リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』はスゴ本
不器用だけど思いやりあふれる家族の物語に、「ひとりの個人が世界と向き合うとき、どれだけの意味があるのか」という問いが折り込まれている。
ポストモダン文学の旗手、リチャード・パワーズはこれが初体験なのだが、素晴らしいとしかいいようがない。読中「?」と感じていた沢山の小話や言及が、後半になるにつれ絡み合い、収束しつつも微妙に食い違い、発散してゆく。複数の視点が交替し、ぐんぐん読んでいったら、実は伏線だらけ、相互言及飛ばしまくり、入れ子と多層と複合された物語構造だったこと気付き、ゾクゾクする。
そして、ラストの「カラマイン」の章の構造的どんでん返しが凄い。今まで読んできたものが何だったのか瞠目し、読み返しを促す。再読すると、世界がぐるりと裏返る。初読時は、父・エディが子どもたちに伝えたいことを、「囚人のジレンマ」をキーに探すように読んでいたのだが、読み返すうちに、そんな隠されていたものなんてないことが分かる。父は、最初から、その生き様からして、子どもたちに示し、諭し、教えていたのだ。
どのページにも父のメッセージが、愛が、言葉が折り畳まれ、散りばめられいたことが分かる(全てのページにだ!)。これに気づいたとき、その愛のあまりのつよさにくらくらときた。これ一冊つかって、この世界でどうやって生きるのかが力強く歌われているのだ。
この構造に気付く人は少ない(読書メーターに2人、Amazonレビューは皆無)。なので、ここでは、その読み解きも含めて記したい。巻末の「訳者あとがき」がヒントになる。訳者・柴田元幸氏がネタバレを巧妙に回避しているのが優しいが、ここではネタバレ書いちゃうのでご注意を。また、これはパワーズ読書会に向け、物語構造まで突っ込んでおり、未読の方は回避したほうが吉だと思う。
物語は、大きく3つの形式をとっている。
まず、ホブソン一家の物語。「1」「2」といった章番号がつけられ、現代(1970-80)を三人称で語られている(a)。次に、「1940-41年」など年号が章題になっており、第二次世界大戦中のアメリカを舞台とする出来事が語られる(b)。これは、細い明朝体が使われているため、見た目からして判別できる。そして、「なぞなぞ」「主要時制」といったフレーズを章題とする、ホブソン家の息子が一家の暮らしを回想し、父の過去を再構築する物語がある(c)。これも、細い明朝体が使われている。
基本的に以下のa、b、cが交互に折り重なるように並んでおり、読み手は、順に追いながら、家族のそれぞれが抱えている悩みは何か、その焦点となっている父の病の正体は何かを探しながら読むことになる。このあたりは「訳者あとがき」の通りだ。
aは時系列に並んでおり、父の病をめぐる家族のやりとりがあたたかい。いっぽうbは、読み進めるにつれ、一種の偽史であることが分かる。たとえば当時、膨大な数の日系アメリカ人を「敵性外国人」とみなし、強制収容所に入れたことは歴史の通りだが、そうした日系人をウォルト・ディズニーが救い出そうとする話は、語り手の創作だ(ではその騙り手は?)。そしてcは「誰」が父について語っているかが謎になる。「僕」という一人称から兄(アーティ)か弟(エディ・ジュニア)しかないのに、そこに登場するアイテムや会話が、aと微妙に違う。
さらに、cはaと大きな食い違いが見えてくる。例えば、「なぞなぞ」や「カラマイン」で子どもの数は5人なのに、aでは4人である。最初は、わたしの誤読かと思いきや、全部読むと、作者の仕掛けであり、その食い違いも含めてどう読むかが委ねられていることが分かってくる。
読み進むにつれ、bはさらに、「ホブズタウン」という場所を舞台にした、テープに吹き込まれた物語に重ねられていることが見えてくる。もちろん、録音主は父である。家族はこれを、「映画の脚本」「現実逃避のファンタジー」と見なすが、後半にさしかかるにつれ、「ファンタジー」が現実と微妙にシンクロしはじめる("微妙に"というのが重要で、けっして両者は一致しない)。
a、b、cそれぞれの物語は、パワーズがマーキングした糊代によってつながってくる。ざっと挙げると、
- 有刺鉄線に囲まれた収容所(bの舞台ホブズタウンとaの舞台イリノイ州ディカルブ)
- 一票の恐るべき力(ミッキーマウスとフォン・ブラウン)
- カラマイン(父と息子)
- いまどこにいるのかは、どうやってそこにたどり着いたのかによる(a、b、c)
- タイムカプセル(b、c)
- 人間誰にでも、誰もが思っている以上のものがある(a、c)
- きみが戦争だ(a、b、c)
- 僕がどこまで自由なのか教えてよ、父さん(a、c)
- 囚人のジレンマ(a、b、c)
- それは五月のなかばの、二度とくり返しようのない日で、まだ家に残っている者たちはみな夕食の席につく
最後の、「それは五月のなかばの......」は重要なヒントになる。「V-J」の章(c)で父(エディ)が口述録音し、ラスト近くの「カラマイン」の章(c)で続きが明かされ、「1979年」の章(b)に引き継がれる。すなわち、cにも父の「ファンタジー」が入り込んでおり、読み手は最後の最後になって、息子の誰かが亡き父を回想しているというc自体が虚構なのではないかと気づかされる仕掛けになっている。
そして、その目で見るならば、cの「カラマイン」の章の矛盾(長男が法律ではなく医学を専攻していること、息子が2人ではなく3人いること、弟が四大ではなく短大に行くこと)が、冒頭の「なぞなぞ」の章(子どもが5人いること、父がほとんど何も残さなかったこと)とaとの食い違いの証拠になる。つまり、「カラマイン」や「なぞなぞ」はaと矛盾しているのではなく、父の口述が入り込んでいるのだ。
どの時点で父が録音したかは分からない。だが、父がこうあってほしい、こう伝わってもらいたいという思いが、長男アーティや次男エディ・ジュニアの回想とシンクロし、まさに父が望んだように考え始めていることを、読者にだけ分かってもらえるように、パワーズは仕込んでいるのである。
これに気付いたとたん、バーっと小説世界が拡張する。父が遺した多くの言葉が、思い出が、小説全体の中に散らばり落ちていることに気付く。何気なく読み流していた一言半句、しぐさ、表情が、大きな愛をもって伝えられることを求められていたことが分かる。それはここだ。
いまどこにいるのかは、どうやってそこにたどり着いたのかによる―――それが父の話のポイントだ。最新見出しのすぐ裏側、国際趨勢のすぐ内側で、あらゆることが意味をもって浮かび上がる。父は何の教科書も使わない。使うのは、僕らがその中に放り込まれている、アメリカンライフによって無視されるよう意図された教科書だけ。物事は起こるのだということ。物事は大事なのだということ。われわれこそ現在の戦争なのだ。
父が遺した書類フォルダを元に、アーティが回想する「もしも過酷な一分間を」の章である。父の願望として読んでもいいし、まさに父がそう感じて欲しいと思った通りに(b)アーティが感じ、考えた章として読んでもいい。これと同じように読み手が、パワーズの期待通りに感じるかどうかは、読み手に委ねられている。
ただ、読み手の自覚いかんにかかわらず、個人の生が世界の中で持ちうる重さについて、事実は変わらない。人生ひとつが、世界に対して違いを生んでいるとするのなら、それは生の持ち主がどこまで信じていられるかによるという事実である。「訳者あとがき」で引用されている『ナイン・インタビューズ』におけるパワーズの発言と、本書のエピグラフがその証左である。
「個人というものがどれだけ重みをもつのか、私はいまも迷っている。正しい方向に押せば、相当に重みをもつと思っている」T.E.ロレンス
「どこかの次元で、人生一つひとつが、世界に大きな違いを生んでいるのだと、今でも信じています。ただその信じ方は、若いときと違っています」『ナイン・インタビューズ』より
自己の利益を求めるあまり他者を蔑ろにした結果、互いに破滅の選択肢を選ぶという、いわゆる「囚人のジレンマ」は、様々な変奏・輻輳を経て、ウォルト・ディズニーが結論づける。これを「実行」したのが、父・エドワード・ホブソンの人生だったのだといえる。わたしは、パワーズを、エディを信じるほうを、選びたい。
世界は無数の人間ではない。一人、一人、一人、その足し算である。それら一人ひとりが放棄しはじめるまでは、袋小路にはならないのだ。そして、もし彼らが、ほかの人たちとの善意とつながりを保つなら、放棄する必要も生じはしない
(中略)
「一人の人生、きみの人生が、それに触れる人生すべてをいかに変えるかを示すんだ。見た目にしたがってではなく、信頼にしたがって歩むかぎり、ゲームをつづける価値があるってことを証明するんだ」
最後に。全体の章を以下にまとめる。カッコ()内は、主な話者やトピック。
- なぞなぞ(アーティ)
- 1(アーティ)
- 2
- ホブズタウン 1939年(バド・ミドルトン)
- 3(リリー)
- 4(囚人のジレンマ)
- 主要時制(アーティ?エディ?)
- 5
- 1940-41年(ミッキーマウス)
- 6(リリーとレイチのタイプライター会話)
- 7(アイリーン)
- 1942年 春(エディ、ウォルト・ディズニー)
- 8(アーティ)
- 9(エディ)
- 目には目を(アーティ)
- 10(レイチェルとアーティ)
- 1942年 秋(ウォルト・ディズニー)
- 11(エディ・ジュニア)
- 12(リリーから隣人に宛てた手紙)
- 1943年(ウォルト・ディズニー)
- 13
- もしも過酷な一分間を(アーティ)
- 14
- 1944年(エディとウォルト・ディズニー)
- 15(エディ・ジュニア)
- 16(リリーとアイリーン)
- 17
- 1945年(エディとウォルト・ディズニー)
- 18(アーティ 父のテープ)
- 網目を破る(アーティ?エディ・ジュニア?)
- 19(父のテープ)
- V-J(エディ・ジュニア)
- 20(エディ・ジュニア)
- 21
- カラマイン(エディ・ジュニア)
- 1979年
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