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がんになった親が子どもにしてあげられること

 日本人の2人に1人はがんになる昨今、告知された場合に、してはいけないことすべきことについては予習した。だが、家族については、特にわが子についてはどうだろう?

 本書は、ずばりそのような問いに応えている。「がんを告知された読む本」は沢山あるが、本人のケアを主眼においている。そうではなく、子ども、特に幼児から思春期の子どもを持つ「親」として、どう振舞えばよいか、どう接すればよいかが書いてある。

 そもそも伝えるべきなのか、どのステージで伝えるべきなのか、どうやって語ればよいのか、頼るべき人はいるのか、そして、(これは人によるが)残された時間で遺してあげられるものは何か。

 著者は医療ソーシャルワーカーで、がんになった親子を実際にサポートする現場から得た知見が惜しげもなく開かれている。ウェブサイト「ホープツリー」でも、がんになった親と子のための様々な情報提供がなされている。

 本書を手にして、いいなと思ったのは2つある。

 ひとつは、子どもの年齢に関係なく、伝えるべきポイントとして「子どもがしたこと・しなかったことによって、引き起こされたものではない」を挙げていることだ。病気について正確な情報を分かりやすく伝えるべきなのは第一として、子どもが抱え込まないように予め言葉を張ってあげることが大切だ。

 がんという病気は、まだよく分かっていない。

 だから、自分の身体に起こった理由を過去や周囲に探し、それを攻撃することで「原因」を排除しようとする考え方は危うい。それは自分の人生でしたこと・しなかったことを悔んだりすることになるか、あるいは誰か・何かを恨んだり憎んだりすることになる。

 これは罠だ。だから、陥らないようにするため、自分の身体に起こったことは、ひとまず医者に任せよう。そして、同じ罠にはかからないよう、子どもをケアする。そのための具体的な言葉選びから、切り出し方、頼れるサポートが書いてある。

 もうひとつ、いいなと思ったのは、第5章だ。「あなたが遺してあげられるもの」という章題だが、他の章と違い、目次に概要が書いていない。代わりに、p.161ページの、第5章が始まるページに書いてあるので、本当に必要な人だけが読んで欲しいと促している。この配慮がいい。

 がんになったから、それが即、死につながるわけではない。寛解に向けた様々な治療法があり、それこそ人それぞれのサポートがある。「がん=死」は、昔の映画やドラマで作られたイメージだ。だから、本書を求めている人のすべてが第5章を読みたいわけではない。そこを考えたうえで、目次を分けているのである。

 わたしは、がんを告知されたことはないが、がんを覚悟して生きている。なので、躊躇なく読んでみたのだが、やはり読んでよかった。思いやりに満ちた、語りかけるような文章で、残された時間でどうすべきか(すべきでないか)が説明されている。

 重要なのは、映画のようなドラマチックなものではない、ということだ。あたりまえかもしれないが、わたし自身がそうしたドラマに「染まって」いたことが分かる。映画にたとえるなら、黒澤明『生きる』の予定調和よりも、むしろマイケル・キートン『マイ・ライフ』やペドロ・アルモドバル『死ぬまでにしたい10のこと』のような淡々としたもの、それが実際なのだろう。

 がんは、災害や事故とは違って、基本的には突然のものではない。「準備」ができるのだ。子どもにとって、親の死を「突然死」にしないために、そして、「自分だけが知らなかった」ことにしないために、きちんと伝える必要がある。本書は、その後押しと、具体的な方法が描かれている。

 子どものグリーフ・ケアについては、Key『Kanon』(美坂香里)やP.A.WORKS『TARI TARI』(坂井和奏)で、その必要性を痛切に感じたが、ここでは、重松清『カシオペアの丘で』を併せて紹介したい。タイトルでもある「カシオペアの丘で」、がんになった父が、息子に、伝えた言葉のひとつひとつが、胸を撃つだろう。その言葉がそのまま、胸に刻み込まれるような読書になるに違いない([がんを考える、自分事として、『カシオペアの丘で』]にまとめた)。

 がんになったら、もう一度読みたい。思いやりに満ちた一冊。

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『私の夢まで、会いに来てくれた』3.11亡き人とのそれから

 がんで死ぬのも悪くない。なぜなら、準備ができるから―――そう聞いたことがある。

 数週間から数ヶ月、治療がうまくいって寛解すれば何年でも、猶予の時間がある。その間に、会いたい人に会い、伝えたい言葉を伝え、お別れすることができる。パソコンのハードディスクの秘密のフォルダも消しておくことができるから。できる・できないは別として、逝くほうも、見送るほうも心構えする猶予はある。

 だけど、準備もなしにそうなった場合、どうなるか?

 このインタビュー集には、そんな家族がたくさん出てくる。朝、口喧嘩して、玄関を出る後ろ姿を見送ったのが最後だったとか、「ちょっと家を見てくる」と別れてそれきりとか、流れ込んでくる水に驚いた顔だけを覚えているとか。

 もしあのとき、「行くな」と止めていたなら。「ごめんね」が言えたら。そして、「ありがとう」が伝えられたなら。3.11の遺族が見る夢は、そうした言葉に満ちている。

 本書は、東北学院大学における、震災の記録プロジェクトで生まれた一冊である。東日本大震災から7年、被災地での聞き取り調査を続けてきた中で、「被災者遺族が見る亡き人の夢」をテーマに絞ったレポートだ。

 そこには、たくさんの声がある。納得できるはずもない。人災の面に巻き込まれた。後悔しかない。なぜ生きているのだろう。あんなことを言わなければよかった。迎えに行けばよかった。代わりに自分が。怖い。辛い。あいたい。

 そうした思いと、生に、直に接するのが夢になる。夢のなかで、もう一度あって、言葉をかわし、触れて、抱きしめることで、思いを体験にする。そして、体験を語ることで、死者と向き合う。

 遺された人たちに、「死者との向き合い方」として、二つの相反する気持ちが現れる。ひとつは、「死者から解放されて楽になりたい」という感情と、そしてもうひとつは、「死者を置き去りにして、自分だけが楽になってはいけない」である。

 そうした感情を、うまく扱うことができる人もいる。いっぽうで、両方の感情に挟まれたり、片方に囚われたままの人もいる。そうした人たちにとって、夢を語るということで、いったん自分の外に置くことができる。その解釈はさておき、「夢を見た」ということは確かなもとして残すことはできる。

 本書は、その「確かなもの」になる。

 そして、やっぱり文字がいい。テレビで震災特集をするのを見ると、苦く辛くなる(なぜBGMが必要なのだろう?)。当時を振り返る文章だけでも強い喚起力がある。それでも読み通せたのは、語りの中に、わたしの背筋を伸ばす言葉があるから。ひとつだけ引いておくが、こんな言葉が本書にはたくさんある。

「うちの両親も含めて、津波にのまれた人たちって、先のことを考える間もなかったんじゃないのかな。みんな、生きたい、生きたいっていう願いしかなかったと思う。生きている私たちは失敗しても、やり直すチャンスがあるし、『どうしようかなぁ』って考える時間もあるじゃない。亡くなった人たちは五分、ううん、10秒あったら生き延びられたかもしれない。その時間が自分にあるっていうだけで幸せなことなんじゃないかな」

 わたしは、死ぬまでは生きたい。これは、あたりまえのことかもしれない。だが、どう生きるかは、ここからもらった思いで決めたい、そう痛感させる一冊。

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『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』はスゴ本

 ウィトゲンシュタインの本のなかで、これが最も分かりやすい&面白い(当社比)。

 数学という存在を、人の知性の産物である「発明」と捉える人がいる。いっぽうで、人が見出した世界の本質である「発見」と見なす人がいる。この議論は、[『神は数学者か』はスゴ本]にて語ったが、いずれの場合にせよ、数学の限界が(仮に)あるとしたならば、それは人の理性の限界であることは了解していただけるだろう。なぜなら、「発明」であれ「発見」であれ、主語が人である限り、その限界も人に属するからである。

 ウィトゲンシュタインの講義は、数学の限界を見極める一方で、数学の底(もともとの了解事項)を明らかにしてくれる。

 数学の底? そんなのユークリッド幾何学やヒルベルトの基礎付けを見るまでもなく、「定義」と「形式」でしょうに(あるいはそこから定義づけられる公理系といってもいい)。本書を手にするまでは、そう考えていた。だが、「発明」であれ「発見」であれ、数学を定義づける前に囲まれている言葉について、ウィトゲンシュタインは揺さぶりをかけてくる。

 本書は、ウィトゲンシュタインが1939年にケンブリッジ大学で行った講義を元にしている。「数学の基礎」という名前の講義で、全部で31講ある。この講義を受けた学生のノートが残っており、中でも最も信頼できる4人のノートを突合せ、再現したのが本書だ。

 ウィトゲンシュタインの講義スタイルは、自分が今まさに考えていることを学生に投げかけ、その反響に応じて思考を展開させてゆく。「1、2、3…」と数えるとは何か。一対一に対応するとはどういうことか。矛盾律とは何かなど、彼の試行錯誤の現場を体感することができる。優秀な学生だけでなく、イマイチな学生からの質問に対する説明も遺されているため、わたしのような「分かりの悪い」生徒でも理解できて有り難い。

 本書をスゴ本にしているのは、受講生としてアラン・チューリングが出席し、積極的に発言していることだ。当時すでに歴史的業績をあげつつあったチューリングの存在感は大きく、ウィトゲンシュタインも意識している(次回はチューリングが欠席予定だから講義内容は振り返りとする、なんてコメントもある)。特に、矛盾律についてウィトゲンシュタインとチューリングが丁々発止する知的格闘はスリリングで、議論ポイントが明確になるだけでなく、手に汗にぎる臨場感をもたらしている。

 ウィトゲンシュタイン哲学の根幹である「意味を問うな用法を問え」は、この講義でしつこく出てくる。どんなに定義を厳密にしても、言葉の「意味」に囚われてしまうと、悪しき影響が出てくることになる。だから、「用法」、すなわち使われる現場に目を向けよというのだ。

 たとえば、虚数にまつわる言説が紹介される。虚数という概念が登場したとき、「虚」という表現は困惑や反発を引き起こした。「虚である数」とはどのようなものか、不信感ゆえに受け入れられない人もいたらしい。しかし、不信や困惑は、虚数の計算が実際にしていることが理解され、特に物理学へ応用されることによって、解消されていったという。

 つまりこうだ。虚数の記号「i」は「空想の」あるいは「現実には存在しない」を意味する「imaginary」から取られているが、「空想の」という意味に囚われている限り、けっして虚数を理解することはできない。自乗して-1になるという定義や、それが複素数という形で用いられる量子力学や電磁気学の現場で、虚数の意味が理解される。記号としての言葉にこだわりるあまり、実際の現場で用いられる仕方を省みないことに、ウィトゲンシュタインは警告を発しているのである。

 「数学の基礎」と銘打っているものの、数学の問題はほとんど出てこないのでご安心を。自然数の大きさを示すアレフ・ゼロぐらいで、一番むずかしい問題は、「126×631」という掛け算くらいである。講義に沿って、この問題がいかに難しいかを考えると、とてつもなく面倒くさいか、(数学に)説得されたほうがマシと思える。

 数学が人の扱う存在である限り、定義であれ証明であれ、数学が用いられる現場で「意味」が伝えられる。数学に限界や底があるとするならば、これを用いる現場(人の想像が及ぶところ)になる。なかでも「人」にとって興味深い(便利な・都合の良い)と感じられる方向、すなわち科学技術と親和性の高い方面に向けて概念が形成されてゆくだろう―――そう考えさせられるスゴ本。

 これ、アタリマエのことなんだけれど、裏返しでいうならば、「人でない存在にとっての数学」から観察すると、世界はもっと豊饒に見えるという確信にもつながる。

 ここ三十世紀くらい人類は(今でいう)科学技術と親和性の高い天文や物理から数学を探すことをしてきたが、生物や現象そのものから数学を抽出できたら、とてつもないブレイクスルーになるだろう。ほらあれだ、「フィボナッチ数列を自然界に探す」の逆をやるわけ。その萌芽がカオス理論や統計だろうが、あと三十世紀ぐらいかかるだろうね。

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もっとも未熟な科学『不確かな医学』

 『病の皇帝「がん」に挑む』のシッダールタ・ムカジーが、現代医療に潜むバイアスを明らかにし、これからのモデルを提案する。

 コアとなっているのはTEDのこの講演だ。ピル(薬)ではなくセル(細胞)による治療を謳っている。抗生物質に代表される、体の外で作成された「薬」で病(の原因)を殺すモデルが、現代の医学で支配的となり、一種の歪みをもたらしていることを示す。その一方で、体内で生成された「細胞」を育てることで免疫系を快復するパーソナル医療モデルを提案する。

 本書ではムカジー自身の医師としての遍歴を振り返つつ、現代の医療にとって重要な「医学の法則」を明らかにする。臨床医学がどこまで科学なのかという疑問に対する、一つの答えとなっている。

 著者は言う、科学技術の革新による恩恵を、医学は最も受けてきた。医療処置そのものが病態生理学という原理に基づく科学だともいえるだろう。しかし、同時に先進医療が生み出すおびただしい治験データや薬剤、検査機器が、より本質的な問題を覆い隠しているのではないかと指摘する。

 それは、情報知と臨床知のはざまにあり、本書では「医学の法則」として「事前知識」「特異な症例」「バイアス」の3つのキーワードで明らかにする。

 まず「事前知識」について。著者は、ベイズ推定の事例を挙げながら、事前知識の重要性を説く。そして、事前知識に支えられた鋭い直観は、信頼性の低い検査にまさるとまで断言する。

 たとえば、エイズの診断に使われるHIV検査における、偽陽性や偽陰性の事例を挙げる。偽陽性とは、異常がないにもかかわらず、検査で陽性となってしまう判定であり、偽陰性は、異常があるにもかかわらず陰性となってしまう判定のことを指す。

 そして、家族歴や危険因子、遺伝的特徴、経年変化といった事前知識なしにこうした検査をしても偽陽性や偽陰性により信頼性が低く、使いものにならぬという。完全な情報をもとに完璧な判断を下すのは簡単だが、不完全な情報で完璧な判断が求められることが医学になる。そのため、検査技術が進展すればするほど、事前知識によるスクリーニングが必須だというのだ。

 次に「特異な症例」について。科学の世界では、「1回きりの事例」は嫌われる。なぜなら、「1回きりの事例」とは、要するに主観的な体験に基づく結果だからである。これまでの医学も同様で、「例外的に効き目のある患者」は無視されたり、異常値として捨てられる傾向にあった。

 しかし、これまでとは逆の方法が有効だという。つまり、「例外的に効き目のある患者」には、遺伝子や行動、や危険因子や環境など、異なる要因の組み合わせによるのではないかという発想だ。膨大な労力をかけて多くの人に「なぜ薬が効かないのか」を調査するのではなく、特定の人に「なぜ薬が効くのか」を包括的に調べるのである。

 この方法が奏功した事例として、膀胱がんに対する新薬エベロリムスを挙げる。ほとんど効果がない45人ではなく、著しく効いた1人の遺伝子全ての塩基配列を解析したところ、TSC1遺伝子の変異が解明される。その結果、特定の薬が効く遺伝子のメカニズムを解明する研究が生まれたという。著者はそこから、発想を転換する必要性を説く。すなわち、投薬や外科手術を、治療行為としてではなく、異常値からロジックを見つけるための調査として捉えろと提案するのだ。

 最後に、「バイアス」について。どんなに完全な医療にも人間のバイアスはついてまわることを忘れるなという。科学技術の進展により、大量のデータを収集・蓄積させ、AIが自ら学習できるようになったとしても、最終的にそのデータを解釈し、使い道を決めるのは人になる。そのため、人である限り、偏見や思い込みによるバイアスを逃れることはできない。そして、医学で最も美しく危険なバイアスとして、「私たちの施す医療が効いてほしい」という願望があるという。

 その悲劇的な例として、根治的乳房切除を挙げる。乳がんに対し、腫瘍だけではなく、乳房、腕の筋肉、胸の奥のリンパ節までも「浄化」すべく外科手術を施していた時代があった。根治的(ラディカル)な手術は充分な検証も反論もなされないまま、理論は法則になり、外科医にとっての教義のようなものになったという。切れば切るほど、「治療」したこととなるというバイアスである。

 1980年から2000年にかけて、無作為比較試験が実施され、根治手術の有効性が否定されることになる。無作為比較試験とは、治療群と対照群にランダムに割り当て、治療の有効性を比較する試験で、乳房を完全に切除するグループと、乳房を温存するグループに分けられた。そして転移によるがん再発の可能性も含め、根治手術には効果がなかったことが実証される。

 著者はさらに踏み込む。「私たちの施す医療が効いてほしい」というバイアスは、ときに患者自身をも変えてしまう。観測行為そのものが粒子に影響を及ぼしてしまうハイゼンベルクの原理を引きながら、無作為比較試験も、一般化できない罠があるという。

 つまりこうだ。糖尿病の治療として運動の効果を測る試験があるとする。これに参加する患者は、特定の指示に従い、医療制度が利用可能な特定の地域に住み、主体的に参加することを決められる人である。すなわち、その患者は、無作為化試験のグループに振り分けられる「前」に、特定の人種や民族、社会・経済階級に属しているといえる。

 したがって、試験から何らかの知見が得られても、実際にはそのグループの範囲内での効果を検証しただけになる。実験が何のミスなく行われたとしても、その結果を一般化できることが保証されるわけではないというのである。

 科学技術の発達による医療のオートメーション化や、遺伝子情報を始めとする身体機能の全てをスキャニングする未来は、確かに予想できる。しかし、出てきたデータをどのように扱うかの判断は、最終的には人に任されている。

 そして、人が扱う限り、「事前知識」「特異な症例」「バイアス」という制約はついてまわる。どんなに科学が発達しようとも、もっとも未熟な科学である医学は、不確かな情報をもとに、確かな判断を求められる姿勢は変わらないというのである。

 おそらく、わたしが医療に深くかかわるとするならば、それは、がんになったときだろう。医療を行う立場がどのように科学に依拠しているかを念頭におきながら、心構えだけはしておこう。そして、わたし自身がこうしたバイアスに陥らないよう気を付けないと。


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オフ会します、テーマは「ホラー」

 オススメの本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。今回は「ホラー」のテーマで、あなたの推しの小説、ノンフィクション、コミック、映画、音楽、ゲーム、なんでもオススメしてほしい。

 日時 2月18日(日)13:00-17:00
 場所 渋谷某所
 参加費 2000円
 見学歓迎、途中参加・退場自由(ふらっときて、ふらっと見てって)
 くわしくは、スゴ本オフ[ホラー]からどうぞ。

 おおまかな流れ。

  1. テーマに沿ったオススメ作品を持ってくる

    オススメ作品は、本(物理でも電子でも)、映像(DVDの映画やYoutubeの動画)、音楽、ゲーム(PS4からボドゲ)など、なんでもあり。

  2. お薦めを1人5分くらいでプレゼンする

    あなたのオススメを存分に語ってほしい。刺さったところを音読するもよし、自己流の解釈もよし。

  3. 質問とオススメ返しの時間

    あなたのオススメに対し、観客から質問やオススメ返しされる。「実は私も好きなんです!」と同志を見つけたり、「それが好きならコレなんていかが?」なんてオススメ返しされたり。このリアルタイム性がスゴ本オフの嬉しいところ。プレゼンや本に優劣つけたり投票はしないけれど、いわゆるベストセラーは「なんでそれなの?」というツッコミが入るかも。

  4. 放流できない作品は回収する

    ひととおりプレゼンが終わったら、回収タイムになる。「放流」とは本の交換会のことで、交換できない絶版本・貴重な作品は、ここで持ち主の手元に戻る。

  5. 交換会という名のジャンケン争奪戦へ

    回収が終わったら、作品の交換会になる。ブックシャッフルともいう。「これが欲しい!」と名乗りをあげて、ライバルがいたらジャンケンで決める。

 過去のスゴ本オフから(雰囲気が伝わるかな)。

「お金」

02




「嘘」

02




「食とエロ」

12




「食とエロ」

01

 午後いっぱいかけて、まったりとやってる。togetterやこのブログでまとめてるんだけど、楽しさの半分も伝え切れていない気がする。途中参加・退場自由・見学歓迎なので、お気軽にどうぞ。最新情報は、[facebook:スゴ本オフ]をどうぞ。

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老人栄えて国滅ぶ『シルバー民主主義の政治経済学』

 この国は老人に滅ぼされる。そう思っていたが、問題はもっと根深いようだ。マスコミが偏向報道するように、わたしのタイムラインは偏っていることに自覚的にならないと。単に考えさせられるだけでなく、次に(わたしが)選ぶべき方向も見えてくる一冊。

 全国から吸い上げられた税金は、高齢者に注ぎ込まれる。年金世代は現役世代の犠牲の上にあぐらをかき、既得権を貪り、財政改革の邪魔をする。「年金」という聖域に手をつけようものなら、マスコミが急先鋒となって蜂の巣をつついたように騒ぎ出す。「このままじゃやっていけない」「死ねというのか」と叫ぶ老人を巣鴨あたりでインタビューし、大々的にキャンペーンを張る。

 いっぽう、コストカットのあおりを受け、手取りは目減りし、不安定な雇用に苦労する現役世代の声は捨てられる。なぜなら、逃げ切る気まんまんの高齢者の方が多数だから。民主主義は多数決。さまざまな意見を最終的に決めるのは、「声」の大きいほうである。数の力を頼りに、老人が現在と未来を食い物にする、「シルバー民主主義」とはそんな状況である。絶滅寸前のウナギを食べる老人が象徴的だ。

 ウナギが老人に食い尽くされるように、この国も老人にしゃぶりつくされると思っていた。だが、この状況は、「シルバー民主主義」ではないらしい。

 たしかに、高齢者優遇の政策が選ばれていることは事実だ。本書は、マクロデータを用いて実証分析を行い、都道府県レベルのみならず、全国レベル、欧米の先進国の状況からしてもシルバー優遇の政策が採られていてるという。

 しかし、著者によると、シルバー優遇だからといって、シルバー民主主義にはならないらしい。本書では、「シルバー民主主義」とは、高齢者が政策決定の主導権を握り、必要な改革を先送りし、老人衆愚政治を生みだしている状況になる。政党が高齢者の意向を忖度しているのは事実だが、それは別の理由があるからであり、高齢者が独裁的に振舞っているからではないというのだ。

 つまりこうだ、高齢者のほとんどは引退し年金生活しており、医療や介護への需要が強いという共通点を持つ。高齢者の「民意」は集約されており、再配分政策によって誘引できる票は多い。いっぽう若者世代は逆だ。仕事、結婚、育児の有無などバラツキが大きく、意見の一致は困難で、政党へのアピール度は低い。政党から見ると、高齢者のほうが政策に対する見返りが大きい(分かりやすいともいう)。

 結果、高齢者に優しい政策を優先する政策が、より多く採択される。本書はこの現象を、「シルバーファースト現象」と呼び、「シルバー民主主義」と厳格に区別しようとする。なぜなら、高齢者だけが独占的に優遇されているのではなく、低所得者にも社会保障給付の形でバラマキがなされているからという。

 かつては、公共事業による地元へのバラマキという利益誘導モデルが成り立っていたが、それが行き詰まった先に、社会保障給付があったという。そして、高齢者だけでなく、バブル崩壊後のデフレ期において貧困化した若者世代にもバラマキを始めたのが、現代の政治の状況だというのだ。

 すでに現役世代の負担では給付分を賄えなくなっているが、これを財政赤字を介在させることで先送りさせている(本書では、負担なしに給付を受けられる部分を、社会保障におけるバラマキと定義する)。その本質はかつて公共事業で地元に利益誘導していたバラマキと同じ構造であり、高齢化が進む地方ではより大規模に進行しているという。

 この状況に目をつぶり、現役世代と年金世代が暗黙裡に結託することで、将来の、まだ生まれていない世代の財布に手を出している。赤字財政や社会保障制度の受益負担構造を放置して、いま生きている人たちの「民意」を忖度し、将来世代へ債務を先送りしている。債務額は926兆円に達しており、将来世代の生活は実質的に立ちいかなくなっていることが分かっている。この、財政的児童虐待こそが、真の問題だというのだ。

 やっていることは時間かせぎなので、遅かれ早かれ終わりがくる。これから生まれてくる人たちの生活が成り立たなくなることに、これから生まれてくる人たちが気付くころ、財政赤字ファイナンスにより維持されてきた暗黙の世代間の結託は終焉を迎えるという。いわゆる、金(ファイナンス)の切れ目が、縁(結託)の切れ目となる。

 そして、世代間の冷戦は世代間の熱戦へと転化するという。著者はこれを最も危惧しており、本書の前半で「シルバー民主主義」と「シルバーファースト現象」を厳格に分けようとしたのはそのためかと膝を打つ。負担した分よりも多く受け取る既得権にしがみつき、逃げ切るために数の暴力をふるうという「シルバー民主主義」では、いたずらに世代間対立を煽り、財政的児童虐待という問題を見えなくさせるだけだろう。

 ひょっとすると、現代の高齢者たちは、自分たちがいかに優遇されているか知らないのかもしれぬ。ウナギが絶滅危惧種に指定されていることを知らないように、このままだと孫子の世代は生活が成り立たなくことを知らずに行動している(と好意的に考えよう)。

 では、どうすればよいか。高齢者に知らしめるだけではなく、「知ったこっちゃない」という見て見ぬふりをする人々も含め、どうすればこの状況を克服できるか。面白いアイディアが紹介されている。

 まず、民意の高齢化を反転させる投票制度改革を提言する。有権者の年齢に満たない子どもの数に応じて、親に投票権を行使させる「ドメイン投票制度」や、有権者の投票率ではなく年齢構成に応じて代表を選ぶ「年齢別選挙区制度」、さらに平均余命と現在の年齢の差に応じた票数を与える「平均余命投票制度」が紹介される。選挙があるたび、妻と「将来のためなら、子どもの数だけ投票できればいいのにね」と話していたが、検討の俎上にあったのかと驚く。

 さらに、「民意」を遮断する非民主主義制度の提案をする。金融に対する中央銀行のような、民意の高齢化に対する独立機関を政策決定プロセスに噛ませるのだ。具体的には、世代間格差を是正する義務を政府やに課す法律を制定し、その実務を担当する独立機関を設置する。民主主義の外側から制約をかけるため、抵抗が大きくなりそうだが、それぐらいの荒療治が必要なのかもしれぬ。

 目から鱗なのが、「高齢者の定義を変える」という提案だ。もともと高齢化社会を想定して作られた制度は、65歳の高齢者が全人口の7%を占める社会として始まった。だが、いまや高齢化率は28%近くに達する。高齢者が少ない時代に設計された制度を維持するには、全人口の7%を占める年齢以上を高齢者として再定義すればよいという考えである(ちなみに、2015年国勢調査によると、81歳以上が7%になるという)。

 著者は、世代間の対立の激化を避けつつ、なんとか財政的児童虐待をなくそうとする。その志は素晴らしいし、本書がもっと知られればと願う。だが、上述のアイデアが実行に移されるのは、もっとずっと先になるだろう。「現在の高齢者」が死に絶え、「現在の現役」が高齢者となる頃、ようやく広く議論されるようになるのではないかと。

 なぜなら、現在の高齢者に知らしめるべく働かなければならないマスコミ自身が、高齢者に摺り寄り、彼・彼女らの耳当たりの良いことしか書かないから。新聞のサンヤツ(一面の下段の広告)を見るといい。高齢者向けの雑誌で埋め尽くされている。平日の民放を見るといい、お年寄り向けのコマーシャルが番組内に満ち溢れている。本書で提言されている改革案は、「大切な年金を奪う」ネガティブな形で紹介されることになるだろう。お年寄りに媚びへつらうマスコミから距離を置いて情報収集している人々―――その中にはもちろん高齢者も一部いる―――そんな人たちが多数になる頃になって、ようやくこうした改革が実現できると考える。

 問題は時間になる。「待ったなし」と言われてからずいぶん経つが、待ってくれるだろうか(反語)。

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