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信頼できない読み手にさせる『オープン・シティ』

 読む行為への没頭が心地よく、二度読みを促す罠も面白く、読了後、こいつを絶賛する書評を読んでニヤニヤさせられるという、一冊で三度も楽しめる素晴らしい小説。

 主人公は、散歩する精神科医。ニューヨークとブリュッセルを歩き回りながら、そこで見聞きした光景、会話、音楽、四季の断片から、ニューヨークの、合衆国の、白人と黒人の歴史を振り返り、移民としてのアイデンティティを見つめる。

 街の一角を拾い上げ、そこに潜む過去を、薄皮を剥ぐようにめくって見せる手さばきが非常に上手く、どの風景、どの音節にも、何かしらの由来や物語が折り畳まれ、上書きされていることが分かる。主人公は恐ろしく博学で、芸術を愛し、冷静だけど丁寧に語ろうとする。少なくともその態度は真摯だと感じられる。

 街に折り畳まれた物語は、パリンプセスト(何度も上書きされた羊皮紙の写本)に例えられているが、主人公が焦点を緩急自在に切り替えるので、むしろ過去の多重露出の像のように見える。つまり、語り手が合わせたい深度で街が語られていくのだ。これは楽しい。読む快楽を充分に味わうことができる。

 だが...... なんだか変だ。

 目に映るもの、耳に入ってくるものに触れて何かを「思い出す」ように語っているのではない。もちろん、学生時代に受けた体罰や、父の葬儀などを思い出すのだが、あたかも映画や絵画の描写のように語られる。語り手自身のことなのに、カメラを通じた被写体のように見えるのだ(実際、父の葬儀の記憶はエル・グレコとクールベの絵画に上書きされている)。

 つまりこうだ、過去を思い出すというよりも、それに近い構図の歴史や、絵画や、文学や、音楽や、(誰かから借りてきた)思想が語られる。街で出合うものを片端からWikipediaで検索して、インテリ好みのエピソードをコピペしているように見える。あれだ、「〇〇の画像をアップすると近い構図の△△が送られてくる」を読む感覚。

 わたしの違和感は、最終章の少し手前ではっきりする。主人公の過去が暴かれる刹那に、わたしは自分の読みを確信する。と同時に、わたし自身が信じられなくなる。今まで読んできたものは何だったのか、と。

 そして変と感じた箇所を読み返すと、記憶が違うし、関係性が違うし、順序が変わっていることに気付く(文章は1ミリたりとも変わっていないのに、読み手であるわたしが変わってしまったのだ!)。

 これ、面白いねぇ。いわゆる「信頼できない語り手」の小説技法にしてしまうなら、読み手としては「安全圏」からいくらでも主人公を刺せる。だが、そこに至るまで充分に彼の教養なり思索にどっぷり漬かってきたのだから、「信頼できない」と断罪することが難しい。だが、彼を告発する言葉はあまりにまっすぐで、正直で、(読み手は)直視せざるを得ない。

 そして、きちんと読めば読むほど、かつて彼に寄り添って読んできた読み手自身が信じられなくなる。その綻びはあちこちに散らばっているが、自分がその整合性をとりながら、彼のように記憶したい記憶を信じればよいのか、いま受け取った結果でもって振り返ればよいのか、分からなくなる。
 結局のところ、わたしは、どちらの立場も取れなかった。「信頼できない語り手」にすることで、彼の物語をなかったことにもできないし、反対に、彼の被写体深度を信じるがまま、彼を告発する言葉をなかったことにもできない。もどかしい思いで閉じるほかがないのだ。

 このモヤモヤした感覚を共有すべく、ネットで書評を漁ってみるのだが、気付いている方はかなり少数だ。「ゼーバルトの再来」「知的な遊歩(フラヌール)小説」とか絶賛されている方は、p.260のくだりをどう読んだのかが気になる。


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