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古川日出男『平家物語』はスゴ本

 たくさんの声、声、声。読むというより体感する。

 語りのリズムに情感に、うっとり酔ったり胸を衝かれたり。平清盛の絶頂期から、ぐんぐん・ガツガツ読み耽るうち、あれよあれよと儚くなる。驕る・驕らぬにかかわらず、生あるものは死んでゆき、出会ったものは必ずや別れる。犯人はヤスだ。平家は滅亡する。

 そんなこたぁ分かってる。分かっているのにやめられない。生きるのをやめられない。もがきあがき、意地汚く生きようとする。いっぽうで、驚くほど潔く死ぬ。生(ナマ)の生(セイ)の荒々しさに呑まれ、壮絶な死にざまを晒す人間たちに震える。凄まじい読書体験となる。

 古川日出男が産みだした『平家物語』はスゴ本なり。

 目を引くのはその文体、語りだろう。

 もとは琵琶法師の語りを記したとされている。大勢の話者がいて、続々と挿話が足され、組み込まれ、さらに多くの編者によって文も書き換えられ、継ぎはぎされ、縒り合わされ、物語を豊饒なものにしている。『平家』は日本の古典の中で最も異本が多いという。さまざまな読まれ方をされてゆくうち、物語が命を得て、今でいうなら同人誌のように自己をクローン化し膨らませてゆく。

 底本にあたると、はっきりと分かるという。著者は、「今、違う人間が加筆した」と書き手が交替したことが皮膚感覚で伝わるらしい。文章の呼吸が変わり、語りの構造も変化する。こうした、無節操ともいいたくなる膨張っぷりに、ただ一人の書き手として、どう捌くか。古川日出男『平家物語』は、さまざまな「語り手」を用意することで解決する。

 すなわち、じつに多くの「語り手」が背後に潜んでいることが、はっきりと分かるように記している。話者の主語を「私」「俺」「僕」「手前」「あたし」と多彩にし、同じ「私」でも複数いる。色やかたちに焦点をあわせ、「でございます」調でしっとりと語る女の声。起きたことを述べるだけで、ぶっきらぼうに「だった」「である」で語る男の声。

 ときに間投詞ときに感嘆句を絡めながら、直接こちらに話しかけてくる。文章は一次元なのに、大勢の語り手と向き合っているような気になる。合戦シーンになると、これに琵琶の撥が加わって、一層ざわめきが増してゆく。

「そうか。では今日の軍神への捧げものに、なあ。してやるぞ」と言い、馬を押し並べる。むんずと組みつく。地面に引き落とす。首を捩じ切る。斬る! それから郎等である本田次郎の鞍の取付にこの首をつけ、まさに血祭り、軍神を祝う斬血の祭り!
南無!
南無や、南無や、南無や!
よ!
た! は!
なぁむ!
これらが緒戦、宇治川の、寿永三年一月の合戦の。

 さらに、語調と語感を意識した、ラップのような書きっぷり。これ、ぜったい謡いながら書いているだろ!と言いたくなるような箇所もある。「守護、地頭。守護、地頭。もう時代は変わってしまっておりますよ」と平氏の儚さと源氏の惨さを一斉に嘆くところなんて、「男女男男女男女(男女!)」を彷彿とさせられる。

 こうした細部から引いて、メインに目を向けると、これまたくっきりと見えてくる。平氏の絶頂から、これを快く思わぬ人々が企んだ鹿ヶ谷の陰謀、さらに後白河法皇と以仁王の蜂起の失敗と、「一線を超えてしまった」驕りカウンターの凄まじさ。そして、清盛の死をきっかけとする平氏没落の過程と、それを加速させる源氏一族の台頭がある。木曾義仲と源義経の活躍もきちんと描かれるが、主旋律は死んでゆく平氏の人々である。

 死んでゆく、死んでゆく、前半であれほど楽しみ唄っていた人々が、泣き、嘆き、斬られ、引き裂かれてゆく。裏切りや内通、騙し討ちで命を落とすもの。まっしぐらに敵陣の中で果てるもの。逃げて逃げて逃げた先で捕縛され、恥を晒して斬られるもの。全ての望みを絶たれ入水するもの。合戦シーンは凄まじい。鎧甲冑に身を固めているため、攻撃の基本は顔である。弓も刀も、顔を狙うため、討たれた方はおぞましい顔貌になる。目を背けたくなる非情さと、親が子を子が親を想う刹那が混在し、その両方に撃たれる。多くの語り手の声は、実は鎮魂のための声なのかもしれぬ。

 面白いのは、古川日出男の目線だ。

 むかし、若さに任せて、吉川英治『新・平家物語』をイッキ読みしたことがある(めちゃめちゃ面白かった)。これは、『平家物語』だけでなく、『保元物語』『平治物語』『義経記』の面白いところ取りをして、書かれたといえる。そこでは、いわゆる義経を代表とする英雄たちのふるまいに焦点があてられ、殺しあいの無情さに紙数が割かれていたことを記憶している。平家物語とは軍記物語であるという解釈をもとに、英雄譚としての平家を書いていたのだろう。

 いっぽう古川日出男『平家物語』は異なる。自分なりの解釈を容れず、省きも漏れもないように訳したという。結果、前半は政治と恋と宗教の話になり、後半は合戦と悲劇になる。さらに合戦も、超人的なヒーローが戦局を左右するようなガンダム的な展開にならず、情報戦と索敵と兵站に終始するリアルなものとなる。

 そして、合戦の現場に居合わせた人の耳目を通じた体験のように語られる。読み手(=聴き手)は、その語りを通じて、体験を経験に変えてゆく。吉川英治が「お話」としての平家物騙りなら、古川日出男はナラティブな『平家物語』を目指したのかもしれぬ。

 読むことが体験になる、そんな稀有な経験が、古川日出男『平家物語』にある。物語りの頂点を、体験すべし。


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『愛とか正義とか』はスゴ本

 当たり前だと思っていたことが、あたりまえでないことに気付き、根本から世界が刷新される。もちろん刷新されたのは世界ではなく、わたしだ。OSレベルで無意識のうちにしてきた「考える」を、あらためて知る。読前読後で世界を(わたしを)変えるスゴ本なり。


 本書は、哲学・倫理学の入門書になるのだが、そこらの「哲学入門」ではない。「自分で考える」ことを目的とした入門書という意味で、まったく新しい。


 なぜなら、そこらの「哲学入門」は、哲学していないから。むしろ反対に、「哲学しないこと」を目指している。つまりこうだ、イラストや図解や簡単なセリフにまとめた哲学者や論を紹介しているだけにすぎぬ。哲学とは、「自分で考える」ことなのに、それを捨て去って、「これが哲学ですよ」という「答え」を提示しているのだ。


 もちろん、「自分で考える」よすがとして過去の哲学者をとりあげ、たとえば現代的な問いに対し斬り込み方や論の立て方をシミュレートするのなら分かる。結果、「自分で考える」アプローチを提示していることになるからね。


 しかし、哲学者をキャラ化して決め台詞のような一言半句の「答えのまとめ」を並べるのは、「自分で考える」ことではない。それはむしろ、「自分で考えるな」というメッセージに等しい。「分かった気分になる」だけで、雑学クイズや雑談ネタの役にたつぐらいが関の山。


 哲学は動詞だ。人名とか論とか主義といった名詞の集合ではない(それは哲学する”手段”だ)。哲学は「する」ものである。


 すなわち、哲学とは「自分で考える」ことだ。調べれば分かること(歴史や文化)は哲学の範疇外だし、調べ方が分かっていること(科学や経済)は哲学の範疇外である。だが、調べれば分かることでも、分かったことで見解や評価が対立することがある。または、調べ方が分かっていることでも、「それは本当なのか」と疑わしい点が出てくることがある。


 そこからが哲学の出番になる。「それは本当は何か」について、さらに考えるのだ。それ以上に調べられないこと、調べ方そのものが分かっていない(確立されていない)ことでも、「自分で考える」ことができる。それが哲学なのだ。


 急いで追記しなければならないのだが、哲学は答えを蔑ろにしているわけではない。よくある「哲学とは答えのない問い」ではない。分かった風な口を利くとカッコよく見えるけど、間違っている。問いが別の問いになったり、疑問が消えてしまったりする。


 だから、哲学は、答えだけではなく、「問いを発する疑問がどうなったか」に着目する。「全ての問いに正解がある」という思い込みで進めると、足をすくわれることになる。「科学的な見方」に染まっている人ほどそうだ。わたし自身がそうだったが、著者はこう喝破する。


「科学には答えがあるけれど、哲学は答えがない」と思う人がいますが、そうではありません。「科学には答えがある」のではなくて、「科学はただ一つの答えが決まるように手続きを定めてある」というのが正解です。だから、「ザ・科学」ができるわけです(逆に「科学は答えが一つに決まらないような問題を避ける」わけで、科学が避けた問題はどこに行くのかというと、これが哲学に行きます)。

 これな。


 科学は、解ける問題、解けそうな問題を解いているにすぎぬ。それはそれで、技術につながり人の世界を豊かにするから素晴らしい。だが、「全ては科学で解ける」と言った瞬間、自己矛盾に陥ることになる。哲学と、そこから派生した科学との関係を、ここまで明快にした文章はない。これ読んで、ずっと科学哲学の分野でモヤモヤしていた霧が、さっと晴れる心地になる。


 では、哲学する、すなわち「自分で考える」ためにどうするか? それこそ哲学者の数だけあるという方法のうち、本書はたった一つに絞る。基本的で、応用が利き、かつ、誰しも経験してきたもの、つまり「概念」を使った哲学だ。現実をつかみとるための強力な方法なり。


 この「概念」を、手とり足とり、懇切丁寧に説明する。現実世界から関心を見つけ、抽象化し、ものごとを捉える枠組みををつくり上げる。本書では「正義」をとり上げる。「正義とは何か」について例示し、反対の例(不正)を挙げ、なにが欠けていると正義ではなくなるのかを議論する。


 そこから共通的な概念を抽出する手さばきが上手い。かみ合わない議論のたいていの原因は前提にあることを示し、かみ合わせる。たとえば「正義の反対は、また別の正義」「正義なんてものはない」「正義は我にありと思う人どうしが激しく争いあう」という話がある。正義論について、うまく付けたオチに見えるが、本当だろうか? と腑分けする。


 ここで言っているのは、「対立している双方が、自分を正義だと主張する」ことだ。それは「主張が様々に違っている」ことであり、当然のことだろう。だが、そこから「正義はない」ということにはつながらない。


 様々な主張があり、互いに意見が対立するから、そこで正義(という概念)が必要になってくる。つまり、正義は「ある」とか「ない」とかいう前提が誤っており、それぞれの意見をバランスよく調整するために実現しなければならない理念なのだという。もちろん完全にバランスのとれた意見集約はフィクションだろう。だが、そのフィクションに向けて意見を調整することが必要だということは、皆がうなずくだろう。そのフィクションを、「正義」と呼んでいるのだ。


 このように「正義」という概念をつくり上げ、修正したり拡張する。さらに その概念を通して世界を見たり、別の概念と並べて比較することで、世界観を組み立てる。本書では、「正義」の他に「愛」と「自由」について議論する。それぞれ別個の概念かと思いきや、実はつながっていたり反発していたりするのが面白い。


 この記事では、そんな議論のエッセンスだけを抽出して述べているが、本書ではもっとベタに攻める。曰く、「デスノートの夜神月は正義か?」という問いを掘り下げたり、『北斗の拳』は、「正義」のラオウと「愛」のケンシロウの闘いだと分析する。哲学初心者に対し、ここまで読み手に寄り添って、かつ「哲学する」を実践した本はない。おまけに一読するだけで、「概念」という強力な武器が手に入る。


 本書は、読書猿さんがNo.1スゴ本としてお薦めしてくれた一冊。素晴らしい本を教えていただき、ありがとうございます。確かにスゴい本でした。「歩くことを、もう一度教わる」ように確かめながら読みました。


 そして、皆さんにも強力にお薦めする。読めば変わる。読前読後で、世界を(読み手を)変えてしまうスゴ本なり。


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生きのびるための狂気に自覚的であること『杳子』

 電車の窓から眺めていると、自分が動いているのか、世界が流れているのか、分からなくなるときがある。特に駅に停まっているとき、向かい側の電車が動き出すとき、まるで自分の車両が発車したかのような錯覚に陥る。いまいる場所をむりやり認識しようと、軽い吐き気とともに自分を再起動する。

 古井由吉の短編『杳子』の導入部が、まさにそうだった。「杳子は深い谷底に一人で坐っていた」から始まる、精神を病む女子大生と青年との異様な出会いの場面である。深い山中から、ふいに開けた谷に出るとき、眼前の岩という岩が(静止しているにもかかわらず)流れ落ちるように見えるときがある。

 視界を覆い尽くす山の圧力を直接受け取るいっぽう、自身の卑小な重さと相対化し、身体が浮き上がような、さもなくば岩がのしかかってくる感覚だ。もちろんこれは錯覚なのだが、平衡感覚を取り戻そうと、軽いめまいとともに自分を再起動する必要がある。これ、山に入ったときにしかありえない経験だと思っていたが、文章で追体験させる技量がすごい。

 杳子は立てなくなり、たった独りで谷底に坐り込むことになる。そこへ、やはり一人で登山をしている青年が現れるのだが...... これラブストーリーなのかね。杳子も青年も大学生で、性も愛もあるのだが、生々しくも薄暗く描かれている。「杳として行方知れない」のヨウで、杳い(暗い)子という意味でもあるのだが、外見は明るく奇矯に振舞うときすらある。杳子は「病気」であると診断されるのだが、躁うつ病、今なら双極性障害になるのか。

 たとえば、「食べる」という何でもない行為を極端に恥じたり、立ったり歩いたりといった日常的な動作を徹底して意識的に行う。自分の躰(からだ)のありかが、分からなくなってしまう。これは、自らをとりもどそうとあがきながら、後に明かされる血の運命によって、世界に対して立ちすくむ少女から女への物語としても読める。

 対する青年の呑み込まれ方が面白い。肉体的な深まりにとともに、自分の存在が彼女の病気を後押ししているのかと悩み、ときに引っ張りだそうとしたり、あるいは共振したりする。杳子からすると、精神的ひきこもり状態だったのが、男性経験をトリガーとして、病として追認されたのではないかと。

 この杳子のふらつきは、精神的な病すなわち狂気として扱われているが、その事実そのものが面白い。杳子の発言やふるまいは、「病気」には見えぬ。エキセントリックな言動は、世界が流れているのか、自分が動いているのか分からなくなり、自分を無理やり再起動させているようにも見える。そして、自分の記憶や身体の不確かさを受け入れ、自律的に動いていることを再確認しながら「自分の外側を保つ」ことは、現代では至極あたりまえのことだから。

 古井由吉が著した『杳子』が世に出たのが1970年、およそ半世紀前になる。この作品に貼られた「内向の世代」というレッテルには、社会の葛藤から目を背けて私生活ばかりを追求する批判を込められていた。だが、今読むと、ものすごく「今のいま」を示しているように見える。杳子が訴える、「自分」というものが、身体の内側から滑り落ちるような感覚、これは、今のいまこそ、切実に求められている。内在する「狂気」に自覚的でいる杳子のほうが、「今のいま」から見ると、よっぽど「健全」である。

 古いのに新しい、生きのびるための狂気を見つけよう。

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デジタル・ヒューマニティーズの講演が面白かったのでまとめる(追記あり)

 デジタル・ヒューマニティーズ(digital humanities)とは、人文科学に対しコンピュータを積極的に応用すること。歴史、哲学、文学、宗教学や社会学の研究において、テキスト分析技術や統計処理、地理情報システム、シミュレーション技術を適用し、新しいアプローチを見出す方法論だ。最近だと「AIが書いたハリポタ」「シェイクスピアの”中の人”は何人?」が有名やね。

 講演は秋草俊一郎さんの「文学とコンピュータが出会うとき」というテーマだ(訳すのは「私」ブログ で知った)。文学におけるデジタル・ヒューマニティーズの最新事例や、面白いアプローチをしている研究者が、つぎつぎと飛び出してくる。特に、「本を読まずに文学する方法」や、「統計分析から得られたベストセラーの法則」、「文体を決めるのは時代やジェンダー」が興味深いトピックだった。1時間30分が一瞬に感じるくらい、めちゃめちゃ面白かったので、ここにまとめる(記事化は許可をいただいてます)。

Dh1

 ポイントは、文学を「読む」ほうに主眼をおいているところ。「読む」のはヒトの仕事だろ? なんて思ってると、カルチャーショックを受けるだろう。

N/A

 まずは、「本を読まずに文学する方法」。フランコ・モレッティ『遠読』を中心に、世界文学への挑戦ともいえる「新しい読み方」が紹介される。それは、「いかに読まないか」を追求する読み方である。

 つまりこうだ。いわゆる正典(カノン)を精読することから生じる文学には限界があるという主張だ。崇め奉られている「世界文学」といっても、要するに欧米という地域を中心に、文を生産・消費する商業システムで生き残った作品群にすぎぬ。そしてその量もハンパではなく、原典を「精読(close reading)」していてはそれだけで一生終わる。

 だから、「精読」の対義語として「遠読(distant reading)」が提唱される。要素だけを抽出して読んだり、原典ではなく翻訳を通じて読むのもあり。コンピュータや統計手法を用いたデータ解析を行い、文学を自然科学や社会学のモデルでとらえ直すのだ。これにより、テクスト自体が消えてしまってもいい。「テクストをいかに読めばいいかは分かっている、さあ、いかにテクストを読まないか学ぼうではないか」と煽ってくる。

 わたしのレビューは、[本を読まずに文学する『遠読』]にまとめたが、この講義では「シャーロック・ホームズが生き残った理由」や「ハムレットのネットワーク相関図」、さらに世界文学空間の歴史的生成と支配構造を解析したパスカル・カザノヴァ『世界文学空間』が紹介される。究極の支配は言語(≒思考・思想)の支配だという考えに立つと、それに抗うための『遠読』という捉え方をしても面白い。

N/A

 次に、「統計分析から得られたベストセラーの法則」として、マシュー・ジョッカーズ『ベストセラーコード』が紹介される。ある本がベストセラーになるかを判断するためのアルゴリズムを開発する話だ。2800種以上の小説の特徴(文体、プロット、テーマetc)をインプットとし、膨大な小説を機械学習させることで、ベストセラーになる小説を(そうなる前に)予測可能とするのだ。

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 面白かったのは、プロットラインのグラフ。ストーリーにおける喜怒哀楽をプラス、マイナスに分けて、小説の各場面で、プラスの方向、マイナスの方向にどれぐらい振られているかを視覚化する試みだ。『ダ・ヴィンチ・コード』と『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』のそれぞれの解析結果を重ねると、プロットラインの起伏がいかに似ているかに目を奪われる。昔から「三幕構成」といわれるが、読者の感情を緻密にコントロールすることが売れることの秘密なのかもしれぬ。

 そして、「文体を決めるのは時代やジェンダー」については、マシュー・ジョッカーズ『マクロアナリシス』が紹介される。これは、「文体は何によって決まるか?(作家、時代、国、ジェンダーetc...)」を計量文献学的にアプローチしたものだ。

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 コンピュータを使ったテクスト分析(テキストマイニング)をすることで、「文学作品を読む」ことから離れたところから新たな発見を得ることができる。19世紀英国の小説を読み込ませ、「教養小説」「ゴシック小説」などのジャンルを自動分類させたり、使用語句におけるジェンダーの差異があるかの仮説を検証する。さらには文章からジェンダーを当てるといった試みがなされる。結論からすると、文体に影響を与えるのは、「作家」「時代」「ジェンダー」が大きい一方、「国」「ジャンル」は低いらしい。

 イメージとしては、GoogleのコンコルダンスのNgram Viewerが近いかも。これまでに出版された全書籍のおよそ4%にあたる500万点以上の書籍データから約5000億もの語句を追跡することで、時系列に観た言葉の使用頻度の推移を可視化する仕組みだ。この横軸(時間)に相当するものをあれこれ変えることで、新しい読み方ができそう(もはや、「読み」ですらないのだが)。

 こうした紹介のなかで、面白い学会の変化を知った。それは、「文学との違和感」だという。昔は、文学をするということは、一人で作品を読み、一人で論文を書くやり方だった。しかし、今では一人ではなく、「チーム」になっているという。つまり、方向性を考えデータを解釈をする文学者(統計学者?)と、その方向性をコードで実装しデータ化するエンジニアで構成されている。学会の発表者も、昔は一人だったのが、今は一人が発表し、技術的な質疑にはエンジニア(チーム)が答える風景になっているという。「文学は一人でするもの」ではなくなっているようだ。

 以上、3つのトピックスを紹介したが、他にも興味深い話が大量にある。わずか165行のコードと地名の外部ファイルを元に生成された小説『ワールド・クロック』の話や、計量文献学として村上征勝『シェークスピアは誰ですか?』やベン・ブラッド『ナボコフの好きな色は藤色』(Ben Blatt ”Nabokov’s Favorite Word Is Mauve”)、「同じ雑誌・同じ号に載った詩人=強い相関」という判断で文学世界のコミュニティのネットワーク図を構築するホイト・ロング『霧と鉄』の研究、何がハイク(≠俳句)かを大量データ分析によりパターン認識させる試みなど、どれも楽しそうな遊びばかりなり。

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 もちろん、デジタル・ヒューマニティーズについて、批判もあるという。ビックデータ解析といういわゆる流行に乗って、教授のポストやテニュア(終身雇用資格)、研究資金を確保するための方便なのではという批判や、単なるデータの寄せ集めと「知」の混同をするのではないかという懸念などだ。

 講演を聴講して良かったのは、わたしが抱いている疑問、メタ・デジタル・ヒューマニティーズの可能性についてもヒントが得られたことだ。あるデジタル・ヒューマニティーズの成果をAIに読み取らせ、別の方向性を探る方法だ。

 たとえば、古典文学をAIに食わせ、コピーされた作家性から「古典の新作」を著す試みがある。スタニスワフ・レム『ビット文学の歴史』では、ドストエフスキー・シミュレータからドストの新作が書かれ、それを読んだAIが評論を書き、さらにその評論を別のAIが読み討論する世界が描かれている。そんな可能性を質問したところ、レムの『一分間』に想を得て、『ワールド・クロック』の小説を書くコードのアイデアが生まれたのだというお返事をいただいた(おそらく『主の変容病院・挑発』所収の「人類の一分間」のことだと思う、ぜひ読んでみたい)。デジタル・ヒューマニティーズの可能性は、SFにありそうだね。

 何千年も営々と続けられてきた、作品を創造する、それを受け取る行為の根底に、何か無意識の構造があって、それを上手くすくいとり、可視化することで、「人間とは何か」に迫る。そのためのアプローチとして、デジタル・ヒューマニティーズは、これからもっと面白くなっていきそうだ。

 最後に。秋草さん、たいへん面白くためになる講演をありがとうございました。おかげで読みたい本がさらに積み上がりそうです。

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2018/01/17追記
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有益な情報をいただいたので、以下に追記する。読書猿さんを始めとしたtwitterの皆さま、BLOGOSでコメントいただいた皆さま、ありがとうございます。特に読書猿さん、ちょっと聞いただけでこの物量をサクっと返してくるこの凄さ。むしろ読書猿さんを講師に、このお題でお話を伺いたい......

デジタル・ヒューマニティーズにまつわるtweet

情報知識学会
マシュー・ジョッカーズについて Matthew Jockers(Google Scholar) Text Analysis with R for Students of Literature
(読書猿さん、yuekichiさん、たくあんさん、ありがとうございます)

レンブラントの絵をディープラーニングさせ、レンブラントの新作を描く
クローズアップ現代「進化する人工知能 ついに芸術まで!?」
レンブラントの絵をディープラーニングさせて、その技巧やモチーフを抽出し、「レンブラントの新作」をAIに描かせる試み
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3837/1.html
(BLOGOSコメント 大久保陣太さん、ありがとうございます)

AIが音楽にスコアを付けて、それに基づいてレコード会社がデビューを決めている
すでに米国では、AIが音楽にスコアを付けて、レコード会社がそれに基づいてデビューを決めている。
結局、人間も過去の経験で 「売れそうな曲のパターン」 を判別している。
それなら、AIの方がずっと上手く判別できる。
次のステップはAIによる作詞・作曲。 
5年後くらいには、随分変わっているかも。
(BLOGOSコメント SUZUKIさん、ありがとうございます)

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もしソクラテスが現代に転生したら『新哲学対話』

 「よい/わるい」に客観的な基準はあるのか? AIと人の決定的な違いとは何か? 何かを「知っている」とはどういうことか? 現代に蘇ったソクラテスと仲間たちが対話する。

 現代の風潮に染まり、日本語をしゃべるソクラテスが、ユーモアまじりで語りかける。面白いだけでなく、哲学の本質が「語り」の中から浮かび上がってくる。哲学の本質は、名詞ではなく動詞であり、独白ではなく対話である。

 たとえば、アガトンの章。「よい/わるい」について。「いいワインとは何か」という問いから、相対主義の問題に踏み込む。プラトン『饗宴』の続きの体裁をとりながら、なぜか現代で議論しているのが楽しい。

 いま飲んだワインを「おいしい」「おいしくない」と感じるのは、飲んだ人でしかありえないから、結局のところ、ワインの良しあしは主観的にしか判断できないのか。あるいは、ワインを「おいしい」と感じるまでに飲んできたワインや銘柄を教えてくれた先達者に左右されるのか。さらにワインをめぐる人的・文化的・社会資本的なネットワークが指し示す「いいワインとはこういうもの」(≒ワインの値段)に還元されるのか……といった議論が展開される。

 面白いのは、「よい/わるい」議論はワインに限らないところ。本書では芝居にも言及されるが、絵画や映画、小説や音楽など、あらゆる「評価される作品」に通じるものがある。ひとつの結論としては、相対主義の一つの極点「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」が提示される。

 もう一つの方向性として「そうは言っても、多くの人に高く評価される作品を”よい”と定義する」がある。この方向から「よい」の定義の議論を始めると、「よいは多数決か?」というツッコミが入り、「売れているものが良いものなら世界一うまいラーメンはカップラーメンになっちゃうよ」という話になる。

 もちろんこのソクラテスは、『少女ファイト』も甲本ヒロトも知らない。だが、「自分は知らない」という立場から、巧みに相手から話を引き出し、議論を形作り、「本当にいま知るべきはなにか」を示す。ソクラテスは答えを持っているのではない(したがって、”絶対的な答え”なるものに至らない場合もある)。「その仮定を厳密に積み上げると、どこに到達するのか」を知ろうとする人なのである。

 コンピュータが「計算する」ことへのいかがわしさを明確化したケベスの章。思考は計算に還元できるのかというチューリングの議論から始まって、計算機すなわちコンピュータが「計算する」というときと、人が「計算する」というときに、違いがあるのかという話に展開する。ウィトゲンシュタインの哲学を経験した人もそうでない人も楽しめるよう、間口は広く、奥深く設定されている。

 ソクラテスはまず、「計算する」とは行為なのか、それとも別の何かなのか? と問いかける。対話相手のケベスは少し考えたのち、「行為だと思います」と答える。次にソクラテスは、「行為というものは、どれほどバカげたものだったとしても、何らかの理由があってなされるもの」という定義を認めさせる。そして最後に、計算機が「計算する」ことで何かの結果を出したとして、計算機にそうしたことをする理由があるのかという問いを突き付ける。

 もちろん、計算機そのものには、その「計算をする」理由などはない。「計算する」ことが行為であり、行為の主体たりうるには理由を帰属させる必要があるならば、計算機そのものではなく、その計算機を使う人こそが「計算する」と言うべきだという。対話者自身に外堀を埋めさせた後にトドメを刺す、この論法はソクラテスそのものなり。

 したがって、ソクラテスの狙いによると、コンピュータが「計算する」というのは誤りになる。あくまでコンピュータを使う人間が「計算する」のであって、コンピュータそのものに、結果を出す理由がないためである。コンピュータが「計算する」のは、メタファーの一種にすぎないことになる。しかし、コンピュータを「計算機」と呼び続けている歴史がある以上、このメタファーに気付くのは難しい。あたりまえすぎて気づかない”常識”に揺さぶりをかける、「哲学する」醍醐味はここにある。

 コンピュータが動作して、その中で何らかの電気的な変化が起き、何かが表示される。そのそれぞれの変化に「計算をした」と意味付けを与えることはできる。だがその意味付けは、何通りでも可能である。無数にある意味付けの中から、「計算をした」と意味を与えられるとするならば、それは誰か? すなわち、計算機の中の状態変化を「計算」とみなす、人でしかありえない。

 計算は記号を操作することであるが、その記号を解釈する誰かがいなければ、それは「計算」たりえないというのである。人工知能がどんなに「進化」しようとも、その結果を解釈し、意味づけを行う人から離れることができない。

 これは、本書には出てこないが「誰もいないところで木が倒れたら音がするか?」問題や、「順列組み合わせで名句(名曲、名作)ができるか」問題につながる。前者は、「”音”を受け手の可聴範囲の空気の振動と定義するなら、”受け手”と”空気”が前提となるため、受け手不在であれば”音”は成立しない」という話になる。後者は、「古池や蛙飛びこむ水の音」と「くぁwせdrftgyふじこlp」の価値判断をするために人が不可欠という話になる。

 そこからさらに、AIの臨界があるとしたら、それはどこか? という議論に拡張できる。本書では、ネタ元としてウィトゲンシュタインの言語ゲームにおける「意味と経験」が示されるが、G.レイコフの意味と経験を結び付けるメタファーとしての身体性の話につなげると捗りそう。

 他にも、「知者のパラドックス(the paradox of the knower)」から導かれるゲーデルの不完全性定理が見事なり(自己言及は鬼門)。なによりも、コーヒーを嗜み、フェミニストたちの主張に理解を示すソクラテスなんて想像するだに面白い。

 本書をきっかけに、対話が生まれる。別に一人でもできる。脳内にソクラテスを見立てて、「いかにもソクラテスならこう言いそうだ」という会話をシミュレートする。問答の積み重ねである哲学を実践できる一冊。

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危険な読書

 読書は毒書だ。読前読後で変わらないなら、読む意味がない。ヒマつぶしなら、もっと有用なのがあるだろ? わざわざ時間とアタマ使うくらいだから、響いたり刺さったりしないと。

 BRUTUS「危険な読書」の特集を読んだ。イイのを選んでいるライターさんもいるのだが、全体的にぬるい。というか甘い。わずかに夏目房之介・島田一志の対談と、町田康のインタビューが良い感じで、あとは表紙のいかがわしさに値しない狗肉が並んでいる。ファッション誌である所以、読書を「ファッション」として見なすビギナー向けなのかも。

 もっと「読んだことを後悔するような劇薬小説」とか、「世界観を絨毯爆撃するようなマンガ」とか無いの? 一読したら、二度と立ち直れないような作品が欲しいのに。カフカは言った。どんな本でも、僕たちの内の凍った海を砕く斧でなければならないと。本当に「危険な読書」とは、脳天への一撃となる本なのだ。

 ここでは、そんな「斧」となる作品を選んだ。きわめて致死性の高い劇薬小説であり、トラウマを引き起こすトラウマンガである。成人向きのエロス、悪心を引き起こすものも入れたのでご注意を。そして、ここ重要なのだが、これからわたしが紹介するものがぬるいなら、もっとキツいのを教えて欲しい。なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

 読みたくない人のために、タイトルと著者のリストだけを置いておく。怖いものが見たい人は、その先をどうぞ。そして、もう一度警告するけれど、これらは、あなたにとって、本当に危険な読書になる可能性が高いので、まずは見ない(読まない)ことをお薦めしておく。この先を読んで「気分が悪くなった」を苦情をもってこられても困るから。また、「危険」の方向に文句がある人には、予め「では、どんな方向性とその最高となる作品を教えて欲しい」と伝えておく。ぜひ読んでみたい。

◇ ◇ ◇ 「危険な読書」リスト ◇ ◇ ◇

Level1 : まずはウォーミングアップ

  『告白』(町田康)
  『イワン・イリイチの死』(トルストイ)
  『悪魔が教える願いが叶う毒と薬』(薬理凶室)

Level2 : この辺からヤバい

  『ファイト・クラブ』(チャック・パラニューク)
  『ウルトラヘブン』(小池桂一)
  『寿司 虚空篇』(小林銅蟲)

Level3 : この辺からエグい

  『ザ・ワールド・イズ・マイン』(新井秀樹)
  『死にかた』(筒井康隆)
  『獣儀式』(友成純一)
  『隣の家の少女』(ジャック・ケッチャム)
  『児童性愛者』(ヤコブ・ビリング)
  『ブラッドハーレーの馬車』(沙村広明)
  『四丁目の夕日』(山野一)
  『夜のみだらな鳥』(ドノソ)

Level4 : ここからアカン

  『城の中のイギリス人』(マンディアルグ)
  『バージェスの乙女たち』(蜈蚣Melibe)
  『デス・パフォーマンス』(スチュアート・スィージィー)
  『死体のある光景 デス・シーン』(キャサリン・デューン)
  『ソドムの百二十日』(マルキ・ド・サド)
  『ジェローム神父』(マルキ・ド・サド)

Level5 : ただ狂え

  『〇〇とぼくらの。』(クジラックス)
  『真・現代猟奇伝』(氏賀Y太)
  『ラブレターフロム地獄』(早見純)
  『ネクロフィリア』(ガブリエル・ヴィットコップ)
  『消された一家』(豊田正義)

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

Level1 : まずはウォーミングアップ

 まず、比較的安全に飛べるやつから。とぶクスリがあるように、飛ぶ本がある。flyよりもjumpだから、跳べる本というべきか。どこから? もちろん常識から。どこへ? もちろん非日常へ。たとえば、因習にしばられたムラ社会から逸脱した完全屠畜のフリーダムへ。あるいは人生から非人生へ。

告白

町田康

 一言で表すなら、読むロック(8beat)。幸いなことに(?)予備知識ゼロで読んだ。真黒なラストへ全速力で向かっていることをビクビク感じながら、まさかこんなとんでもない「事件」とは露知らず。

 テンポのいい河内弁でじゃかじゃか話が進む。この一定のリズムは音楽を聴いているようで心地よい。中毒性があり、ハマると本を閉じられなくなる。読み進むにつれ、朦朧とした不思議な感覚に包まれる。

 「告白」の名の通り一人称でずっと進むと思いきや、妙なトコで冷徹に三人称で書いたり、同じ一人称でも著者がしゃりしゃり出てきたり、誰? だか分からないツッコミが入ったり。読み手の気持ちピッタリなので、とりあえず「わたしの代わりにツッコミ」だと思いつつ進む。ドツボにはまる男を憎めないのと、彼の苦悩(周りに分かってもらえない)に同調しつつ、どんどん感情移入してゆく。

 カタストロフの直前、男が被る獅子舞の内側から見た世界が最も恐ろしい。全世界から疎外される男の苦悩は、脳内をエコーしまくるだけでちっとも外へ出てこない。出るとしても切れ切れの思考の欠片だけで意味をなさない。獅子舞を被ったトンネル越しの世界、これこそ男の世界そのもの。河内弁なんざかなぐり捨てて現在用語でもって全力で語られる。

 男と読み手が一直線に貫かれる瞬間を見計らって、殺戮が始まる。河内十人斬のビート(ホントにこのCDがある)が腕を這い回る、知らないはずなのに踊れるぞジョジョォォォーーッ!彼にしてみればとても明々白々。正義を成し善を遂行するために完全無欠に必要な行動を順番に実行する。やっている行為の一つ一つは輝くほど明白なのだが、思考の断絶がフラッシュのように入り込む。大量殺人者にいたるまでの思考をシミュレートしたんだから仕方ないか。

 ところが読み手であるわたしと極限までシンクロしちゃっているんで、執行シーンでは体を(心を?)もぎ離すのに苦労する。わたしの心に告白が、しっかりと喰い込んじゃっているから、今やめるとこの体は叫び出す。何て叫ぶって? もちろん人間停止ッ!、人間停止ッ!!

 本書を「キ印シミュレーター」と名付けてもいいが、どこから狂っているのかが分からないトコロが素晴らしい。正気と狂気の境目は、グラデーションになっているのだ。

イワン・イリイチの死

トルストイ

 トルストイを昔話として読んだらもったいない。「人生が空っぽだったことに気づいた男の惨めな死にざま」とか、舌なめずりしながら読むべし。

 ほら、あれだ、ムカつく奴は3歳の幼児か、100歳の老人と考えろ、というやつ。その自己中心的な行動も、ワガママな発言も、哀れみと慈しみの生暖かい目で見ることができる(かもしれない)から。

 その応用だ。毒舌を上等としている礼儀知らずや、ケチつけると自分が上がると思い込んでる輩を、「人生の最後になって、人生が空っぽだったことに気づいた」というシチュエーションに突き落とす。楽しいぞ、絶望の中で死んでいくしかなく、誰もその声を聞くこともないことを、痛いほど自覚させるのは。そのモチーフとして最適なのがこれ。「一人称で死んでいくことのシミュレーター」なのだ。

 成功人生を送ってきたが、病を得、どんどん篤くなっていく主人公。家族の冷淡な様子や、ひとりぼっちで惨めな思い、そして、自分の人生がまったくの無駄であったことを徹底的に思い知らされる。恐れ、拒絶、戦い、怒り、取引、抑うつ、そして受容といった典型的な(?)段階を経ながら、死と向かい合う心理的葛藤を容赦なく暴きたてる。死とは他人にだけ起きる事件だとタカくくっていた順番がまわってきたとき、どういう態度をとるのか。

 自分の人生を生きてこなかった彼が、死を自覚することで、ムリヤリ向き合わされる。そして、もう、とりかえしはつかない。もちろん自分と重ねると、絶望感の予告編となって楽しいし、嫌なアイツにあてはめると、この上もなく自分がゲスな野郎に思えてくるのでさらに吉。

 あなたは死ぬし、わたしも死ぬ。だから、これで自分の死をなぞってみよう。

悪魔が教える願いが叶う毒と薬

薬理凶室

 BRUTUSの「危険な読書」特集がぬるいのは、いわゆる「文系」に偏っているから。小説であれマンガであれ、アタマの中であれこれイジって完結しているのがぬるい。もっと、アタマの外に出ようぜ。読んだら行動しようぜ。

 打ちのめされて身動き取れなくなる読書もいいが、読んだら材料を買いに行きたくなり、合成したくなり、塗布したくなり、服用したくなる。世界と自分自身に対して、具体的に働きかけたくなるような衝動を引き起こす本を読もう。たとえば、毒物や爆発物の製造方法を詳細に紹介する『アリエナイ理科の教科書』がいいが、もっと手軽にいけるこいつをお薦めする。

 本書は、サプリメントから処方薬、漢方薬から違法麻薬まで、願いごと別に集めて解説したものである。人の身体の代謝や反応は化学物質により引き起こされる。ということは、化学物質を用いることである程度コントロールできるという発想で、一般的な使用法から「裏の使い道」までを紹介してくれる。

 たとえば、リ●ップには「悪夢」の副作用を引き起こす、ミノキシジルという成分が含まれているという。これを、「死なない程度で悪夢を見る程度」服用する用量と方法が書いてある。あるいは、老いたマウスと若いマウスの血液を交換することで、老いたマウスが若返えったというレポートが紹介される。なんともジョジョの奇妙な実験だが、スタンフォード大学で2011年に実際に行われたものらしい。さらに、ひまし油を使った下痢チョコ(≠義理チョコ)のレシピが載っている。シャレにならないネタ満載だが、その中に、「女の子の匂いを合成する」がある。

 本書を参考に、実際に女の子の匂いを合成した結果は、[女の子の匂いを再現する]にまとめた。「女の子の匂い」ぐらいならカワイイものだが、毒を安価に合成するレシピは大変タメになるだろう。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

Level2 : この辺からヤバい

 このへんから危険度の高めを紹介していく。フツーに書店に置いてあるやつだが、人によっては起爆装置そのものだったり、別の扉をあけちゃう鍵になるから。相性のいいやつ(悪いやつというべき?)だと、簡単に法を超えることができる。背中を押すというよりも、背中をドンと突いてくれるやつ。

ファイト・クラブ

チャック・パラニューク

 精神去勢された男どもに贈る爆弾。読め(命令形)。

 生きてる実感が湧かないなら、自分が何なのか見失ったら、そしてあなたが男なら、強力に切実にこれを薦める。長いこと絶版状態だったのだが、ようやく新版が出た。やっと安心して言える、読め、とね。

 わたしは、「良い子」から「良い大人」になるように育てられてきた。受験もスポーツも就職も、周囲の期待に応えることばかりに費やされてきた。両親や教師、ひいては上司の期待に応えるために、「わたし」そのものを費やしてきた。良い子、良い社会人、良い夫、良い父、理想のパラメタとの FIT/GAP を埋めるための努力だけが、「努力」だと思い込んできた。そこには「わたし」なんてない。パラメタ化された外側だけしかない。

 この主人公「ぼく」がそうだ。生きている気がせず、不眠症の頭を抱え、ずっと宙吊り状態の人生に嫌気がさしている。そんなぼくと出会ったタイラーはこう言う、「おれを力いっぱい殴ってくれ」。そしてファイト・クラブで殴り合うことで、命の痛みを確かめる。

 最初から最後まで、名前を持たない「ぼく」は、読み手自身を重ね合わせ、注ぎ込むための器だ。そして、「ぼく」を殴るタイラーは、剥き出しの欲望そのものだ。これは、「わたし」だ、精神的に去勢された「わたしの物語」なのだ。この器に注ぎ込まれたアドレナリンは、読み干すそばから体内で沸々と滾っていることに気づくだろう。

 大事なことだからもう一度、読め(命令形)。人生の持ち時間がゼロになる前に。

ウルトラヘブン

小池桂一

 読むドラッグ、しかも「最上級のペーパー・ドラッグ」なり。謳い文句に偽り無し。酔って読むとダイレクトに作用してくるので、かなり危ない。アルコールは感情や感覚の増幅器にすぎないから、飲みながら読むとバッド・トリップになること請合う。呑んでジェットコースター乗っちゃダメのと同じだし、アルコール入りセックスが深いのと一緒。

 近未来――多種多様なドラッグの発明によって、好みの精神世界を体験できるようになったはいいが、違法ドラッグの危険性も桁外れになっている。「人間やめますか」どころじゃない、人間じゃないナニカにまでなろうとするのね。

 見所というか酔いどころは、究極のドラッグを求める主人公のトリップシーン。皮膚の表裏の区別がつかなくなり、体そのものが裏返しになる感覚や、メタ現実を時系列に、しかも何層にもわたって知覚するイメージ群がすさまじい。主人公だけでなく、読んでる自分までもが微分されてる気分になってくる

 さらに、知覚とは、脳により咀嚼されたデータにすぎないことが、よく分かる。あるシーンで、「情報未処理」の状態である赤ん坊そのままの世界を「視」る。遠近感デタラメで、全体は部分を構成しており、平衡感覚は完全に喪われている。一瞬一瞬が妙にクッキリとして、まるで高精密映像のパラパラマンガで現実が成り立っているような、そんな感覚を「理解」できる。

 つまり、ホントはそこまで「解析」できるにもかかわらず、通常の脳だとそこまで追いつけないのだ。だから、無数の諸相の最大公約数的なところをパターン認識して誤魔化している――そんなことを、主人公と一緒になって「理解」する。

 たとえば、いわゆる麻薬中毒と似ているかも。疑似体験として、視界が脈打っているような錯覚なら、↓のyoutubeで確認できる。最後まで画面を見つめた後、モニタの「外側」を眺めてみよう(視聴注意!気分が悪くなったらすぐ止めること)。

 これは、脳による映像情報の処理をいじったもので、網膜に映っているけれど「視」ずに見たことにして補っている部分がうねっているのだ。『ウルトラヘブン』は、これと同じ体感を得ることができる。

 使用上の注意をよく読み、用法・用量を守り、覚悟をキメてご使用ください。

寿司 虚空篇

小林銅蟲

 (たぶん)世界初の、巨大数論マンガ。

 寿司屋を舞台に理不尽な設定から数論が展開される。「大きな数」といえば、無量大数(10^68)、グーゴル(10^100)あたりを知っていたが、そんな「書ける」レベルでないことがすぐに分かる。だが本書はそんな奴を軽々と超えてゆく。

 最初のあたりは懇切丁寧にページを割いて説明してくれるが、グラハム数、フィッシュ数、S変換、SS変換、s(n)変換、m(n)変換、m(m,n)変換と、ざっくりと”巻き”で加速してゆくにれ、わたしのアタマがついてこれなくなる。たぶん作者、理解はしているものの、初心者に対し、何をどう説明すればいいか分かっていないのかもしれぬ(ここはわたしが自学するべきだろう)。

 巨大数を「書き表す」というよりも、それを示す数式がものすごい勢いで再帰・インフレ化する。大きくなるというよりも、爆発するというイメージ。「イメージをイメージで超えていけ」というアドバイスがないと放り出しそう。ちゃんと読んだら頭がおかしくなる。でもおかしくなりたい人が読むべき。

 面白いのは、このイメージを保ったまま、この宇宙に目を向けると、とてつもなく小さく見えること。ラストのこの会話なんて、まさにそう。

 「この宇宙の年齢が138億年ぐらいだろ
  しかし もっとずっと遠い過去や未来はどうなっている?」

 「宇宙誕生よりも前の時間を考える意味はないですよ」

 「この宇宙だけならそうだ」

 「宇宙たくさんあるかもしれないだろ
  というか
  この宇宙がもっとなんかこうビッグな次元の
  ”影”みたいなものだとしたら
  ビッグな時間みたいなものも
  ありそうなもんだろ」

 「そのビッグ巨大ホワットが仮に
  有限だが異常な大きさを持ち
  わしらが扱うような巨大数のオーダーに
  迫るものだったとしたら
  この宇宙そっくりなやつが100個あるレベルの偶然くらい
  アホほど起こりそうなもんではないか」

 「我々のスケールの時間と空間を
  ものっそい細かく分割した部分から世界を眺めたとき
  たとえば
  ふぃっしゅ数バージョン1の逆数のオーダーから見た
  この”原宿”という世界が......
  むしろ”原宿”として知覚される方が
  難しいのではないか?」

 「世界は無数の蛇足からできているのだ」

 これは、ループ量子重力理論を解説した『すごい物理学』と同じ場所に立っている。逆なんだ。「ここ」から積み上げ分けて分かろうとするのではなく、アタマが擦り切れるぐらいのイメージをイメージで超えた場所から、「ここ」を見る行為だ。

 世界の理(ことわり)を目的論的に観ようとしたり、ニュートン的世界観を超え、ファラデー、マクスウェルを経て、アインシュタインと量子力学で、時間と空間、場と粒子が統合されていったプロセスを追いかけていくと、科学は、「世界がどうなっているか」と「世界がどうあってほしいか」の間で揺れ動いていたことが分かる。巨大数は、これらが見通せる場所に立たせてくれる。

 アタマを本質的に変えてしまうマンガ。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

Level3 : この辺からエグい

 そろそろグロ系も混ぜようか。

 どんなに高尚な思想や理想を持っていようとも、われわれは歩く糞袋であり、消化器官に手足が生えた存在にすぎない。このシンプルな事実に目を向けるためには、時に強力な暴力を必要とする。人身事故の現場を見てみるといい(グモとかゴアのキーワードを混ぜると良い)。血液は線路の茶褐色と同化するが、キムチをばらまいたような内蔵がきれいだから。電車に飛び込むのは大変迷惑だから、小説や漫画で代替しよう。

ザ・ワールド・イズ・マイン

新井秀樹

 「デビルマン」級、これ以上の評を持たない。それが分かるなら、そして本書を読んでいないなら、幸せモノ。読め(命令形)。あらすじやら考察は無用、素のまま手に取って読め。ただし猛毒。

死にかた

筒井康隆

 グロ系でも比較的マイルドな、筒井康隆の「死にかた」なんていかがだろう。

 これは、突然オフィスに鬼が現れ、うろたえる人たちを次々と殺していく話。鬼を無視する人、責任転嫁する人、説得を試みる者、色仕掛けで篭絡しようとする女、逃げようとする人など、さまざまな人が撲殺されてゆく。

 突然、理不尽な状況に追いやられた人間の小賢しさが笑えるし、そんな様子を唖然と眺めていた主人公が最後の一人となり、鬼と向き合ったとき、どういう運命になるのか? オチが面白いやね(後味が悪いという人もいるが)。

 さまざまな死にかたがあるが、死んでしまえば肉塊にすぎぬ。そこまであがくのが人間なのであり、いったんそれに気付いてしまったのなら、人生なんて死ぬまでのひと踊りやね。

獣儀式

友成純一

 「死にかた」をスケール&グレードアップしたのがこれ。「鬼たちが冥土から溢れてこの世界に出現して以来、はや一ヶ月になる」から始まる、読む地獄。人間なんて、糞袋。まさに劇物。まさに毒書。バカバカしさを暴力エロスでねじ伏せる、奇書というより狂書。

 こんなにエロくてグロくて血みどろで、腐肉とウジ虫たっぷりの、酸っぱい胃液と激しい勃起に悩まされたやつはない。いろいろ読んできたつもりだけれど、これほど鬼畜劣情な小説は、ない。スプラッター小説なら、クライヴ・バーカー『血の本』シリーズや、綾辻行人『殺人鬼』、あるいはリチャード・レイモン『野獣館』有名だが、本書はこれを悠々と超えている。

 どんな内容か? まあ見てくれ。

怪鳥めいた叫びが、口から洩れた。
だが洋子の耳には、自分の悲鳴も聞こえなかった。激痛に、意識が遠のいていた。
徒労にも全身を踏んばってしまう。そのせいで顔が上向いた。口と目が、大きく開いた。
腰が杭を飲み込む動きを見せた。猟鬼が両足首をひっぱり、その動きを加速する。洋子は反射的に括約筋を絞めていた。それがいっそうの激痛をもたらした。
括約筋もすぐに裂け、使い物にならなくなった。体重のせいで杭が突き入る自然な動きに、身をゆだねるのみ。杭の侵入に合わせて鈍痛が体内を揺する。
ブツン、ブツンという異様な震動がこみあげてくる。
「あは、あはは」
痙攣的な笑いだった。内臓の破れる反動で笑いの声質が微妙に変化する。杭を飲みこむようすを、洋子は全身でばかりなく、声でまで表現しているのだ。

 何されてるのかというと、地面から突きでた、とがった杭の上に、洋子さんが肛門から串刺しにされているの。もちろん女の体重じゃちゃんと入らないから、鬼が、彼女の両足をつかんで引き下ろす。洋子さんは既に発狂しているので、「肛門ではなく膣口に刺して」と腰をグラインドさせるが叶わず、残念無念。

 んで、うまい具合に、肛門→直腸→横隔膜→咽喉、と順々につき破って、最後は口から先端が出てくる。「ブツン、ブツン」は、横隔膜の破れる音なんだって(映画「食人族」のアレね)。「食人族」と違うのは、一本に一人ではなく、先端が出てきたら、その上に次の人を肛門から… を繰り返しているところ。

 さらに、さっきまで洋子さんとヤりまくっていた彼を通り抜けた杭の上に彼女がまたがっている。だから、彼の死に際は壮烈な眺めだよ。なんせ自分の口から突き出た杭に彼女の肛門が迫ってくるわけなんだから。そして、彼女の内臓液を口いっぱい頬張りながら絶命していくわけだから。もちろん彼の「下の人」もいるにはいるが、ずいぶん前なので、ぐじゃぐじゃのデロデロに腐った人塊てんこもりになっている。すっごーい!

 だけど、こ れ が 序 の 口 な。乱歩、澁澤、サド、筒井と、ジョージ・ロメロとダリオ・アルジェントの作品をこねくり回し・突き混ぜて、出てきた赤黒い何かを煮込んだものを飲み込む感覚。読者を気分悪くさせようとするサービス精神旺盛で、オエッて気分を口一杯に味わえるぞ。強い磁力を持っており、読後、自分の倫理パラメーターが狂うことをを請けあう。

隣の家の少女

ジャック・ケッチャム

 自分の肉体を強烈に自覚する手っ取り早い方法は、ナイフで切り裂いてみることだ。傷つき、血があふれ、痛みを感じたところが「肉体」だ。同様に、心がどこにあるか知りたいなら、『隣の家の少女』を読めばいい。痛みとともに強烈な感情――吐き気や罪悪感、汚されたという感覚、ひょっとすると快楽――を生じたところが、あなたの「心」だ。この小説はナイフだ。これを読むことで、あなたの心に刃筋を突き立て、どこから痛みが生じているかが(どこからが”痛い”か)分かるようになっている。

 あらすじは単純だ。主人公は思春期の少年。その隣に、美しい姉妹が引っ越してくる。少年は姉のほうに淡い恋心を抱きはじめるのだが、実は彼女、虐待を受けていた……という話。少年は目撃者となるのだが、「まだ」子ども故に傍観者でいるしかない。しかし、「もう」おとな故に彼女が受ける仕打ちに反応する。

その反応は、罪悪感を伴う。「読むのが嫌になった」「恐ろしくなって頁がめくれない」が"正常な"反応だろう。だが、背徳感を覚え始めたところが、彼の、そして読者の心のありかだ。そして、その感覚に苛まれながら、生きていかなければならなくなる。

 読書が登場人物との体験を共有する行為なら、その「追体験」は原体験まで沁み渡る。地下室のシーンでは読みながら嘔吐した。その一方で激しく勃起していた。陰惨な光景を目の当たりにしながら、見ること以外何もできない"少年"と、まさにその描写を読みながらも、読むこと以外何もできない"わたし"がシンクロする。見る(読む)ことが暴力で、見る(読む)ことそのものがレイプだと実感できる。この作品を一言で表すなら「読むレイプ」

 見ることにより取り返しのつかない自分になる。文字通り「もうあの日に戻れない」。しかし、既に読んで(見て)しまった。それどころか、出会いそのものを忌むべき記憶として留めておかなければならない。わたしたちは、読むことでしか物語を追えない。作者はそれを承知の上で、読むことを強要し、読む行為により取り返しのつかない体験を味わわせる。ここが毒であり、「最悪の読後感」である所以。

 さらに、これは終わらない。酷い小説を読んで気分が悪くなった。でも本を閉じたらおしまいで、現実に戻れる?待てよ、現実のほうが酷いんじゃないのか? そもそもこれ、実際に起きた[バニシェフスキー事件]を元に書かれたものだ。ゲームが陰惨化し、陵辱がどんどんヒートアップし、最後には……という実話は、恐ろしいことに、珍しいことではない。

 読むレイプを、ご堪能あれ。

児童性愛者

ヤコブ・ビリング

 もとは[劇薬小説を探せ!]という企画で、皆さまのオススメを片端から読んできたのがきっかけなり。怒り、恐れ、憎しみ、悲しみ……負の感情を与える、特に読後感がサイアクの気分を味わえる、そういう小説を探してきた。読むだけで嫌悪感、嘔吐感、恐怖感を掻き立てる、後味最悪の、イヤ~な気分にさせる小説だ。「感動した」「勇気をもらった」小説なんていらね。

 その暫定一位が『隣の家の少女』なり。たいていの小説はこれより下か、うんと下になる。だから、皆さんに問いかけるのも簡単だった。「『隣の家の少女』よりサイアクな作品を教えてください」って言えばいいのだから。

 ところが、「隣の家の少女」を上回る劇薬を教えてもらった。それがこれ。『隣の家』は読んでる途中で猛毒に気づくが、本書は読みきった後にジワジワとクる。ニュースで"そういう事件"に出くわすと、たとえようもない絶望感に天を仰ぎたくなる。時間が経てば経つほど毒に蝕まれる。読むことが悪夢の始まりであり、呪いとしかいいようがない。

 エログロは無し。残虐シーンも無し。「読むスプラッタ」は楽しく読めたのに、本書は気分が悪くなった。特に、ある写真の真相が暴かれる場面は、予想どおりの展開であるにもかかわらず、読みながら嘔吐…で、ラストは絶望感でいっぱいに。

 「小さな子どもと仲良くなること」を生涯の目標にしている男たちがいる。柔らかくハリがある小さな体を自由にしたい欲望を抱いている。バレると糾弾されることを承知しているが故に、ひた隠しにし、表面上は普通の生活を送っている。男たちは、これは「嗜好」であり、おっぱい星人だとかアナルファックが好きだとかいうのと同列に考えている。

 したがって、男たちはおっぱいオバケやアナルを好む女と同様に、自分の嗜好を満足させてくれる子どもがいると本気で考えている。ただし、バレないようにしなければならない。

 同様に、彼らは自分を「世間から偏見を受けている者」とみなし、「自分の嗜好を表現する権利」を主張している。さらに、子どもとの性愛が悪いという社会の偏見を除くべきだとも主張している。それが、デンマークの児童性愛協会という団体。

 1999年、この児童愛好家団体は、結社の自由を盾に公然と活動をしており、児童性愛者(ペドファイル)を「変質者」とレッテルを貼る社会に抗議し、カウンセリング等による「治療」は無意味だと主張する。それは「嗜好」なのだから。

 本書を書いたのは、デンマークのTVジャーナリスト。実際にペドフィリアの取材の過程で得た体験が小説仕立てになっている。

 著者自らが児童性愛者になりすまし、その会合に潜入取材をはじめる。ジャーナリストである身分を隠しながら、「児童性愛を隠す一般人」を装う必要がある。二重の意味でバレないように細心の注意を払う。その甲斐もありグループにとけ込み、ペドフィリアたちと親しく交際するようになる。

 そこで明らかにされる実態は、極めて普通で異常だ。普通な点。彼らはペドフィリアという一点を除き、とても普通。老いも若きも、金持ちも貧乏も、高い教育を受けた人も無学な者もいる。そこには、殺人鬼もいなければ虐待する親もいない。そして、異常な点。彼らの主張はどうしても首肯できない。延々と展開される言い分(?)を要約すると、「なぜ児童性愛だけが排斥されるのか?」に尽きる。

 10才の男の子とヤリたいだって? 変態だ! と指差し、異常だ病気だと寄ってたかって「治癒」しようとする。なぜ?  ゲイとどう違うのか? ノンケでなければ「病気」なのか? 一部の国ではゲイは市民権を得ているではないか? ペドだって同じだ。われわれが匿名なのは世間が許さないからだ…云々。

 著者は嫌悪しながらも同化しなければならない。バレないためにも。読み手はさらに嫌悪感を募らせるはず。著者の嫌悪のみならず、潜入現場のペドがグループ向けに発言する論理に付き合わされるから。

 さらに、言っていることはロジカルに正しいため、よけい腹立たしくなる。読み手の倫理基盤が揺らぐことはないだろうが、ペドフィリアとの決定的な溝が"ない"ことがイヤというほど見せ付けられる。彼らを「異常」とレッテルを貼り、排除しようとすることが本質的におかしいことがよく分かる(←だからといってペドフィリアを認めるわけではない)。

 これらを否定することは簡単だ、目をふさいで耳を閉じればいい。あるいは、最初から読まなければいいのだ。これはネタではない。文字通り、冗談じゃない。

 しかしわたしは読んでしまった。もっと酷いのは、ラストで思い知らされたことだ。目を背け、耳をふさいでいたかった事実を注入された後に、結局、出発点に放り出されたのだ。何一つ変わっちゃいない。こんなに惨い性暴力禍を知った後、どうすることもできないことを思い知らされる。こんな事実なら、知らなければよかった……痛いぐらいに後悔している。

 これが「物語」ならよかったのに。

ブラッドハーレーの馬車

沙村広明

 「赤毛のアン」を陵辱する、読み手の心を引き裂く話。Wikipediaによると、「赤毛のアンのような作品を描きたい」という作者の希望により連載が開始されたそうだが……

 はじまりは、孤児院。身寄りのない少女たちの憧れは、ブラッドハーレー歌劇団。1年に1度、容姿に恵まれたものが選ばれ、資産家・ブラッドハーレー家の養女として迎えられる。貴族としての生活や、歌劇団で華々しく活躍することを夢見る少女たち。

 本気で読む気なら、予備知識はこのくらいで。ただし、「劇薬注意」とだけ添えておく。帯の説明は地雷なので、外しておこう。沙村広明版「キャンディ・キャンディ」のつもりで扉を開いた。おかげで、こうかはばつぐんだ。

 第一章を読んだだけで、みるみる顔色が変わっていくのが自分でわかる。血の気が引いて、戻ってこない。体が冷たくなってくる。どうやったって「おもしろがって」読めないし、フィクションだよね、ネタなんだよねとつぶやきながら見る・観る・視る――目が張り付いて離れない。陵辱の陰惨さだけでなく、よくぞこんな話をつくりおったとため息がとまらない。

四丁目の夕日

山野一

 BRUTUS「危険な読書」特集で、山野一『混沌大陸パンゲア』が紹介されていた。未読だったので喜び勇んで読んだのだが、安定の山野一だったなり。貧困と差別、暴力と狂気というモチーフが、繰り返し繰り返し丹念に描かれることで、異常がフツウになる。と同時に、普通であることのありがたみが身に染みるようになる。『パンゲア』は絶版状態で高値がついてしまっているので、ここでは比較的手に入りやすい『四丁目の夕日』をご紹介。

 昔を美化して懐かしむのは勝手だ。脳内妄想タレ流し与太は馬鹿の特権だから。だが、「だから今はダメだ」の偽証拠にしたり、嘘目標にするのは、馬鹿を通り越して犯罪だ。レトリックに騙されないために、『四丁目の夕日』を思いだそう。

 「走る凶器」という言葉を思いだそう。ピーク時は年間一万六千人が交通事故で命を失い、交通戦争という名にふさわしい時代だった。車の残骸とアスファルトの黒い染みの写真が社会面を飾っていた。「登下校の集団に突っ込む」「轢いたことに気づかず走行」「反対車線に飛び出し正面衝突」は、今だと華々しく全国ニュースになるが、当時は日常茶飯事だったことを思いだそう。

 「四大公害病」、覚えているよね。あの頃は、土も水も空気も汚染されていた。どれも悪質で悲惨な「公的犯罪」だったが、当初は「ただちに影響はない」と切り捨てられていた。鮮明に覚えているのは、泡立つ多摩川のヘドロと畸形魚。今と比べると、同じ惑星とは思えない。

 「通り魔」を思いだそう。包丁や金槌で、主婦や子どもを狙う「まじめでおとなしい人」を思いだそう。住宅街の路面に点々と滴る跡を舐めるような映像を飽きるほど見た。今のように、同じ事件をくり返し流すのではなく、違う殺人事件が連続して起きていた。ニュースが別の通り魔を呼び寄せていたのだ。「カッとなって人を刺す」が動機の常だった。

 「昔は良かった」補正を外し、目を背けていたセキララ実態を無理矢理ガン見させるのは、『四丁目の夕日』だ。工場労働者の悲惨な現実と絶望の未来は、読めば読むほど辛くなる。絵に描いたような不幸だが、これがあたりまえの現実だった。読むことはオススメできない劇薬だ。人によるとトラウマンガ(トラウマ+マンガ)になるかもしれぬ。

夜のみだらな鳥

ドノソ

 愛する人をモノにする、究極の方法をご存じだろうか。

 それは、愛するものの手を、足を、潰して使えなくさせる。口も利けなくして、耳も目もふさいで使い物にならなくする。そうすれば、あなた無しではいられない身体になる。食べることや、身の回りの世話は、あなたに頼りっきりになる。何もできない芋虫のような存在は、誰も見向きもしなくなるから、完全に独占できる―――「魔法少女マギカ☆まどか」で囁かれた誘いだ。

 悪魔のようなセリフだが理(ことわり)はある。乱歩『芋虫』の奇怪な夫婦関係は、視力も含めた肉体を完全支配する欲望で読み解ける。彼女がしたことは、「夫という生きている肉を手に入れる」こと。早見純の『ラブレターフロム彼方』では、ただ一つの肉穴を除き、誘拐した少女の穴という穴を縫合する。光や音を奪って、ただ一つの穴で外界(すなわち俺様)を味わわせる。

 感覚器官や身体の自由を殺すことは、世界そのものを奪い取ること。残された選択肢は、自分を潰した「あなた」だけ。愛するか、狂うか。まさに狂愛。

 ドノソ「夜のみだらな鳥」では、インブンチェという伝説で、この狂愛が語られる。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた生物の名だ。インブンチェは伝説の妖怪だが、小説世界では人間の赤ん坊がそうなる。老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも老婆たちの手を借りなければならなくなるから。成長しても、決して部屋から出さない。いるってことさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をするのだ。

 子どもの目をえぐり、声を吸い取る。手をもぎとる。この行為を通じて、老婆たちのくたびれきった器官を若返らせる。すでに生きた生のうえに、さらに別の生を生きる。子どもから生を乗っ取り、この略奪の行為をへることで蘇るのだ。自身が掌握できるよう、相手をスポイルする。

 読中感覚は、まさにこのスポイルされたよう。「夜のみだらな鳥」は、ムディートという口も耳も不自由なひとりの老人の独白によって形作られる……はずなのだが、彼の生涯の記録でも記憶でも妄想でもない独白が延々と続けられる。話が進めば理解が深まるだろうという読み手の期待を裏切りつづけ、物語は支離滅裂な闇へ飲み込まれるように向かってゆく。

 呑まれて帰ってこれなくなる悪夢。肉体・精神の双方に対してダウナー系ダメージを喰らわせてくれる。生きた迷宮をさまようような、誰かの悪夢を盗み見ているような毒書になる。おぞましい傑作。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

Level4 : ここからアカン

 もうやめたほうがいい。戻ってこれなくなる。人が狂わずすんでいるのは、余計なことを考えないから。既に先人が考え抜いて、「人の範囲」をある程度踏み固めてくれたから。欲望であれ好奇心を満たすために、その範囲を超えるのは、自分で考え始める必要がでてくるから。それは、やってもよいことなのかと。

城の中のイギリス人

マンディアルグ

 エロとグロと悪意を煮詰めた、最高のポルノグラフィ。「できるだけ残酷で、破廉恥で、エロティックな物語を書きたい」というのが作者の意図なんだが、見事に成功している。

 例えば、生きのいいタコがうじゃうじゃ蠢く水槽に少女(13歳処女)を投げ込んで、体中に貼り付かせる。タコとスミまみれの彼女(顔にもタコべったり)を犯す→鮮血とスミと白い肌のコントラスト。その後、ブルドックに獣姦。犬のペニスは根元が膨張するので、ムリに抜くと穴が裂けるんだが、ちゃんと再現してる。ぜんぶ終わったらカニの餌。

 あるいは、氷でできたペニス(長さ39cm、亀頭周囲25cm)を肛門にねじ込む。この描写がイイ、感動的ですらある。暖かい臭いを感じた素晴らしいシーン。

肛門と割れ目の窪みに油をそそいでから、私は潤滑油でしとどに濡れた人差指を近づけた。するとなんたる不思議であろう、今度は氷塊ではなく、人間の肉が近づいてきたことを察したのか、薔薇の花はただちに拡がり、口のように開き、指の圧力にたちまち屈したのである。いや、というよりもむしろ、私の指をくわえこんだのである。

 食糞飲尿あたりまえ、悪趣味、倒錯、陵辱、苦痛、加虐性欲の極限。大切なものをいちばん残忍なやり方で破壊する(ラストの"実験"はマジ吐いた)。性の饗宴というよりも、むしろ性の狂宴。正直、そこまでせにゃ屹立しないなんて、異常!→しかし、この「異常性欲」は城の主にとってみれば最高の美辞。

 鋭利なカミソリで皮脂まで切られ、果物のようにクルリと皮を剥かれた顔を眺めながら、女は濡れるし、男は立つ。吐きながら屹立してることは否定しようがない。城の主のセリフが刺さる。

 「エロスは黒い神なのです」

バージェスの乙女たち

蜈蚣Melibe

 ナボコフ『ロリータ』の「生きた肉鞘」を彷彿とさせる。あるいは、『家畜人ヤプー』でもいい。「バージェスの改造乙女」と呼ばれる少女たちが、いったい何をどのように改造したか? これを知ったとき、怖気を震うとともに、生きた肉鞘とは彼女らのことだと腑に落ちた。

 四肢切断やら内臓性交といったエグい系に慣れていても、この発想は無かった。ある意味ワンアイデアの一発モノとはいえ、そのアイデアがスゴすぎる。タイトルの「バージェス」は、5億年前のカンブリア期におけるバージェス頁岩動物群に由来する。

 既存の生物相の枠組みには収まりきれない、奇妙奇天烈動物のオンパレードなんだが、メタファーになってない。よくぞ考え付いたといえば誉め言葉になるが、エロスのためなら「なんでもあり」で許される範囲を凌駕している(やりすぎ)。

 汚物愛好と人体改造の極北に『家畜人ヤプー』があるならば、そのさらに北にあるのが本書なり。一切の予備知識なしに開いたとき、思わず目を背けましたもの。パートナーとのプレイに首輪を装備させる延長に在るかと思うと、自分で自分にゾッとなる。わたしが何が好きかを知って。

デス・パフォーマンス

スチュアート・スィージィー

 命がけのオナニー・レポート。

 「危険な自慰」や「身体改造」を追求した結果、死亡したり重い後遺症になった事例を、検証写真つきで再現している。もとはメディカルレポートや検死報告を元にしており、淡々とした筆致が異常性を際立たせている。

 快楽を追求するあまり自慰死に至った話は、おぞましく、こっけいで、かなしい。たとえば、32歳の男性。3児の父で、ベッドの上で死亡しているのを11歳の娘が見つけた事例だ。発見時、ストッキングと女物のセーター、ブラジャーを身につけていたという。やわらかいベルトで両手を縛り、口の中には生理用ナプキンを含み、頭と口にはピンクのブラジャーが巻きつけられていた。丸出しになった陰嚢にはタバコの火が押し付けられ、腫れあがっていたとある。

 他にも、ドアノブやクローゼットにロープを引っ掛けて「擬似首つり状態」で"ハイ"になりながら自慰をしているうちに、戻ってくるタイミングを逃し、文字どおり「逝ってしまった」事例がたくさん出てくる。

 首つりオナニーだけでない。トラクターや掃除機を使った斬新な方法が提示され、その犠牲者が語られる。古典的なコンニャクや、カップヌードル、ポッキーならチャレンジしたことがあるが、可愛いものだ。これは限度を超えている。トラクターにロマンティックな感情を抱いた男が、女装して油圧シャベルに逆さ吊りになっている最中にバケット操作を誤り、圧死した事例。掃除機を使った自慰+テーブルの足を抜き取って肛門に差込み、全裸+パンスト状態→うつぶせになって感電死しているところを妻に発見された事例。

 何ヶ月もかけてゆっくりと自己去勢した男の話や、自宅でドリルで頭蓋貫通することでニルヴァーナを目指す女、自分で眼球を摘出してしまった少年の話をきいていると、わたしの想像力もまだまだだな、と思えてくる。

 命を賭けたオナニーが、ここにある

死体のある光景 デス・シーン

キャサリン・デューン

 カリフォルニアの殺人捜査刑事が個人観賞用に収集した膨大な「死体のある風景」のスクラップ。趣味とはいえ、モロ出し死体画像の鑑賞は、ずいぶん変わっておりますな。

 ページを繰る。

 こちら(カメラ)を向いてはいるものの、もう命がない顔を、まじまじと見る。

 見られることを意識しなくなった体と、そこに刻まれた痕を見る。メッタ刺しにされた挙句、深深と抉られた売春婦の腹部と、剥き出しにされた陰部を見る。若く美しい女の裸が、森の中で宙吊りになっているのを見る。爆発した上半身と、意外にちゃんと付いている足を見る。はみ出した大腸を見る。はみ出た脳を見る。首吊り自殺現場を見る。ショットガンで文字通り蜂の巣となった痕を見る。

 カラーじゃなくて、よかった。

 これだけ大量の異常死体を執拗に見つづけると、いつしか慣れてくるものだ―― というのは激しく間違っており、絶対に慣れることはないし、吐き気もおさまらない。ただ、実にさまざまな死に方で人は命を奪われるのだなーと感慨深い。まだ経験が無いので、わたしは死を象徴的に語りたがるが、ここの死体はとても具体的。

圧死、焼死、爆死、轢死、縊死、壊死、煙死、横死、怪死、餓死、狂死、刑死、惨死、自死、焼死、情死、水死、衰死、即死、致死、墜死、溺死、凍死、毒死、爆死、斃死、変死、悶死、夭死、轢死、老死、転落死、激突死、ショック死、窒息死、失血死、安楽死、中毒死、傷害致死

 まさに死のオンパレード、無いのは「過労死」ぐらいやね。被写体として、「本」というオブジェクトに納められた死体を、生者という絶対的に優位な立場から見る。ちょっと吃驚したような顔を見る。本来隠されている(べき)ものが白々と暴かれている。腐った体は、腐った肉でしかない。

 優越感? いや、いずれわたしも死ぬ。こう撮られるようになるかは分からないけどな。それでも、選べるものなら、もっと穏やかな死にしたいもの。いま自分が生きているありがたみを、死体を通じて思い知らされる一冊。

ソドムの百二十日

マルキ・ド・サド

 上には上がいる。しかも、かなり上で。一言なら、「読む拷問」。男色、獣姦、近親相姦。老人・屍体に、スカトロジー。読み手にとてつもない精神的ダメージを与え、まともに向かったら、立てなくなる強烈な兇刃に膾にされる。イメージを浮かべながら読むと、想像力が絶叫する読書になる。

 鼻水吸引や髪コキ、愛液フォンデュ、ミルク浣腸は序の口で、真っ赤に焼けた鉄串を尿道に差したり、水銀浣腸で腸内をごろごろする感触を楽しむ。抜歯や折骨を趣味とする男の話や、女の耳や唇を切断したり、手足の爪をムリヤリ剥がす話が喜喜として語られ、実践される。眼球を抉ったり、乳首や睾丸を切断したり、嗜虐趣味極めすぎ。

 彼らにとって他者とは、壊す対象になる。犯しながらノコギリでゆっくり首を切断したり、恋人同士を拉致して、彼女の乳房や尻を切除して調理して彼氏に食べさせたり。母に息子を殺させたり、塔の上から子どもを突き落とす『遊び』や、むりやり膣に押し込んだハツカネズミや蛇が娘の内臓を食い破る様を眺めるなど、よくぞ想像力が保つなぁと感心する(同時に、ちゃんと読んでる自分がたまらなく嫌らしい)。

 本書は、性倒錯現象の集大成ともいえる。自己愛、同性愛、小児愛、老人愛、近親相姦、獣姦、屍体愛、服装倒錯、性転換といった現象を、露出症、窃視症、サディズム、マゾヒズム、フェティシズムといった性手段で果たそうとする。では、完全なる狂気から成っているかと思うと、そうではない。極端は異常性欲を、極めて冷静沈着に書いているからね。

 想像力が凶器となる読書。目を疑え、そして自分を壊せ。

ジェローム神父

マルキ・ド・サド

 『ソドム』は質量ともに大容量なので、正直食傷するかもしれぬ。もっと手軽に「危険」を味わいたい。そんな人にはこれを薦める。澁澤龍彦=マルキ・ド・サドと、幻想画家・会田誠の恐ろしいコラボレーション。ふつうの人は避けたい挿絵とストーリー。

 たとえば表紙。ポニーテールの少女(全裸)が、アッケラカンとした笑顔で見上げている。ただし両手足は切断されており、ぐるぐる包帯からにじむ血肉が生々しい。あるいは挿絵。少女の腹を指で押すと、割れ目からイクラがぽろぽろと出てくる「とれたてイクラ丼」は目を見張る。

 もちろんサド・テイストも凄まじい。冒頭、恋人どうしの若い男女を人気のないところへ連れ出し、まず男を射殺。そして女を姦するのだが、ただじゃすまないのがサド節。小枝やトゲのある蔓で女の柔らかい場所を刺したり痛めつける。男の死体を切り裂いて、そこから心臓を抜き取り、娘の顔を汚す。あまつさえ心臓の幾片かを無理やり娘の口のなかに押し込んで、噛んでみろと命令する…

おれは手に短刀を握っていたが、いよいよ完頂の瞬間までは彼女を殺すまい、と思っていた。おれの完頂の神聖な溢出と、おれの相手の女の断末魔の吐息とが混ざり合うことを思うと、ぞくぞくするような愉悦を覚えずにはいられなかった。

彼女がこの世のもっとも残酷な瞬間を経験するであろうとき、おれはこの世のもっとも甘美な瞬間を味わうのだ、と考えた。

 で、胸といわず下腹部といわずメッタ刺しにするわけだ、自分がイク瞬間に。悶死する肉体の収縮が、えもいわれぬ恍惚感をひきおこすそうな。

 可憐な少女をたぶらかし、文字通り「獲物」として扱うジェローム神父。中2の脳内自己中ではなく、徹底的に考え抜き、むごたらしい実体を伴う。彼が、「おれが地球上の全人類を、もっぱらおれの快楽に奉仕すべき存在としてしか認めていないことは申すまでもあるまい」と言い切るとき、戦慄するよりも感心するばかり。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

Level5 : ただ狂え

 「一期は夢よ ただ狂え」は閑吟集の句なのだが、団鬼六のほうに引っ張られる。人生はひと夢のどきごとなり。没頭せよ、ハマれ、集中せよ。何に? そりゃ、我を忘れられる何かにだ。読むことは狂うことであり、読書は毒書よ、ただ狂え。

○○とぼくらの。

クジラックス

○○とぼくらの。 社会的倫理的にアウトであり、最低で最悪ながら伝説となっている傑作。

 ひと夏のあいだ、特定年齢層の女の子を凌辱しながら全国を旅するクズ2人組の話や、便所飯→便所行為with幼女に至る話、盲目の男と少女のふれあい、裁判のプロセスで行為を厳密に再現させるディストピアなど、読んだあともイヤ~な気にさせる気満々なのが良い。読んでるうちの背徳感にヒリヒリさせられるのと、うっかりこれで抜こうものなら、後味の悪さがハンパなくなる。

 これ、SFにしたりファンタジーにすることで、「逃げ」ることもできたのに、真正面に日本社会に突きつけているのが悪趣味なり。エロマンガというフォーマットで「消費」させないように物語を先回りさせており、手にする人は、相応の覚悟が必要かと。

真・現代猟奇伝

氏賀Y太

真・現代猟奇伝 読・む・な。まさしく毒書となることを約束する。マンガだから「どくいりマンガ」。まず、読んだことがある、というだけで性格を疑う。ましてや「大好きだー」なんていうやつぁ、イカれているよ、わたしは好きだけど。

 おかげで、内臓ファックやら顔面崩壊といったワザを知ることになった。腹を裂いてヤるなんて、おかしいよ。吊り・焼鏝・股裂・食糞・腹腔ファック・串刺・正中切開・脳姦・解体刑…あらゆるキチガイが詰まっている逸品。

 女子高生コンクリート詰め殺人事件は、ページをめくるのが恐くてたまらなくなった。描写や展開が恐いのではなく、ページをめくろうとする自分の壊れっぷりにおののいたのだ。「おかしい」自分を充分に意識して、読んだ。食人社会ネタはブラックユーモアだと誤解して、ゲタゲタ笑った自分が恐ろしい。壊れやすいのは人体ではない、わたしだ。読めば”おかしく”なれるマンガなり。

ラブレターフロム地獄

早見純

ラブレターフロム地獄 リョナ系劇薬マンガ。人の営みとしての性行為があり、子孫が存続していくにもかかわらず、ルールや束縛によって欲望を押さえつける。押さえつけられた欲望はどうなるか? を徹底的につきつめると、こう爆発することがわかる。

 屍体を相手に思いを果たす話であれば、江戸川乱歩『蟲』や上田秋成『雨月物語』の「青頭巾」を思い出す。だが、欲の深さ業の黒さは、これが遥かに上回る。動機は性欲なのに、「歪んだ」ものではないことろがポイント。ピュアすぎる、まっすぐすぎる欲望が、あらゆるルールや束縛を突破して、「ぜったいにやってはいけないこと」を思う存分果たす。

 たとえば、ただ一つの穴を除き、誘拐した少女の穴という穴を縫合する。光や音を奪って、ただ一つの穴で外界(すなわち俺)を味わえというのだ。感覚器官や身体の自由を殺すことは、世界そのものを奪い取ること。残された選択肢は、自分を潰した「あなた」だけ。愛するか、狂うか。

ネクロフィリア

ガブリエル・ヴィットコップ

 道徳も反道徳も、単なる程度問題じゃね? 善なんて量的に見て外野が判定するものじゃないか――といった、陳腐な結論に至る。だからといって書いてあることを実行しようなんて気は起きないけれど、それでも自分のリミッターカットができて満足しちゃう読書に相成る。

 ここで描かれるのは、「愛」。ただし屍(しかばね)を愛する男の話。彼は屍体にしか性的興奮を覚えず、葬儀に列席しては墓地に通い、屍体を掘り出してきては愛するのだ、その形が分からなくなるまで。日記体で淡々と描かれる"非"日常は、すべて屍体の話題ばかり。どうやって愛して、どんな匂いを放ちつつ、どのように崩れていくかが、観察日記のように綴られている。描写のひとつひとつは強い喚起力に満ちており、慣れない読み手に吐き気を催させるかもしれない。

 異常なのは主人公で、読み手は「正常」であると安心しているとあぶない。屍体愛好者は心の断絶を選び取ってしまっており、その情欲は説明できないところへ超越している。いきおい読み手は、日記――彼の独壇場だ――に寄り添いながら進めていくほかない。相手が抵抗力を持たないオブジェであるだけで、サディズムや暴力主義とは離れた、ただ対象へのひたむきな姿がそこにある。あきらかに腐っている少年の体とともに熱い湯船で戯れる様子なんて強烈だ。

少年の身体は刻一刻とやわらかくなり、腹は緑色になって崩れ、匂いのきつい腸内ガスでパンパンに膨れ、そのガスが湯船の中で巨大な泡となって弾ける。なお悪いことに、顔が崩れ、元々の少年とは似て似つかぬ風貌になってしまった。私のかわいいアンリとは、もうとても思えない。

 ポイントは、どんなに耐え難い臭気を発していても、必ず「匂い」としているところ。翻訳者か主人公の心意気を感じるね。描写のコントラストも素敵。主人公は死者だけでなく、生者とも性交しそうになるシーンがある。(生きている)中年女の股ぐらからしたたり落ちる白濁液と、死姦しようとした少女がゴボゴボと吐き出す黒い液体は、フラッシュバックのように記憶に残るに違いない

消された一家

豊田正義

 最高に胸クソ悪い体験を味わえる一冊。

 これ以上気分が悪くなりようのないぐらい嘔吐感を味わう。おまけにこの酸味、読んだ後いつまでも引きずっていられる。

 こんな人間が「存在する」ことはよく理解できた。この人間を悪魔だの人でなしだの呼ぶのはたやすい。しかし、彼を悪魔とみなすことで思考を止めたら負けかな、と思いながら読み続けた。父親の解体の場面で身体が読むのを拒絶した。しかし、なぜそんな事件が起きたのか、どうすれば回避できたのか、知りたくて最後まで読んだ。

 今から考えると、そこで読むのを止めておけば良かったのに、と思っている。

 それが、「消された一家―北九州・連続監禁殺人事件」

 最悪の読後感を味わえるのは、最後まで読んでも、「なぜそんな事件が起きたのか」はぜんぜん分からないから。無抵抗の子どもの首にどういう風にコードを巻いて、どんな姿勢で絞めたか、といった行動は逐一知らされるが、「なぜ・どうして」は想像すらできない。

 これを著者の筆力不足に帰するのは、あまりに気の毒。一人称で書けないルポルタージュの限界なのか。「事実は小説よりも奇」とは、たしかにその通り。しかし、事実を理解することができない。虚構でもいいからこの出来事を理解したいと願うのならば、小説にするしかないのか。

 最もいやらしいのは、この天才殺人鬼が「指示」に徹するところ。一家をマンションに監禁し、「殺す者」と「殺される者」を指示するのだ。彼らは抵抗も逃亡もせず、互いを殺し合う。遺体はバラバラに解体され、周到な準備の末少しずつ捨てられ、ついに一人を残し、家族は消滅した。七人が抹殺された“史上最悪”の密室事件は、「なぜ」という疑問を拒絶する。

 事実は小説よりもおぞましい。なぜなら、「なぜ」を拒絶するから。物語にさせないから。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 さて、脳天への一撃となる作品を紹介したが、いかがだろうか。こうした劇薬小説やトラウマンガは、あらゆる人生にとって必須と考える。なぜなら、人生は不条理であり、不都合にまみれ、時に暴力的だから。「都合が悪いのは現実だけで充分、なぜ酷い話を好んで読むのか」という意見もある。だが、現実がまだマシであることを痛感し、そんな酷い話でなくてよかったと胸をなでおろすには、やっぱり毒書が必要だからである。

 もちろん見たくない人は無用の「避けるべき本」(避け本)リストとして活用すればいい。ただ、人生ノーミスクリアはありえない。致命傷を負ったとき、それが致命傷なのかを確認するために、元気なうちに読んでおくという活用法もあることを、知っておいてほしい。

 最後にもう一度。わたしが紹介したものがぬるいなら、もっとキッツいのを教えて欲しい。なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

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