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“奇跡の惑星”から、ありふれた奇跡へ『系外惑星と太陽系』

 読前・読後で世界を一変せしめるような本をスゴ本と呼ぶのなら、これはまさしくそれ。

 なぜなら、薄々考えてきたことが、エビデンスと共に論証されており、今まで学んできた天文学、地球物理学、生命科学の知識が急速に収束し、「地球外生命はいる」という確信になろうとしているから。同時に、わたしの思考が、いかに地球を中心に囚われていたことに気づかされたから。

 タイトルの「系外惑星」とは、太陽系以外の惑星のこと。ここ数十年の間、この系外惑星が続々と発見されるにつれ、生命活動が可能な惑星(ハビタブル惑星)に対する認識が塗り替えられてきた。かつては、かつては「奇跡的」だったものが、「ありふれた奇跡」になろうとしている。しかも、ハビタブル「惑星」である必要はなく、ハビタブル「衛星」の可能性も示唆されている。

 つまり、「ハビタブル」の条件を考えるにあたり、「太陽系の地球のような惑星」のイメージを壊し、ゼロベースで考え直す。文字通り「生命を宿しうる」ことで再定義し、その条件を適当な惑星の質量・軌道、水、炭素、窒素、エネルギーの供給というように捨象してしまう。すると、太陽系に似た惑星系である必然性はなくなり、地球に似た惑星である必要もなくなる。サイズによっては惑星である必要性もなくなり、衛星でもよくなる。

 そして、相当する質量や軌道という観点であれば、惑星系性理論および観測された系外惑星の軌道分布から予測可能であり、元素およびエネルギーの供給については、惑星大気の観測からある程度の実証を得ることができる。

 昔は、太陽系以外にも惑星があるはずだとして、様々な系外惑星探査が行われてきた。大型望遠鏡を使った探索は1940年代から本格化し、1980年代には観測技術は充分なレベルに達していた。しかし、系外惑星はほとんど発見できなかった。「第二の地球を探せ」というスローガンで、地球に似た系外惑星を探そうとして、(それが見つからなかったが故に)地球は“奇跡の惑星”とされた。

 今は、一定の確度を持ち、予測と検証を繰り返しながら観測を行うことで、系外惑星の発見数は、爆発的といっていいほど激増している。この今昔の境は1995年以降、「ホット・ジュピター」や「エキセントリック・プラネット」と呼ばれる常識外れの惑星が見つかってからだという。いま、まさにパラダイムシフトが起きているのに、気づかぬまま通り過ぎているという感覚。楳図かずおの傑作『わたしは真悟』の「奇跡は誰にでもおきる。だが、おきたことには誰も気づかない」を地で行く感覚なり。

 なぜ、半世紀もの間、系外惑星を発見できなかったのか?

 なぜなら、ホット・ジュピターのような惑星の存在自体が、「想定外」だったからになる。恒星の周囲を、非常に高速で(公転周期4日)周っているガスで覆われた「熱い木星」なんて、想像がつくだろうか? あるいは、彗星のような楕円軌道を描き、灼熱期と極寒期をめまぐるしく繰り返す超巨大サイズの「奇妙な惑星」なんて、完全に常識外れだろう。

 この「常識」こそが、バイアスとなっていたという。つまりこうだ、わたしたちは、太陽系というたった一つのモデルでもって、恒星や惑星を考えようとした。サンプルが1つしかなかったため、惑星形成論とは、太陽系の姿をどのように合理的に説明できるかという議論に等しかったという。太陽系の姿に無意識のうちに囚われ、その「常識」の目で探そうとしていたため、文字通り視野が狭くなっていたのだ。

 著者は、さらにこの「常識」の中心に、キリスト教を中心とした西洋文化を指摘する。地球や生命、宇宙の始まりといった形而上的な問題について、人の考えは、そのバックグラウンドにある文化に影響される傾向がある。「神に選ばれて、キリストが誕生した特別な場所」でなければならない地球は、かつては宇宙の中心とされた。もちろん現代で天動説を信じる人はいないだろうが、太陽系や地球をあるべきモデルとしたがるバイアスは、少なくともわたしの中で、形を変えて生き残っていることが分かった。

 しかし、いったん太陽系モデルから離れて見るならば、その視野は驚くほど広がる。著者は、観測データからも理論モデルからも、ハビタブル・ゾーンに地球サイズに近い惑星が存在する確率は、10%以上はあるという。この銀河系に惑星は充満していると言えるのだ。

 しかも、惑星だけではなく衛星も含めると、その数はもっと大きくなる。ハビタブル・ムーンだ。木星の衛星のエウロパや、土星の衛星のエンケラドスは、表面は凍っているものの、氷の下には液体の海があることはほぼ確実で、そこでの生命の可能性が議論されている。潜ってみたら、微生物が「うじゃうじゃ」いましたと報告されても、驚く反面、やっぱりそうなのかもと思うだろう。

 この感覚は、ここ近年の天文学における発見が、わたしの考え方そのものに影響を与えたのかもしれぬ。見えていないものは、「まだ見つかっていない」可能性を残しているのであり、それは「存在しない」ことと等価ではない。だから、見えていないものについて想像する余白を、常に残しておきたい。

 パラダイムシフトが、まさにわたしの内側で起きているのを自覚した一冊。

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食う寝る殺す『性食考』

 食べること、セックスすること、殺すこと。これらは独立しているのではなく、互いに交わり重なり合っている。「食べちゃいたいほど、愛してる」という台詞を起点に、古事記と神話、祭りと儀礼、人類学と民俗学と文学を横断しながら、人の欲の深淵を覗き見る。ぞくぞくするほど面白い。

 著者は民俗学者。引き出しを沢山もっており、バタイユやレヴィ=ストロース、デズモンド・モリスや柳田國男などを次々と引きながら、性と食にまつわるさまざまな観点を示してくれる。おかげで、わたしの引き出しも次々と開かれることとなり、読めば読むほど思い出す読書と相成った。

 たとえば、入口の「食べちゃいたいほど、愛してる」は、センダック『かいじゅうたちのいるところ』から引いてくる。いたずら小僧のマックスが、罰として寝室へ追いやられるところから始まる夢と空想と「かいじゅうたち」の物語。その愛のメッセージを引いてくる。

「おねがい、いかないで。
おれたちは たべちゃいたいほど おまえが すきなんだ。
たべてやるから いかないで。」

 そして、食と愛が、実に近しいところにあることを示す。たとえば、人間行動学の『マンウォッチング』にある、食べるための唇とシンボルとしての唇の話である。つまりこうだ。直立歩行するヒトにとって、雌が成熟し発情しているかどうかを示すディスプレイ部位が、お尻や陰唇から、おっぱいや唇に成り代わったという話だ。甘噛みにも示されるように、愛情表現のキスとは、摂食行為の代替なのだ。

 さらに、古代中国の伝説を集めた『捜神記』から、ペニスをむさぼり喰らう、もう一つの秘められた口の話を引いてくる。陰部が首や腹、背中など、本来と異なる場所にある女が出現すると、天下が乱れる兆しとされるそうな。いわゆる有歯女陰(ヴァギナ・デンタタ)の伝説は、古代中国に限らず、世界中にその例を見ることができるという。

 また、イェンゼン『殺された女神』から、世界各地の食物起源神話が、ある種のパターンに則っていることを指摘する。ハイヌウェレという神話である。ハイヌウェレという少女は、様々な宝物を大便として排出することができた。村人たちは気味悪がって彼女を埋め殺してしまうのだが、その死体からさまざまな種類の芋が育ち、人々の主食になったという話だ。東南アジア、オセアニア、南北アメリカ大陸に流布している神話で、日本や中国にも類似の話がある(画像はwikipedia[ハイヌウェレ型神話]より)。

XRF-Hainuwele
By Xavier Romero-Frias (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

 「女に飢える」や「性欲の渇き」という言葉や、愛の行為としての「甘噛み」、そしてキスなど、食べることと愛することは、重なり合っている。レヴィ=ストロースは「狂牛病の教訓」のなかで、世界のすべての言語がセックスを摂食行為になぞらえている、と書いていたという。やっていることは即ち、肉を喰らう肉であるため、文化を問わずそういう隠喩をまとうのだろう。

 種の保存行為としての食と性は、わたしたちの視床下部に隣り合っているだけでなく、文化の中にも、驚くほど交わりあっているのだ。

 最初に書いたように、これ読んでいると、さまざまな過去のスゴ本が浮上してきて困った。ここでは、エログロの無いものを選んでご紹介しよう。

 まずフレイザー『金枝篇』[レビュー]。人類学・民俗学・神話学・宗教学の基本書であり、世界中の魔術・呪術、タブー、慣習、迷信が集められている。「食と性」に関するものなら、植物と人との間にある、「種をまく」という相似性を慣習化したものが紹介されている。すなわち、種をまいた畑に若い夫婦たちが転げまわり、性交するという慣習が、ウクライナや中央アメリカにあったという。また、神を食う儀式として、ギリシアの穀物の女神デメテルとペルセポネが紹介される。穀物神は人の姿で表わされ、その姿のまま殺され、聖餐として食べられてしまう。すなわち、人の形をした聖なる食べ物なのだ。

 みだらで、せつなくて、うまそうな短編集『飲食男女』[レビュー]を読むと、食べることは、そのまま色っぽいことが分かる。少年時代の甘酸っぱさは「ジャム」に注がれるレモン汁に象徴され、性春のひたむきな欲情は、「腐った桃」の、ゾッとするくらい甘い匂いに代替され、酸いも甘いもかぎわけた行く末は、「おでん」の旨みに引き寄せられる。同時に、イチゴジャムに喩えられた血潮の鮮烈なイメージや、山茱萸にべっとり濡れた唇が「あたし、いまオシッコしてるんだ」とつぶやく様は、いつまでも読み手につきまとって離れないだろう。

 花とはセックスそのものだと喝破した澁澤龍彦も外せない。花弁、雄蕊・雌蕊といった部位は性器そのものだし、人によって見る/見られるために利用されることも然り。『エロティシズム』が有名だが、ここでは、「性」に加えて「食」も入るため、『フローラ逍遙』を紹介したい。水仙や椿、薔薇やコスモスなど、オールカラーの植物画とともに綴られる博物誌には、花から「性」、種や球根から「食」が喚起される。クロッカスの茎をファロスに、球根を睾丸に見立てる技はさすが。そもそも蘭のギリシャ語オルキスは睾丸の意味だと知ったのも本書なり。

 『性食考』では、マクロイのSF『歌うダイアモンド』が紹介されている。「食」と「性」が完全に入れ替わった世界に、強烈な男性批判が込められた短編「ところかわれば」である。わたしは未読だったが、あらすじの紹介で、藤子不二雄の短編「食欲と性欲」を思い出した(『気楽に殺ろうよ』所収)。人前で食事をするのがタブーとなり、反対にオープンな性行為が普通となった世界の話だ(ひょっとすると、マクロイから拝借したのかも)。食も性も、その周辺には文化と野性があいまいに重なりあい、タブーと聖なるものが生まれ出る場になることが分かる。

 人の視座から考察した『性食考』とは異なり、動物の観点から捉えたのが、写真集『死を食べる』になる[レビュー]。たとえば、キタキツネの死骸。冷たくなったキツネの体からダニが離れ→ハエが卵を産みつけ→ウジがわく。肉食の昆虫(スズメバチ)もやってくる。食い尽くされた後は、土に還る。屋外にうち捨てられた女の死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画『九相図』の動物バージョンだ。『九相図』と決定的に異なるのは、『死を食べる』を最後まで見ていると、「あらゆる生きものは、死を食べることで、生きている」というシンプルな事実が腑に落ちるということ。

 食と性と死から、かくも豊饒な体験を思い出す。「食べること、交わること、殺すこと」を徹底した作品として、エログロ満載な映画『八仙飯店之〇〇饅頭』『ムカデ〇〇』コミック『バージェスの〇〇たち』『ミミ〇リ』等があるが、やめておこう(検索禁止)。いずれにせよ、このテーマを突き詰めると、人とは歩く糞袋にすぎぬというとこに行き着く。

 食と性と死、読めば必ず思い出す、人の欲の深いところを覗いてみてはいかが。

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「お金」というテーマで本を選んだ

 「お金」という言葉から、あなたは何を連想するだろうか?

 生活費? 給料? 投資? 経済? それとも「お金」で買えるさまざまなモノから、お金では買えない何かを思い浮かべるだろうか。お金を強奪したり騙しとる犯罪や、お金によって狂わされる人生、富や成功を想像するだろうか。

 ここでは、「お金」がテーマの読書会で集まった本を紹介する。お薦め本をもちよって、まったり熱く語り合う「スゴ本オフ」という読書会だ。毎度毎度、すごい本がざくざくと見つかる宝の山なり。「それは知らなかった!」という驚きの傑作から、「そのテーマでこの本につなげるのか!」という発想の妙まで、何度叫んだことやら(詳しくは[スゴ本オフ]をチェック)。

 懐かしいもの、知らないもの、意外なもの、様々な本に出会うことを請合う。

01

お金持ち

 お金といえば「お金持ち」。お金持ちといえば、9兆円にものぼる資産を持つ世界最大の投資家ウォーレン・バフェット。そして、バフェットの本は沢山あるが、バフェット自身の言葉で書かれているのはこれだけという。でんさんが紹介する『バフェットからの手紙』には、600頁に、株式投資や経営に関する重要なトピックがみっちり詰め込まれている。最も大事なのは、「分からないことに手を出すな」ということ。株を買うというよりは、会社を買う。信頼できる経営者がいる会社を買うことが重要らしい。

 「お金持ち」でわたしの想像の届く範囲だと、伊丹十三監督『マルサの女』に出てくる脱税犯のだな。脱税を摘発する国税局査察部の宮本信子と、巨額脱税犯の山崎努の攻防が凄い映画なり。「脱税」がテーマだけなゆえに、お金に対する考えというか哲学のようなものが滲み出る(それがまた面白い)。わたしが紹介したのはこのくだり。

  金を貯めようと思ったらね。
  使わないことだよ。

  100万あったって、使えば残らない。
  10万しかなくても、使わなけりゃ、
  まるまる10万残るんだからね。

  あんた今、ポタポタ落ちてくる水の下に
  コップを置いて水ためているとするわね。
  あんたのどが渇いたからといって、
  半分しかないのに飲んじゃうだろ。
  これ最低だね。
 
  なみなみいっぱいになるのを待って、
  それでも飲んじゃだめだよ。

  いっぱいになって、溢れて、ふちから垂れてくるやつ。
  これを舐めてがまんするの。

 youtubeで、ちょうどそこから再生できる。山崎努の名演をどうぞ。


経済

 お金といえば「経済」。わたしは『クルーグマン国際経済学』という絶賛積読中のゴツい本を紹介したけれど、はらさんが持ってきた『経済政策で人は死ぬか』が面白そう。世界恐慌からソ連崩壊後の不況、アジア通貨危機、さらにサブプライム危機まで、様々な不況を分析するのだが、その切り口が斬新だ。普通ならGDPやマネーサプライといった指標値を思いつくが、本書はなんと「死亡率」!

 たとえば、不況時に緊縮財政をしたとする。医療費が抑制されるから、皆が病院に行けなくなる。結果、死亡率が上昇する。ソ連が崩壊したとき、みんなこれで幸せになると思ったが、実際は、男性、とくに若い男性の死亡率が急上昇しているなど、「死亡率」で考えると、経済政策の成功・失敗に対する(経済学者の弁明を超えた)モノサシが得られる。財政が疲弊しているとき、国としてやらなければならないことと、国民が幸せだと感じることの差が、「死亡率」に垣間見ることができて面白い。


お金で買えるもの・買えないもの

 お金で買えるもの・買えないもので考えると、筆頭に浮かぶのが「命(≒時間)」と「愛」。実は、命の値段を調べたことがあって、「命の値段を見つめ直す四冊」に書いた(結論から言うと、日本人の場合、一人一年一千百万円なり。詳細はリンク先で)。オフ会では、「命の値段」を示すのに、手塚治虫の『ブラックジャック』を出してくる。

 ほらあれだ、ブラックジャックが外国で殺人犯と間違われたとき、見知らぬ日本人が骨折って助けてくれたという話。その彼が大変な目に遭ったとき、今度はブラックジャックが全力で助けに行くという神エピソードだ(以下、『ブラックジャック:助け合い』秋田書店より)。

 あと、地下室に閉じ込められるエピソードも紹介される。「助かるならいくらでも金を払う」と言い出す連中を尻目に、壁を「聴診」する話もある。「金と命」という生々しいテーマを何度も教えてもらったなぁ……

 金で愛は買えるか? という疑問に、「セックスはカネで買えるが、愛は買えない」という中国の諺を思い出す。そこで紹介されたのは、アルベルト・モラヴィアの『倦怠』と谷崎潤一郎の『痴人の愛』。どちらも人生の虚しさを埋めるために「買った」(飼った?)少女がファム・ファタルでしたという話だ。

 そして、彼女が自分に振り向いてくれないことに心を焼き、嫉妬し、もの狂おしくなる関係こそが、虚しいはずの人生を生々しくさせていることになる。『倦怠』のワンシーンで、金で束縛する試みが正反対の結果になり、ふたりが紙幣に埋もれて交わるところがある。狂気とグロテスクに満ちた場面らしい。

 「お金で買えないもの」として、一番ズシンと来たのは、ささきさんが紹介してくれた、ジョン・クラカワー『空へ』。エベレスト登頂の夢をかなえるため、大金を払ってガイドを雇う人々と、そうした「顧客」を率いるリーダーの遭難事故。その悲劇から生還したジャーナリストが書いたドキュメンタリーで、映画『エベレスト3D』の原作でもある。

 登山に参加した人たちは、プロのクライマーではない。6万5000ドルという大金を支払うため、自宅を担保にお金を借りた人もいたらしい。これは読みたい。そして、「大金を払って、しんどい思いをして、死ぬような目に遭っても、かなえたかったものとは?」を、ぜひ知りたい。

02

詐欺

 簡単に金を稼ぐ方法として詐欺がある。光クラブをモチーフにした高木彬光『白昼の死角』を思い出したが、もっと現代的かつ具体的なのは、ズバピタさんが紹介した『営業と詐欺のあいだ』になる。

 営業と詐欺を同列に見ていることも面白いが、さらにカルト宗教やブラック企業まで巻き込み、すべては「お金を奪う」行為であるという視点から、お金を奪う技術とお金を奪われないための知識と技術についてまとめた一冊とのこと。営業と詐欺の境目が非常に曖昧なことが分かり、著者に言わせるならば「売買とは売り手と買い手の知的ゲーム」らしい。営業マンにはきわどい必勝法が伝授され、売りつけられる方にとっては、騙されないコツが身に付く。

 紹介された本は以下の通り。定番から意外なものまで、お探しあれ。次回のテーマは「アクシデント」(「トラブル」だったかも……)。災厄レベルの深刻なやつから、食パンくわえて「遅刻遅刻ー」のやつまで、このキーワードでピンと来た推し作品を、教えてくださいませ。参加はここからどうぞ→[スゴ本オフ]

お金持ち

  • 『バフェットからの手紙』ローレンス・A・カニンガム(パンローリング)
  • 『お金持ちになれる黄金の羽の拾い方2015 知的人生設計のすすめ橘玲(幻冬社)』橘玲(幻冬社)
  • 『大富豪が実践しているお金の哲学』冨田和成(インプレス)
  • 『マルサの女(映画)』伊丹十三監督(東宝)
  • 『株は技術だ』相場師朗(ぱる出版)
  • 『億男』川村元気(マガジンハウス)
  • 『改訂版 金持ち父さん貧乏父さん』 ロバート・キヨサキ (筑摩書房)
  • 『マージン・コール(映画)』監督・脚本:J・C・チャンダー(ビフォア・ザ・ドア・ピクチャーズ)
  • 『世紀の空売り―世界経済の破綻に賭けた男たち』マイケル・ルイス(文春文庫)
  • 『マネー・ショート華麗なる大逆転(映画)』アダム・マッケイ監督(パラマウント映画)
  • 『貨殖烈伝』司馬遷(『生きる技術』筑摩書房より)

経済
  • 『クルーグマン国際経済学 理論と政策』ポール・クルーグマン(丸善出版)
  • 『シティプロモーションでまちを変える』河井孝仁(彩流社)
  • 『決済インフラ入門』宿輪純一(東洋経済)
  • 『14歳からのお金の話』池上彰(マガジンハウス)
  • 『ファスト&スロー』ダニエル・カーネマン(早川書房)
  • 『エンデの遺言』ミヒャエル・エンデ(NHK出版)
  • 『経済政策で人は死ぬか?: 公衆衛生学から見た不況対策』デヴィッド・スタックラー(草思社)
  • 『帝国の手先 ヨーロッパの膨張と技術』ダニエル・R・ヘッドリック(日本経済評論社)
  • 『狼と香辛料』支倉 凍砂(電撃文庫)
  • 『valu だれでも、かんたんに、あなたの価値をトレード(フィンテック)』株式会社VALU(株式会社VALU)
  • 『ゴッホ・オンデマンド』ウィニー・W・Y・ウォン(青土社)
  • 『マネーボール 完全版』マイケル・ルイス(ハヤカワ・ノンフィクション)

買えないもの
  • 『ブラック・ジャック』手塚治虫(秋田書店)
  • 『幸福の資本論』橘玲(ダイヤモンド社)
  • 『7つの習慣』スティーヴン・コヴィー(キングベアー)
  • 『兄のトランク』宮沢静六(ちくま文庫)
  • 『人民は弱し 官吏は強し』星新一(新潮文庫)
  • 『倦怠』アルベルト・モラヴィア(河出文庫)
  • 『痴人の愛』谷崎潤一郎(新潮文庫)
  • 『空へ 悪夢のエヴェレスト1996年5月10日』ジョン・クラカワー(ヤマケイ文庫)
  • 『エベレスト3D(映画)』バルタザール・コルマウクル監督(ユニバーサル映画)

詐欺
  • 『スティング(映画)』ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード出演(ユニバーサル・ピクチャーズ)
  • 『百万ドルをとり返せ!』ジェフリー・アーチャー(新潮文庫)
  • 『営業と詐欺のあいだ』坂口孝則(幻冬舎新書)
  • 『大逆転 (映画)』エディー・マーフィー出演(パラマウント映画)
  • 『マネーロンダリング』橘玲(幻冬社)
  • 『誠実な詐欺師』トーベ・ヤンソン(ちくま文庫)


  • 『闇金ウシジマくん』真鍋昌平(ビックコミックス)
  • 『ナニワ金融道』青木 雄二(講談社)
  • 『不発弾』相場英雄(新潮社)
  • 『火車』宮部みゆき(新潮文庫)
  • 『銭ゲバ』ジョージ秋山(幻冬舎文庫)
  • 『100分de名著 苦海浄土』若松英輔(NHKブックス)
  • 『キングの報酬 power(映画)』監督:シドニールメット(20世紀フォックス)
  • 『スパイの血脈』ブライアン デンソン(早川書房)

生活
  • 『小商いのすすめ』平川 克美(ミシマ社)
  • 『ナリワイをつくる:人生を盗まれない働き方』伊藤 洋志(ちくま文庫)
  • 『フルサトをつくる: 帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方』伊藤 洋志(東京書籍)
  • 『猫を助ける仕事』山本 葉子,松村 徹(光文社新書)
  • 『日本の給料 職業図鑑』給料BANK(宝島社)

いろいろ
  • 『マネー』浜田省吾(ソニーミュージック)
  • 『The Dark Side of the Moon』Pink Floyd(Pink Floyd Records)
  • 『おねだり大作戦』BABYMETAL(TOY'S FACTORY)
  • 『ベイビードライバー(映画)』監督・脚本:エドガー・ライト(ソニーピクチャーズ)
  • 『北壁の死闘』ボブ・ラングレー(創元ノヴェルズ)
  • 『金のいいまつがい』糸井 重里(新潮文庫)
  • 『ハリー・ポッターと秘密の部屋』J.K.ローリング(静山社)
  • 『タラ・ダンカン 若き魔術師たち』ソフィー・オドゥワン・マミコニアン(メディアファクトリー)


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物理学の限界=その時代の技術の限界 『物理学は世界をどこまで解明できるか』

 「物理学の限界=その時代の技術の限界」であることが分かる一冊。

 私たちは、どれだけ世界を知ることができるのか? 科学で説明可能な領域に、根源的な限界はあるのか? もしあるのなら、その限界はどこであり、どこまで実在の本質に迫ることができるのか―――わたしが、ずっと抱いていた疑問に、理論物理学者マルセロ・グライサーが応えた一冊。

 古代ギリシャの哲学から最新の量子物理学まで、科学史を振り返りつつ、「世界に対する知識」がどのように変遷していったかを解説する。類書と異なるのは、実在論がキーになっているところ。

 つまりこうだ。それぞれの時代で現象の説明のために用いられる「科学的」なモデルは、実際にそのような形や性質で存在しているのか? という検証がつきつけられる。ご存知の通り、「科学的」なモデルは、それぞれの時代でに異なり、知識の精度や濃度が蓄積され、更新され、その度ごとに世界のありようは一変してきた。

 著者は、そうした知識やモデルによって捉えた世界を、比喩的に「知識の島」と呼び、人類が世界をどこまで知りえたかを説明する。大海という未知の世界に浮かんだ、知識の島だ。既知の世界が広がるにつれ、島の面積は広くなる。一方で、未知の世界に接する海岸線も長くなる。つまり、知れば知るほど、未知は広がるのだ。

 これは、素朴に科学を信じていた自分にとって、ちょっとした衝撃だった。たとえば、自然界に存在する力を統一的に説明する万物の理論が成立すれば、世界を解明したことになると思っていた。これが実現する2055年をサスペンスフルに描いたグレッグ・イーガン『万物理論』の影響もあったのかもしれない。

 しかし、仮に超弦理論がそれに成功したとしても、粒子の最初期の相互作用についてわかっていることの完全な理論を生みだす可能性があるだけであり、最終理論などではないという。なぜなら、わたしたちが「人」という存在である限り、人が観測し、理解できる範囲内であるという限界があるからだ。

 グライサーによると、自然を探索する方法が機械である以上、その限界は機械によって決められることになる。なぜなら、機械は人の発明品である以上、人の創造力とリソースに依存するからだ。科学史を振り返ってみれば明白だ。新しい顕微鏡、新しい望遠鏡、新しい粒子加速器によって、世界のありようは変わってきてのだから。

 さらに、観測や測定に限らないという。既知のデータから未知の領域へ外挿される理論やモデルもまた、現在の知識に頼らなければならない。これも、歴史が明らかにしているエーテルやフロギストン、熱素、ボーアの原子モデルも、(その当時として)自然現象の記述として機能していた。物理的な実在に関し、最終的な説明などは存在せずより効果的な記述があるだけだという。

 ヴェルナー・ハイゼンベルクはもっと短い言葉で喝破している「私たちが観察するものは自然そのものではなく、私たちの探究する手法に応じて露わになった自然である」。探究する手法や機械によって、実在が変わるのだ。コロンブスの地球を中心とした宇宙は、太陽が中心にあるニュートンの宇宙と根本的に異なる。アインシュタインにしても然り。

 私たちがある時点で「真実」とする実在の説明は、時代により、モデルにより変化する。ここでプラトンの洞窟の喩えを思い出す人がいるかもしれない。洞窟に住む私た見ているのは、イデアの「影」であり、縛られているがゆえに振り返ってイデアそのものを見ることができない。

 もちろん、ある意味でこの喩えは合っている。すなわち、どんなに科学が進んでも、見えるのは実在の近似にすぎず、けっして実在そのものを見ることができないという点では正しい。だが、そこで照らし出される「影」そのものが変化するところが違う。そして、その限界は人に依存する。『万物理論』の「宇宙を正しく説明できたら宇宙そのものが消滅する」ネタは、とどのつまり「わたし」が理解するから世界がある人間原理につながる

 この限界は、佐々木閑『科学するブッダ』で考察した通り。量子論、進化論、数論を切り口に、科学の人間化が起きていることを解き明かすスゴ本なり。世界の真の姿を求めて論理思考を繰り返すうちに、神の視点を否応なく放棄させられ、次第に人間という存在だけを拠り所として物質的世界観を作らねばならなくなってきた「科学の限界」を説明する。

 仮に、物理学が行き詰まるとするならば、限界側―――つまりヒトの観測ないし発明された機械の側から逆照射することで、突破口が見出されるのではないか、と考えられる。これまで、自然現象の観察と説明からモデリングをボトムアップで積み重ねてきた物理学に対し、「ヒトで理解できる/測定可能な範囲」から説明可能なルートがないかアプローチするのだ。

 このアプローチは、カルロ・ロヴェッリが『すごい物理学』で紹介するループ量子重力理論につながると考える。すなわち、時間と空間に対し、それ以上の分割不可能な最小単位(スピンフォーム)が存在する前提で、一般相対論の時空間と量子場を合体させる試みだ。このスピンフォームこそが、時空を離散的なものとみなす「ヒトで理解できる/(将来)測定可能な範囲」なのではないか。

 知識の島のてっぺんに立ち、科学の射程をふりかえる一冊。

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