がんになった親が子どもにしてあげられること
日本人の2人に1人はがんになる昨今、告知された場合に、してはいけないこと、すべきことについては予習した。だが、家族については、特にわが子についてはどうだろう?
本書は、ずばりそのような問いに応えている。「がんを告知された読む本」は沢山あるが、本人のケアを主眼においている。そうではなく、子ども、特に幼児から思春期の子どもを持つ「親」として、どう振舞えばよいか、どう接すればよいかが書いてある。
そもそも伝えるべきなのか、どのステージで伝えるべきなのか、どうやって語ればよいのか、頼るべき人はいるのか、そして、(これは人によるが)残された時間で遺してあげられるものは何か。
著者は医療ソーシャルワーカーで、がんになった親子を実際にサポートする現場から得た知見が惜しげもなく開かれている。ウェブサイト「ホープツリー」でも、がんになった親と子のための様々な情報提供がなされている。
本書を手にして、いいなと思ったのは2つある。
ひとつは、子どもの年齢に関係なく、伝えるべきポイントとして「子どもがしたこと・しなかったことによって、引き起こされたものではない」を挙げていることだ。病気について正確な情報を分かりやすく伝えるべきなのは第一として、子どもが抱え込まないように予め言葉を張ってあげることが大切だ。
がんという病気は、まだよく分かっていない。
だから、自分の身体に起こった理由を過去や周囲に探し、それを攻撃することで「原因」を排除しようとする考え方は危うい。それは自分の人生でしたこと・しなかったことを悔んだりすることになるか、あるいは誰か・何かを恨んだり憎んだりすることになる。
これは罠だ。だから、陥らないようにするため、自分の身体に起こったことは、ひとまず医者に任せよう。そして、同じ罠にはかからないよう、子どもをケアする。そのための具体的な言葉選びから、切り出し方、頼れるサポートが書いてある。
もうひとつ、いいなと思ったのは、第5章だ。「あなたが遺してあげられるもの」という章題だが、他の章と違い、目次に概要が書いていない。代わりに、p.161ページの、第5章が始まるページに書いてあるので、本当に必要な人だけが読んで欲しいと促している。この配慮がいい。
がんになったから、それが即、死につながるわけではない。寛解に向けた様々な治療法があり、それこそ人それぞれのサポートがある。「がん=死」は、昔の映画やドラマで作られたイメージだ。だから、本書を求めている人のすべてが第5章を読みたいわけではない。そこを考えたうえで、目次を分けているのである。
わたしは、がんを告知されたことはないが、がんを覚悟して生きている。なので、躊躇なく読んでみたのだが、やはり読んでよかった。思いやりに満ちた、語りかけるような文章で、残された時間でどうすべきか(すべきでないか)が説明されている。
重要なのは、映画のようなドラマチックなものではない、ということだ。あたりまえかもしれないが、わたし自身がそうしたドラマに「染まって」いたことが分かる。映画にたとえるなら、黒澤明『生きる』の予定調和よりも、むしろマイケル・キートン『マイ・ライフ』やペドロ・アルモドバル『死ぬまでにしたい10のこと』のような淡々としたもの、それが実際なのだろう。
がんは、災害や事故とは違って、基本的には突然のものではない。「準備」ができるのだ。子どもにとって、親の死を「突然死」にしないために、そして、「自分だけが知らなかった」ことにしないために、きちんと伝える必要がある。本書は、その後押しと、具体的な方法が描かれている。
子どものグリーフ・ケアについては、Key『Kanon』(美坂香里)やP.A.WORKS『TARI TARI』(坂井和奏)で、その必要性を痛切に感じたが、ここでは、重松清『カシオペアの丘で』を併せて紹介したい。タイトルでもある「カシオペアの丘で」、がんになった父が、息子に、伝えた言葉のひとつひとつが、胸を撃つだろう。その言葉がそのまま、胸に刻み込まれるような読書になるに違いない([がんを考える、自分事として、『カシオペアの丘で』]にまとめた)。
がんになったら、もう一度読みたい。思いやりに満ちた一冊。
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