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もしソクラテスが現代に転生したら『新哲学対話』

 「よい/わるい」に客観的な基準はあるのか? AIと人の決定的な違いとは何か? 何かを「知っている」とはどういうことか? 現代に蘇ったソクラテスと仲間たちが対話する。

 現代の風潮に染まり、日本語をしゃべるソクラテスが、ユーモアまじりで語りかける。面白いだけでなく、哲学の本質が「語り」の中から浮かび上がってくる。哲学の本質は、名詞ではなく動詞であり、独白ではなく対話である。

 たとえば、アガトンの章。「よい/わるい」について。「いいワインとは何か」という問いから、相対主義の問題に踏み込む。プラトン『饗宴』の続きの体裁をとりながら、なぜか現代で議論しているのが楽しい。

 いま飲んだワインを「おいしい」「おいしくない」と感じるのは、飲んだ人でしかありえないから、結局のところ、ワインの良しあしは主観的にしか判断できないのか。あるいは、ワインを「おいしい」と感じるまでに飲んできたワインや銘柄を教えてくれた先達者に左右されるのか。さらにワインをめぐる人的・文化的・社会資本的なネットワークが指し示す「いいワインとはこういうもの」(≒ワインの値段)に還元されるのか……といった議論が展開される。

 面白いのは、「よい/わるい」議論はワインに限らないところ。本書では芝居にも言及されるが、絵画や映画、小説や音楽など、あらゆる「評価される作品」に通じるものがある。ひとつの結論としては、相対主義の一つの極点「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」が提示される。

 もう一つの方向性として「そうは言っても、多くの人に高く評価される作品を”よい”と定義する」がある。この方向から「よい」の定義の議論を始めると、「よいは多数決か?」というツッコミが入り、「売れているものが良いものなら世界一うまいラーメンはカップラーメンになっちゃうよ」という話になる。

 もちろんこのソクラテスは、『少女ファイト』も甲本ヒロトも知らない。だが、「自分は知らない」という立場から、巧みに相手から話を引き出し、議論を形作り、「本当にいま知るべきはなにか」を示す。ソクラテスは答えを持っているのではない(したがって、”絶対的な答え”なるものに至らない場合もある)。「その仮定を厳密に積み上げると、どこに到達するのか」を知ろうとする人なのである。

 コンピュータが「計算する」ことへのいかがわしさを明確化したケベスの章。思考は計算に還元できるのかというチューリングの議論から始まって、計算機すなわちコンピュータが「計算する」というときと、人が「計算する」というときに、違いがあるのかという話に展開する。ウィトゲンシュタインの哲学を経験した人もそうでない人も楽しめるよう、間口は広く、奥深く設定されている。

 ソクラテスはまず、「計算する」とは行為なのか、それとも別の何かなのか? と問いかける。対話相手のケベスは少し考えたのち、「行為だと思います」と答える。次にソクラテスは、「行為というものは、どれほどバカげたものだったとしても、何らかの理由があってなされるもの」という定義を認めさせる。そして最後に、計算機が「計算する」ことで何かの結果を出したとして、計算機にそうしたことをする理由があるのかという問いを突き付ける。

 もちろん、計算機そのものには、その「計算をする」理由などはない。「計算する」ことが行為であり、行為の主体たりうるには理由を帰属させる必要があるならば、計算機そのものではなく、その計算機を使う人こそが「計算する」と言うべきだという。対話者自身に外堀を埋めさせた後にトドメを刺す、この論法はソクラテスそのものなり。

 したがって、ソクラテスの狙いによると、コンピュータが「計算する」というのは誤りになる。あくまでコンピュータを使う人間が「計算する」のであって、コンピュータそのものに、結果を出す理由がないためである。コンピュータが「計算する」のは、メタファーの一種にすぎないことになる。しかし、コンピュータを「計算機」と呼び続けている歴史がある以上、このメタファーに気付くのは難しい。あたりまえすぎて気づかない”常識”に揺さぶりをかける、「哲学する」醍醐味はここにある。

 コンピュータが動作して、その中で何らかの電気的な変化が起き、何かが表示される。そのそれぞれの変化に「計算をした」と意味付けを与えることはできる。だがその意味付けは、何通りでも可能である。無数にある意味付けの中から、「計算をした」と意味を与えられるとするならば、それは誰か? すなわち、計算機の中の状態変化を「計算」とみなす、人でしかありえない。

 計算は記号を操作することであるが、その記号を解釈する誰かがいなければ、それは「計算」たりえないというのである。人工知能がどんなに「進化」しようとも、その結果を解釈し、意味づけを行う人から離れることができない。

 これは、本書には出てこないが「誰もいないところで木が倒れたら音がするか?」問題や、「順列組み合わせで名句(名曲、名作)ができるか」問題につながる。前者は、「”音”を受け手の可聴範囲の空気の振動と定義するなら、”受け手”と”空気”が前提となるため、受け手不在であれば”音”は成立しない」という話になる。後者は、「古池や蛙飛びこむ水の音」と「くぁwせdrftgyふじこlp」の価値判断をするために人が不可欠という話になる。

 そこからさらに、AIの臨界があるとしたら、それはどこか? という議論に拡張できる。本書では、ネタ元としてウィトゲンシュタインの言語ゲームにおける「意味と経験」が示されるが、G.レイコフの意味と経験を結び付けるメタファーとしての身体性の話につなげると捗りそう。

 他にも、「知者のパラドックス(the paradox of the knower)」から導かれるゲーデルの不完全性定理が見事なり(自己言及は鬼門)。なによりも、コーヒーを嗜み、フェミニストたちの主張に理解を示すソクラテスなんて想像するだに面白い。

 本書をきっかけに、対話が生まれる。別に一人でもできる。脳内にソクラテスを見立てて、「いかにもソクラテスならこう言いそうだ」という会話をシミュレートする。問答の積み重ねである哲学を実践できる一冊。

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