子宮を取り戻す『妊婦アート論』
妊娠するラブドール、マタニティフォト、妊娠小説、妊娠リカちゃん人形を軸に、「妊娠する身体」を取り巻く社会的な抑圧や、隠された規範を炙り出す、たいへん刺激的な論考集。
妊娠を生物現象としてみるならば、女性が子どもを身ごもることである。受精卵が子宮に着床し、母体と連絡する胎盤を生じて発生が進み、一定の期間を経て胎児が分娩されるプロセスになる。
一方、社会現象としてみるならば、妊娠にまつわるイメージ(妊娠表象)が社会でどのように作り出され、機能してきたのかを振り返る必要があるという。わたしたちが目にする「妊娠」というイメージの背景に、欲望の喚起や政治的誘導があることを掘り起こす。すなわち、妊娠表象のなかに潜む「こうありたい」「こうすべき」なにかを指摘し、それを見える化したのが本書になる。
まず、ディストピアとしての妊娠を提起したのが、「妊娠するアンドロイド」の考察である。ラブドールが妊娠するという架空の設定のアートプロジェクト「ラブドールは胎児の夢を見るか?」(表紙)を紹介する。オリエント工業の協賛のもと、腹部を膨らませて妊婦の姿に改造したセックスドールは、わたしの「常識」に揺さぶりをかけてくる。
かつて物議を醸した「産む機械」に象徴されるように、家父長制の生殖システムでは、女性の身体機能をコントロールすることが必要だという。そのために、理想化された妊婦像や母像が生産され、「望ましい妊娠」がイメージとして教化されてきた。
これに対し、女性たちは、自分の身体を取り戻し、「望ましい妊娠」を再読・転覆しようとしてきたという。この試みは、安定的な生殖管理システムでは、規範を揺るがす脅威となる。この、理想化された妊娠イメージの支配から逃れようとする妊娠ディストピアの観点から、さまざまな作品を読み直しているのが刺激的だ。
たとえば、男性が人造人間の美女に恋をする話の原型としての神話「ピグマリオン」を筆頭に、時計仕掛けの女をテーマにした物語が紹介されている。リラダン『未来のイヴ』や、ラング『メトロポリス』、押井守『攻殻機動隊』を挙げながら、アンドロイドやセクサロイドの支配・被支配の関係の逆転を考察する。これに、妊婦の異能力の軍事利用を描いた白井弓子『WOMBS』があるとさらに深いかも(”妊娠ディストピア”が最も嵌る作品なのかもしれぬ)。
また、マタニティ・フォトをテーマにした、「社会は妊娠をどのように捉えるか」の考察が面白い。
その嚆矢は、デミ・ムーアになる。マタニティ・セミヌードで“VANITY FAIR”(1991 August)の表紙を飾った彼女に対し、賛否両論が集まった。自信に満ちた女性の美を讃える声が寄せられる一方、妊婦がヌードを公開するのは猥雑だと非難する声も上がり、書店ではビニール袋に入れられて(つまりポルノ誌と同じ扱いで)販売されたらしい。日本では、hitomiの写真集『LOVE LIFE 2』や神田うのが『an・an』(2011.11月号)の表紙を飾ったあたりから、表立つようになったという。
マタニティ・フォトは、女性のカメラマン、プロのヘアメイクによるスタイリング、コーディネーターによる妊婦の体調への配慮といったサービスが提供される。
撮影された画像には、肌の黒ずみや正中線や妊娠線を目だたなくさせるよう補正やレタッチが行われ、「美しく」仕上げられる。被写体となる妊婦たちは、自らの妊娠・出産の記録としてだけでなく、妊婦である自分を演出し、理想化した姿を記念に残すことを求めているのだという。
この「理想化した妊婦」のイメージは、記念写真としてなら自然に見える。撮影の前にちょっと髪を直すところから始まって、証明写真の「修正」やsnowの「盛り」のように、どこまで演出するかはそれぞれだろう。だが、本書では、タレントが産後に仕事に復帰する場合、産前と変わらないプロポーションに戻っているか、容姿に注目が集まっているという。メディアに登場するマタニティ・フォトこそが、女性の容姿に対する意識を形作っているという指摘は鋭い。
さらに、妊娠した人形の切り口からジェンダーの歴史を振り返る論考が興味深い。
たとえば、リカちゃん人形が妊娠・出産するという設定で、2001年に発売された「リカちゃんがママになりました!こんにちはあかちゃん」が紹介される。マタニティファッションに身を包んだリカちゃんの身体には、別パーツで腹部が付いている。同梱のハガキを返送すると、鍵と赤子、母子手帳が送られ、その鍵で腹部を外す仕掛けとなっている。商品そのものよりも、商品の「物語」の中での男性の影が薄いほうが気になる。
あるいは、「メディチ家のヴィーナス解剖模型」(1780)が紹介される。フィレンツェで製作された蝋細工の「ヴィーナス」で、パーツに分けられた臓器を取り外すことで、女性の内臓の子細な観察ができる。全部で七つの層から成り立ち、最後の層を取り外すと子宮内の胎児が出現する仕掛けとなっている。まさに、「見る」ための模型だという。
一方で、「診る」ことを目的とした産婆教育の中で利用された「胎盤人形」が紹介される。明治時代、妊娠した女性身体に胎児を内蔵した胎盤人形は、エロティックな関心を引き起こす見世物だったという。球体関節の人形が精緻であればあるほど、それが美術なのか医学なのか、あるいは孕む身体の見世物化なのか分からなくなる。
他にも、斎藤美奈子『妊娠小説』や内田春菊『ファザー・ファッカー』を引きながら、小説における妊娠のイメージが男性著者から女性著者に「奪回」されていることを指摘したり、クリムト『希望I』(1903)が妊婦のヌードが芸術と道徳に背くポルノグラフィックであった状況を解説する。妊娠そのものは自然現象だが、その「受け止められかた」によって、権力に寄り添うものになったり反社会的なものになったりするのが面白い。
同時に、この「妊娠」を奪回する、すなわち子宮を取り戻す試みに、一抹の懸念がある。あとがきでも指摘されているこれだ。
流用アートの宿命として、それが持つパロディー性が誤読または無視されてしまう危険を孕んでいる。日本女性の理想的な美しさを持つラブドールたちは、グロテスクどころか、完璧な身体美を備えている。その「妊娠美」が、普通のヌードにはないポルノグラフィックな魅力を放つものとしてクリムト的なまなざしに鑑賞されることも実際には可能だろうし、あるいは、「美しく妊娠したい私」という女たちの願望をそそることで古くて新しい母性主義に奉仕してしまうことさえるかもしれない。
本書の表紙がまさにそれで、最初に見たとき、「妊婦ヌードにしては変だ」と感じた。シワもシミも妊娠線もない、つやつやとした肌感が完璧すぎて、フォトショの力を借りたのかと思った。
これは、ラブドールという男の欲望を体現したモノを用いているから成り立つが、仮にこれを「完璧な妊婦」としての理想像と「誤読」されてしまうと、まさにこの試みが目指す真逆の動機付けを起こすことになってしまうのだから。
社会生殖システムとしての妊娠を様々なテーマから炙り出し、そこに潜む女性身体の搾取を批判する、たいへん挑発的な一冊。

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