« 2017年11月 | トップページ | 2018年1月 »

リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』はスゴ本

 読んでる時より、思い出してる時のほうが心を震わせた傑作。

 不器用だけど思いやりあふれる家族の物語に、「ひとりの個人が世界と向き合うとき、どれだけの意味があるのか」という問いが折り込まれている。

 ポストモダン文学の旗手、リチャード・パワーズはこれが初体験なのだが、素晴らしいとしかいいようがない。読中「?」と感じていた沢山の小話や言及が、後半になるにつれ絡み合い、収束しつつも微妙に食い違い、発散してゆく。複数の視点が交替し、ぐんぐん読んでいったら、実は伏線だらけ、相互言及飛ばしまくり、入れ子と多層と複合された物語構造だったこと気付き、ゾクゾクする。

 そして、ラストの「カラマイン」の章の構造的どんでん返しが凄い。今まで読んできたものが何だったのか瞠目し、読み返しを促す。再読すると、世界がぐるりと裏返る。初読時は、父・エディが子どもたちに伝えたいことを、「囚人のジレンマ」をキーに探すように読んでいたのだが、読み返すうちに、そんな隠されていたものなんてないことが分かる。父は、最初から、その生き様からして、子どもたちに示し、諭し、教えていたのだ。

 どのページにも父のメッセージが、愛が、言葉が折り畳まれ、散りばめられいたことが分かる(全てのページにだ!)。これに気づいたとき、その愛のあまりのつよさにくらくらときた。これ一冊つかって、この世界でどうやって生きるのかが力強く歌われているのだ。

 この構造に気付く人は少ない(読書メーターに2人、Amazonレビューは皆無)。なので、ここでは、その読み解きも含めて記したい。巻末の「訳者あとがき」がヒントになる。訳者・柴田元幸氏がネタバレを巧妙に回避しているのが優しいが、ここではネタバレ書いちゃうのでご注意を。また、これはパワーズ読書会に向け、物語構造まで突っ込んでおり、未読の方は回避したほうが吉だと思う。

 物語は、大きく3つの形式をとっている。

 まず、ホブソン一家の物語。「1」「2」といった章番号がつけられ、現代(1970-80)を三人称で語られている(a)。次に、「1940-41年」など年号が章題になっており、第二次世界大戦中のアメリカを舞台とする出来事が語られる(b)。これは、細い明朝体が使われているため、見た目からして判別できる。そして、「なぞなぞ」「主要時制」といったフレーズを章題とする、ホブソン家の息子が一家の暮らしを回想し、父の過去を再構築する物語がある(c)。これも、細い明朝体が使われている。

 基本的に以下のa、b、cが交互に折り重なるように並んでおり、読み手は、順に追いながら、家族のそれぞれが抱えている悩みは何か、その焦点となっている父の病の正体は何かを探しながら読むことになる。このあたりは「訳者あとがき」の通りだ。

 aは時系列に並んでおり、父の病をめぐる家族のやりとりがあたたかい。いっぽうbは、読み進めるにつれ、一種の偽史であることが分かる。たとえば当時、膨大な数の日系アメリカ人を「敵性外国人」とみなし、強制収容所に入れたことは歴史の通りだが、そうした日系人をウォルト・ディズニーが救い出そうとする話は、語り手の創作だ(ではその騙り手は?)。そしてcは「誰」が父について語っているかが謎になる。「僕」という一人称から兄(アーティ)か弟(エディ・ジュニア)しかないのに、そこに登場するアイテムや会話が、aと微妙に違う。

 さらに、cはaと大きな食い違いが見えてくる。例えば、「なぞなぞ」や「カラマイン」で子どもの数は5人なのに、aでは4人である。最初は、わたしの誤読かと思いきや、全部読むと、作者の仕掛けであり、その食い違いも含めてどう読むかが委ねられていることが分かってくる。

 読み進むにつれ、bはさらに、「ホブズタウン」という場所を舞台にした、テープに吹き込まれた物語に重ねられていることが見えてくる。もちろん、録音主は父である。家族はこれを、「映画の脚本」「現実逃避のファンタジー」と見なすが、後半にさしかかるにつれ、「ファンタジー」が現実と微妙にシンクロしはじめる("微妙に"というのが重要で、けっして両者は一致しない)。

 a、b、cそれぞれの物語は、パワーズがマーキングした糊代によってつながってくる。ざっと挙げると、

  • 有刺鉄線に囲まれた収容所(bの舞台ホブズタウンとaの舞台イリノイ州ディカルブ)
  • 一票の恐るべき力(ミッキーマウスとフォン・ブラウン)
  • カラマイン(父と息子)
  • いまどこにいるのかは、どうやってそこにたどり着いたのかによる(a、b、c)
  • タイムカプセル(b、c)
  • 人間誰にでも、誰もが思っている以上のものがある(a、c)
  • きみが戦争だ(a、b、c)
  • 僕がどこまで自由なのか教えてよ、父さん(a、c)
  • 囚人のジレンマ(a、b、c)
  • それは五月のなかばの、二度とくり返しようのない日で、まだ家に残っている者たちはみな夕食の席につく

 最後の、「それは五月のなかばの......」は重要なヒントになる。「V-J」の章(c)で父(エディ)が口述録音し、ラスト近くの「カラマイン」の章(c)で続きが明かされ、「1979年」の章(b)に引き継がれる。すなわち、cにも父の「ファンタジー」が入り込んでおり、読み手は最後の最後になって、息子の誰かが亡き父を回想しているというc自体が虚構なのではないかと気づかされる仕掛けになっている。

 そして、その目で見るならば、cの「カラマイン」の章の矛盾(長男が法律ではなく医学を専攻していること、息子が2人ではなく3人いること、弟が四大ではなく短大に行くこと)が、冒頭の「なぞなぞ」の章(子どもが5人いること、父がほとんど何も残さなかったこと)とaとの食い違いの証拠になる。つまり、「カラマイン」や「なぞなぞ」はaと矛盾しているのではなく、父の口述が入り込んでいるのだ。

 どの時点で父が録音したかは分からない。だが、父がこうあってほしい、こう伝わってもらいたいという思いが、長男アーティや次男エディ・ジュニアの回想とシンクロし、まさに父が望んだように考え始めていることを、読者にだけ分かってもらえるように、パワーズは仕込んでいるのである。

 これに気付いたとたん、バーっと小説世界が拡張する。父が遺した多くの言葉が、思い出が、小説全体の中に散らばり落ちていることに気付く。何気なく読み流していた一言半句、しぐさ、表情が、大きな愛をもって伝えられることを求められていたことが分かる。それはここだ。

いまどこにいるのかは、どうやってそこにたどり着いたのかによる―――それが父の話のポイントだ。最新見出しのすぐ裏側、国際趨勢のすぐ内側で、あらゆることが意味をもって浮かび上がる。父は何の教科書も使わない。使うのは、僕らがその中に放り込まれている、アメリカンライフによって無視されるよう意図された教科書だけ。物事は起こるのだということ。物事は大事なのだということ。われわれこそ現在の戦争なのだ。

 父が遺した書類フォルダを元に、アーティが回想する「もしも過酷な一分間を」の章である。父の願望として読んでもいいし、まさに父がそう感じて欲しいと思った通りに(b)アーティが感じ、考えた章として読んでもいい。これと同じように読み手が、パワーズの期待通りに感じるかどうかは、読み手に委ねられている。

 ただ、読み手の自覚いかんにかかわらず、個人の生が世界の中で持ちうる重さについて、事実は変わらない。人生ひとつが、世界に対して違いを生んでいるとするのなら、それは生の持ち主がどこまで信じていられるかによるという事実である。「訳者あとがき」で引用されている『ナイン・インタビューズ』におけるパワーズの発言と、本書のエピグラフがその証左である。

「個人というものがどれだけ重みをもつのか、私はいまも迷っている。正しい方向に押せば、相当に重みをもつと思っている」T.E.ロレンス

「どこかの次元で、人生一つひとつが、世界に大きな違いを生んでいるのだと、今でも信じています。ただその信じ方は、若いときと違っています」『ナイン・インタビューズ』より

 自己の利益を求めるあまり他者を蔑ろにした結果、互いに破滅の選択肢を選ぶという、いわゆる「囚人のジレンマ」は、様々な変奏・輻輳を経て、ウォルト・ディズニーが結論づける。これを「実行」したのが、父・エドワード・ホブソンの人生だったのだといえる。わたしは、パワーズを、エディを信じるほうを、選びたい。

世界は無数の人間ではない。一人、一人、一人、その足し算である。それら一人ひとりが放棄しはじめるまでは、袋小路にはならないのだ。そして、もし彼らが、ほかの人たちとの善意とつながりを保つなら、放棄する必要も生じはしない
(中略)
「一人の人生、きみの人生が、それに触れる人生すべてをいかに変えるかを示すんだ。見た目にしたがってではなく、信頼にしたがって歩むかぎり、ゲームをつづける価値があるってことを証明するんだ」

 最後に。全体の章を以下にまとめる。カッコ()内は、主な話者やトピック。

  • なぞなぞ(アーティ)
  • 1(アーティ)
  • 2 
  • ホブズタウン 1939年(バド・ミドルトン)
  • 3(リリー)
  • 4(囚人のジレンマ)
  • 主要時制(アーティ?エディ?)
  • 5
  • 1940-41年(ミッキーマウス)
  • 6(リリーとレイチのタイプライター会話)
  • 7(アイリーン)
  • 1942年 春(エディ、ウォルト・ディズニー)
  • 8(アーティ)
  • 9(エディ)
  • 目には目を(アーティ)
  • 10(レイチェルとアーティ)
  • 1942年 秋(ウォルト・ディズニー)
  • 11(エディ・ジュニア)
  • 12(リリーから隣人に宛てた手紙)
  • 1943年(ウォルト・ディズニー)
  • 13
  • もしも過酷な一分間を(アーティ)
  • 14
  • 1944年(エディとウォルト・ディズニー)
  • 15(エディ・ジュニア)
  • 16(リリーとアイリーン)
  • 17
  • 1945年(エディとウォルト・ディズニー)
  • 18(アーティ 父のテープ)
  • 網目を破る(アーティ?エディ・ジュニア?)
  • 19(父のテープ)
  • V-J(エディ・ジュニア)
  • 20(エディ・ジュニア)
  • 21
  • カラマイン(エディ・ジュニア)
  • 1979年

| | コメント (0) | トラックバック (0)

このエロマンガがエロい!2017

愚息を幸せにしたえっちなマンガのベスト3を書いた。
このエロマンガがエロい!2017

| | コメント (0) | トラックバック (0)

古井由吉『槿』はスゴ本

 わたしぐらい上級者になると、服は意味をなさない。

 服から露出し見える部分(顔、首、胸元、手足)で肌感を把握し、服に隠された部分は想像で創造できる。体にフィットした服でなくても、カラダのかたちは脳内で再生できる。なぜなら、歩いたり振り向いたりする瞬間の、衣服と身体のコンマ何秒かのずれを変換することで、かなりの再現度により脳内で露出可能だから。

 ほら、元はアイドルの水着姿で、肌のあらわな部分を残して切り抜いた画像があるでしょ。切り抜かれた部分は水着であることは分かっているのに、あたかも全裸であるかのように見えてしまう。これは、見えていない部分を補完する認知能力の変態型だといえる。

 こうなってくると、肉付きよりも、むしろ骨格や姿勢が重要である。弾性、におい、しっとり感が優先される。おっぱいなんていくらでもスケールアウトできるパラメーターにすぎない。高い再現性を誇る視覚よりも、嗅覚や触覚のほうが、より直裁に刺激的である

 だから、裸体よりも体液のほうが刺激的である。大事な生々しい汁なんて簡単に拝めるものではないので、涙や唾液、鼻水になる。吐瀉物なんてごほうびやね。漫画のレトリックで、女の子の吐くのがキラキラしているでしょ? あれ真理だと思う。『ぼくのヒーローアカデミア』『ハルシオン・ランチ』なんて宝物以外の何ものでもない。

 そういう変態御用達が『槿』なり。何気ない仕草や所作の内に、生々しい体臭と肉体温度を感じ取る描写がすばらしい。女が吐く姿を「喉を細く、はてしもなく絞る」なんて最高なり。あからさまなエロティックではない。一人で部屋にいるときの無防備な表情や動作から、素の、生の、女のすがたを露わにする。服は意味をなさない。そういう視線を引き出してしまう人はいるし、そういう視線をしてしまう人がいる。

やがて女がゆっくりと脚をおろし、遠くを眺めて靴をはき、みぞおちを窪めて腰をあげたとき、杉尾はあらわな、裸体の動作を感じた。女は杉尾のほうへ輪郭の奇妙に鮮明な、遠い記憶像の味のする横顔を向けて、人に見られている意識はなく、ほんのしばらく完全に静止した。それからすっと、歩き出した。

 献血を終え、向かいのソファーに座った女の様子を、さっと撫でるように描いているのだが、その書きっぷりがいい。目がひらききり、潤み、感情の色はない。パブリックなところでくつろぐようすが場違いでえっちだ。このえっちは、本来の意味でHなり(性行為を「Hする」というが、”Hentai”(変態)の頭文字からすると、まったくもって変態行為ではない)。

 くまなく心理を叙述したり、きちんとピントを当てていない。情景をひきとるキーアイテムを配置し、語りと併走させるテクニックを味わい、見えていない部分を補完する。放火サイレンや、槿(あさがお)の鉢、白いキャリーバッグなど、それぞれの場面の鍵となるものと人のやりとりを介して話を進める。キーアイテムをあてつけに、感情と妄想を差し繰りしていくうち、情欲が絡み合い匂い立ってくる。

 結果、話の向かう先があいまいとしていく。主人公が自らを省みている文章なのに、主体を見失う。過去を振り返った今なのか、今、昔の声と重なっているのか、分からなくなってくる。自分を観察者としているような、世界のあいまいさを味わい続けることになる。それでいて、狂っている(といったら言い過ぎなら、逸脱している)のは誰だろう? と考えると、いつまで経っても「信頼できない語り手」の罠から抜け出せぬ。まさに変態向けの小説といえる。

 他者との関係性の中で、記憶をたぐり寄せながら、かろうじて自分を守っているかのような気がしてくる。いわゆる「意識の流れ」に注意しながら追っていくと見失う。同時に、自身が自分の身体の内側からすべり落ちるような感覚に見舞われる。自分の記憶が信じられないなんて、ホラーだぜ。寓話寄りにすると、ブライアン・エヴンソン『遁走状態』になるが、『槿』はもっと近しい親しい狂気(というか現実との乖離)になる。

 じっさい、291頁に魂が動く「離魂」なる言葉が出てくるが、この作品を象徴的に言い表している。離人症というと病気扱いされてしまうが、元来、人は「自分」とそんなに重なり合って生きているものではない。桜の白さ、遠くのサイレンの音、やりかけの仕事、追いついてくる過去に囚われ、呑み込まれようとする。そうなるまいと引き戻したり、ときに思い出に遊ばれるがままに放置したりする。むしろ、そうした引き寄せや遊ばせをしているそのものが、「自分」なのかもしれぬ。

 ひとりの男と、ふたりの女を描いた小説なのだが、「性愛」とか「情事」といった言葉をあてはめてよいものか、分からなくなってくる。露出している描写が全てだと思って読んでいると、思わず知らず迷うこと請け合う。

 離魂のたゆたいの中で心を遊ばせ、服に隠された部分を妄想で補うように読むうち、男女の深いところを触りあてる。とことん読書は贅沢だと感じ入る一冊。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

問題を「発見」する方法

 読書猿『問題解決大全』はスゴ本で、以下の質問をいただいたので、回答する。

問題解決大全には問題発見のノウハウまでは載っていませんでしょうか? 問題発見のノウハウ本を探しているのですが、なかなか良いのが見つからなくて。世には問題解決の本は山ほどありますが、その割には問題発見のノウハウ本って少ない気がします。
(名無しさん@2017.12.11 21:58)

 まずお詫び。わたしの紹介文で、問題の解決方法「だけ」を扱っているかのような印象を与えてしまい、申し訳ない。

 そんなことは全然なく、むしろ逆だ。『問題解決大全』は、どのように問題をつかまえるかの本と言っていい。「どのような問いを立てれば、解に近づくことができるか」について、古今東西の知の巨人たちの力を結集したもの。「正しく問う」ことがどれほど難しいか、よく分かる。

 問題を正しく問うことができたなら、ほぼ解決したも同然と言ったら言いすぎだろうか。

 少なくとも、きちんと問題を問題化できたら、後は比較的機械的に行ける。すなわち、

 1. 問題を適切な大きさの課題に分割する
 2. それぞれの課題を達成するためのタスクを割り振る
 3. タスクに対し、時期と目標値を設定する
 4. タスクにリソース(人と時と金)を投入する
 5. リソースの消化と目標の達成状況を管理する

 この辺になると、そこら辺の問題解決本の範疇になる。世の中に山のようにある問題解決本は、正しく言い当てられた問題からスタートする。マネジメントの話や、リスクとリソースのコントロール、モチベーションと進捗管理の話になる。口当たりの良い、一読しただけで「問題」だと分かり、教科書の「問1」「問2」みたいな問題である。言い換えるなら、このやり方にはまらない「問題」は、そこらの問題解決本では問題と認識されない。

 でも、現実は違うよね。

 世の中、「これは問題だ」と誰もが明白に言えるような問題は、実は少ない。

 問題のように見えるのは一面からだけで、それは別の問題Bの原因だったりする(そして問題Bを解決することで解消する事象だったりする)。あるいは、その問題は別の人にとっては問題ですらなかったりする。さらに、その問題を問題視する人の価値観が変わったり、時の経過や状況変化によって「問題」にならなくなったりする。利害や因果や抽象度が入り組んでいて、問題が特定できなかったりする。その問題を解決するリソースこそが「問題」な場合や、問題視している人自身が「問題」の場合もある。世の中の問題は、「問題」の形をしていない。

 問題を「正しく」問うことそのものが、一番の問題なのである。

 これに応えたのが、『問題解決大全』になる。

 問題とは何か、本書の定義はシンプルに断言する。すなわち、「問題解決とは、"~したい"と思うことを実現すること」だという。読んでいくと、もっと素朴な例もある。「なんかイヤだ」と感じていることに言葉を与える。「~だといいのに」の対象をもっと具体的にする。その上で、そちらに向かうために、どういうアプローチをすれば良いかをガイドする。

 名無しさんの質問にある「問題発見」は、そこなんじゃないかなと思う。もやんとした「思い」に言葉と形を与え、自分自身も含めた誰かに伝えられるように可視化する。それに応えてくれる。つまり、『問題解決大全』は、問題を可視化し、「正しく問う」ためのガイドなのだ。

 では、どの技法が適しているか? 目次「問題の認知」で一発で分かる。

第1章 問題の認知
 01 100 年ルール The 100-year rule  大した問題じゃない
 02 ニーバーの仕分け Niebuhr's Assorting  変えることのできるもの/できないもの
 03 ノミナル・グループ・プロセス Nominal Group Process  ブレスト+投票で結論を出す
 04 キャメロット Camelot  問題を照らす理想郷という鏡
 05 佐藤の問題構造図式 Sato's Problem Structure Scheme  目標とのギャップは直接解消できない
 06 ティンバーゲンの4つの問い Tinbergen's four questions  「なぜ」は 4 種類ある
 07 ロジック・ツリー Logic Tree  問題を分解し一望する
 08 特性要因図 0 9 1 fishbone diagram  原因と結果を図解する

第 5 章 問題の認知
 27 ミラクル・クエスチョン The miracle question  問題・原因ではなく解決と未来を開く
 28 推論の梯子 The Ladder of Inference  正気に戻るためのメタファー
 29 リフレ ーミング Reframing  事実を変えず意味を変える
 30 問題への相談 Consulting the problem about the problem  問題と人格を切り離す
 31 現状分析ツリー Current reality tree  複数の問題から因果関係を把握する
 32因果ループ図 Causal Loop Diagram  悪循環と渡り合う

 「問題の認知」の技法として、第1章で8つ、第5章6つ、合計14の技法が紹介されている。

 なぜ、「問題の認知」が2つに分かれているかというと、それぞれ、「リニアな問題解決」「サーキュラーな問題解決」と2つのアプローチに分類されているから。

 リニアな問題解決とは、直線的な因果性を基礎に置く問題解決であり、理想と現状のギャップを何らかの形で埋めたり、より「上流」の悪原因を取り除くことを目的とする。解決者は、問題の外側から分析し、必要なリソースも問題の外から供給される。

 いっぽう、サーキュラーな方はより複雑だ。解決する人もまた、問題を構成する因果のループの中に組み込まれている。問題を問題たらしめている要素もまた、因果ループの中で再生産しており、必要なリソースも解決すべき問題として考慮しなければならない。

 本書では、2つのアプローチを使い分けながら「正しく問う」ことを目指す。名無しさんが求めている「問題発見」は分からない。だが、ほぼどんな時にも使えて、不慣れな状況でもオールマイティに使える技法は、「ニーバーの仕分け」だな。[ニーバーの祈り]を技法化したもので、変えることのできるもの/できないものを分けて数値化する。そして、「変えることができるもの」を問題として定義するわけだ。

 わたしはニーバーの祈りを実践するとき、「イチローのコントロール」と置き換えている。インタビューで、ライバルのバッターの成績と比較されたとき、イチローはこう答えたという。「全く気にしない。自分のコントロール外のことだから」。自分がコントロールできることと、コントロールできないことを分ける。そして、コントロールできることに集中する。あたりまえといえばあたりまえなのだが、わたしたちは、変えられないものを「問題」視することで、貴重なリソースを無駄にしがち。それなら、できることに集中しよう。

 ちょっと気をつけて欲しいのが、「問題の認知」の第1章、第5章で済まないところ。問題を構成する因果のループが入り組んでおり、問題が「問題」の姿をしていない場合がある(現実ではほとんどだ!)。この場合は、「サーキュラーな問題解決」のアプローチ全てが、「正しく問う」ガイドになる。

 たとえば、解決法を探究する行為そのものが問題の再定義化を促す「スケーリング・クエスチョン(技法33)」がある。あるいは、解決策を仮設定し、とにかく進んでみることで真の問題とのFit-Gapを可視化する「ピレネーの地図(技法36)」などは、「サーキュラーな問題解決」として紹介されている。問題が因果ループに取り込まれているのなら、「正しく問う」ために、そのループを回す必要がある。ループを回しながら、コントロールできる問題に「問題化」するのだ。

 「問題発見」とは、問題を正しく問うこと。そして、問題を正しく問うことができたなら、解決へ大きく前進したことになる。

 各章の扉には、簡単な紹介とレシピが載っている。書店でパラ見して、名無しさんの今の「~したい」に合いそうなものを選んでみるといいかも。そして、これは自信をもって言えるのだが、名無しさんの今の「~したい」にも未来の「~したい」にも必ず合うツールが、きっと書いてある。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

いきなり古典はハードル高い、「本の本」「100分de名著」をお薦めする

 「古典を読むべきか」という問いが面白かった。

[読書家の人は古典的な名著を読んできたのだろうけど]

古典は基礎体力のようなものだからやはり若いころに読むのがふさわしいのだろうけど、年齢を重ねてからでは読む価値が薄いという意見を聞くたびに、うるせえなじゃあ読まねえよなんて思ってしまう。読むのはせいぜいラノベなおっさんが古典を読む価値はあるのだろうか?ていうかそもそも読めるのだろうか?

 これへの応答[はてなブックマークコメント]がタメになる。説得力のある見解をコメントする人もいれば、答える形で優越感ゲームを仕掛ける人もいる。ここでは、わたしの考えをまとめてみる。

 まず、「古典は若いときに読んだほうがいい」という意見について。

 これは体力の話。ある種の勢いというか、読了したという自意識を求め、体力まかせのイッキ読みは、若いからできること。古典を読んだからエラいとかいう優越感(?)も、若いからもてるもの。では、トシとったら読めないかというと、そうではない。若さにまかせて読めないけれど、じわじわと読めばいい。むしろトシとって経験積んだ分、「わかりみ」が増してる。

 次に、「古典はトシとったら読む価値が薄い」という意見について。

 トシ関係ない。好きで読むなら価値のありなしはご自分で、と言うしかない。ただ、自信を持っていえるのは、人生は有限であること。ラノベに限らず、新しい本を新しいからという理由で追いかけるのは得策ではない。次から次へと出てきてキリがないし、新刊はあっという間に古くなるから。

 一方、古典なら、時間の洗礼を受けている分、それを受け継いできた人によって「価値あり」と判断されたと言える。その「価値あり」は、これから読もうとする人にとって「価値あり」かどうかは、やっぱり分からないけれど、試しに手に取るだけの価値はあると思う。

 また、これは文学に限るが、古典の名作のリストはアップデートされるということ。「世界名作全集」とか「読むべき名作」みたいなリストは、入れ替わりがある。時代の「価値あり」の変遷によって、日が当たったり陰ったりするのを見ても面白い。これがリベラルアーツだと話が違ってくる。プラトンとか四書五経とかのリストは変わらない。

 文学限定だが、別冊本の雑誌の『古典名作・本の雑誌』が最新にアップデートされた古典名作リストだ。これが良いのは、そのジャンルの最高の読み手に任せているところ。海外文学、国内文学、エンタメと、鉄板から掘り出し物まで、「これは!」というものばかりが並んでいる。ざっと見て、興味の湧いたものをまず図書館で借りてみるのがお財布に優しい。その上で、きちんと読みたければ買えばいい。

 書評の雑誌は、選書している「人」を選ぶ本でもある。わたしが好きな作品を紹介している「人」がお薦めしている、知らない本なら、きっと面白いだろう。まさに「わたしが知らないスゴ本を読んでいる人」を探す本になる。

 また、ラノベ読みならラノベから入るルートもある。モチーフから辿って『這いよれ!ニャル子さん』からラヴクラフトとか、テーマから辿って『紫色のクオリア』からボルヘスみたいな併せ読みをすると楽しいかも(kaienさんがやっていなかった?)。

 他に、Eテレの100分de名著シリーズがお薦め。古今東西の名著を、25分 × 4回 = 100分で紹介する番組だ。「読む」前に「観る」ことでウォーミングアップを図ったり、読み解きサポートやモチベを上げるのに良い。いまちょうど、スタニスワフ・レム『ソラリス』をやっているので、ぜひお薦め(初回からネタバレ炸裂しまくっているけれどwww)。

 最後に。「古典」といっても、いろいろある。「本の本」や「100分de名著」であたりを付けたら、図書館で試そう。これも自信を持って言えるけれど、あなたに合うものは必ずある。ただ、出会えていないだけなんだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

読書猿さんと対談した

 読書猿さんとお会いして、お話することができたので、さしさわりのない範囲でまとめる。

 濃厚かつ一瞬の2時間だったが、学ぶヒントや学び続ける勇気、そして大量のスゴ本を教えてもらえるという、かけがえのない時間でしたな。フォレスト出版さん、読書猿さん、ありがとうございます。ブログやってて良かった!

 自ら学ぶことを大切にしている人で、読書猿さんを知らない人はいないだろう。一言なら、哲人(てつじん)。すぐれた知性と見識の高さ、的確すぎる筆致と高高度な調査能力を駆使する、教養の化物である。古今東西のあらゆる本を吟味し玩味し紹介するブログ[読書猿]の中の人で、メルマガ[読書猿]を発行しており、『アイデア大全』『問題解決大全』というスゴ本を著している。

 お会いするまで、そんな人は実在しないと考えていた。読むのも書くのも質量ともども桁外れ、文献調査や公開情報を用いた分析が研究機関レベルで、得られた知見を、読み手に読者に「分かる」「できる(使える)」形に咀嚼してツール化して提供する。きっと「読書猿」とは一種のブランドで、中の人は何人もいて、役割を分担して運営されていると思っていた(「シェイクスピア」のように)。

Photo

これが本当の「猿の手」

 しかし、お会いして分かった。「読書猿」はワンオペだ。中の人はチャーミングなおっさんで、笑った目が完全に子どもの瞳をしている。しかし、ひとたび知の話題になると、ロゴスとエビデンスの鬼と化す。ものすごい勢いで固有名詞と年代と方法論が出るわ出るわ。その一つ一つを、完全に覚えているのが凄まじい(後で聞いたところによると、「頭の中に図書館がある」らしい)。

■『アイデア大全』と『問題解決大全』の使い方

 この2冊、もとは一つだったらしい。

 最初にまとめたとき、2冊を合体させたよりも莫大になり、「このまま出すと厚さと価格がシャレならん」ことが明らかになったという。そのため、2つに分けるとともに、アプローチと構成を練り直したとのこと。すなわち、アイデアを求める人向けのアプローチと、問題解決を模索している人のためのアプローチである。

 さらに、アイデアを求める人向けに、「0→1にする」と「1→nにする」の2部構成に分けたという。ここが凄いところだと思う。いわゆる世のアイデア本は、「1→nにする」は大量にあるが、「0→1にする」については皆無といっていい。つまり、与えられた何かを元に膨らませる方法論は満ち溢れているが、そもそものとっかかりすらない状態からどうすれば良いかはほとんど無い。これに応えたのが、『アイデア大全』になる。

 同じことが、『問題解決大全』にも言える。「リニアな手法」と「サーキュラーな手法」の2部構成に分かれている。世の問題解決本は、「リニア」がほとんどである。つまり、理想と現実、原因と結果が直線的につながっており、その差を埋めたり原因をあれこれする方法だ。ビジネス書との親和性の高さから、腐るほどある。だが、「サーキュラー」は稀だ。問題を構成する因果ループの中に解決者が取り込まれており、「原因」「結果」が判然としない。さらに問題を解決するリソースもその中でやりくりしなければならない。これに応えたのが、『問題解決大全』である。

 現実を振り返ってみよう。なんとかしたいのに、何をどうすればよいか、アイデアどころか、手がかりすら分からずに困ってる方が多いのではないか? あるいは、問題と原因がぐるぐるして、しかもそのループに自分自身が入っていて途方に暮れている方が多いのではないだろうか? より根が深い、現実に近い、そうした状況に対し、適切なアドバイスが得られるのがこの2冊なのである。


 『アイデア大全』と『問題解決大全』を立てて見てみよう。こんな構成である。

       アイデア大全 ||    問題解決大全
0→1にする | 1→nにする || リニアな手法 | サーキュラーな手法


Photo_2

コアの部分(「1→n」「リニア」)と、周辺の部分(「0→1」「サーキュラー」)


 両者が接しているコアの部分になる、「1→nにする」「リニアな手法」は、どちらかというと馴染みのある方法論だ。そして、このコアの両サイドに、より現実的な手法である「0→1にする」「サーキュラーな手法」が準備されているという構造だ。

 つまり、「どうしたらよいか」へのアプローチとして『アイデア』『問題』の2ルートがあり、さらに問題がある現実との親和性で、コアか両サイドかの2方向ある。どのように解決したいかという観点と、現実との親和性によって、使い方を変えることができる。ちなみにこの見方は、わたしが編み出したカスタマイズだ。辞書的に引いて使うのが主だろうが、並べて立てることで、より立体的に攻めることができる。

■頭の中に図書館を持て!

 世の中に「頭のいい人」がいる。1をいうと10伝わる人、頭の「回転」が速い人、いわゆる「地頭力」がある人、引き出しを沢山もっている人、緻密に語れる人、とっさに適切な一言が返せる人、知識がある人、勉強ができる人など、様々な言い方がある。

 もちろん読書猿さんも「頭のいい人」なのだが、上記のどれもうまく当てはまらない。知識があり、緻密に語り、回転が速いのは確かだが、そんな人は沢山いる。しかし、読書猿さんが凄いのはそんな即興的な所から離れたところにあることに気づいた。

 何か―――例えば「自転車」について調べるとしよう。わたしなら、辞書から意味を汲み、イメージされる分野を調べ始める。たとえば、「自転車の仕組み」や「自転車の歴史」といったテーマから始める。だが、読書猿さんは違う。調べたい「何か」について、図書館の十進分類表に放り込み、そこから照射しはじめるのだ。つまりこうだ。

 自転車の総記(00)
 自転車の哲学(10)
 自転車の歴史(20)
 自転車の社会科学(30)
 自転車の自然科学(40)
 自転車の技術・工学(50)
 自転車の産業(60)
 自転車の芸術・美術(70)
 自転車の言語(80)
 自転車の文学(90)

 十進分類表は、いわば、知りたいことへの「知り方」を分類したものだ。言い換えるなら、人類の知を分類したものだから、そこには必ず自転車について知りたいことへの道筋が存在する。読書猿さんの頭の中に、この十進分類表が入っており、そこから抽象度を徐々に下げてゆく。

 たとえば、文学(90)>英米文学(930)>小説(933)と行くと、きっとそこに「自転車」に言及した小説が見つかるだろう。あるいは、産業(60)>運輸・交通(680)>交通政策(681)と絞っていくと、間違いなく「自転車」に関する行政施策が見つかるだろう。重要なのは、数字の左に行くほど抽象度が上がり、右に行く抽象度が下がり具体性が増すところ。この抽象度を上げ下げを駆使することで、「自転車」を文学からも行政からも絵画からも調べることができる。

 そして、図書館に行くと、この抽象度の並び順に並んでいるのだ。十進表の通りに並んでいるのは知っている。でないとどこで何を知ることができるか分からなくなるから。重要なのは、抽象度の並びで書棚が構成されているのだ。だから、実際に図書館の書棚で、左へ目を向けると、より抽象度の高い本が見つかり、右を見ると、より具体性のある本が出てくる。何年も図書館に通い、何度も見てはいたものの、これは気づかなかった。

 読書猿さんの頭の中には、図書館があるという。十進分類を駆使して、抽象度の高いところから俯瞰したり、より詳しく知りたいときは拡大して具体的な目で見始める。頭の中の図書館で目星がついてから、やおら腰を上げてリアル図書館に行くという。やみくもにGoogleったり、図書館や書店に突撃するよりも、はるかに効率的・網羅的なり。いつでも図書館を召喚できるということは、いつでも知の巨人の肩に乗れることなのだ。

 読書猿さん自身は、もちろん博学だが、それだけではない。自分が何を知らなくて、どうすれば知ることができるのかを知っている。いわゆる、「知り方を知っている」という点で、頭のいい人なのだと思う。もっというと、スピード重視なのか、深さ重視なのかによって、「知り方」を使い分けながら図書館にアクセスできる。つまり、読書猿さんは、図書館という人類知を味方につけている人であり、知の巨人たちを自由に召喚できる人なのである。

■図書館では返却棚を見て!

 教えてもらうことばかりだったけれど、唯一、合致してたポイントがあった。「図書館で返却棚を見る」という所である。「きょう返された本」という掲示がされている棚やワゴンである。

 もちろんそこから借りていってもいい。その棚は、誰かが借り出しして、カウンターに返却された本であり、次に借り人がいなくて、いずれ本来あるべき棚に戻る前のバッファみたいなものである。

 ちょっと見方を変えてみよう(『問題解決大全』のリフレーミング)。その棚にある本は、いわゆる人気本ではない(そういうのは、予約が入っており、返却処理時に予約本として回される)。だが、世の中の人が何がしかの興味を持ち、「貸し出し」までして手に取ろうとした本である。その集積は、世の人の興味の集積になるのではないか?

 よくある、「書店に行って、面陳されている本のキーワードを見ているだけで、世間がいま何に興味を持っているか分かる」というライフハック(?)の、もっと生々しいものが、図書館にあるのだ。なぜなら、書店に並んでいる本は、「世間の興味」というよりも、出版社が「世間はこれに興味を持っているのだろう」もしくは「これに興味を持って欲しい」もので埋め尽くされている。いわばノイズが入っている状態である。図書館の返却棚は、そうしたノイズが自動的にフィルタリングされた、本当に興味のあるもので埋め尽くされているのだ。

 たとえば今行ってみるといい。「確定申告」と「介護」が必ずあるはずだ。前者は、年度末に向けて早めに準備したい人が借り出したものだし(年を越すと予約でいっぱいになる)、後者は特に近年顕著に見られるキーワードになっているから。

 図書館で世間を知るというこの技、読書猿さんと一致したのは大きい。

■読書猿さんの今年のスゴ本は?

 わたしの今年のNo.1は『アイデア大全』『問題解決大全』だけど、読書猿さんにとっての一番は? という質問をぶつけてみた。

 返ってきたのが、『愛とか正義とか』(平尾昌宏著、萌書房)。これは、読書猿さんが唯一、嫉妬した本だという。たとえば正義。「正義」と「正義についての主張」は異なるのに、両者を混交して議論するから迷走する。これは、両者の違いを、誰にでも腹に落ちるように、しかも厳密に書いており、ここまで書けるのは素晴らしいとともに悔しいとのこと。「正義」「愛」「自由」など、誰もが知っていて、誰もその正体を言い表せえないものを、『鋼の錬金術師』や『ライアーゲーム』で学べるらしい。

 速攻でゲットした(丸善ラスト1冊だったw)。読み始めてすぐに気付いたが、これ、倫理学の主要なテーマである自由意志、価値論、功利主義、認知主義、実在論、生命倫理学をものすごく分かりやすく書いている。そして凄いのは、答えを導くのではなくて、考え・プロセスを辿っているところ。考える行為そのものが哲学することが、分かるように書いている。「自分で考える」とは何かを、自分で考えさせることで伝える、読むことが実践になる一冊なり。

 4つ紹介したが、まだまだ足りない。他にも、本屋でオフ会や、読書会、本の「並べかた」についてのウンチク、調べかたのあれこれ、ホワイトボードで講義形式で聞きたかったですな。読書猿さんの次のテーマは、「図書館」だ。全裸待機して待ちます。

 最後にもう一度、読書猿さん、貴重で、濃密な時間をありがとうございました! またお会いしたいです。そしてじっくり(ホワイトボードを傍らに)お話を伺いたいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

この本がスゴい!2017

 人生は短いのに、読みたい本は多すぎる。

 生きてる時間ぜんぶを費やしても読みきれない本を抱え、それでも新しい本に手を伸ばそうとする愚者とはわたしだ。ただ「新しい本」というだけで、何がしかの価値があると思い込み、財布をはたく。エラい人が誉めてたという理由だけで、読むべき本だと思い込み、脊髄反射する。そして読まない。「あとで読む」とレッテルを貼って、あとで読まない。

 かくして積読山は高くなる。

 かつては本に囲まれた生活を何やら高尚なものだと考えて、「本に埋もれて死にたい」などとつぶやいたことがあるが、恥ずかしい。救いようのない馬鹿とはわたしだ。読書は趣味であり代謝であり経験だ。その候補だけを増やしても、何も、なにも変わっていない(ボクは沢山の本を持っているという自意識を除いて)。

 そんな山から発掘し、紹介してきたスゴ本(凄い本)のなかから選りすぐりをご紹介しよう。わたしの趣味と代謝と経験に照らした上で、「これはスゴい」と断言できるものばかり。

 ただし、あなたの趣味にあうかどうかは、分からない。だが、そんなあなたが「それがスゴいなら、これは?」と推してくる本は面白い本である可能性が非常に高い。なぜなら、わたしが薦める本を知った上で(必ずしも読んでなくてもOK)、それでもお薦めするのだから。

 実は、このリストの半分は、誰かにお薦めされて手にしたものなのだ。「自分のアンテナ+観測範囲」だと、どうしても偏読になる。偏読上等なんだけど、世界も狭くなる。これはもったいない。

 だから、このリストを見て、あなたの記憶を発火させる作品があったなら、それを教えて欲しい。なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

フィクション

『冴えない彼女の育てかた』 丸戸史明 富士見ファンタジア文庫

 今年一番ときめいた&キュンキュンした&創作意欲を刺激された。

 ラブコメ好きなんよ。アニメでもゲームでも、出会って恋をして、成就に至るまでの七転八倒が楽しいんよ。不毛だった青春の記憶を、幸せな物語で上書きするために必須なんよ。なかでもこれは傑作なり。なぜならこれ、上書き保存する勢いで、読み手の創作欲をダイレクトに刺激してくるから。「この火照ったココロを形にしたい」という欲望が、わたしの中に確かにあることを、指し示してくれるから。

 二次元萌えオタクが三次元の少女に出会って一目ぼれする(お約束)。しかし、告白するでもなく、美少女との出会いをギャルゲにしようと決意する(反則)。そして、天才絵師(幼なじみ)と、天才ラノベ作家(先輩)を巻き込んで、同人ゲームのサークルを立ち上げる(お約束)。そしてゲームのヒロインとして、あの日に出会った子を誘うのだが、全くといっていいほどキャラが立ってないごく普通の女の子だった(反則)……という入口。

 キャラが立ちまくりの、ツンデレツインテールや毒舌才媛キャラなど、いわゆるアニメやラノベの約束ごとを並べ立て、そこへ「ごく普通の(押しに弱い)反応の薄い少女」を混ぜ込んでくる。ありがちな設定に混ざる、反則の展開が面白い。序盤、中盤それぞれで、物語のフォーマットを壊しては作り、壊しては作るのが面白い。ラノベ的な展開を先読みしていると、足元をすくわれる。

 そして、反応のうっすーい、押しの弱い、表情がフラットなヒロイン、加藤恵が大化けする展開が素敵だ。最初は、土下座して頼み込んだら「しょうがないなぁー」と言いながらぱんつ見せくれるんじゃね? と思えるくらい押しの弱い彼女が、だんだんと同人ゲームサークルの中に染まっていくのが嬉しい、微妙だったキャラが、徐々に見えてくるチラリズムが楽しい。

 そして、二人の関係が、スルリとうまくいってしまう(でも気づかない)のが志村後ろ的展開がよい、非常によい。知らないあいだに手をつないでしまっていたことに気づいて、そのときは何でもないのに、後になって一人で思い出して赤面するカップルは、未来永劫幸せになれ!というやつ。Skype越しに、自分の思いに気づいたことがバレてしまって、それまでフラットだった表情がフラットでなくなる瞬間なんて最高なり。恋に堕ちる瞬間の、胸の鼓動を感じとる。これは、一生の思い出になる感情なり。本を胸に抱いて部屋中をゴロンゴロンしまくった(今でも思い出すだけでニヨる)。

 さらに、小気味良い会話の掛け合いの端々に見える、業界あるある・創作あるある話がまたいい。「とにかく何も考えずに、まずは書け、とにかく量を書け、立ち止まるな」「推敲は全部書いてから、途中で戻ったりすると、いつまで経っても完成しないわよ?」(5巻、詩羽先輩)なんて何度も頷かされる。次の件なんて、大書きして額に入れるべきやね。

「一週間、なにも書けていないのと、一週間分のテキストを全部捨てるのって、一週間後から見てみれば、結果的には同じだろ? それどころか、書いたことで自分のスキルが上がってる。アドバンテージさえある。(11巻、紅坂朱音)
最後に一つだけ……オナニーしろ、少年。自分が思いっきり気持ちのいいオナニーを、皆が思わず見たいと思うようなオナニーを、そんなものすごく恥ずかしいオナニーを、思いっきり見せつけてやれ!作家なんて皆、変態だ、露出狂だ。自分の狂った頭の中を全世界の人間にさらけ出そうとする、とんでもないキ●ガイばっかりだ。あははははははははは(11巻、紅坂朱音)

 紅坂朱音という、クリエイターの化物みたいなキャラが出てくる。エキセントリックな言動とは裏腹に、言ってることは全クリエイター必聴。書く人であれ描く人であれ、おもわず背中を叩かれた気分になるに違いない。他にも、アーティストとクリエイターの確執(英梨々と朱音、詩羽と倫理君)、ミメーシスとディエゲーシスの黄金比(恵への定期報告メール)など、創作のヒントが随所に埋まっており、宝探し気分でも読める。

 アニメも素晴らしい。作者がアニメの脚本も手がけており、互いの違いに隠された「意図」を解きながら観るのも楽しい。なによりも英梨々かわいい。英梨々かわいい。英梨々かわいい。アニメだけの人へ。なにこれしゅごいことになっているので、ぜひラノベに手を伸ばして欲しい。そして、読む人、観る人、みんな幸せになってしまえ。

 お薦めしてくれたのは、[まなめ王子]のおかげ。ありがとう! わたしも最高に最高で絶叫しました。

『ゲームの王国』 小川哲 早川書房 レビュー : [これ面白い!『ゲームの王国』]

  寝食わすれて読み耽った。ページが止まらないくせに、終わるのが惜しいとこれほど思った小説は久しぶり。「最近面白い小説ない?」という人に、自信をもってオススメ。というのも、次から次へと面白いネタをどんどんぶっ込んでくるから。

 建前(?)はSFだが、中身は盛りだくさん。ポル・ポトの恐怖政治と大量虐殺の歴史を生き抜く少年と少女の出会いと別れを横糸に、ガルシア・マルケス『百年の孤独』を彷彿とさせるマジックリアリズムあり、ウィトゲンシュタインの言語ゲームやカイヨワの「遊び」の本質を具現化したコンピュータゲームあり、貧困の経済学ありデスゲームあり、ともすると発散しがちなネタを、見事にひとつの物語にまとめあげている。

 優れた小説を読むときによくある、記憶の再刺激が愉しい。すなわち、どこかで見たことのある既視感と、よく知ってるはずなのに目新しく思える未視感が、むかし読んだ/これから読む作品を、芋づるのように引き出してくれるのだ。

 たとえば、4年間で300万人以上虐殺されたという現実は、映画『キリング・フィールド』の地獄絵図。自由意志は存在せず、人の行動の理由は後付けて作られる(受動意識仮説)の件は、ホラーで人間を理解させる『恐怖の哲学』の分析を再読するようだ。不条理すぎる現実に「こころ」を壊さないためのセーフティ・ネットとしての物語は、『人はなぜ物語を求めるのか』のナラトロジーが浮かんでくる。貧乏人は費用対便益の判断ができないのではなく、生活に追われるあまり、判断を留保(先送り)せざるを得ないという貧困の本質は、『貧乏人の経済学』を思い出す。

 これ、読み手によってはもっと沢山の別のノンフィクションが出てくるに違いない。本作は、「すこし過去」と「すこし未来」だけを描き、「現在」だけが存在しないSFだ。にもかかわらず、これほど生々しく感じられるのは、SFというより、サイエンス・ノンフィクションというべきなのかもしれない。

 これを教えてくれたのは、タカユキさんと[基本読書]の冬木さん。これほど夢中になれる作品を教えていただき、ありがとうございます。

『ウインドアイ』 ブライアン・エヴンソン 新潮クレスト・ブックス レビュー : [死ぬことよりも怖いこと『ウインドアイ』]

 現実が狂うのではなく、わたしが狂うのでもなく、現実とわたしがどんどんズレてゆく。

 私という「容れ物」から「私」という存在が、にじみ出る。私が私を保ったまま遠ざかり、時間からこぼれ落ちてしまう。この離人症的な怖さ、自己同一性の喪失の恐怖が、読者にだけ分かる短編集。

 読み始めてすぐ違和感を感じ、読み進むにしたがって「ざわざわ」が増してゆき、物語の決定的なところで胸騒ぎが本物だったことを思い知る。しかも、予想の斜め上の、もっと嫌な予想外の場所に置き去りにされていることを知る。

 不条理な寓話はとてもカフカ的だが、そこで浮彫りにされるのは物語世界の不条理さではなく、世界の認識の仕方の不条理さである。世界は狂っていないと確信できていたのは、世界と同じくらい自分が狂っていたからであって、現実と乖離しはじめた今、おかしいのは自分か世界か両方なのかと幾度も自問させられるハメになる。結果、読書はすなわち毒書となり、世界が歪んでいくような感覚に抗いながら読まねばならぬ。たびたび「私の気は確かだろうか?」と振り返ることを余儀なくされる。

 現実とのチューニングが合わなくなるにつれ、あるはずの感覚質から「私」が零れ落ちてしまうのだ。これは、死ぬことよりも怖い。これは毎晩、寝る前に、一編一編読みたいもの。現実が悪夢だったことに、うっかり気付かないためにも。

『雨月物語(日本文学全集11)』 上田秋成著/円城塔訳 河出書房新社 レビュー : [円城塔訳『雨月物語』が完全にジャパニーズ・ホラー]

 『雨月物語』といえば、石川淳の名訳が有名だが、円城塔が上書きした! 硬い語りを残しつつ、きっちり小説に仕立ててある。こいつは怖いぞ嬉しいぞ。ジャパニーズ・ホラーの金字塔『吉備津の窯』を、もし読んでない幸福者がいたならば、この訳で読むと吉なり。

 ジャパニーズ・ホラーの最大の特徴は、「わけが分からない恐怖」だろう。殺人鬼とかウイルス感染といった物理的に対応できる原因が引き起こす欧米ホラーと違い、真相が分からない。わけが分からないまま恐ろしい思いをし、原因を探してみても、「呪怨」や「穢れ」といった言葉で示すしかない「なにか」で終わる。文字通り、この世のものではないのだから、物理的な対処は効かない。「なにか」が過ぎ去るまで震えているしかないのだ(あるいは、取り憑き殺されるまで)。

 物理的なウイルスや殺人鬼でない怨念だからこそ、時と場所を超えて聞き手に迫ってくる。『雨月物語』は、そういう怖さを孕んでいる。同時に、怨念に至る愛憎も詳らかにされる。

 その「なにか」が抱いている妄執や執着している人が分かるにつれ、さもありなんと思う。それだけ非道な目にあえば、その恨み晴らさずには成仏しきれなかろう。あるいは、それだけ執着しているものが失われれば、さぞかし心も乱れることだろう―――と同情する。愛欲に心乱し生きたまま鬼と化した「青頭巾」なんてまさにそれ。

泣くにも涙は枯れ果てて、叫ぼうにも声がつまって、とり乱して嘆かれ続け、火葬にも土葬にもしようとしない。そのあとは、子供の死顔に頬ずりしたり、手を握り締めてすごしていたようなのですが、とうとう気がおかしくなられ、まるで子供が生きているように振る舞うようになり、肉が爛れていくのを惜しんでは吸い、骨を舐めてと、とうとう食べ尽くしてしまったのです。

 本書には、さまざまな「鬼」が出てくる。もとは人だったのに、悲憎はげしくなるあまり、心を失った存在である。怖さの向こう側に、同情してはいけない哀しさがある。そこで人外となったものたちの中にある「鬼」は、まさにわたしの中にもあることに気付いてしまうから。

『あまりにも騒がしい孤独』 ボフミル・フラバル 河出書房新社 レビュー : [ブラック人生における光『あまりにも騒がしい孤独』]

 シュールで、グロテスクで、滑稽で、美しい傑作。

 過酷であるほど、彼が大切に抱える光の愛おしさが伝わってくる。その輝きが、知的で美しい存在が、めちゃめちゃに潰されてゆくのを全身で感じる。本を読むのが好きな人ほど、苦痛と息苦しさを感じるだろう。なぜなら、彼の仕事は、運び込まれてくる本を圧縮機で潰し、紙の塊を作ることだから。

 本ばかりでない。食肉解体業者が運び込んでくる、蝿がたかった血まみれの紙も一緒に圧縮する。ゲーテと蝿、ニーチェと鼠が一体化された紙塊を、祭壇のように恭しく並べる。知的で美しいものと、醜怪でグロテスクなものが渾然一体となって、読み手の前に並べられる(ここで悲鳴をあげたくなる)。

 背景にはプラハの春がある。1968年にチェコスロバキアで起きた民主化運動で、ソ連の軍事介入により、文字通り「圧殺」された。大学教授をはじめとする知識人は職を終われ、言論の自由は奪われ、厳しい検閲と徹底的な統制を受けたという(この言論弾圧を「正常化」と呼んでいるのが最高の皮肉なり)。

 ブラック企業、ブラックバイトが現代なら、ブラック人生はこれだろう。価値あるものを(価値あるものだと分かっている人の手で)容赦なく潰す。そして、ブラック人生の中で光る、ささやかな抵抗や、大切な思い出が愛おしい。その描き方が、奇妙で興味深い。可愛い少女と人糞、肉蝿の黒雲とジプシー女のきれいな陰毛、憧れの人の生き方とその人の肉塊など、対照的な要素を並べることで、ビジュアル的に互いに引き立たせるように描いている。「絵にもかけない面白さ」とはこういうもの。この痛みと美しさは、小説でこそ堪能すべし。

 本書は、[キリキリソテーにうってつけの日]のowl_manさん、uporeke さんにお薦めされた一冊。素晴らしい本を教えていただき、ありがとうございました。また教えてくださいね。

『ウォッチメイカー』 ジェフリー・ディーヴァー 文春文庫 レビュー : [徹夜小説『ウォッチメイカー』]

 未読の人は幸せ者の、徹夜小説。

 ミステリ好きの読書会で、「ジェフリー・ディーヴァー読んだことないです」と告白したら、憐れむような、羨ましいような目で見られつつ、これが最高傑作だとお薦めされた作品。ちなみに、最初に読むべき傑作は、『ボーン・コレクター』とのこと(レビュー : [『ボーン・コレクター』から始めなさい])。

 「ページを繰る手が止まらない」という評判は裏切らないジェットコースター・ミステリ。どんどん夢中に読み進めるうち、ガツン! とアタマを殴られる。

 え…? 今まで読んできたのは何だったの!? 先に進みたい欲望を抑え込み、いったん戻る。自分が追ってきたストーリーが、自分の目で見たまんまではなかったことに気付かされて叫びたくなる。鮮やかに、軽やかに、何度も何度も主人公を、読者を、そして犯人をも騙す。世界が塗り替わるような驚きと興奮にゾクゾクする、これは凄い!

 ストーリーに触れずに面白さを伝えるのはかなり難しいが、やってみよう。「ウォッチメイカー」と名乗る者が、残忍かつ精密な手口で犯行を重ねてゆく……対するは科学捜査の専門家リンカーン・ライム、四肢麻痺でベッドから動けない身体だが、現場検証のプロフェッショナルや、尋問のエキスパートとともにチームを組んで、微細証拠物件から犯人像を組み立て、仮説検証を繰り返し、徐々に追い詰めていく。

 その見えない駆け引きの「見える化」がとてもスリリングだ。一見バラバラに見える、複数の点と線がつながるとき、一種のカタルシスを感じるに違いない。

 だが、これだけでは半分も伝えていない。追うもの・追われるものの丁々発止だけでも徹夜を覚悟すべきだが、ガツン! と殴られるお楽しみはこれからだ。この、作者以外全員を騙す構造は、将棋の藤井四段に対する評が最も適している。これだ。

「性能の良いマシンが来ると聞きフェラーリが来ると思ってみてみたらジェット機が来たレベル」

 もうね、これ作者、全力で殴りに掛かっている。ボコボコにされ、物語にノックアウトされるべし。本書は[翻訳ミステリー大賞シンジケート]の読書会で強力にお薦めされた作品。ありがとうございます、『ボーン・コレクター』『ウォッチメイカー』どちらも徹夜小説でした!

『初情事まであと1時間』 ノッツ KADOKAWA レビュー : [エッチする直前こそが人生だ『初情事まであと1時間』]

 pixivの[そんな夏休みを過ごしたいだけの人生だった]シリーズが、胸を抉る。大事なものが失われているのに、何もできずに見ているだけで、このままでいいのかというあせりと、このままでいいのだというあきらめと、本当に失われているのか、反対に手に入れているのではないかと思えてくる。

 思い出とせつなさの琴線に触れまくる作者さんだなーと思っていたら、めちゃくちゃニッチなラブコメを出してくる。タイトルまんま「初エッチするまであと1時間」のカップルを描いた、シチュエーション恋愛オムニバス。ニヤニヤが止まらないまま進んでいくと、初々しさにほっこりしたり、健気さにほろりときたり、せつなさに撃ち抜かれる。

 これはいわゆる、倒叙型の亜種だね。ほら、『刑事コロンボ』のような、最初から犯人が分かっていて、探偵がアリバイやトリックを崩すやつ。こじらせ処女、腐らせ童貞、生命の危機など、エッチからほど遠い状況で、「あと45分」「あと9分」刻々と進むカウントダウン。2人が結ばれること、しかも「あと1時間」で初の一線を越えることが分かっている。

 そんな状況下で、どう着地させるか? どんなドラマがあるのか? 「あと1時間」という短い間に、2人の距離が揺れたり離れたり、意外な事実が明るみに出て、あれよあれよとくっついたり。手を変え品を変え、毎回楽しい。

 ぎこちなくて、かっこ悪くて、ちゃんとできないかもしれないエッチだけど、それでも真剣に向き合おうとする二人が良い。エッチはふたりでするものだし、お互いが協力しないとうまくいかないものだから。

 あるある・ないない・ドラマティックな「あと1時間」を堪能あれ。

『異形の愛』 キャサリン・ダン 河出書房新社 レビュー : [劇薬小説『異形の愛』]

 これが一体、何の小説であるかに気づいたとき、二度と触れられなくなった。最初に本書を手にしたとき、まだ幼いわが子と重なってしまい、先に進められなくなってしまった。

 それから何年も経ち、ようやく読めるようになった。あのとき続きを読んでたら、致死性の毒にやられていただろう。

 これは、巡業サーカスの家族の物語。団長であるパパは、薔薇の品種改良に想を得て、わが子の品種改良を試みる。すなわち、子どもが「そのままの姿」で一生食べていけるよう、意図的に畸形を目指すのである。ママの排卵と妊娠期間中、コカイン、アンフェタミン、それに砒素をたっぷり摂り、殺虫剤のブレンドから放射線まで試す。

 そうして生まれてきたのは、腕も脚もないアザラシ少年(サリドマイド児)の兄、完璧なシャム双生児の姉、一見フツウだが特別な力を持つ弟、そして、アルビノの小人の「わたし」である。物語は「わたし」によって導かれ、過去と現在を行き来しながら、家族への愛が語られる。

 見世物のキャラバンでは、フリークスこそが望まれ、フツウは入れない世界なのだ。他にも、家族の外から入り込んでくる変人が現れるが、五体不満足を目指す動機が無残としかいいようがない(袋男のエピソードは強烈である。注意して読まれたし)。

 価値観は転倒しているにも関わらず、その愛は正当なものだ。歪んでいるのは、そう見ている読み手であるわたしであることに気づく。その身の捧げ方がいかに特別なものであっても、やっていることは狂気としかいいようのない行為であっても、名付けるとするならば、愛としかいいようがない。

 異形たちの愛にフツウの愛を感じるのはなぜか。自分は「大丈夫」だと信じたいのか? 読めば分かる。試すつもりで読むといい。

 きれいはきたない、きたないはきれい。闇と穢れの中を読み進め。

ノンフィクション

『土木と文明』 合田良実 鹿島出版会 レビュー : [『土木と文明』はスゴ本]

 土木から見た人類史。めちゃくちゃ面白い。

 土木工学とその影響という切り口で世界史を概観する。テーマは、都市、道路、橋、堤防、上下水道、港湾、鉄道などに渡り、テーマごとに豊富な事例で紹介する。土木技術の発展なしには文明も発達せず、また文明の発展につれて土木技術も発達してきた。そうした土木工学と文明の関わりを歴史的に串刺しで見ることができる。

 大きなものから小さなものまで、人が手がけてきた土木事業は、それこそ星の数ほどある。それをどうやって整理するか。本書は、そのとき直面した問題(治水、防衛、流通、疫病対策等)と、利用できるリソース(人・技術・時間)、そして成し遂げられた結果(土木事業)という観点で整理しているのが素晴らしい。

 面白いことに、問題と対策という視点で眺めると、時代や地域を超えた普遍性が現れてくる。異なる時代・地域の人々が、それぞれに知恵を絞り、そのときに手に入るリソースを駆使した結果、きわめて似通った構造物ができあがる。

 人の営みの不変性が、土木事業の普遍性につながる。どの時代であれ、人は水や食べ物を確保し、便利で安全な生活を求め、より良いものを作ろうとする。当たり前のことなのかもしれないが、土木という共通面で見せられると、一種の感動すら覚える。

 たとえば、水道。紀元前の中国の王朝、秦国で建設された灌漑水路と、人類最古の水道として残されているカナートが、原理的に同じ工法である。すなわち、丘の上から何本もの竪穴を掘り下げ、指定した深さに達したところで左右に横穴を掘り進めて水路として連結させるのだ。こうすることで、複数のチームで同時にトンネルを掘ることができる。さらに、地下水路に崩れ落ちる土砂を浚うメンテナンスの通路にもなるメリットがある。この工法は、重力に対して水平になろうとする水の性質を上手に利用しているといえる。

 あるいは、都市の形。人類史のある時期まで、要塞都市は、半島の内陸部に巨大な城壁を建造し、海側を天然の守りとした「自然+人工」の構成となっていた。しかし、大砲を用いた遠距離砲撃技術の発達により一変する。15世紀、メフメト二世は、コンスタンチノープルの攻略戦に際し、前線に巨大な大砲を据え付け、砲弾の威力でもって大城壁を破壊してしまう。これは、城塞守備の常識を打ち砕く大事件であり、以降の都市設計が一変する。すなわち、要塞の平面形状を変えて要所要所に角部(稜角)を突出させ、そこに大砲を備え付け、攻撃側の大砲を撃破する構造になる。それまでの「自然+人工」ではなく、八角ないし円状に近い要塞都市を目指すようになったというのだ。

 文明は自然に抗いつつ従う。そのブレイクスルーが技術であることが分かる。土木から歴史を眺めると、人類レベルでの普遍性に気付くことができる。本書は、mitimasuさんのつぶやきのおかげ。素晴らしい本を教えていただき、ありがとうございます。

『旅をする木』 星野道夫 文春文庫

 星野道夫のエッセイ。さらりとした筆致なのに、いつまでも心に残りつづける。

 いい本を教えあうサイト[シミルボン]で、「これ読んでいないなんて、人生損している」「この本を読まずに死んだらもったいない」という本を募集したところ、これが一番だった。

 なぜなら、幸せとは何か、知らずに死んだらもったいないことが、よく分かるから。このエッセイに触れているあいだの濃密なひとときは、得難い経験だから。アラスカの自然を、そこで暮らす人たち込みで淡々とつづった、遠い友人からの手紙のように読めるから。

 星野が語る場所と、わたしが生活するあくせくとした日常は、別の時間感覚が流れていることは分かる。だけど、面白いのは、そことわたしの居場所が、空間続きなところ。いわゆる「地続き」の延長だと思ってもらえばいい。大陸が離れていても、時間も違っていても、空間的につながっているのだ。

 ただそれに気付きさえすれば、「あくせくした日常」からふっと目を離し、心をそちらに放すことができる。沈む夕陽を見たり、山嶺を眺めたりしなくても、いつでも心は自由になれるという、あたりまえのことが分かるのだ。そして、これが触ることのできる幸福だと言っていい。

 幸福とは、いま生きていることをありありと実感することであり、それを、読み手の世界の延長上にある、異なる世界での生き様を見せることで伝えてくれるから。世界と「わたし」がつながっていることを、これほど端的に伝えてくれる一冊は珍しい。

 「読まずに死んだらもったいない」一番はこれだけど、ベスト5はこちらをどうぞ[読まずに死んだらもったいない]。これは、プロデュースしてくれたカトケンさんのおかげ。良い出会いをありがとうございます。

Shimirubon_800_350

『性食考』 赤坂憲雄 岩波書店 レビュー : [食う寝る殺す『性食考』]

 食べること、セックスすること、殺すこと。これらは独立しているのではなく、互いに交わり重なり合っている。「食べちゃいたいほど、愛してる」という台詞を起点に、古事記と神話、祭りと儀礼、人類学と民俗学と文学を横断しながら、人の欲の深淵を覗き見る。ぞくぞくするほど面白い。

 著者は民俗学者。引き出しを沢山もっており、バタイユやレヴィ=ストロース、デズモンド・モリスや柳田國男などを次々と引きながら、性と食にまつわるさまざまな観点を示してくれる。おかげで、わたしの引き出しも次々と開かれることとなり、読めば読むほど思い出す読書と相成った。

 たとえば、入口の「食べちゃいたいほど、愛してる」は、センダック『かいじゅうたちのいるところ』から引いてくる。いたずら小僧のマックスが、罰として寝室へ追いやられるところから始まる夢と空想と「かいじゅうたち」の物語。その愛のメッセージを引いてくる。

 そして、食と愛が、実に近しいところにあることを示す。たとえば、人間行動学の『マンウォッチング』にある、食べるための唇とシンボルとしての唇の話である。つまりこうだ。直立歩行するヒトにとって、雌が成熟し発情しているかどうかを示すディスプレイ部位が、お尻や陰唇から、おっぱいや唇に成り代わったという話だ。甘噛みにも示されるように、愛情表現のキスとは、摂食行為の代替なのだ。

 さらに、古代中国の伝説を集めた『捜神記』から、ペニスをむさぼり喰らう、もう一つの秘められた口の話から、有歯女陰(ヴァギナ・デンタタ)の事例を世界中に探す。「女に飢える」や「性欲の渇き」という言葉や、愛の行為としての「甘噛み」、そしてキスなど、食べることと愛することは、重なり合っている。レヴィ=ストロースは「狂牛病の教訓」のなかで、世界のすべての言語がセックスを摂食行為になぞらえている、と書いていたという。やっていることは即ち、肉を喰らう肉であるため、文化を問わずそういう隠喩をまとうのだろう。

 種の保存行為としての食と性は、わたしたちの視床下部に隣り合っているだけでなく、文化の中にも、驚くほど交わりあっている。あたりまえのように感じていた行為や文化も、実はもっとプリミティブな動機があったことに気付かされる一冊。

『虚数の情緒』 吉田武 東海大学出版会 レビュー : [『虚数の情緒』はスゴ本]

 一言なら鈍器。二言なら前代未聞の独学書。中学の数学レベルから、電卓を片手に、虚数を軸として世界をどこまで知ることができるかを追求した一冊。

Kyosuu

 「スゴ本」とは凄い本のこと。知識や見解のみならず、思考や人生をアップデートするような凄い本を指す。ページは1000を超え、重さは1kgを超え、中味は数学物理学文学哲学野球と多岐に渡る。中高生のとき出合っていたら、間違いなく人生を変えるスゴ本になっていただろう。

 ざっと見渡しても、自然数、整数、小数、有理数と無理数、無理数、素数、虚数、複素数、三角関数、指数、関数と方程式、確率、微分と積分、オイラーの公式、力学、振動、電磁気学、サイクロイド、フーリエ級数、フーコーの振り子、波動方程式、マックスウェルの方程式、シュレーディンガー方程式、相対性理論、量子力学、場の量子論を展開し、文学、音楽、天文学、哲学、野球に応用する、膨大な知識と情熱が、みっちり詰め込まれている。

 それも、教科書的な解説とは180度ちがう。日本の知力と品性を憂い、勉学の喜びを熱く語り、あらゆることに疑問を持ち、学び考えよと説く。「本書を疑い、自分自身を疑え」とまで言い切る。大上段な振りかぶりと、時折はさむオヤジギャグが鼻につくが、これほどエネルギッシュな独学書は初めてだ。

 電卓を叩いて表を作り、手計算で項をまとめ式変形をする。そんな実際的な計算を続けていくうち、虚数という存在や輪郭が、次第次第に明瞭なものとなり、手で触れるぐらいの近しいものとなってくるという仕掛け。数学と天文学と物理学の歴史を振り返りながら、人類が世界をどのように抽象化していったかを、きわめて具体的な計算によって炙り出す。それが、本書の狙いなのだ。

 ど真ん中が圧巻だ。全数学の合流点として、自然対数eの虚数乗を求め、虚数単位を指数で表す。虚数の虚数乗を求め、幾何学との関係を探り、三角関数を経てオイラーの公式につなげる。人類の至宝とも呼ばれるオイラーの公式eiπ=-1を、電卓で捻じ伏せるところなんて凄まじい。

 本書は、404 Blog Not Found の小飼弾さんの[伝われ、i - 書評 - 虚数の情緒]で俄然読む気になり、挑戦と挫折を繰り返し、よしおかさんの[虚数の情緒読了:バーチャル読書会やりたい]でブーストして、ようやく最後まで行けた。小飼さん、よしおかさん、ありがとうございます。こんなすごい本にめぐりあい、知る喜び(と苦しみ?)を味わうことができ、本当に感謝しています!

『神は数学者か』 マリオ・リヴィオ ハヤカワ・ノンフィクション文庫 レビュー : [『神は数学者か』はスゴ本]

 科学の本質を、数学という断面で斬った一冊。

 刺激的なタイトルとは裏腹に、数学の本質について慎重に答えようとする。すなわち、数学とは「発見」されたものか、それとも「発明」されたものかという疑問に対し、数学と科学の歴史を振り返りながら接近する。

 まず、数学は「発見」されるものという立場から。人は世界を観察し、そこから一定の規則を見いだしてきた。抽象化された規則を記述するための言語が、「数学」である。惑星の運動に関するケプラーの法則や、ニュートンの力学方程式は、物体の運動を正確に示すことができる。人類の身長と体重、株式指数の年間利益率も正規分布に従う。世界の諸現象に対し、不条理なほど超越的にあてはまるのが、数学なのである。

 さらに、数学に対しプラトンのイデア論を挙げたり、「神は数学する」「宇宙とは数学そのものだ」と結論づける論者も登場する。こうした人々にとって、数学とはミケランジェロの「大理石の中のヴィーナス」や漱石の「仁王像を彫る運慶」のようなものかもしれない。数学は不変かつ究極的な存在であり、それは大理石という世界の中に埋まっている「美」ともいえるだろう。

 次に、数学は「発明」されたものとする考え方。非ユークリッド幾何学が誕生する経緯が象徴的だ。きっかけは、ユークリッドの第5公理を他の公理に置き換えるための試みだったという。しかし、その試みがことごとく失敗したため、幾何学者は公理の「正しさ」を疑い始め、別の公理体系を考え始める。そして、空間を記述する数学として、ユークリッド幾何学が唯一でないことに気づき、「非ユークリッド幾何学」を構築してしまう。

 世界を記述する唯一で必然の体系が、「ルールの一つ」だと認識されると、数学は、様々なルールを「選ぶ」ことで演繹体系を作り上げるというゲームのようなものになる。かつて、ユークリッド幾何学は自然界そのものだった。しかし、別のルール(公理)を選ぶことで別の幾何学を構築できるというのであれば、数学は世界から見つけ出すものではなく、人が決めた約束事にすぎなくなる。

 すなわち、数学は、ア・プリオリな直観でも実験的な事実でもなく、人の想像力が作り出した巧妙な発明なのだ。もし「神は数学する」とすれば、神はどの数学を選んだのか? と反問できる。

 さらに、マイケル・アティヤやジョージ・レイコフを引きながら、人が物質世界の要素を理想化・抽象化することで、数学を構築したという主張を紹介する。

 たとえば、「数を数える」という行為は自然なものに見えるし、「自然」数("natural" number)なんて、原始的な概念に思えるが、それはあくまで人にとっての話。不連続な量が発生する世界に身体を持つ存在にとって「自然」な行為なのである。「人は数学をどのように理解しているのか」に着眼すると、人が世界をどのように理解しているかが見えてくる。

 人は世界を理解する際に、モデル化・数式化するのに便利な言語として、数学というツールを選択的に用いている。微積分や確率・統計、幾何学といった数学的ツールは、適当に選ばれたのではなく、実験や観測の結果をモデリングできるよう、試行錯誤を重ね、意図的に選ばれている。その時代のパラダイムに適う数学が、「発見」されたり「発明」されてきたのが、科学の歴史だとも言える。

 だから、自然科学(特に物理学)が数学的に「正しい」のは、あたりまえのことかもしれぬ。ある意味、科学者たちは数学で解決できそう問題を選び出し、研究してきたのだから。そして、知りえない世界を発見するために、新たな数学を発明していくのだから。

『大人のための国語ゼミ』 野矢茂樹 山川出版社 レビュー : [事実のフリした意見を見抜く、隠れた前提を暴く、核心を衝く質問をするトレーニング『国語ゼミ』]

 きわめて実践的な論理トレーニング。

 「この仕様変更を2週間で吸収するけど、残業増か休出か、今日中に回答できる?」なんて質問がよくある。ありすぎるほどある。そして、仕事でワリ食ってる人は、これに「はい」か「いいえ」で答えている人である。

 なぜなら、この類の質問に潜む、「隠れた前提」に気付かないから。この質問に答える前に確認しておくべきことがある。それが隠れた前提だ。「変更を吸収する」「2週間で」「残業増か休出の2択」がそれにあたる。そもそもその変更に対応することが決定されたのか? なぜ2週間なのか? 人員増なり変更を分散する選択肢はないのか? 等など。

 これらの疑問がクリアになったうえで、ようやく「今日中に回答できるか?」について議論するべきなのに、そこをすっ飛ばして「はい」「いいえ」で答えようとしてはいけない。にもかかわらず、答えようとしているということは、これらの「隠れた前提」を受け入れたことにされてしまうのだ(自覚のあるなしにかかわらず)。

 議論を始めるにあたり共有すべき事実・考え方(前提)と、そこで論じるべきことがら(主題)があり、往々にして「主題」ばかりに目が行きがちである。狡猾な人は主題となるべき事柄を、さも前提のように語り、その土俵に乗ったという事実でもって、前提が受け入れられたとする。このやり方が、p.59にさらりと書いてある。

 本来は、単なる意見にすぎないことを前提に「まぶす」ことによって見えなくさせ、隠れた前提でもって土俵を作り上げる。乗ったら負け、という土俵なり。狡猾な人は、断定的に、自信満々に言い切る。そして、土俵に乗らない人を無知呼ばわりする。思い当たる人、ありまくり。

 では、どうすればよいか? p.62 「決めつけをはずす」に丸々一節を費やして、練習問題つきで書いてある。そう、本書は、問題集なのである。

 著者は野矢茂樹氏。スゴ本『論理トレーニング101題』を書いた人だが、より噛み砕き・丁寧にしたのが、『国語ゼミ』になる。論理力は感性ではなく訓練で身につく。「解説書なんかいくら読んだって論理の力は鍛えられない。ただ、実技あるのみ」のとおり、やればやった分だけ向上する。相手の立論を正しく読み取り、その論証を批判的に捉えるための、地道なトレーニングを具体化したのが、これである。

 本書の構造をまとめると、以下になる。

  1. 事実と意見を見分け、隠れた前提を見つける訓練(1-2章)
  2. 言いたいことを整理して、効果的に伝える訓練(3-5章)
  3. 「理由」「原因」「根拠」を分けながら、的確な質問をする訓練(6-7章)
  4. 論証の構造を明確化し、メリ/デリを示し、適切に反論する訓練(8章)

 ひたすら、楽しく、トレーニングしよう。100冊の解説書を読むよりも、1冊の本書を自分の手で解こう。今回はノート不要、直接書き込めばよろしい。エンピツだけを準備して、ひたすら解こう。なぜなら、論理力は感性ではなく訓練で身に付くのだから。

『勉強の哲学』 千葉雅也 文藝春秋 レビュー : [東大・京大で『勉強の哲学』が一番売れている理由「勉強するとキモくなる」]

 「勉強とは何か?」を根源的に考えた一冊。一言なら「勉強とは変身だ」である。

 巷に数多のノウハウ本ではない。意識高い系の自尊心をくすぐる本ではない。勉強するとはどういうことか、勉強することで何が起きるのかを、言語と欲望の問題にまで踏み込み、掘り下げる。

 議論のバックグラウンドに、フーコーの権力システム、ドゥルーズ&ガタリの脱コード化、さらにウィトゲンシュタインの言語観をも引き込んでいるが、咀嚼しきった上で原理的に考え抜く、その知的格闘が面白い。

 勉強すると何が起きるのかを考える際、勉強する「前」はどうなっているかに着目する。自分が話す(=考える)言葉やコードは、そのときに自分がいる環境に依存しているという。半径5mの仲間や学校、家族、手元の端末のSNS、マスコミ、社会などから、「こうするもんだ」というコードにノッて話し、考え、行動する保守的な状態だという。

 それが、勉強することにより、慣れ親しんだ「こうするもんだ」から、別の「こうするもんだ」に移行する。集団的なノリに共感できなくなったり、あるいはそうであった自分を客観視するようになる。この「場」から浮いた感覚や言葉が自分をキモくさせるというのだ。

 勉強により、言葉が拡張する。今まで使っていた同じ言葉とは別の意味を持つことに気づく。この「違和感」が重要だと説く。言葉の手触りというか、透明度の違いのようなもの。わたしの例だと、「無限」だな。数学をやりなおして無限は計算できることを教わった(数学と数学論のあいだ『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』)。さらに、無限に大小があることを知った(大人のための数学『無限への飛翔』)。最初は、会話で使う形容的な「ムゲン」と数学的に定義された複数の「無限」の収まりの悪さを感じ、次に、そのズレを意図的に使い分けるようになった。勉強により、自分「が」キモく感じると同時に、自分「を」キモくさせていることに自覚的になる。

 勉強により、自己を言語的にバラす。これまで囚われていた環境のコードを疑って批判する(アイロニー)手法と、コードに対して意図的にズレようとする(ユーモア)手法により、自己破壊と拡張・メタ化を行うというのだ。その結果、発想の可能性を狭めていた環境のノリから離れ、別の環境、他の次元の発想が考えられるようになる。著者曰くこれが「賢く」なるということだ。

 勉強するとはどういうことか、勉強することで何が起きるのかを深く知れば、「なぜ勉強するのか」の答えは自ずと見つかる。勉強とは、変身だ。勉強しよう。

『土と内臓』 デイビッド・モントゴメリー 築地書館 レビュー : [『土と内臓』はスゴ本]

 人体をトポロジー的に見ると、消化器官を中心とした「管」となる。もちろん胃や腸には逆流防止のための弁が備えられているが、位相幾何学的には「外」の環境だ。

 この見方を推し進め、内臓をぐるりと裏返しにしてみる。くつ下を裏返すように、内側を外側にするのだ(このグロい思考実験は、クライヴ・バーカーのホラー小説でやったことがある)。裏返しにされた小腸や大腸を見ると、そこに植物の根と極めてよく似た構造と営みを見出すことができる。「水分や栄養素を吸収する」相似だけでなく、そこに棲む微生物との共生関係により、健康や成長面で重要な物質がやり取りされている。根と腸は、微生物とのコミュニケーションや分子取引をする市場なのだ。

 本書の結論は、微生物を中心とした人体の腸と植物の根の相似型であり、これに頭をガツンとやられた。ばらばらに得てきた知識が本書で一つにまとまるとともに、わたし自身が囚われていた先入観がぐるりと―――そう、くつ下を裏返すようにぐるりと逆転されたから。

 原題は "The Hidden Half of Nature" 「隠された自然の半分」になる。目に見えるものが自然(nature)の全てではない。小さすぎて肉眼では見えない微生物や、地面や体内に隠れている根や内臓に光を当てることで明らかになる本質(nature)こそが重要なのだ―――そんなメッセージが込められている。

 土に隠された半分として、「根圏」が紹介される。植物の根の分泌物と土壌微生物とによって影響されている土壌空間のことだ。そこでは、根細胞から糖質が豊富な化合物が分泌され、微生物の餌となる一方で、植物にとって有益なミネラルが微生物によってもたらされる。

 たとえば、クローバーや枝豆の根にある根粒菌が微生物と共生し、窒素化合物を生産することは知っていたが、常識が書き換えられてゆく。というのも、最近の研究によると、窒素化合物だけでなく、リンの80%、亜鉛の25%、銅の60%は菌根菌が運んでいる報告がされている。根は、単純に養分や水分を吸収するだけでなく、植物にとって不可欠なフィトケミカル(植物栄養素)を生産する場所でもあるのだ。

 体内に隠された半分として、「内臓」それも腸に焦点をあてると、驚くほどよく似た世界が現れる。そこでは、栄養分や水分を吸収するだけでなく、そこで一種の生態系を成している腸内細菌とのやりとりを通じて、生きていくために必要な栄養素を生成していることが見えてくる。小腸の内側は絨毛と呼ばれる繊維状の小さな突起で覆われており、植物の根毛のように表面積を何倍にも増やし、栄養吸収を大幅に向上させている。

 そして、同時にそこは微生物たちの餌場でありお花畑(腸内フローラ)なのだ。ヒトは食べたものを吸収しているだけでなく、「ヒトが食べたもの」を食べる微生物の代謝物をも吸収している。生体リズムや睡眠に重要な働きをするセロトニンは、脳よりも腸の微生物群で生成されるほうが多いと聞いたことがある。それだけでなく、腸内細菌は、ドーパミンや短鎖脂肪酸、各種のビタミンを合成している。これらは、健康にとって不可欠でありながら、ヒト単体では生成することができない。

 つまり、「わたし」とは、こうした微生物群をもひっくるめて、「わたし」なのである。根と腸、科学と歴史、医療と病気、見えている半分と隠された半分が、「微生物」というキーで一気通貫する。世界の見え方をも変えるスゴ本。

2017ベスト

『アイデア大全』『問題解決大全』 読書猿 フォレスト出版 レビュー :
[読書猿『アイデア大全』はスゴ本] [読書猿『問題解決大全』はスゴ本]

 これ、「2017年ベスト」としたけれど、今年に限らず一生モノ。そして、読んだら終わりではなく始まり。じゃんじゃん利用して、ボロボロになるまで使い倒すツールだと考えたほうがいい。

 それも、過去の人類の知恵を結集した虎の巻になる。哲学、歴史、経済学、人類学、数学、物理学、心理学、生物学、文学、宗教、神話、そして学際研究の分野で培われ、「これなら使える!」レベルにまで噛み砕かれ、適用例と注意点つきで紹介されている。仕事や学業の現場から家庭や個人の範囲まで当てはめることができる。

 『アイデア大全』には、創造力とブレイクスルーを生み出す42のツールが紹介されている。本書を読むことで、いわば42の新しい目を手に入れることになる。本書が類書と違うのは、「アイデアの求められ方」によってツールを使い分けている点にある。

 すなわち、「0を1にする」プロセスと、「1をnにする」プロセスを分けている。更地の、何もないところから生み出す方法と、所与のコアから展開していくやり方と、明確に分けて構成されている。おかげで、抱えている問題について、どれくらい把握しているかによって、アプローチを切り替えることができる。アイデアツールは沢山あるが、闇雲に試行錯誤するより、ずっといい。

 さらに面白いのは、アイデアを生むノウハウだけでなく、その基底にある心理プロセスや思想的な背景にまで踏み込んでいるところ。認知科学からの裏づけや歴史的経緯を説明することで、「新しい目」の(科学的・歴史的)位置づけと方向性が見えてくる。

 つまり、いま抱えている問題について、「どうすべきか」という答えだけでなく、答えを導くアプローチを通じて、どう位置づけられ、「どうあるべきか」までを省みさせる目論見を垣間見ることができる。役立つだけでなく、ものすごく志の高いガイドブックなのだ。

 『問題解決大全』は、人が抱くあらゆる問題―――煎じ詰めれば「~したい」と思うこと―――を実現するための37の解決技法が紹介されている。著者は、問題に気づき、その解決のために自分の行動を計画し、実行することは、人の能力であり、同時に人が人たる条件なのだと言い切る。ここ痺れるところなり。

 よく生きようと努力することが、人の本質なのだと改めて思い知らされる(この、"よく"は、「善く」「良く」「好く」そして「欲」と、人によりけりだが)。どう生きるかは人それぞれだが、「よく生きる」ことは、あらゆる人の、どんな状況にも当てはめることができる「問題」なのだ

 さらに、本書が凄いと感じるのは、技法を大きく二つに分け、「リニアな問題解決」と、「サーキュラーな問題解決」にしているところだ。

 リニアな問題解決とは、直線的な因果性を基礎に置く問題解決であり、理想と現状のギャップを何らかの形で埋めたり、より「上流」の悪原因を取り除くことを目的とする。解決者は、問題の外側から分析し、必要なリソースも問題の外から供給される。

 いっぽう、サーキュラーな方はより複雑だ。解決する人もまた、問題を構成する因果のループの中に組み込まれている。問題を問題たらしめている要素もまた、因果ループの中で再生産しており、必要なリソースも解決すべき問題として考慮しなければならない。技法としては、因果ループにゆさぶりをかけるため、例外や逸脱を強めたり、逆説的に介入する手段が紹介されている。ここまで丁寧&簡潔にまとめているのは、本書が初だろう。

 『アイデア大全』と『問題解決大全』、どちらも強力にお薦めする。ただし、読んだら終わりではなく、始まりにすぎないことをお忘れなく。ここは、まなめ王子の金言を引く。本書は、誰にでもお薦めできる、数少ない「よい本」なのだから。

 よい本で、よい人生を

スゴ本2018

 来年は何を読む?

 「あとで読む」は、後で読まない。読みたい本、再読したい本、読まねばならぬ(と言い聞かせている)本がある。古井由吉をもっと読みたい。リチャード・パワーズ読書会の準備をせねば。ハッキング『数学はなぜ哲学の問題になるのか』、ノース&ウォリス&ワインガスト『暴力と社会秩序』を読みたい。宇宙に生命がいる前提で、『宇宙生命論』を読みたい。スプラトゥーン2オフしたい。オイラーの美しい式を理解したい。ナボコフ『アーダ』は読めるのか!? 人生は有限だから、いま読むべきものを読もう。

 そして、新しい本を、新しいからという理由だけで追いかけないように。時に淘汰されていない新刊本ばかりありがたがるのはやめよう。「新刊本しか読みません」ということは、「私は時間を信用していません」と一緒だ(でも思わず手にとってしまう性が憎い……)。

 他にも、[スゴ本オフ]もやりたいし、他の読書会にもっと参加したい。本が好きな仲間をもっと増やしたい。これを読んでいるあなたがそうだ。そして、あなたのお薦めを教えてほしい。ブログのコメントでも、twitter[@Dain_sugohon]からでも、歓迎します、ぜひ。

 なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

この本がスゴい!2016
この本がスゴい!2015
この本がスゴい!2014
この本がスゴい!2013
この本がスゴい!2012
この本がスゴい!2011
この本がスゴい!2010
この本がスゴい!2009
この本がスゴい!2008
この本がスゴい!2007
この本がスゴい!2006
この本がスゴい!2005
この本がスゴい!2004

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2017年11月 | トップページ | 2018年1月 »