古井由吉『槿』はスゴ本
服から露出し見える部分(顔、首、胸元、手足)で肌感を把握し、服に隠された部分は想像で創造できる。体にフィットした服でなくても、カラダのかたちは脳内で再生できる。なぜなら、歩いたり振り向いたりする瞬間の、衣服と身体のコンマ何秒かのずれを変換することで、かなりの再現度により脳内で露出可能だから。
ほら、元はアイドルの水着姿で、肌のあらわな部分を残して切り抜いた画像があるでしょ。切り抜かれた部分は水着であることは分かっているのに、あたかも全裸であるかのように見えてしまう。これは、見えていない部分を補完する認知能力の変態型だといえる。
こうなってくると、肉付きよりも、むしろ骨格や姿勢が重要である。弾性、におい、しっとり感が優先される。おっぱいなんていくらでもスケールアウトできるパラメーターにすぎない。高い再現性を誇る視覚よりも、嗅覚や触覚のほうが、より直裁に刺激的である
だから、裸体よりも体液のほうが刺激的である。大事な生々しい汁なんて簡単に拝めるものではないので、涙や唾液、鼻水になる。吐瀉物なんてごほうびやね。漫画のレトリックで、女の子の吐くのがキラキラしているでしょ? あれ真理だと思う。『ぼくのヒーローアカデミア』『ハルシオン・ランチ』なんて宝物以外の何ものでもない。
そういう変態御用達が『槿』なり。何気ない仕草や所作の内に、生々しい体臭と肉体温度を感じ取る描写がすばらしい。女が吐く姿を「喉を細く、はてしもなく絞る」なんて最高なり。あからさまなエロティックではない。一人で部屋にいるときの無防備な表情や動作から、素の、生の、女のすがたを露わにする。服は意味をなさない。そういう視線を引き出してしまう人はいるし、そういう視線をしてしまう人がいる。
やがて女がゆっくりと脚をおろし、遠くを眺めて靴をはき、みぞおちを窪めて腰をあげたとき、杉尾はあらわな、裸体の動作を感じた。女は杉尾のほうへ輪郭の奇妙に鮮明な、遠い記憶像の味のする横顔を向けて、人に見られている意識はなく、ほんのしばらく完全に静止した。それからすっと、歩き出した。
献血を終え、向かいのソファーに座った女の様子を、さっと撫でるように描いているのだが、その書きっぷりがいい。目がひらききり、潤み、感情の色はない。パブリックなところでくつろぐようすが場違いでえっちだ。このえっちは、本来の意味でHなり(性行為を「Hする」というが、”Hentai”(変態)の頭文字からすると、まったくもって変態行為ではない)。
くまなく心理を叙述したり、きちんとピントを当てていない。情景をひきとるキーアイテムを配置し、語りと併走させるテクニックを味わい、見えていない部分を補完する。放火サイレンや、槿(あさがお)の鉢、白いキャリーバッグなど、それぞれの場面の鍵となるものと人のやりとりを介して話を進める。キーアイテムをあてつけに、感情と妄想を差し繰りしていくうち、情欲が絡み合い匂い立ってくる。
結果、話の向かう先があいまいとしていく。主人公が自らを省みている文章なのに、主体を見失う。過去を振り返った今なのか、今、昔の声と重なっているのか、分からなくなってくる。自分を観察者としているような、世界のあいまいさを味わい続けることになる。それでいて、狂っている(といったら言い過ぎなら、逸脱している)のは誰だろう? と考えると、いつまで経っても「信頼できない語り手」の罠から抜け出せぬ。まさに変態向けの小説といえる。
他者との関係性の中で、記憶をたぐり寄せながら、かろうじて自分を守っているかのような気がしてくる。いわゆる「意識の流れ」に注意しながら追っていくと見失う。同時に、自身が自分の身体の内側からすべり落ちるような感覚に見舞われる。自分の記憶が信じられないなんて、ホラーだぜ。寓話寄りにすると、ブライアン・エヴンソン『遁走状態』になるが、『槿』はもっと近しい親しい狂気(というか現実との乖離)になる。
じっさい、291頁に魂が動く「離魂」なる言葉が出てくるが、この作品を象徴的に言い表している。離人症というと病気扱いされてしまうが、元来、人は「自分」とそんなに重なり合って生きているものではない。桜の白さ、遠くのサイレンの音、やりかけの仕事、追いついてくる過去に囚われ、呑み込まれようとする。そうなるまいと引き戻したり、ときに思い出に遊ばれるがままに放置したりする。むしろ、そうした引き寄せや遊ばせをしているそのものが、「自分」なのかもしれぬ。
ひとりの男と、ふたりの女を描いた小説なのだが、「性愛」とか「情事」といった言葉をあてはめてよいものか、分からなくなってくる。露出している描写が全てだと思って読んでいると、思わず知らず迷うこと請け合う。
離魂のたゆたいの中で心を遊ばせ、服に隠された部分を妄想で補うように読むうち、男女の深いところを触りあてる。とことん読書は贅沢だと感じ入る一冊。
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