であることを、ガリレオ自身よく分かっていた。だから彼は、レトリックを駆使して対話体の『天文対話』や『新天文対話』を書いたという。

デカルトは独りで勉強するのは好きだが、書くことは嫌い、議論するのも嫌いとだだをこねこね、「レトリック抜きの哲学」で行くんだなどと涼しい顔をして見得を切ってみせたが、すぐあとで、事、志とまるで違うという羽目に陥ったことに気がついた。デカルトは、コミュニケーションの問題が落丁になっていたんだな。真理を言うということは、結局はそれを「他人」に納得させることでしょう。(太字化は筆者)

 正しいことを言うことと、それを正しく伝えられることは別である。だから、古代から哲人は、説得の技術であるレトリックの重要性をよく認識していた。具体的には、「ペンを手にして」書物を読む。思想の相克ドラマの中で、賛同ならば補論を、敵対ならば反論を掲げ、ぶつけ、捏ね上げる。そこから生まれるセリフを再編集し、名句のノートを作る。エラスムスやモンテーニュの金言集や『エセー』が有名だが、そうした格言集はもともと自家製の取材活動の成果物だったのだ。

 そして、説得は一方的ではない。ソクラテスに限らず、必ずそれぞれの立場からの議論が伴う対話の形をとるという(ここでプラトンのソクラティック・ダイアローグに話がドリフトするのが楽しい)。靴屋とソクラテスが靴づくりについて問答する際、学者たちは、ソクラテスが言ったことだけに注目し、あとの登場人物はその引き立て役として軽くあしらっているだけだという。だが、その場の全員が対等だからこそ、人に拠らない(感情論に陥らない)で立論できるロゴスが精彩を放つというのである。

 ガリレオの科学論の伝え方から始まって、デカルトにとっての障壁を超えるためのレトリック、さらにその具体論としてのモンテーニュを経て、哲学の実践は「対話」にあるということをプラトンを通じて確認する―――これが、わずかなあいまの対話に詰め込まれており、どろり濃厚なばかりか、読むべき本も再読すべき本も積みあがる仕掛けだ。

 読めば読むほど刺さる話ばかりだが、もっとも深々と刺さっているのはここだ。

デカルトにしてもパスカルにしても、ロゴス、レトリックを通じて生き、闘い、死ぬ術としての哲学ですね。そういう「術」としての哲学が軽蔑されていて、「学」としての哲学ばかりがもてはやされる。(太字化は筆者)

 つまり、ひたすら真理を追究するための学問というよりも、むしろ、生きる技術とも言うべきなのが、哲学なのだ。もっとテクニカルに、世界と対話し、相手を説得し、自分を納得させるための諸々の話す技術、聞く技術、考える技術を体系化したものと言ってもいい。「考えた通りに生きよ、さもなくば、生きたとおりに考えてしまう」という言葉がある。この文脈での「考える」に相当するのが哲学なんだろうね。

 上記は、第13章の「レトリック・イン・アクション」の10ページたらずの感想である。もちろん、他にはもっと別の、広く話題で深く語りあっている。これ、立ち止まって調べて読んでいたら、それだけで別の注釈本が書けてしまうほど濃厚なり。

 読み返すたびに発見と好奇心が刺激され、積読山が盛り上がる。読書猿さんと同じく、10年かけて再読を繰り返そう。読書猿さんよい本を教えていただき、ありがとうございます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

どうしても読んで欲しい本を、どうしたら手に取ってもらえるか『進む、書籍PR!』

 読んだ後、うおぉッ! となって、知り合いに電話したりメッセ送ったりすることがある。

 押し寄せる感情を吐き出さないと自家中毒になるから、言葉にならない感動をなんとか言語化する。たいてい深夜で、まれに未明(完徹した故)、この作品は、まさに私のため・君のために書かれたといっても過言ではない。百年の時を経て運命的に見つけたのだ云々......感動の押し売り、受け取る方はさぞ迷惑だったろう。

 ネットにこうして書いているのも、その一環なのだが、リアルでオススメしていくうち、何事にもタイミングというものがあるという当然のことが、ようやく分かってきた。そして、これもあたりまえのことなのだが、受け取る人のことを考える必要もある。

 わたしが一番オススメしたいのは、もちろん「わたしが読んだ直後」なのだが、受け取るほうにとってみれば、自覚無自覚関係なく、欲っした直後になる。それは、受け取る人の既読本や関心ごとに紐づけされている本だということが分かったときなのだ。

 そういう「受け取る人」をターゲティングし、メディアを選び、それに沿った映像やコメントを準備する。メディア露出の反応を確かめつつ出版・流通・書店の調整を行うという役割がある。「書籍PR」というお仕事である。

 何千何万という書籍が出版されている今日、素晴らしい本であるにもかかわらず、他の本に埋もれてしまい、「受け取る人」にまで届かないまま店頭から消えているものがある。書籍PRは、そんなことにならぬよう、本と人との出会いをつなぐのが目的だ。

 本書は、その第一人者である奥村知花さんが、七転八倒しながらのたうち回ってきた仕事を振り返るとともに、書籍PRを進めていく上でのノウハウを余すところなく紹介した一冊である。平気でウソをつくのがまかり通る出版業界の暗部を覗くとともに、どうしたら出版社やメディアを巻き込んでいけるのかを知ることができる。

 ポイントは、「売り込む」のではなく「つなげる」「届ける」こと。読んで欲しい本を、読んで欲しい人に届けるためにできることをひたすら考え、実行する。この熱量とバイタリティが凄いのだ。

 わたし自身、彼女のおかげで出会うことができた作品がある。たとえば、子どもに読み聞かせている親が眠ってしまう絵本『おやすみ、ロジャー』や、決して人前で読んではいけない『ワンダー』がある(号泣するから)。どれも、わたし一人のアンテナでは決して引っかからなかっただろうが、出会えてよかったと感謝している。

 ただ、やはりというかなんというか、テレビというメディアの力は依然として強い。休日前の昼の番組で芸人が紹介するだけで、店頭では動きが出るという(この場合のターゲットは高齢者になる)。ベストセラーというものは、ふだん本なんて読まない人たちがお金を出すからこそ成り立つもの。そして、ふだん本を読まない人たちは、テレビから影響を受けることが大きいようだ。

 一冊一冊の特性を知り、感動を届けるお仕事。文字しかないこのブログとは違うけれど、「うおぉッ!」を伝える熱意は同じ。いろいろ学ばせていただきました。ありがとうございます。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

デュレンマット傑作選『失脚/巫女の死』が面白い

 身に降りかかった不幸に因果を探すけれど、それは自分を慰めるため。

 「仕方がなかったんだ」という結論に持っていきたくて、大きな物語とか運命論を持ち出して、それでもって物語のフレームをつくろうとしても、もはや自分自身が信じていない。「世界は合理的であり、因果に基づいて整合的にあろうとする」なんて流行りの認知バイアスの一つだから。

 しかし、それ故に面白い。世界はもっと複雑であるが故、単純な出来事でたやすく変転する。こんなシンプルな真実は、渦中に居るときには気付きにくいが、こうして短編小説の形で見せてくれると分かる。グロテスクな哄笑を伴いつつ、ヒリヒリする焦燥感に背中を焼かれながら思い知る。スイスの劇作家、フリードリヒ・デュレンマットの短編集『失脚/巫女の死』がまさにこれ。

 「トンネル」の一行目から引き込まれた。こうだ。

二十四歳の太った男がいた。太っているのは、自分の目にする舞台裏の嫌なものが(それを見る才能が彼にはあったし、おそらくはそれが彼の唯一の才能だったが)自分のほうにあまりにも近づきすぎることのないようにするためだったが、彼はさらに、自分の肉体にある穴をふさぐことを好んでいた。

 まさにわたし好みの入り口である。この太った男が大学に通うために利用する、いつもの列車がスピードを上げてゆき、トンネルに入ってゆく。日常が非日常に変貌するのだが、それが、いつ、どのようにそうなったのか、分からない。人がたやすくそうなるのか、世界が簡単に非合理になるのか、どっちにもとれるし、どっちにとっても面白い。

 「失脚」は、粛清の恐怖に囚われた官僚たちの高度な心理戦を味わえる。ぱっと見、とある共産主義国家を彷彿とさせるが、虚構としての革命を演じ続けなければならないという意味ならば、どこの独裁体制にもあてはまる。

 その普遍性を後押ししているのが、登場人物には名前が出てこないところ。固有名詞の代わりに、A、B、Cとある。Aは国家と党のトップ、Bは外務大臣、Cは秘密警察庁長官…とPまで続く。Aは巧みに皆を疑心暗鬼に陥らせ、互いに監視しあうのだが、その役柄が立場まんまを反映していて面白い。

 ナントカ大臣という肩書きは、行政を運営する立場に過ぎぬ。だが、立場が人を乗っ取った結果、驚くべき結末に至る。権力を掴んだ人が、権力に乗っ取られるカリカチュアなのかもしれぬ(だから、人名すら不要になるのかも)。

 「故障」が白眉である。著者は冒頭からして物語の可能性について疑義を投げかける。神や正義で代替された大きな物語に包まれた因果関係を順につむいだり、あるいは逆につないだりしても、語るに足るほどのお話は既に尽くされているという。

 むしろ、後付けて整合性をとための神や正義よりも、ちょっとした事件やきまぐれな事故こそが、これまで正常だと思われてきた人生が実はフェイクだということを暴いたりする。そうあるべく生きてきた"常識"こそが、本当は所与の立場によって作られたものだと気づいたとき、どう行動するか? これは見ものである。

 「立場が人を作る」有名な話として、スタンフォード監獄実験がある。普通の人に、囚人と看守の役を割り当てたら、囚人はいかにも囚人らしく、看守は看守のように振る舞いだし、その「演技」が次第にエスカレートしていくという話である。演技が人を乗っ取ったとき、乗っ取られる前の人生がどう見えるか? と考えると面白い。

 「巫女の死」は有名な神話が、伏線だらけのミステリーとして化ける様を味わえる。父を殺害し、母を姦淫するという神託を知らぬままに実行してしまうオイディプス伝説を下地に、その神託を行った巫女、謎かけするスピンクス、母であり妻であるイオカステという女たちの口を借りながら、一つの事実が何度も何度もひっくりかえる。

 それはあたかも、芥川の藪の中の逆を行くようである。あれは、一つの事実に複数の解釈を語ったものだが、「巫女の死」は一つの解釈(伝説)が複数の事実によって支えられており、たまたま残った一つについてわれわれが悲劇として読んでるに過ぎないことが分かる。

 グロテスクかつ計算され尽くした語りのデュレンマットに知り合えて感謝。戯曲『物理学者たち』が一番面白いらしい、探してみよう。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

『秒速5センチメートル』、『細雪』、成長期限定アイドルなど、「さくら」をテーマにした読書会

 お薦め本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それが[スゴ本オフ]

 本に限らず、映画、音楽、ゲームなんでもあり。物理本、電子本、CD、DVD、Blu-ray、youtubeを流しながら、好きな作品を、好きに語る。本の趣味は人の趣味だから、”好き”が重なる人とは合いそうだ。そんな人を見つけ、その人が薦める「わたしの知らない作品」を見つける。本を介して人を知り、人を介して本に会う。

 今回は、「さくら」がテーマ。カードキャプターからスクールアイドル、花や人名、イメージや象徴されるものまで、様々な「さくら」の作品が集まったなり。折しも、午前中のセガフェスで[新サクラ大戦]が発表されたのが面白い(完全新作だそうな)。

Sakura11

「さくら」といえばカードキャプター

 まず、わたしのイチオシは、『葉桜と魔笛』。太宰治の最高傑作といえばこれ。余命わずかな妹と、それを思いやる姉の話。

 恋いも男も知らないまま、妹は死んでいくのか? 不憫に思っていたら、恋文の束が出てくる。それは、見知らぬ男から妹へ宛てたラブレターだった。それだけでなく、二人の関係はドロドロとした深い仲で、別れ話まであった。姉は、手紙の束を焼き捨てた後、偽の手紙を書くのだが……

Sakura13

「さくら」お握りが可憐すぎて食べるのがもったいなかった(でも食べた)

 傑作の理由は、これが姉の昔語りという枠物語になっているところ。「誰が嘘をついているのか」を替えると、二重底にも三重底にも化けるのがすごい。妹への羨望と心配がないまぜになった姉の心情と、少女の性愛への憧れと欲望がムラムラと滲み出ていて良い。青空文庫で無料で読めるが、ここは美麗なイラスト入りの立東舎を推す。

Sakura16

『秒速5センチ』は、映画→小説→漫画の順が鉄板

 もう一つは、新海誠『秒速5センチメートル』なり。映画、小説、漫画とあるが、この順がいい(理由は後述)。これは、あまりにも完璧な初恋に呪われた男の話。

 映画は3編にわたるオムニバス形式で、初恋が記憶から思い出となり、思い出から心そのものとなる様を、驚異的なまでの映像美で綴る。初恋の痛みと「ここじゃない」感を引きずっている人、仕事で磨耗している人が観ると、大ダメージを受ける、危険なアニメである。映画のラストがあまりにも…あまりにであり、山崎まさよしの主題歌を聞くだけで涙ぐむという呪いにかかる。

 この呪いを解くために、小説を読むと、ラストで少し救いがある。さらに漫画を読むと、驚愕の後日談で、さらに救われる(じっさい、わたしが救われた)。強力にお薦めする(これは、[はてなブックマーク]の iishun さんのコメントで知った、ありがとうございます!)なお秒速5センチメートルとは、「桜の舞い落ちるスピード」。

Sakura12

「さくら学院」とガルシア=マルケスを結ぶもの

 読みたい! と思ったのはズバピタさんが紹介した、ガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』なり。いきなりマルケスに行くのではなく、まず「さくら学院」を紹介する(テーマでもあるからね)。日本には珍しく、ファンとの接触(握手会など)は一切無いという。物理的に触れることができない「成長する偶像」がさくら学院の持ち味らしい。

 そこから、リビドーが満載なのに、徹底的なプラトニックラブを貫く『わが悲しき娼婦たちの思い出』を持ってくる。老いてなお女を求め、14歳の処女を買う男の話なのだが、(絶倫なのに)行為に及ぶことなく、その成長をこっそり見守る……

 おや? これ、全裸で横たわる生娘と添い寝する『眠れる美女』(川端康成)そっくりやん、とツッコミを入れると、あにはからんや、『わが悲しき』の扉にその冒頭が書かれている! マルケスは川端に触発されてこれを書いてたんだ。たしかにこれは、若さとか、桜の盛りといったループする「触れられない偶像」の話ですな。

 既読だが面白い! と思ったのは、すぎうらさんの『推定少女』と『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』のご紹介(著者が「桜」庭一樹だからという発想もオモシロイ)。型にはめよう、従わせようとする大人社会に対し、それに抗い、闘いを挑む少女の構図だ。共感して、「分かっている大人もいるんだよ」という視点でみるけど、この作品はそれらすべてを拒否するのが凄い。

 子どもが生き延びるためには大人になる必要がある。だが、それは勝利なのか。わが娘を大人に育てるのが親の目的ならば、すなわち、「子ども」を「子どもでない存在」にするのが親の目的だとするならば、それを否定したかった主人公の父親は、娘を××せざるを得ないのではないか……と腑に落ちる。

Sakura14

谷崎『細雪』は厚いけど上善如水です

  • 『新 日本の桜』写真/木原浩 解説/大場秀章・川崎哲也・田中秀明(山と溪谷社)
  • 『山と食欲と私 第7巻』信濃川日出雄(新潮社 バンチコミックス)
  • 『葉桜と魔笛』太宰治(青空文庫、立東舎ほか)
  • 『秒速5センチメートル』新海誠(映画/小説/漫画)
  • 『桜の森の満開の下』坂口安吾/近藤 ようこ(青空文庫、講談社、岩波ほか)
  • 『梶井基次郎全集 全一巻』梶井基次郎(ちくま文庫)
  • 『推定少女』桜庭一樹(角川文庫)
  • 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』桜庭一樹(角川文庫)
  • 『君がここにいるということ: 小児科医と子どもたちの18の物語』緒方高司(草思社)
  • 『薄桜記』五味康祐(新潮文庫)
  • 『わが悲しき娼婦たちの思い出』G・ガルシア・マルケス(新潮社)
  • 『細雪』谷崎潤一郎(中公文庫)
  • 『めぞん一刻』高橋留美子(小学館)
  • 『がっこうのおばけずかん』斉藤洋・作 宮本えつよし・絵(講談社)
  • 『さくらひらひらとんぴんぴん』わたりむつこ/ましませつこ(福音館書店)
  • 『カードキャプターさくら』CLAMP(講談社)
  • 『さくら学院祭☆2017』さくら学院(Blu-ray)
  • 『眠れないほどおもしろい恋する古文』板野博行(三笠書房)
  • 『眠れないほどおもしろい百人一首』板野博行(王様文庫)
  • 『ニューヨークで考え中』近藤聡乃(亜紀書房)
  • 『A子さんの恋人』近藤聡乃(亜紀書房)
  • 『進む、書籍PR! たくさんの人に読んでほしい本があります』奥村知花(PHP研究所)
  • 『女系家族』山崎豊子(新潮文庫)
  • 『楽園 Le Paradis 第26号』楽園編集部
  • 『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』アゴタ クリストフ(ハヤカワepi文庫)
  • 『冗談』ミラン・クンデラ(岩波文庫)
  • 『不滅』ミラン・クンデラ(集英社)
  • 『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ(集英社)
  • 『ゲーデル、エッシャー、バッハ』ダグラス・ホフスタッター(白揚社)

Sakura15

『楽園 Le Paradis』が収穫でした。幾花にいろ先生は神!

 次回のテーマは、「のりもの」。

 クルマやバイク、飛行機といったエンジンのついたものが思いつくが、話していくうち発想が広がる。絨毯を「のりもの」としたファンタジーがあるし、船が「のりもの」なら、湯船だってそうだ。もっと広げると、この大地だって、宇宙「船」地球号になる。

 音楽に「ノッ」て気分を上げるならお気に入りのプレイリストを紹介すればいい。サーフボードやスキーに「乗る」ならスポーツになるし、「賭るか反るか」ならバクチになる。わたしのような助平は「男に乗る」「女に乗る」で艶談に引き込みたい。時流に乗っても、相談に乗っても、新聞や雑誌に「載る」のだってアリ。あなたのお薦めの「のりもの」、ぜひ教えてくださいませ。

 最新情報は、[スゴ本オフ]をどうぞ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

どうやって本を探すか? ひとつの回答「現代思想の316冊」

 「どうやって本を探している?」とよく聞かれる。

 もちろん、書店や図書館で出会ったり、ネットやクチコミを求めることはやっている。問題なのはそこからで、そうした自分のアンテナの届きにくいところにあって、なおかつ私好みの/私が読むべき一冊は、どのように圏内にするか?

 ひとつの回答がこれ。

 『現代思想』の4月号で、「現代思想の316冊」として、哲学から社会学、経済学、人類学、医療・福祉、宗教、美学、数学、教育学、エスノグラフィ、メディア論など、様々な思想から重要書を選び出たブックガイド。その分野に興味を抱く大学新入生向けという触れ込みだが、手軽な文庫新書から、ゴツいやつまで取り揃えている。

 もちろんこれを「ブックガイド」として読むのもありだ。興味のあるキーワードから読みたくなった本を手にしてみればいい。あるいは、未読だが気になっていた本や、既読の本がどのように紹介されているかを確かめながら、再読するのもいい。

 だが、これを「読書人ガイド」として使うのだ。つまり、興味のあるキーワードを担当している「人」や、既読本を紹介している「人」を逆引きする形で利用するのである。

 たとえば、カストロ『食人の形而上学』は未読だが強く惹かれていた一冊だが、これを「人類学」の章で紹介している「人」が、一橋大学教授の春日直樹氏である。そこから彼のWikipediaへ飛んで『科学と文化をつなぐ:アナロジーという思考様式』を見つける。これも読みたくなってくる。twitterで検索すると、彼についてつぶやく「人」を見つけることができ、さらにその人から面白そうな本を手繰ってゆく。

 あるいは、知っている「人」を見つけたら幸いだ。この場合の「知っている」は、知人という意味ではなく、その人のブログや本を読んだことがあるという意味だ。その「人」がお薦めする「本」を手にすればいい。わたしの場合は、小島寛之氏のブログ(hiroyukikojimaの日記)を読んでいたので、「数学」の章はフルコース状態でしたな(そして積読状態となっている『証明と論理に強くなる』に再び出会うことになる)。

 つまり、あなが興味のある「本」→それを紹介する「人」→その人が書いた/紹介する本→その本や人について語る「人」......といった繋がりで、本・人・本・人と芋づるにする。本をダシにして、人を探す。そうすることで、あなたのアンテナを何重にも、何倍にも増幅させることができる。ぜひ、試してほしい。

 良い本で、良い人生を。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

見えない老人問題 『母の家がごみ屋敷』

 高齢化社会の問題は、「見える」ものだと思っていたが、認識が甘かったことを思い知らされる。

 たとえば、福祉や介護という「税負担」の形として見える問題、高齢者が政策を左右する「シルバー民主主義」、あるいは身の危険を感じたり痛ましい事故として目にする「高齢ドライバー」など、人口構造から導き出される顕在化したものが全てと考えていた。

 しかし、物理的な壁やプライバシーの権利に阻まれ、実体が見えにくい問題があることが分かった。「モノを捨てられない老人」という問題である。世の中には、片付けや整理が苦手な人がいて、極端な場合、汚部屋や汚屋敷を築くことは知っている。高齢化社会がこれを加速しているのだが、その実体は壁の向こう側で進行する。

 老化による体力の衰え、認知能力の低下、家族や身近な人を失ったショックによる生活意欲の減退により、身の回りのことができなくなる。核家族から単独生活者になり、支える人もいない。

 本書では、こうした高齢者のことを、セルフネグレクト(自己放任)と定義し、その実態と現場をルポルタージュする。「これはひどい」という現場に焦点が当たっているが、これは、誰にでも起きうることだし、壁の向こうで既に起きていることだということが分かる。

 「ごみ出し」が象徴的である。

 地域によるが、決まった曜日と時間に、決まった種類のゴミを出す必要がある。家庭ゴミ、不燃ゴミ、カン、ビンは分別し、それぞれ指定の半透明のゴミ袋(有料)に入れる。粗大ゴミは事前に回収業者を「予約」して、専用のシール(有料)を貼って出さなければならぬ。わたしの場合、一連の家事の中で、分別やパッキングがルーティーン化されているからあまり思わないが、これ、初めてするとなると相当に面倒だろう。

 これが、高齢者の場合、配偶者の死別や、体力の低下により、おっくうになってくるという。「ゴミを出す」という独立したタスクというよりも、家事に組み込まれた一プロセスなのだから、当然である。掃除して、片付けた結果、ゴミとして認識されるモノが出てくるのだから、その前のプロセスである「掃除」「片付け」をやらないと、ゴミが見えなくなるのだ(生活空間の中にゴミが埋もれる)。

 当人としては「いずれ片付けよう」として延び延びとなっているため、モノは未だゴミではない。溜め込まれたモノが寝室や台所から居間にあふれ、廊下を占拠し、風呂がモノでいっぱいになる。家の中がモノ置き場となり、トイレの前に布団を敷いて暮らしている人もいる(もちろんその布団も、モノの上に敷いている)。

 家の中で置ききれないモノは、家の外にあふれ出す。ベランダや庭、家の前にまで積み上がるようになって、ようやく問題が「見える」ようになる。そして、「見える」ようになる頃にはほぼ手遅れだ。道路をふさいで交通事故を誘発するリスク、地震や台風で崩れるリスク、ゴミ(のように見えるモノ)から孵る虫や悪臭、さらには火事や治安にまで波及する。

 これは、モノを失うのを極度に恐れる、経済的に貧しい人かと思いきや、そうではない事例が出てくる。高級住宅街(ボかされているが田園調布)に一軒家を持つ裕福な女性だが、家の中がモノだらけで住めなくなり、やむなく近所に部屋を借りてそこで寝泊りしているという。

 そして、自宅に毎日通って、少しずつ片付けているが、遅々として進まないらしい。部屋代を払えるなら、そのお金で片付けてもらえばと思うのだが、そのような発想はないようだ。昔を懐かしむ思い入れと、「人様に迷惑はかけられない」「もったいない」という感情が後押しする。

 問題は当人の生活だけでなく、家族や地域社会にまで波及する。本書に限らず、実際に困りぬいた家族がネットに相談している事例もある。発言小町の「ごみ屋敷の実家にうんざりです」を見ると、大学を卒業し、帰ってきた実家がゴミ屋敷と化しているのに愕然となった娘の相談がある。汚れ放題の親の生活を諫めたところ口論となり、挙句に「この家は私の家なんだから、嫌なら出ていけ」と言われる始末。

 この問題をやっかいにしているのは、当人が、ゴミを財産だと主張していることだ。心配する近隣の人に対し、「いずれ片付けるつもりの財産である」と激昂する。本人がそう言う以上、周囲はそれ以上強くいえないのが実際となっている。

 行政や警察は、本人や家族の同意が得られなければ、手を出せない。「本人の意思を尊重したほうが」「しばらく様子を見てみては」と及び腰である。対する近所の声が切実である。「身寄りのない、自律できていない人に対し、24時間365日つきっきりで見守ることはできない。ゴミに埋もれた家で、いつ孤独死するかも分からない。当人が本当に健康な暮らしをしているか、行政は現場を見ろ」

 本書では、道路交通法や特別条例により、強制的に撤去されている写真が数多く紹介されているが、氷山の一角だという。こうした強制措置ではなく、もう少し予防的な対策がないだろうか。「見えない」老人問題を「見える化」するために、本書では様々な取り組みが紹介されている。

 たとえば、所沢市の「ふれあい収集制度」。ゴミ出しをすることが困難な、要介護支援の高齢者などを対象として、市の職員が戸別訪問し玄関先から一括で収集する制度である。ポイントは、ゴミが出ていない場合には、安否確認のため声かけをしているところだろう。調べてみたところ、同じような試みは、調布市、川崎市、日野市などの自治体でも行われているようだ。

 さらに、こうした試みを後押しする支援として、「高齢者ごみ出し支援ガイドブック」が紹介されている。国立環境研究所が作成したもので、高齢者を対象としたゴミ出し支援に取り組みたい自治体に向けたガイドブックである。興味深いことに、支援の主体として2種類を想定している。すなわち、自治体が支援主体となる「直接支援型」と、自治会やNPO等が担い手となる「コミュニティ支援型」について、支援制度の設計や運用の仕方を説明している。

 すこし脱線する。

 ここにビジネスの芽が見える。「ごみ出し支援制度を作りたい/運営したい」自治体やNPOに対し、このガイドブックを参考にノウハウを培い、代行するビジネスである。人口ピラミッドを見るまでもなく高齢者は激増し、その何割かはゴミ出し難民と化することが分かっており、なおかつ、このリスクに備えたい自治体は多いはず。2017年に出たばかりのガイドブックで紹介されて「いない」自治体が市場となる。誰かの「困った」はビジネスになる。

 脱線から戻る。

 『母の家がごみ屋敷』で紹介される、セルフネグレクトの問題は、その実態が見えないというところにある。実際、マスコミのインタビューで「昔は良かった/最近の若者は~」と語ったり、事件・事故を引き起こすような老人は、「見えている」。だが、ほとんどの場合は見えないところで問題が進行している。そして、見えるようになったときには手遅れで、強制的か対症的か、あるいはその両方の措置になる。

 見えない問題を、少しでも見える化するために。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年3月 | トップページ | 2018年5月 »