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『夜のみだらな鳥』の魅力を2,000字ぐらいで語る(一夜限りのドノソ祭レポート)

 『夜のみだらな鳥』の復刊を記念し、下北沢B&Bで開催された「一夜限りのドノソ祭」に参加してきたので語る。訳者である鼓直さん、そして同じくドノソの代表作『別荘』を翻訳された寺尾隆吉さんの対談である。当日の雰囲気は、togetter『夜のみだらな鳥』を堪能する、一夜限りのドノソ祭!で味わってほしい。

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 まず『夜のみだらな鳥』について。

 くりかえすが、これは読書というよりもむしろ毒書であり、耐性がある人には中毒症状・禁断症状が現れることになる。語り手と語られる/騙られる者・場所・時間・記憶が、迷宮状に入り混じり接続し、先の否定が肯定され、後の出来事を未来で予告する。カオスと呼ぶためにはカオス”でない”存在、少なくとも読み手がそうでない必要があるが、丹念に読めば読むほど、うねる物語に呑みこまれ異形化する。

 ありのまま、起こった事を話すなら、「彼の語りを読んでいたと思ったら、いつのまにか読まれていた」……何を言っているのか分からないと思うが、わたしも何をされたのか分からない。頭がどうにかなりそうだった。信頼できない語り手だとかメタフィクションだとか、そんなチャチなものでは断じてない。もっと恐ろしいものの片鱗を味わう(完璧な悪夢『夜のみだらな鳥』にまとめた)。

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 そんな「読む迷宮」をどうやって訳したのか? 読むだけで頭がどうにかなりそうなのに、よくぞ狂わなかったなぁと思いきや、なんと、2ヵ月半で訳了したという(一人で!)。編集者の命により、講義は休講、ホテルに缶詰にされ、朝9時から夜9時までぶっつづけ、休日なし、一気呵成に仕上げたのだという。

 おそらくこれ、ノートを取って時系列に年表を書いたり、相関ネットワーク図を引いて「知っている/知っていない」表を作っていたら、何年経っても終わらないだろうし、なおかつ、ドノソが作ったダンジョンの目的とは、かけ離れたものとなるだろう。なぜならそれは、語り手/読み手とともに動的に変化する迷宮を目指したものだから。

 そして、鼓さんからヒントをもらった。

 曰く、「たしかに自在に動く時空間の整合性を取るのは難しい。だが、ドノソは読者を完全に無視して、置き去りにして物語を進めようとしているわけではない。その証拠に、歴史上のイベントを目印として置いている(たとえば、ドン・ヘロニモ・アコイティアがヨーロッパを去り、帰郷したのは、カストロに呼応して政治運動に参加するため)。アンカーのように打ち込まれた史実を元に時系列を整理すると、見通しが良くなる(初読の方は参考にするといいかも)。

 さらに、この小説が書かれ、読まれているラテンアメリカの背景を頭の片隅に入れておくと、伏線が見えてくる。たとえば、ラテンアメリカは「マッチョイズム」だという。強靭さ・逞しさ・好戦性が尊ばれ、富と名声を手にする。完全な身分制度・階級制度に分かれており、成り上がるのは難しい。

 そんな背景で、成り上がりのメスティーソの代表のような主人公ウンベルト・ペニャローサ(直訳すると墓石)が抱く、暗い妬みや強烈な上昇志向は、一種の呪いのように働く(人を呪わば穴二つ、一つは呪いの宛先で、もう一つは自身である)。ペニャローサが饒舌な語り手「ムディート」(聾唖)となり、身体の80%を失い「ボーイ」(畸形児)となるのは、必然だったのかもしれない(と、読み手に思わせたいのかもしれぬ)。

 また、階級制度を伏線にしているのは、ヘロニモとイネスの姓だという。二人は、結婚する前から同じ姓「アコイティア」だったのである。わたしは2回も読んだのに気づかなかったのだが、ヘロニモが妻の候補を探す際、同じ階級の中で選ぶことになる。ごく一握りの上流階級の中で結婚をくり返し、いわゆる「濃い血」が流れていたエビデンスである。なかなか子どもが生まれなかったこと、待ち望んだ末に、畸形児「ボーイ」が誕生することの伏線だというのだ(ヘロニモの縁戚に畸形のエンペラトリスがいたことも裏付ける)。

 階級制度は、「読者」をも規定する。(当時の)ラテンアメリカでは、文字が読め、小説を読むのはエリートになる。従って、なんであれ書かれるものはエリート向けである文化では、エンタメを追求した通俗的な作品は好まれない。通俗性よりも文学性を求められるようになった結果、小説は難解となるという。ドノソは決して「一般的」じゃないよなぁ……と思う理由はここにあったのか。

 さらに、質疑応答タイムで、お二人から嬉しいアドバイスをもらった。

 マルケス『百年の孤独』でガツンと犯られ、ドノソ『夜のみだらな鳥』で中毒となり、次に何を読めばいいのか分からない。傑作の上に傑作を上書きされ、これ以上なんて存在しないのではないか……!?という質問に返されたのが以下の通り(他にもあったけど聞き取れず残念……)。

 ・ホセ・レサマ=リマ
 ・アレホ・カルペンティエル
 ・カルロス・フエンテス(?)

 さらに、寺尾さんより直々に「フィクションのエル・ドラード」シリーズをお薦めされる。出版社が押し付ける「任され翻訳業」ではなく、寺尾さんが選書したシリーズだから鉄板らしい。確かに、『別荘』と『夜のみだらな鳥』は傑作だったので、レーベル読みをしても良さそう。

 対談終了後、参加された方から、ベルナール・ノエル『聖餐城』をお薦めされた。なんとしても探し出し、読むぞ。すごい小説を読みたいという動機に衝き動かされて、ラテンアメリカ小説も読んできた([ラテンアメリカ十大小説]にまとめた)。だが嬉しいことに、この祭りで、人生を更新するすごい作品が沢山あることを思い知らされる。まさに、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる一夜でしたな。

 よい文学で、よい人生を。

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完璧な悪夢『夜のみだらな鳥』

 これは凄い。
 これは凄い。
 これは凄い。

 どろり濃厚ゲル状の夢に、呑まれ、溺れ、とり憑かれる体験。息詰まるような読書、いや毒書である。7年前の初読時、この毒に中った。極彩色の悪夢を直視する経験は、[劇薬小説『夜のみだらな鳥』]に書いた。以後、中毒状態だったのだが、本書は長いあいだ絶版状態となっていた(Amazonで平気で諭吉してた)。

 それが、水声社から復刊された!

 これは事件といってもいい。誰でも手に入る状態で、日本中にこの悪夢が解放されているのだから。これでいつでも、完璧な悪夢を見ることができる。なぜか? それは、常識を超えた毒書になるから。

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 物語の体をした小説は、語り手によって伝えられ、読み手によって受け止められる。一人または複数の語り手は、ふつう「出来事そのもの」や「因果の果」に相当するところから話を始める。語り手は騙り手でもあるから、読み手は騙されないよう気をつけつつ、「なぜそれが起きたのか?」を探りながら進める(オプションで、「語り手は誰なのか?」も心の隅に留めながら)。

 事実であれ小説であれ、物語は世界を理解するための方便なのだから、読み手は、原因と結果がつながっていることを暗黙のお約束とする。また、語り手は、たとえどんなに異形であったとしても、「語るべきもの」を伝える役目として、一つの存在であることが前提だ。さらに読み手はまさに、この本を読んでいる”わたし”であることは、言うまでもない。

 これが、ぜんぶ壊れる。一度にすべてが起きるのだ。原因と結果、語り手と読み手が混ざり合い喰い合う。語られているモノと、語っているモノが、重なりあう。何を言っているのか分からないと思うが、わたしも、何をされたのか分からない。

 しかも、語り手が頻繁に変わる。見捨てられた修道院で、ずっと主人公(ムディート)が語り手として回想しているのかと思いきや、いつのまにか「語られている相手」が語り手としてしゃべっている。「語られている相手」は、彼が恋焦がれる女だったり、彼を支配する大富豪だったり、その大富豪の畸形の子だったり、彼を犯そうと追いかける老婆だったり、その土地に古くから伝わる神話そのものだったり。誰かの悪夢を盗み見ているようで、同時に窃視しているわたし自身が覗かれているような気になる。

 その入れ替わりは、彼に憑依する形ではない。人格が崩壊した主人公の戯言として読んでしまえば簡単なのだが、描写がそうはさせない。客観描写を衒った神視点や、ドストエフスキーばりの連続会話、ジョイスやウルフの意識の流れに乗って読んでいくうちに、彼の語りを聞く「わたし」が知覚する世界が変転する描写で、シームレスに成り代わる。

 アインシュタインは、時間が存在する理由と、「一度にすべてのことが同時に起こらないため」と言ったが、わたしはその場所を一つだけ知っている。それは、わたしが見る悪夢だ。夢の中では、すべてのことが一度に起きる。まだ始まっていないのに、何が起きるのか、そして「なぜ」それが起きたのかを、わたしは知っている。と同時に、起きていないのに起きたことが経験済みとして扱われる。

 『夜のみだらな鳥』を読むことで、まさにこれが起きる。本書が完璧な悪夢である理由はこれ。

 物語に「ストーリー」すなわち予定調和や業(ごう)・因果を求める人がいる(というか、そんな人が小説を読む大半である)。そんな人向けの「ストーリー」を述べるなら、畸形の息子のために畸形の楽園を築こうとした大富豪の話が適切だろう。

 広大な敷地を買取り、世間から隔絶し、美しい豪邸と庭園、それを取り囲む村落という「世界」を丸ごとつくりだす。そこに、額に隻眼を持つ医師、身体は巨大なのに半分しかない女、侏儒、異形の者たちを高給で雇い、生まれたばかりの畸形の息子の周りに侍らせる。そこでは、五体満足の人間は逆に「異常」とされ、不具扱いされる。この、社会から隔離された世界のマネジメントを任されたのが、この物語の語り手である主人公のウンベルト・ペニャローサになる。

 ん? 先ほど主人公は「ムディート」と言ったじゃないか、というツッコミ上等そのとおり。途中から断りなく、ムディートとウンベルト・ペニャローサが重なり合う。呼び名の違いと済ませたいが、それぞれの過去が微妙にズレる。同じ名なのに別人物のように振る舞い、別名なのに同一人物のように扱われるのがザラで、そのうち両方を受け入れるようになる。

 しかも、ムディートが語る場所である半迷宮と化した修道院と、ウンベルト・ペニャローサが語る場所である畸形の楽園と化した豪邸が重なり合う。同じ過去と語るモチーフ、重なり合う人称「おれ」を用いることで、両者と両所は多重露光のように映し出される。

 さらに、この楽園に住まう畸形の息子「ボーイ」も、この露光に重なってくる。すなわち、ムディート=ウンベルト・ペニャローサ=ボーイの構造として「おれ」が語るのだ。しかも、場所のみならず、ムディートの回想(の中のウンベルト・ペニャローサの過去(の中のボーイの知見・対話)をボーイが否定した事実)を元にして、ムディートの現実が上書きされる。つまり、語り/語られの時間軸すら逆転したり捻じれている。

 読み手は、語り手がしゃべっているモノは何であるのか分からなくなり、小説内時間軸のどの時点の語りなのか見失い、そして、しゃべっている語り手が誰なのか、そもそも、語り手は誰にたいしてしゃべっているのかすら分からなくなる(語り手は唐突に「あなた」を言い出すが、それは読んでる「わたし」ではない)。

 起きていることと、その理由と、それを語るものと、語られるもの、それを聞く存在、これらすべてが、いちどきに発生し、知覚される。おぞましい存在から、うつくしい存在が生まれる。その時間のかかるシークエンスを、瞬間に感じることができる。善悪と美醜の混濁を、支離滅裂と片付けるにはもったいない、きちんと呑まれて、極上の、完璧な悪夢を堪能すべし。

 ただし、水声社のポリシー(?)により、ウェブストアは卸さないので気をつけて。大型書店で探すか注文取り寄せで入手して欲しい。Amazonで、またしてもセドリ屋が高い値で売ろうとしているが、相手にしてはいけない。


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オフ会やろうぜ、4/14「サクラのスゴ本オフ」、5/27「B&Bでブックハンティング」

 ふたつオフ会を企画したので、タイミングと興味が合えばどうぞ。

 一つ目は、スゴ本オフ。「さくら」をテーマにした本、映像、音楽、ゲームなんでもOKなので、あなたのオススメを熱く語ってくださいませ。4/14(土)13:00~渋谷にて。参加費2千円、軽食・飲み物が出ます。子連れ・途中参加・退場・見学歓迎。「さくら」のスゴ本オフからどうぞ。

  1. テーマに沿ったオススメ作品を持ってくる オススメ作品は、本(物理でも電子でも)、映像(DVDの映画やYoutubeの動画)、音楽、ゲーム、なんでもあり。
  2. お薦めを1人5分くらいでプレゼンする あなたのオススメを存分に語ってほしい。刺さったところを音読するもよし、自己流の解釈もよし。
  3. 質問とオススメ返しの時間 あなたのオススメに対し、観客から質問やオススメ返しされる。「実は私も好きなんです!」と同志を見つけたり、「それが好きならコレなんていかが?」なんてオススメ返しされたり。このリアルタイム性がスゴ本オフの嬉しいところ。
  4. 放流できない作品は回収する ひととおりプレゼンが終わったら、回収タイムになる。「放流」とは本の交換会のことで、交換できない絶版本・貴重な作品は、ここで持ち主の手元に戻る。
  5. 交換会という名のジャンケン争奪戦へ 回収が終わったら、作品の交換会になる。ブックシャッフルともいう。「これが欲しい!」と名乗りをあげて、ライバルがいたらジャンケンで決める。

スゴ本オフ「お金」

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スゴ本オフ「嘘」

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 二つ目は、ブックハンティング。ビールやコーヒーを飲みながら、本屋でオフ会しましょう。B&Bで見つけたあなたのイチオシや、「これが読みたくなった!」という作品を熱く語ってください。5/27(日)10:00~12:00 下北沢B&Bにてやります。参加費は無料ですが、ワンドリンクをオーダーしてくださいね。B&Bでブックハンティングからどうぞ。

10:00-10:30 受付
  参加者は、1ドリンク注文し、紹介文のカードを受け取る

10:30-11:15 探索
  参加者は、店内でオススメの本を探索する
  参加者は、オススメの本の紹介文をカードに書く

11:15-12:00 発表
  オススメ本とカードを机に並べる(写真を撮ります)
  参加者は、3分ぐらいでオススメ本を紹介する
  「読みたい!」と思った参加者は、その場で購入する

12:00~ 解散
 B&Bは開店
 参加者はそのまま「お客」として物色するもよし

 本屋でオフ会するのは、とってもデンジャラスと言える。わたしの経験上、「気付いたら諭吉が消えてた」なんてザラ。なので、もっとも危険な読書会になるだろう。お財布を充分に温めていらしてください。

B&Bでオフ会

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渋い選書。開いているのは内田百閒『東京日記』

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 まっ昼間からビール飲んで好きな本について語るなんて、至福そのもの。あなたの「好き」を教えて欲しい。わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

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「やりたいこと」を要件定義にする3冊

 システム開発でモメることは多々あるが、その本質は「やりたいこと」が分かっていないに尽きる。

 「やりたいこと」が分かっている場合、リソースが足りないとか突発的な事象が起きたといったトラブルがあっても、まだ何すればいいかは分かる(できるできないは別として)。

 しかし、「やりたいこと」分かっていない場合、リソースからスコープのあらゆる場面において、何をしていいか分からないことになる。恐ろしいことに、トラブルになって初めて「やりたいこと」が分かっていないことが見えるようになる。if文を書くときにelseで何するか決まってなかったり、リリース段階になっても運用方式が決まってなかったり。

 分かっていないとどうなるか? それぞれのタスクを受け持つ人は、自分のタスクを完遂するため、「一つ前の」仕事をするハメになる。つまり、自分のタスクへのインプットとなる成果物を作ることになる。稟議書を書くシステムエンジニア、仕様を書くプログラマ、プログラミングするテスタ、テストするオペレータ。この経緯は[なぜ糞システムができあがるか]に書いた。

 そして、「やりたいこと」を分かっていないのは、発注者である。冗談に聞こえるかもしれないが、本気だ。最も分かっているべき顧客こそが、分かっていない。「やりたいこと」を分かる(可視化する)ことが自分の仕事だと思っていないのである。ITの風刺画「顧客が本当に必要だったもの」を思い出してほしい。


出典 arison.jp

 期待通りのシステムにならなかった理由として、開発者の思い込みや営業の押し付けだということがアイロニカルに描かれているが、「顧客が本当に必要だったもの」が最後のコマであることに注意してほしい。顧客が最初に説明した要件からどんどんズレていっただけでなく、そうしたズレを目にしつつ、できあがったモノを見て、ようやく顧客が「やりたいこと」に気付けたのである。

 そして、これはシステムの発注者に限らない。開発者もまた、「顧客」である。オフショアの例を挙げずとも、全部ひとりで作り上げるわけではない。機材を調達したり、構築を依頼したり、運用を任せるとき、その発注元となるからだ。

 発注する人と受ける人が、「やりたいこと」を分かり合うために、どうすればよいか。これが難しい。そもそも発注者側が、「やりたいこと」を明確にする義務があることを自覚しない場合がある。稟議を通すためだけの、ゴミみたいな中身ゼロの企画書を放って事足れりとしたり、そもそもドキュメントすら存在しない場合もある。

 この「やりたいこと」について、発注者と受注者の両方に立ち、なおかつ同じ目線で分かり合うための本が、「はじめよう!」シリーズになる。

 システム開発の本といえば、(その担い手である)受注側に寄り添ったものが多い。テクニカルなやつからマネジメント、最近だと紛争予防のための法務系まで、作り手の役に立つものばかりだ。

 しかし、作り手に対し、「やりたいこと」が渡せていなければ、いくら作ることを頑張ったとしても多寡が知れる。「やりたいこと」が不明確な分、それぞれの仕事を進めるために、「一つ前の仕事」をすることになる。ゴミを入力するとゴミが出力される法則[GIGOの法則]に従って、ゴミみたいな要件からは、糞みたいなシステムができあがる。

 だから、そうさせないために、「やりたいこと」を明確する。そのために、何よりも発注者、すなわち顧客が動かないと......なのだが、何をすれば「やりたいことが明確になる」か分かっていない顧客が多すぎる。あたりまえだ、開発者は多くの顧客を相手にしてきたが、”その顧客”にとっては初めてだろう。”その顧客”にとって、「やりたいこと」すなわち要件を定義するためにすべきこと、すべきでないことが書いてある。

 これは、顧客側の「情報システム部」も同じ。レガシーを後生大事に護ることが”仕事”だとカン違いしている。これ、古株であればあるほど強く思い込んでいるように見える。だから、要件定義を求めても「今と同じように」「現行を踏襲して」という答えしかできない。その「現行」が何か、分かっていない「情報システム部」の人にとっても、本書は効いてくる。

 顧客よりから考えると、最初は緑本『はじめよう! プロセス設計』になる。誰と誰が連携し、どうやって仕事を進めているのか(ビジネスプロセス)が明確になる。そもそもこの仕事が全体から見て必要なのかどうかも見えてくる。

 現行の仕事のプロセスが見えるようになると、本来やるべきことなのにやれていないこと(=「やりたいこと」)のFIT/GAPが可視化される。すると、GAPを埋めるためにシステムが何をしなければならないか(あるいは、何をしなくてもよいのか)が見えてくる。仕事を回すために、システムに求められていることが分かる。極論を言うと、開発不要になるかもしれぬ。ビジネスプロセスが標準化され、システムのこの部分が不要となりました、という解さえあるのだ。

 そして、システムに求める「やりたいこと」をソフトウェアで実現するためにどうすればよいか? その方法が、オレンジ本『はじめよう! 要件定義』にある。そもそも要件とは何か、要件定義をするということは何が決まってくるのかが、流れと内訳の両方から理解できるように書いてある。

 これは、発注者に読んで欲しい。実際に要件定義を「書く」のは受注者でも良いのだが、何が定義されていなければならないか(UI、機能、データ)、そのために何を準備しなければならないか(利用者行動シナリオ、概念データモデル)については、発注する「中の人」が理解した上で決めなければならない。

 UIとかデータモデルというと、なじみのない人は敬遠するかもしれぬ。だが大丈夫、「目玉焼きをつくる」という超簡単な仕事を例に、要件定義とは何かを教えてくれる(そして、「目玉焼きをつくる」を要件定義することは、意外と決めねばならぬポイントが多いことに気付くだろう)。

 さらに、できあがった要件定義を設計に落とし込む際に効いてくるのが、青本『はじめよう! システム設計』になる。一人で要件定義を聞き出して、一人で実装する程度であれば問題ないが、そういう小規模なものはレアケースだろう。複数の人が連携して、前提を洗い、不足を補い、管理できるタスクにまで落とし込む必要が出てくる。

 プロジェクトを横断的に見た場合、どのプロジェクトにも共通する層がある(フロント層、バック層、DB層)。そのそれぞれの層ごとに、何に気を付けることで他と連携して上手く回せるかが分かるように書いてある。開発者もまた、調達やオフショアする場合、あるいは別の担当に請け負ってもらう際の「発注者」になるのだから。

 例えば、「目的語と動詞を明確にする」「受動態から能動態に書き換える」「二重否定による条件をやめる」の3つを実行するだけで、見通しの良い設計書になる。痛い経験を積んできた人は無意識のうちにやっていることが、意識的に書いてある。

 要件定義を中心として、緑、オレンジ、青の順に進めることで、「やりたいこと」を可視化して、要件定義や設計に落とし込むことができる。わたしの場合、新人さんに渡してきたが、むしろ発注者に読んでほしい。

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子宮を取り戻す『妊婦アート論』

 妊娠するラブドール、マタニティフォト、妊娠小説、妊娠リカちゃん人形を軸に、「妊娠する身体」を取り巻く社会的な抑圧や、隠された規範を炙り出す、たいへん刺激的な論考集。

 妊娠を生物現象としてみるならば、女性が子どもを身ごもることである。受精卵が子宮に着床し、母体と連絡する胎盤を生じて発生が進み、一定の期間を経て胎児が分娩されるプロセスになる。

 一方、社会現象としてみるならば、妊娠にまつわるイメージ(妊娠表象)が社会でどのように作り出され、機能してきたのかを振り返る必要があるという。わたしたちが目にする「妊娠」というイメージの背景に、欲望の喚起や政治的誘導があることを掘り起こす。すなわち、妊娠表象のなかに潜む「こうありたい」「こうすべき」なにかを指摘し、それを見える化したのが本書になる。

 まず、ディストピアとしての妊娠を提起したのが、「妊娠するアンドロイド」の考察である。ラブドールが妊娠するという架空の設定のアートプロジェクト「ラブドールは胎児の夢を見るか?」(表紙)を紹介する。オリエント工業の協賛のもと、腹部を膨らませて妊婦の姿に改造したセックスドールは、わたしの「常識」に揺さぶりをかけてくる。

 かつて物議を醸した「産む機械」に象徴されるように、家父長制の生殖システムでは、女性の身体機能をコントロールすることが必要だという。そのために、理想化された妊婦像や母像が生産され、「望ましい妊娠」がイメージとして教化されてきた。

 これに対し、女性たちは、自分の身体を取り戻し、「望ましい妊娠」を再読・転覆しようとしてきたという。この試みは、安定的な生殖管理システムでは、規範を揺るがす脅威となる。この、理想化された妊娠イメージの支配から逃れようとする妊娠ディストピアの観点から、さまざまな作品を読み直しているのが刺激的だ。

 たとえば、男性が人造人間の美女に恋をする話の原型としての神話「ピグマリオン」を筆頭に、時計仕掛けの女をテーマにした物語が紹介されている。リラダン『未来のイヴ』や、ラング『メトロポリス』、押井守『攻殻機動隊』を挙げながら、アンドロイドやセクサロイドの支配・被支配の関係の逆転を考察する。これに、妊婦の異能力の軍事利用を描いた白井弓子『WOMBS』があるとさらに深いかも(”妊娠ディストピア”が最も嵌る作品なのかもしれぬ)。

 また、マタニティ・フォトをテーマにした、「社会は妊娠をどのように捉えるか」の考察が面白い。

 その嚆矢は、デミ・ムーアになる。マタニティ・セミヌードで“VANITY FAIR”(1991 August)の表紙を飾った彼女に対し、賛否両論が集まった。自信に満ちた女性の美を讃える声が寄せられる一方、妊婦がヌードを公開するのは猥雑だと非難する声も上がり、書店ではビニール袋に入れられて(つまりポルノ誌と同じ扱いで)販売されたらしい。日本では、hitomiの写真集『LOVE LIFE 2』や神田うのが『an・an』(2011.11月号)の表紙を飾ったあたりから、表立つようになったという。

 マタニティ・フォトは、女性のカメラマン、プロのヘアメイクによるスタイリング、コーディネーターによる妊婦の体調への配慮といったサービスが提供される。

 撮影された画像には、肌の黒ずみや正中線や妊娠線を目だたなくさせるよう補正やレタッチが行われ、「美しく」仕上げられる。被写体となる妊婦たちは、自らの妊娠・出産の記録としてだけでなく、妊婦である自分を演出し、理想化した姿を記念に残すことを求めているのだという。

 この「理想化した妊婦」のイメージは、記念写真としてなら自然に見える。撮影の前にちょっと髪を直すところから始まって、証明写真の「修正」やsnowの「盛り」のように、どこまで演出するかはそれぞれだろう。だが、本書では、タレントが産後に仕事に復帰する場合、産前と変わらないプロポーションに戻っているか、容姿に注目が集まっているという。メディアに登場するマタニティ・フォトこそが、女性の容姿に対する意識を形作っているという指摘は鋭い。

 さらに、妊娠した人形の切り口からジェンダーの歴史を振り返る論考が興味深い。

 たとえば、リカちゃん人形が妊娠・出産するという設定で、2001年に発売された「リカちゃんがママになりました!こんにちはあかちゃん」が紹介される。マタニティファッションに身を包んだリカちゃんの身体には、別パーツで腹部が付いている。同梱のハガキを返送すると、鍵と赤子、母子手帳が送られ、その鍵で腹部を外す仕掛けとなっている。商品そのものよりも、商品の「物語」の中での男性の影が薄いほうが気になる。

 あるいは、「メディチ家のヴィーナス解剖模型」(1780)が紹介される。フィレンツェで製作された蝋細工の「ヴィーナス」で、パーツに分けられた臓器を取り外すことで、女性の内臓の子細な観察ができる。全部で七つの層から成り立ち、最後の層を取り外すと子宮内の胎児が出現する仕掛けとなっている。まさに、「見る」ための模型だという。

 一方で、「診る」ことを目的とした産婆教育の中で利用された「胎盤人形」が紹介される。明治時代、妊娠した女性身体に胎児を内蔵した胎盤人形は、エロティックな関心を引き起こす見世物だったという。球体関節の人形が精緻であればあるほど、それが美術なのか医学なのか、あるいは孕む身体の見世物化なのか分からなくなる。

 他にも、斎藤美奈子『妊娠小説』や内田春菊『ファザー・ファッカー』を引きながら、小説における妊娠のイメージが男性著者から女性著者に「奪回」されていることを指摘したり、クリムト『希望I』(1903)が妊婦のヌードが芸術と道徳に背くポルノグラフィックであった状況を解説する。妊娠そのものは自然現象だが、その「受け止められかた」によって、権力に寄り添うものになったり反社会的なものになったりするのが面白い。

 同時に、この「妊娠」を奪回する、すなわち子宮を取り戻す試みに、一抹の懸念がある。あとがきでも指摘されているこれだ。

流用アートの宿命として、それが持つパロディー性が誤読または無視されてしまう危険を孕んでいる。日本女性の理想的な美しさを持つラブドールたちは、グロテスクどころか、完璧な身体美を備えている。その「妊娠美」が、普通のヌードにはないポルノグラフィックな魅力を放つものとしてクリムト的なまなざしに鑑賞されることも実際には可能だろうし、あるいは、「美しく妊娠したい私」という女たちの願望をそそることで古くて新しい母性主義に奉仕してしまうことさえるかもしれない。

 本書の表紙がまさにそれで、最初に見たとき、「妊婦ヌードにしては変だ」と感じた。シワもシミも妊娠線もない、つやつやとした肌感が完璧すぎて、フォトショの力を借りたのかと思った。

 これは、ラブドールという男の欲望を体現したモノを用いているから成り立つが、仮にこれを「完璧な妊婦」としての理想像と「誤読」されてしまうと、まさにこの試みが目指す真逆の動機付けを起こすことになってしまうのだから。

 社会生殖システムとしての妊娠を様々なテーマから炙り出し、そこに潜む女性身体の搾取を批判する、たいへん挑発的な一冊。

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恐怖の報酬は快感!? 「ホラーのスゴ本オフ」

 オススメを持ちよって、まったりアツく語り合う読書会、それがスゴ本オフ。

見てくれこのホラーのラインナップ

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 テーマに合った推し本を、5分くらいでプレゼンする。ストレートに作品の魅力を伝えるもよし、お気に入りの一節を朗読するのもよし、その一冊がどう人生を変えたのかを物語るのも楽しい。本に限らず、映画、音楽、ゲームなんでもあり。ボードゲームや演劇、博物館のイベントを紹介した方もいましたな。詳しくはfacebook[スゴ本オフ]をどうぞ。

 ところで、「スゴ本オフの存在は知っているけど、なんだか敷居が高くて」という噂を耳にした。意識高い読書家がマウンティングしあう会だと思ってる方がいるらしい。ちがうから! 昼からビール片手に好きなモノについてゆるゆる話す会だから。

 わたし自身、さまざまな読書会に参加してきたから断言できる、スゴ本オフはフリーダムすぎる読書会なり。ふつう課題本が決まってて、それを読了して語り合うのだが、課題本なんて無い(唯一あったのが、[漱石『こころ』を読んだ人にオススメする本])。また、読みたい本を投票で決めるビブリオバトルのように順位付けもない。さらに、猫町倶楽部のような巨大サークルを目指したりもしない。

 スゴ本オフは、幼児からオトナまで、好きな作品を好きに語る会なのだ。

 もし、「人前で話すのが苦手で……」というなら、後半に来るといい。別の話を始める人、酔いが回って寝ちゃう人、遊びまわる子どもたちでカオスだから。ちゃんと聞いてもらえないかもしれないが、伝えたい熱が伝わる人からは、ちゃんと反応があるはず。

 能書きさておき、本題へ。今回は「ホラー」をテーマに、皆さんのオススメがあつまった。過去分としては、「この本が怖い! ホラーのスゴ本オフ」(2012.8)「善人こそ救われない”闇”のスゴ本オフ」(2014.6)があるが、今回は、エンタメ寄りが豊作なり。「怖いのを楽しむ」ためのホラーなり。

 面白かったのは、ハルカさんお薦めの『包帯少女哀話』(こはく那音)。恨み辛みを晴らすために超法規的存在に「願い」を託す話で、『地獄少女』『ショコラの魔法』が思い浮かぶ。ユニークなのは、「願い」をかなえる立場にいるはずの包帯少女が悪意を持っているところ。人を呪わば穴二つどころか、そもそも「願い」を抱いたのが罪ともいうべきオチが待っているらしい。それが現実と言わば言えるが、少女コミックで描いているのがやるせない。

 嬉しいことに、初参加のまぐろどんさんが、アンソロジー『厭な物語』を推してきた。タイトルどおり、生理的にイヤぁな気分にさせてくれたり、感情を逆なでしてくれたり、はたまた読み手の価値観をぐらつかせたり、とにかく読んだことを後悔させてくれる作品がいっぱい(わたしのレビューは、[どくいり、きけん短篇集『厭な物語』])。ピカイチが『赤』だというのも一緒だね。わずか4ページの、ごく短い話で、わけのわからない状況を読まされるが、何が起きているのか分かった瞬間、血の気が引くという構造。悪趣味が合うとはまさにこのこと。

本気でジェンガするとドキドキ感ハンパない

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 懐かしかったのが、おやじどんさんお薦めの、楳図かずお『赤んぼ少女』『へび女』。楳図ワールド特有の、緻密なグロテスクといえば『14歳』や『わたしは真悟』を思い出すが、これ少女マンガだったんだね…... 目の焦点が合っていないキラキラした瞳をした「なにか」に追いかけられるという、悪夢を読む感覚。子どもが読んだら一生のトラウマになるような伝説のトラウマンガといってもいい(今なら禁書モノだろうが、最近復刻された)。本の交換会では、「へび少女」の食玩というレアグッズと一緒に放出してくれました。

 ミステリやホラー、怪奇モノなど、エンタメ寄りの中、わたしが選んだテーマは、「最も怖いものとは何か?」について。情動の科学から心理学、脳科学、さらには意識のハードプロブレムまで深堀りした戸田山和久『恐怖の哲学』を種本に、スライドまで作ってプレゼンしたぞ[最も怖いものとは何か?]

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 かいつまんでいうと、恐怖とは生命にとっての脅威を避ける感情のこと。ヘビや猛獣など、「恐怖を引き起こす存在」を怖がるおかげで人は生き延びることができた。恐怖を引き起こす存在がもたらす苦痛や闘いに備えて、脳から快楽物質(ドーパミン等)が放出される。この身体システムを逆手に取った娯楽がホラーになる。身体を騙すことで安全に怖がることができる。恐怖の報酬は快楽というわけなのだ。

雨月物語を読むと、怖がるべきは幽霊じゃなくて、
生きてる人だと分かる

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 紹介された作品のラインナップは次の通り。かっこ()内は、オススメしている人の一言をかいつまんだので、あなた向けの「ホラー」を探す縁にどうぞ。

  • 『赤んぼ少女』『へび女』楳図かずお/小学館(美と恐怖が表裏一体だと感じさせてくれます)
  • 『贈る物語terror』宮部みゆき編/光文社文庫(宮部みゆき編のホラー入門者向けアンソロジー)
  • 『恐怖の哲学』戸田山和久/NHK出版新書(ホラーで人間を理解する素晴らしい哲学書)
  • 『雨月物語』上田秋成・石川淳/ちくま文庫(生きている人間こそが一番怖いことを思い知らされる)
  • 『大学で何を学ぶか』浅羽通明(社会にとっては教養こそがホラーになる)
  • 『首無の如き祟るもの』三津田信三/講談社(横溝正史テイストの因習渦巻く本格ミステリとホラーの魅力が融合した傑作)
  • 『高慢と偏見とゾンビ』ジェイン・オースティン セス・グレアム=スミス/二見書房(オースティンの元テキストほとんどそのままにゾンビ&カンフー要素をねじ込んだマッシュアップ)
  • 『邪眼 うまくいかない愛をめぐる4つの中編』ジョイス・キャロル・オーツ/河出書房新社(帯の惹句「死ね、死ね、マイ・ダーリン、死ね」(メタリカの歌詞))
  • 『ミッドナイト・ミートトレイン』クライヴ・バーカー/集英社(単なるスプラッターでは終わらない)
  • 『丘に、町が』クライヴ・バーカー/集英社(圧倒的な映像喚起力)
  • 『皮剥ぎ人』ジョージ・R・R・マーチン/早川書房(素晴らしき完成度)
  • 『オレンジは苦悩、ブルーは狂気』デイビッド・マレル/新潮社(奇妙な味)
  • 『他人事』平山夢明/集英社(読んで本気で後悔した)
  • 『玩具修理者』小林泰三/角川ホラー文庫(読んで本気で後悔した)
  • 『厭な物語』アンソロジー/文藝春秋(今まで読んだなかで一番キレのいい掌編が収録されている)
  • 『包帯少女哀話』こはく那音/小学館ちゅちゅコミックス(全く救いというものがなく、読んでいてつらくなってくる)
  • 『ススムちゃん大ショック』永井豪/トクマコミックス(伝説のトラウマンガ(トラウマ+マンガ)。『デビルマン』に勝るとも劣らない衝撃のラスト)
  • 『イラストに見る恐竜の驚異と神秘』Mark Hallettほか/学習研究社(デイノニクスがテノントサウルスを狩るところが恐ろしい!)
  • 『連続殺人鬼カエル男』中山七里/宝島社(殺人の残虐性。幼稚なメモを残す犯人像。犯人を追い詰める所のゾワゾワ感。最後に恐ろしい殺意)
  • 『不死症アンデッド』周木律/実業之日本社文庫
  • 『死の棘』島尾敏雄/新潮文庫(罵られ続けるのです。逃げられないのです。自分が原因なのです。めっちゃ怖いです)
  • 『死神の浮力』伊坂幸太郎/文春文庫(怖いのは死神よりもサイコパス)
  • ミュージカル『黒執事 Tango on the Campania』
  • 映画『エンゼル・ハート』/ミッキー・ローク、ロバート・デ・ニーロ出演(痩せたミッキー・ロークがイカス)
  • 映画『シャイニング』/スタンリー・キューブリック監督(原作と違う!)
  • 映画『ソンビランド』/ルーベン・フライシャー監督(全人類必見)
  • 映画『女優霊』/中田秀夫監督(日本最恐ホラー)
  • 映画『二重生活』ロウ・イエ/アップリンク(急成長する中国のラブミステリー。都市と農村の格差と経済的な成長が生み出した、歪な人間模様は、まさにホラー)
  • 雑誌『BRUTUS 特集 危険な読書』(あまり危険じゃないヌルい選書)

 次回は4月上旬、「さくら」をテーマにやります。桜花、桜餅、桜肉、桜貝、桜海老、桜鯛、偽客などが思い浮かぶけれど、カードキャプターから帝国華撃団まで、沢山ありそう。


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信頼できない読み手にさせる『オープン・シティ』

 読む行為への没頭が心地よく、二度読みを促す罠も面白く、読了後、こいつを絶賛する書評を読んでニヤニヤさせられるという、一冊で三度も楽しめる素晴らしい小説。

 主人公は、散歩する精神科医。ニューヨークとブリュッセルを歩き回りながら、そこで見聞きした光景、会話、音楽、四季の断片から、ニューヨークの、合衆国の、白人と黒人の歴史を振り返り、移民としてのアイデンティティを見つめる。

 街の一角を拾い上げ、そこに潜む過去を、薄皮を剥ぐようにめくって見せる手さばきが非常に上手く、どの風景、どの音節にも、何かしらの由来や物語が折り畳まれ、上書きされていることが分かる。主人公は恐ろしく博学で、芸術を愛し、冷静だけど丁寧に語ろうとする。少なくともその態度は真摯だと感じられる。

 街に折り畳まれた物語は、パリンプセスト(何度も上書きされた羊皮紙の写本)に例えられているが、主人公が焦点を緩急自在に切り替えるので、むしろ過去の多重露出の像のように見える。つまり、語り手が合わせたい深度で街が語られていくのだ。これは楽しい。読む快楽を充分に味わうことができる。

 だが...... なんだか変だ。

 目に映るもの、耳に入ってくるものに触れて何かを「思い出す」ように語っているのではない。もちろん、学生時代に受けた体罰や、父の葬儀などを思い出すのだが、あたかも映画や絵画の描写のように語られる。語り手自身のことなのに、カメラを通じた被写体のように見えるのだ(実際、父の葬儀の記憶はエル・グレコとクールベの絵画に上書きされている)。

 つまりこうだ、過去を思い出すというよりも、それに近い構図の歴史や、絵画や、文学や、音楽や、(誰かから借りてきた)思想が語られる。街で出合うものを片端からWikipediaで検索して、インテリ好みのエピソードをコピペしているように見える。あれだ、「〇〇の画像をアップすると近い構図の△△が送られてくる」を読む感覚。

 わたしの違和感は、最終章の少し手前ではっきりする。主人公の過去が暴かれる刹那に、わたしは自分の読みを確信する。と同時に、わたし自身が信じられなくなる。今まで読んできたものは何だったのか、と。

 そして変と感じた箇所を読み返すと、記憶が違うし、関係性が違うし、順序が変わっていることに気付く(文章は1ミリたりとも変わっていないのに、読み手であるわたしが変わってしまったのだ!)。

 これ、面白いねぇ。いわゆる「信頼できない語り手」の小説技法にしてしまうなら、読み手としては「安全圏」からいくらでも主人公を刺せる。だが、そこに至るまで充分に彼の教養なり思索にどっぷり漬かってきたのだから、「信頼できない」と断罪することが難しい。だが、彼を告発する言葉はあまりにまっすぐで、正直で、(読み手は)直視せざるを得ない。

 そして、きちんと読めば読むほど、かつて彼に寄り添って読んできた読み手自身が信じられなくなる。その綻びはあちこちに散らばっているが、自分がその整合性をとりながら、彼のように記憶したい記憶を信じればよいのか、いま受け取った結果でもって振り返ればよいのか、分からなくなる。
 結局のところ、わたしは、どちらの立場も取れなかった。「信頼できない語り手」にすることで、彼の物語をなかったことにもできないし、反対に、彼の被写体深度を信じるがまま、彼を告発する言葉をなかったことにもできない。もどかしい思いで閉じるほかがないのだ。

 このモヤモヤした感覚を共有すべく、ネットで書評を漁ってみるのだが、気付いている方はかなり少数だ。「ゼーバルトの再来」「知的な遊歩(フラヌール)小説」とか絶賛されている方は、p.260のくだりをどう読んだのかが気になる。


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