『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』はスゴ本
ウィトゲンシュタインの本のなかで、これが最も分かりやすい&面白い(当社比)。
数学という存在を、人の知性の産物である「発明」と捉える人がいる。いっぽうで、人が見出した世界の本質である「発見」と見なす人がいる。この議論は、[『神は数学者か』はスゴ本]にて語ったが、いずれの場合にせよ、数学の限界が(仮に)あるとしたならば、それは人の理性の限界であることは了解していただけるだろう。なぜなら、「発明」であれ「発見」であれ、主語が人である限り、その限界も人に属するからである。
ウィトゲンシュタインの講義は、数学の限界を見極める一方で、数学の底(もともとの了解事項)を明らかにしてくれる。
数学の底? そんなのユークリッド幾何学やヒルベルトの基礎付けを見るまでもなく、「定義」と「形式」でしょうに(あるいはそこから定義づけられる公理系といってもいい)。本書を手にするまでは、そう考えていた。だが、「発明」であれ「発見」であれ、数学を定義づける前に囲まれている言葉について、ウィトゲンシュタインは揺さぶりをかけてくる。
本書は、ウィトゲンシュタインが1939年にケンブリッジ大学で行った講義を元にしている。「数学の基礎」という名前の講義で、全部で31講ある。この講義を受けた学生のノートが残っており、中でも最も信頼できる4人のノートを突合せ、再現したのが本書だ。
ウィトゲンシュタインの講義スタイルは、自分が今まさに考えていることを学生に投げかけ、その反響に応じて思考を展開させてゆく。「1、2、3…」と数えるとは何か。一対一に対応するとはどういうことか。矛盾律とは何かなど、彼の試行錯誤の現場を体感することができる。優秀な学生だけでなく、イマイチな学生からの質問に対する説明も遺されているため、わたしのような「分かりの悪い」生徒でも理解できて有り難い。
本書をスゴ本にしているのは、受講生としてアラン・チューリングが出席し、積極的に発言していることだ。当時すでに歴史的業績をあげつつあったチューリングの存在感は大きく、ウィトゲンシュタインも意識している(次回はチューリングが欠席予定だから講義内容は振り返りとする、なんてコメントもある)。特に、矛盾律についてウィトゲンシュタインとチューリングが丁々発止する知的格闘はスリリングで、議論ポイントが明確になるだけでなく、手に汗にぎる臨場感をもたらしている。
ウィトゲンシュタイン哲学の根幹である「意味を問うな用法を問え」は、この講義でしつこく出てくる。どんなに定義を厳密にしても、言葉の「意味」に囚われてしまうと、悪しき影響が出てくることになる。だから、「用法」、すなわち使われる現場に目を向けよというのだ。
たとえば、虚数にまつわる言説が紹介される。虚数という概念が登場したとき、「虚」という表現は困惑や反発を引き起こした。「虚である数」とはどのようなものか、不信感ゆえに受け入れられない人もいたらしい。しかし、不信や困惑は、虚数の計算が実際にしていることが理解され、特に物理学へ応用されることによって、解消されていったという。
つまりこうだ。虚数の記号「i」は「空想の」あるいは「現実には存在しない」を意味する「imaginary」から取られているが、「空想の」という意味に囚われている限り、けっして虚数を理解することはできない。自乗して-1になるという定義や、それが複素数という形で用いられる量子力学や電磁気学の現場で、虚数の意味が理解される。記号としての言葉にこだわりるあまり、実際の現場で用いられる仕方を省みないことに、ウィトゲンシュタインは警告を発しているのである。
「数学の基礎」と銘打っているものの、数学の問題はほとんど出てこないのでご安心を。自然数の大きさを示すアレフ・ゼロぐらいで、一番むずかしい問題は、「126×631」という掛け算くらいである。講義に沿って、この問題がいかに難しいかを考えると、とてつもなく面倒くさいか、(数学に)説得されたほうがマシと思える。
数学が人の扱う存在である限り、定義であれ証明であれ、数学が用いられる現場で「意味」が伝えられる。数学に限界や底があるとするならば、これを用いる現場(人の想像が及ぶところ)になる。なかでも「人」にとって興味深い(便利な・都合の良い)と感じられる方向、すなわち科学技術と親和性の高い方面に向けて概念が形成されてゆくだろう―――そう考えさせられるスゴ本。
これ、アタリマエのことなんだけれど、裏返しでいうならば、「人でない存在にとっての数学」から観察すると、世界はもっと豊饒に見えるという確信にもつながる。
ここ三十世紀くらい人類は(今でいう)科学技術と親和性の高い天文や物理から数学を探すことをしてきたが、生物や現象そのものから数学を抽出できたら、とてつもないブレイクスルーになるだろう。ほらあれだ、「フィボナッチ数列を自然界に探す」の逆をやるわけ。その萌芽がカオス理論や統計だろうが、あと三十世紀ぐらいかかるだろうね。
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コメント
≪…生物や現象そのものから数学を抽出…≫や≪…カオス…≫を[ヒト]が、[言葉の量化](セマンティックス)と[数の言葉の量化](シンタックス)とを[4次元時空間](永遠の今)で[統合]している[離散的有理数の組み合わせによる多変数関数]は、「数の発明 私たちは数をつくり、数につくられた」ケイレブ・エヴェレット著・屋代通子訳のよりどころと観える。
因みに、カタチ(〇△▢ シンタックス)と言語(セマンティックス)の眺望について、[ 日本文化 ]の大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】には、はるか[縄文文様」(野塩外山遺跡・清瀬市郷土博物館)や今様の本歌取りシリーズなどの記事で精神(観念)を見つタイ・・・
≪…日本文化の面影を見つける…≫で、数学の基となる自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))を大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】に託す。
「初めて語られた科学と生命と言語の秘密」に出てくる用語【ヴィークル】に[絵本]と[歌謡の本歌取り]を捧げる。
もろはのつるぎ (有田川町ウエブライブラリー)
「愛のさざなみ」の本歌取りで
[ i のさざなみ ]
この世にヒフミヨが本当にいるなら
〇に抱かれて△は点になる
ああ〇に△がただ一つ
ひとしくひとしくくちずけしてね
くり返すくり返すさざ波のように
〇が△をきらいになったら
静かに静かに点になってほしい
ああ〇に△がただ一つ
別れを思うと曲線ができる
くり返すくり返すさざ波のように
どのように点が離れていても
点のふるさとは〇 一つなの
ああ〇に△がただ一つ
いつでもいつでもヒフミヨしてね
くり返すくり返すさざ波のように
さざ波のように
[ヒフミヨ体上の離散関数の束は、[1](連接)である。]
(複素多様体上の正則函数の層は、連接である。)
数学の基となる自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))を大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】の平面・2次元からの送りモノとして眺めると、[岡潔の連接定理]の風景が、多くの歌手がカバーしている「愛のさざなみ」に隠されていてそっと岡潔数学体験館で、謳いタイ・・・
「八木節」(江利チエミ)の本歌取りで
[ ヒフミヨは△廻し□なる ]
アー
ちょうと出ました 三角野郎が
四角四面の櫓の上で
音頭取るとは 恐れながら
しばし御免を こうむりまして
何か一言 読みあげまする
稽古不足で覚束ないが
平にその儀は お許しなされ
許しなされば ヒフミヨかかるで
オーイサネ
大和言葉のヒフミヨは
度胸すぐれた△野郎
〇泣かせの回転体で
取っておさえて三点ふかせ
今宵かぎりと〇から消える
ここにあわれはπと一よ
〇の形見のnを背負い
ひふみよいむなやこと
オーイサネ
聞いておくれよのろけじゃないが
逢うた初めはひと目で惚れて
思い込んでる〇の一
昼はまぼろし夜は夜で夢に
見ると云うても覚めればπ
一生他人にならないように
早いところで都合をつけて
そわせたまえや 〇と△
オーイサネ
「北空港」の本歌取りで
[ 円周率 ]
〇の一 □に逢えて
カオスな一に 灯りがともる
〇と▢は一緒だよ もう引っ付いている
なぞり逢おうよ
カオスを捨てて 時間さえ捨てて
i(アイ)が飛び立つ 一のi(アイ)
〇の一 □に惚れて
ヒフミヨ渦に πが見える
信じてもいいですね ヒフミヨ放射だけ
数え尽くすわ
カオスを捨てて 時間さえ捨てて
i(アイ)が飛び立つ 一のi(アイ)
〇の一 舞い散る数も
ヒ(〇・π)とヨ(□・i⁴)で 咲く花になる
どこまでも一緒だよ もう離れずに
夢(√・平面)を探そう
カオスを捨てて 時間さえ捨てて
i(アイ)が飛び立つ 一のi(アイ)
大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】へのエールとしタイ・・・
自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))のキュレーション的な催しがあるときの[応援歌]になるといいなぁ~
Posted by 「比叡おろし」(汚れちっまた悲しみに…)
投稿: 縄文文明の残り香(岡と中谷) | 2024.10.11 15:17