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『土木と文明』はスゴ本

 土木から見た人類史。めちゃくちゃ面白い。

 土木工学とその影響という切り口で世界史を概観する。テーマは、都市、道路、橋、堤防、上下水道、港湾、鉄道などに渡り、テーマごとに豊富な事例で紹介する。土木技術の発展なしには文明も発達せず、また文明の発展につれて土木技術も発達してきた。そうした土木工学と文明の関わりを歴史的に串刺しで見ることができる。

 大きなものから小さなものまで、人が手がけてきた土木事業は、それこそ星の数ほどある。それをどうやって整理するか。本書は、そのとき直面した問題(治水、防衛、流通、疫病対策等)と、利用できるリソース(人・技術・時間)、そして成し遂げられた結果(土木事業)という観点で整理しているのが素晴らしい。

 面白いことに、問題と対策という視点で眺めると、時代や地域を超えた普遍性が現れてくる。異なる時代・地域の人々が、それぞれに知恵を絞り、そのときに手に入るリソースを駆使した結果、きわめて似通った構造物ができあがる。

 人の営みの不変性が、土木事業の普遍性につながる。どの時代であれ、人は水や食べ物を確保し、便利で安全な生活を求め、より良いものを作ろうとする。当たり前のことなのかもしれないが、土木という共通面で見せられると、一種の感動すら覚える。

◆治水:水を治むるは天下を治むる

 最もすごいのは、治水。

 「水を治むるは天下を治むる」という古い言葉が指すとおり、どの時代の為政者も治水には心を砕き、大量のリソースを投入していたことが、土木事業という結果から分かる(そもそも政治の「治」の語源は治水だし)。

 たとえば、紀元前の中国の王朝、秦国の事例がすごい。洛水の120キロにわたる灌漑水路が建設されたのだが、この水路、物資を船で運ぶ体目の運河としての役割もあった。そのため、丘陵の下にトンネルを堀り、水路を通過させている。単純に横穴を掘り進めるには、時間がかかりすぎる。どうすればよいか?

 そこで、ある工法が用いられる。すなわち、丘の上から何本もの竪穴を掘り下げ、指定した深さに達したところで左右に横穴を掘り進めて水路として連結させるのだ。こうすることで、複数のチームで同時にトンネルを掘ることができる。さらに、地下水路に崩れ落ちる土砂を浚うメンテナンスの通路にもなるメリットがある。

 この工法はカナートと呼び、最古の水道でも跡が残っているという。現在でもモロッコで機能している地域があるという。本書では中近東のカナートが伝播したと示唆するが、農耕地の灌漑のための水路を、積荷を載せた船が通れるほどの大規模で実現させている秦国もすごい。

 日本の治水事例だと、行基、空海、加藤清正といったおなじみの人物が出てくる。だが、なぜに僧侶や武将?

 なぜなら、衆生済度の方便になるから。仏法を説くだけではなく、信念を共にする集団が土木技術を修得し、灌漑や治水といった「見える化」を伴ってこそ、民衆の支持を得ていたことが分かる。加藤清正にしても然り。熊本城の石垣が有名だが、水争いや土地争いを治めるための名(功績)と実(土木技術)を兼ね備えた、「清正公」という事業団のような存在だったのかも。すなわち、僧や侍という個人の属性だけでなく、優れたエンジニア集団でもあったわけだね。

 なかでも、信玄堤の事例は、感動すら覚えた。甲府盆地の釜無川の大洪水を契機として、御勅使川との合流地点の大改造を行った武田信玄の土木工事だ。本書では、新しい水路を掘り、その起点に強固な石を積上げ、水流の勢いを弱めるように誘導する設計をマップつきで紹介している。

 しかし、コンクリートも重機もない時代。時とともに地場が緩んでくるのをメンテナンスする人員を確保するため、開拓移住者を募って入植させたという(入植者たちは免税される代わりに水防が義務付けられた)。さらに、堤防の上に三社大明神を請来し、毎春の祭日の神輿渡しをすることで、参拝する群衆によって土地がおのずと踏み固められる工夫をしたというのだ。

 この祭りは、今でも行われている(旧:山梨県中巨摩郡竜王町の神幸祭)。なぜその場所でその季節に祭りをするのか、知らない人もいるだろう。単に言い伝えというのではなく、その場所を守るための方法も込みで、500年前の政策が伝統化されているのだ。これは凄い。

 なぜなら、ある巨大建造物の話を思い出したから。

 その建造物に求められているのは、「入るな!」というメッセージである。周辺には鉄条網が張り巡らされ、様々な国の言葉で「入るな!」という看板が立ててあり、言葉が分からない人向けになにやら恐ろしげアイコンで警告を発している。壁を頑丈にしたり、侵入者を排除する機能を取り入れたり、そもそも普通ではアクセスできないような高い塔、深い穴、巨大な掘といった構造をしてもいい。

 だが、そうした防護壁をもうければもうけるほど、中に入っているものが大変貴重で価値があるものだと思われ、数多くの侵入者を招きよせることになる。何百年も経過するうちに、言葉は変化し使われなくなり、警告の絵も分からなくなる。どうすればよいのか?

 一つの解として、「祭り」が挙げられる。その建造物を中心にして社や街を造り、それぞれで祭りを伝統化させる。祭りでは「厄・忌み方角」として建造物の方向から避けるような舞・祈祷・山車などを執り行うのだ。人類が最も永く伝えられる「祭り」を利用することで、その建造物に近づくことを警告し続ける―――

 もちろん、その巨大建造物とは、核廃棄物の格納場所のことだ。信玄堤のメンテナンスを入植者と祭礼で行ったように、核廃棄物のメンテナンスもそうなるのかもしれないと想像すると、ぞっとするほど既視感のある未来になる。

◆都市城壁:テクノロジーが都市の形を変える

 都市城壁の歴史も興味深い。

 人類史のある時期まで、要塞都市は、半島の内陸部に巨大な城壁を建造し、海側を天然の守りとした「自然+人工」の構成となっていた。

 その典型例が、コンスタンチノープルの大城壁である。外城壁の高さ8m、内城壁は12m、見張り塔は12mであり、この大城壁に守られたコンスタンティノープルは東ローマ帝国の首都として1000年間、平和を享受していた。都市平面図を見ると、城壁はいわゆる線上の「壁」として成り立ち、外敵に対しては城壁上から防衛兵を繰り出すことができたのだ(まさに『進撃の巨人』のように)。

 ところが、メフメト二世は、攻略戦に際し、前線に巨大な大砲を据え付け、砲弾の威力でもって大城壁を破壊してしまう。これは、城塞守備の常識を打ち砕く大事件であり、以降の攻城戦の様相が一変したという。すなわち、要塞の平面形状を変えて要所要所に角部(稜角)を突出させ、そこに大砲を備え付け、攻撃側の大砲を撃破する構造になる。今までの「自然+人工」ではなく、八角ないし円状に近い要塞都市を目指すようになったというのだ(XEVIOUSのアンドアジェネシスのイメージ)。

 15世紀末からの大航海時代において、欧州各国がインド、アジア、アメリカに植民地制服の橋頭保を確保した時、まずこうした稜角を持つ要塞を建造したという。テクノロジーが土木工学を変えた面白い例といえる。

◆水道:キレイ好きと土木工学の関係

 様々な観点から土木と社会の関係が考察されるが、上水道・下水道の件は、その文化が如実に表れており、大変面白かった。

 古代ギリシャ文明を振り返り、上水道の建設に用いられた土木技術が紹介される一方、下水道には無関心だったとこき下ろす。そのため、アテナイを始めとするギリシア諸都市の街路は、非常に不潔な状態にあり、ペロポネソス戦争難民による過密人口に対し、下水道の整備されていない街路が疫病をまき散らす温床となっていたという。

 時代が下って、中世ヨーロッパの都市は、屎尿に悩まされていたらしい。城壁都市の影響で家屋は多層建築となっており、そこでは各戸ごとの便所はなく、外の共同便所を利用していた。屋内では携帯式の便器を利用し、家の窓から街路に捨てる人が多かったという。街路の糞便は川まで雨で流されるか、市が雇ったナイトマン(屎尿清掃人)が片付けるまで放置状態だったらしい。

 その結果、汚れが目立たない黒っぽい服装が常識となる。ダークスーツ、黒いドレス、日傘、ハイヒール、シルクハットといった文化は、多層建築と下水道の未整備、汚水を捨てる社会の影響だったのだ。

 一方で、日本の事例が象徴的だ。オランダ人のケンペルが1691年に記した『江戸参府旅行日記』を引いてくる。着飾った女性が往来を歩いているのを見て驚いたというのだ。つまり、きれいな着物で出歩くことができるほど、日本の道路が清潔だったのだ。

 ここで急いでただし書きをせねばならぬ。日本で糞尿は肥料として売買されていたため、「往来に投げ捨てる」といったもったいないことをしていなかったのが真実だ。さらに申し添えておくと、ユゴーが『レ・ミゼラブル』で糞尿という名の肥料をそのまま下水に流しているのを憂いていたことも、本書ではしっかりと記載されている。

 欧米では、迷惑な下水を速く流し去るために下水道の建設を第一として、下水が未処理であっても目をつぶってきた(いわゆるタレ流し)。一方、日本では、都市部における人口密度が欧米より高く、川や海に対する汚染負荷量が大きいため、下水の処理を優先し、下水道の普及は遅かったという。

 下水の処理は、河川放流の前に沈殿池に導き、浮遊物を沈殿・除去する1次処理、活性汚泥法(好気性微生物を利用する)による2次処理、さらに酸化剤や凝集剤を用いる3次処理とある。日本では3次処理まで行っているところがあるが、欧米では2次処理までで、3次処理は検討対象にすらなってないという。欧米と日本の下水に対する取り組みの差は、都市構造からくる意識の違いによると考えると面白い。

 あわせて読みたいのが、人類の営みを、都市という面から捉えた名著『都市の誕生』[レビュー]がある。都市の形態や機能、交通や地下鉄、祭りや食べ物といった切り口で人類史を振り返ると、多様でありながら普遍的で、変化しながら不変的な要素をもつことが分かる。古代から現代まで、都市のありようと発達、そしてその変遷を眺めていると、人類のサイズや活動から逆に都市の機能が規定(定義?)されていることが分かる。

 また、都市や道路、港湾の部分においては、『戦争の世界史』[レビュー]と併せると何層にも面白くなる。人類が「どのように」戦争をしてきたかを展開し、「なぜ」戦争をするのかの究極要因に至る。軍事技術が人間社会の全体に及ぼした影響を論じ、戦争という角度から世界史を書き直そうとするこれも名著なり。『土木と文明』と重ねると、戦争と土木の相互作用が見えてくる。

 すごい本を読むと、過去のスゴ本に何層にも重なり、雪だるま式に思い出されてくる。文明とはすなわち土木であることが分かる。

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人は歌で進化した『人間はなぜ歌うのか?』

 「ロックンロールは骨で聴く」というセリフが好きだ。人類の大半が肉体を捨て、電脳世界で暮らすSF映画『楽園追放』のセリフだ。そこでは、音楽を始め、あらゆる快楽を享受することができる。そんな時代に、生身の体を持ったある男が、ロックは骨で聴くものだとつぶやく。

 これ、すごく分かる。

 彼のようギターを抱えて弾いても分かるし、ライブやコンサートの大音量に包まれても分かる。音楽は、確かに耳からの音を通じて聴くものだが、それだけではない。顔や腕の皮膚や、足下・体の芯から振動を感じ取るものだ。

 なぜなら、体の外から入ってきた音楽が自身と一体化し、自分の中に音楽があることに気づくから。わたしの声が、鼓動が、手拍子が、足踏みが音楽と呼応するものだから。ロックンロールに限らず、音楽は身体で感じ、共に歌い、叩き、踊るもの。静聴を求められるクラシックのコンサートでも、最後は万雷の拍手で応えるでしょ。それも同じことだと思う。

 「人はなぜ歌うのか?」という疑問から、人は歌で進化したという仮説を掲げる本書は、まさにこの点を衝いている。音楽とは何なのかという疑問をひっくり返すと、人間とは何なのかという疑問につながる。この発想がめちゃくちゃ面白い(一方、あやしい面もある)。

 たとえば、人は地上で歌う唯一の種だという。

 もちろん、歌うことのできる種は沢山いる。ウグイスやカナリヤをはじめとする鳥類や、テナガザルなどのサルの仲間、クジラやイルカなど、歌う種は5万4千種におよぶという。

 だが、鳥やサルは高所で暮らしており、地上に住む動物種で歌うものは皆無だという。なぜか? 歌うことによって、捕食獣に自分の居場所を教えることになるから。その証拠に、食べ物を求めて地上に降りるとき、鳥は歌うのを止める。

 そして、地上に住みながら歌う唯一の例外が、人だという。なぜ人は歌うのか? これは、ヒトの進化の過程における最大の謎になる。チャールズ・ダーウィンは『人間の進化と性淘汰』でこう述べる。

「音楽を楽しむことも、音楽をつくりだす能力も、ともに人間の通常の生活に直接の役には立っていないので、これは人間に備わった能力のなかでも、最も不思議なものの一つに数えられるべきだろう」

 時間や精力というリソースを多大に消費する、この「歌う」という現象が、あらゆる社会、文化、地域、時代を超え、なぜこのように普遍的に広がっているのか。本書は、この疑問に真っ向から切り込んでゆく。

 本書によると、「はじめに歌ありき」になる。

 歌は人の誕生とともにあった。子守唄から始まって、子供時代の遊び歌、恋歌、婚礼歌、宗教歌、狩猟の歌、農耕の歌、旅の歌、戦いの歌、癒し歌、葬式の歌と、人生のあらゆる段階につきもので、歌うことは文化のまさに中心にあったという。

 著者は音楽大学の教授で、多声楽の造詣が深い。世界中の伝統声楽の特性を調べ上げ、単旋律(モノフォニー)で歌う文化と、複旋律(ポリフォニー)で歌う文化の分布から、歌う文化の歴史を追いかける。そして、初期人類の進化過程における合唱の重要性を指摘する。はじめにポリフォニーがあり、人類が言葉を獲得していく過程でモノフォニーが生まれたというのだ。

 なぜポリフォニーか。著者は、爪も牙もなく足も遅い弱小グループであったヒトの祖先が、強く大きく見せるために、歌を歌ったのではないかと仮説する。体を叩くドラミングを行い、リズムに合わせて歌を歌ったのではないかというのだ。和声で合唱すると、響きがさらに大きくなる。同時に響く、さまざまな音の倍音が互いにぶつかり合い、その結果、実際より大人数になる響きのメカニズムを説明する(ボージェスト効果)。

 さらに、合唱は食料調達にも用いられたという。もちろん、音を立てたら獲物に逃げられてしまう。だが、ここでの獲物は腐肉だ。要するに、他の大型獣が狩った獲物や、病気等で死んでいる獣を探し、集団で歌いながら囲い込む。既に集まっている獣を追い払うため、集団で足を踏みならし、手拍子をうち、リズムに合わせて大声で叫び、歌ったのではないかという。少人数でより効果的に音を響かせるために合唱は不可欠だったという。

 また、歌は戦いにも不可欠だった。肉食獣や、他のグループと戦うとき、集団で歌を歌うことが非常に効果的だったという。正確なリズムで、大声で歌うことにより、相手に対し、戦闘を行う強いメッセージを伝えると同時に、仲間同士で強い連帯感を生み出し、恐怖や痛みを感じにくくさせる高揚した精神状態に持っていったというのだ。この主張は、サッカースタジアムに行くと、よく分かる。肌をビリビリさせるうねりのような大合唱は、自分という感覚をなくすから。

 すなわち、歌は楽しみのために生まれたものではなく、身を守り、生きる糧を得るために、必要不可欠な技術だったというのだ。

 この証明は、かなり難しい。「歌を歌う」というエビデンスが残らない現象を、世界各地の歌唱文化や伝承の側面や、ヒトの身体に残された機能的・遺伝的要素から炙り出すように説明するしかない。

 他にも、「なぜあらゆる言語において、質問のイントネーションは上がっているか?」「なぜあらゆる新生児はイ音(A)で泣くのか」といった質問も、「人は歌で進化した」で説明しようとする。風呂敷が広すぎるため、論理の飛躍や俗説のようなものが混じっており、音楽研究者の手に余る仕事だと思った。さらに、「ヒトは快楽のために体毛を失った」とか、「ライオンとヒトは共進化した」など、あれ? と思うような主張もある。

 だが、エビデンスが不十分だったり、論理の整合性が取れないからといって、この仮説を捨ててしまうのは惜しい。逆に、この仮説をベースに進化生物学や行動科学、人類生物学からアプローチするなら、もっと面白い世界が拓けてくるのではないか。

 音楽の起源について諸説さまざまある。ハーバート・スペンサーは、音楽を言語から派生したものだとみなし、スティーヴン・ピンカーは「聴覚のチーズケーキ」と進化上は無用なツールだと言った。他にも、「異性を魅惑するため」とか「母子の関係のため」といった説がある。いずれも、音楽はおまけ的なものと位置づけられていた。

 本書が凄いのは、ヒトの進化のど真ん中に持ってきたところ。そしてこの仮説は、エビデンス抜きで、感覚として分かりやすい。ロジックとエビデンスで納得するというよりも、生得的に感じ取るようなもの。本能的に、「骨」で理解しているのだ。

 文字を持たない文化はあるが、歌を持たない文化はない。「はじめに言葉ありき」ではなく、「はじめに歌ありき」だったのではないか。そんな知的好奇心を刺激する一冊。

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排他的家族主義の物語『平浦ファミリズム』

 「ラノベばかり読んでるけど国語で全国2位取った」という匿名さんに誘われて読んで驚いた。これ、すらすら読めてズシンとくる。パッケージがラノベなだけでラノベじゃない、「家族とは何か」をシニカルに愛情たっぷりに描いた家族小説なり。

 喧嘩っ早いキャバクラ嬢の姉。引きこもりでアニメオタクの妹。コミュ障でフリーターの父。そして、ほとんど高校に行ってない「俺」で構成される平浦家。世間的に見れば「普通」ではない家族が、寄り添うように暮らしている。

 日々の生活で明かされる、それぞれの過去がキツい。最初のページで分かるのだが、ベンチャー企業の社長だった母は、既に他界している。美人の姉はもと兄で、性同一障害に苦しむトランスジェンダーである。なぜ妹が引きこもりになったかのエピソードは、怒りのあまり目の前が真っ白になる。人付き合いが下手で、社会不適格者の烙印を押された父は、それでも家族を守ろうと奮闘する。

 社会的にはマイノリティとなる家族の生きざまに、不愛想でも温かな目を向ける「俺」。文武両道、高身長、高い知性と柔軟性というラノベの主人公らしからぬハイスペックゆえに(?)、達観したような、拗ねたような口調で淡々と「正論」が語られる。

 曰く、他人なんて信頼できない。頼れるのは家族だけ。学校、会社、地域社会が押し付ける都合の良い集団主義と同調圧力は糞くらえ。誰に迷惑をかけているわけでもないし、それなりの収入も得ている。おまえらが「俺」に向ける「心配」は、自分かわいさの自己憐憫の一種にすぎぬ―――ロジカルに展開される「正論」は、読み手の立場に応じて強い説得性を持つ。

 一方、その危うさも垣間見える。家族だって人間だ。人間だから変化する。歳を取り、成長し、嗜好も変わってゆく。なるべく社会とかかわらないようにしても、それでも他人は入ってくる。学校、会社、地域社会のなかで、そんな「俺」を本気で憂い、寄り添おうとする人も出てくる。家族で対処できないような問題が起きたならば、助けを求めねばならぬ。だが誰に? 誰を信用すればよいのか?

 そうした葛藤と交流のなかで、「俺」が徐々に心を開いていく。その姿を見ているのが楽しい。それは、「俺」とは似ても似つかぬわたしの中に、「俺」が抱いている嫌悪感と同じものを見、同じ葛藤を経、そして同じ結論に達しているから。

 最初は、「俺」が抱く社会への嫌悪感の理由を探しながら読む。そのうち、家族そのものへ行き当たることを知って愕然となる。なぜ家族がそうなっているか、そして母がなぜいないのかは、「俺」が社会を避ける理由の裏返しなのだ。

 さらに、家族を経由した他人とのつながりのなかで、母が遺した願いを通じて、人を信じようとする。少なくとも、まず人を知ろうとする。家族に向けるまなざしと同じあたたかさはないけれど、それでも、人の言葉を受け取ろうとする。章を追うごとに「俺」の口調の端々にそれが観て取れる。その変化が楽しい。

 同時に、穏やかだった日常が、思わぬ方向へ転がってゆく。前半の日常が破壊されてゆく様子は、そのまま「俺」が被っていた世間へのバリアーが壊されてゆくのと同期する。普通ではない家族が、普通に生きようとするのは、それだけ大きな代償を必要とするのか。

 読みながら、ジョン・アーヴィングを彷彿とさせられる。普通じゃない家族が普通の人生を歩もうとすると、どこかで滑稽な展開になる。

 そう、『ホテル・ニューハンプシャー』のことだ。家族のためにホテル経営を夢見て家族を犠牲にする父、ゲイの兄、輪姦され心を閉ざしレズビアンになった姉、小人症の妹、難聴の弟、そして「ぼく」―――それぞれに傷を負った、問題がありすぎる家族の、問題がありすぎる人生を、ユーモアとペーソスたっぷりに描いた家族小説だ。

 この小説の凄さは、「悲しい」と書かずにちゃんと悲しみが伝わること。もちろん "sorrow"(悲しみ) という言葉は出てくるが、誰かが死んで悲しいとか、何かを失って嘆くとかというときに、固有名詞のようにひょっこり顔を出すのだ。悲しみだけではなく、嬉しいこと、誇らしいこと、心地よいこと、腹立たしいこと、読むと、さまざまな感情が押し寄せてくる。

 その一つ一つがちゃんと計算されていて、ストーリーに翻弄されることを請け合う。長い長い物語なのだが、泣いたり笑ったりしているうちに、最後にはあたたかな気持ちになれる傑作だ。もちろん舞台もキャラも物語も違う。だが、あたたかな読後感覚が同じなのが面白い。両者とも、バットのフルスイングが重要なキーとなっているところまで似ているのが楽しい。

 パッケージはラノベだが、中身が違う。ライトノベル的なキャラクターやシチュエーション、展開はあるが、良い意味で裏切ってくれる。ひょっとすると、こんな「ラノベ枠を超えた文学」が流行っており、わたしが最近のラノベ事情に疎いのかもしれぬ。いずれにせよ、読んで楽しく・あたたかなひとときを過ごせた。本作を世に出した方と、縁を結んでくれたはてなの匿名さん、ありがとうございます。

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あまりにも無色透明な絶望『絶望を生きる哲学』

 理想主義がまぶしい。濁ったおっさんには青すぎて懐かしすぎる。

 これ、中学生でかぶれたら、一生治らないヒューマニストになっていただろう。池田晶子の著作から箴言を選り抜いているが、どの言葉も強く厳しく、主語がでかい。

時代が悪いというのなら、あなたが悪いのだ。何もかもすぐにそうして時代のせいにしようとするあなたのそういう考え方が、時代の諸悪のモトなのだ。なぜ自分の孤独を見つめようとしないのか、なぜよそ見ばかりをしているのか。不安に甘えたくて不安に甘えているくせに、なお誰に不安を訴えようとしているのか。(太字化はわたし)
自分の体験から語ろう、体験としての思想をもとうなどというのこそ、戦後民主主義の寝言なのである。体験からしか言えない人は、体験が逆ならば、逆の意見を言うだろう。だから個人の意見などいくら集めてもしょうがなのだ。

 第一印象は茨木のり子。それも「倚りかからず」を目指しているように見える。自分の感性くらい自分で守れというやつ。ブッダの思索やキリスト教、ソクラテスの名を借りたプラトン、あとはデカルトと良寛など、賢人たちの言葉を咀嚼して、アジテーションに変換する。絶対的・普遍的な「善」なるものは確かにあり、それを実現するために生きろと呼びかける。その、強くて正しい言葉が心地いい。勇敢に好戦的に全方位的に射撃しているので、そのうちの何かに撃たれるかもしれない。

 言っていることは「正しい」。たとえば、「便利になることで節約された時間を仕事に使うのなら、便利になることで仕事はより忙しくなっている」、「人生に物語を求めるとは、人生は何事でもないという自由に耐えられないから」、あるいは「未来への不安、過去への後悔は時間認識の誤り。なぜなら未来や過去に苦しむのは、いつだって現在なのだから」なんて箴言は、そのまま tumblr の「#名言」に突っ込みたくなる(実のところ、著者を tumblr で知った)。

 その「正しい」メッセージの中に、強烈な自己愛がそこかしこに突き出ており、思わず微笑してしまう。「わたし」は自分でモノを考え、生きている。何も考えず、世間や常識というやつに流されているその他大勢とは違う! 「わたし」の言葉は、哲人たちの思索から汲み上げた叡智を結集したものであり、その他大勢ではなく、まさしく「あなた」なら受け取れるはずなのだから―――いわゆる、刺さる人には刺さる。

 むしろ、タイトルの「絶望」という言葉にダブルスピークを感じる。役に立つタイミングからして死亡保険というべき「生命」保険。実質的にやってることは監視なのに「防犯」カメラ。タイトルの、絶望という言葉に希望を込めたいのではなかろうか。絶望という言葉で不安を煽って、その支えとなる「希望」を印象づけたいのではなかろうか。

 だとするなら、その絶望の深さはいかほどか。その痛みや不安はどれほどか。愛し子を喪い神へ問うたクシュナーの苦悩や、20歳で難病になった頭木弘樹の果てしない絶望を傍らに読むと、彼女の絶望は、あまりにも無色透明だ。彼女がどういう人生を歩み、どんな闇の淵を覗き込んでこの文章を書いてきたのかが、気になる。

 魂の濁り具合(もしくは絶望の透明度)を確かめるのに、最適な一冊。

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9/2(土)オフ会やります、テーマは「お金」

 オススメを持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。

 読書会と言ったが、本に限らず、音楽や映画やゲーム、youtubeから展覧会なんてのもアリ。オススメの魅力を語ってもらい、「それが好きならこれなんてどう?」と皆で交流する。本を介して人を知り、人を介して本に出合う場なのです。

 次のテーマは「お金」。マネー、財、税、給料、遺産、富など、お金にまつわるものならなんでもOK。お金が絡むドロドロの人間関係を描いたドラマや、お金の人類史をガチで追いかけたノンフィクション、あるいはお金のない世界を舞台にしたファンタジー(SF?)、お金持ちになる方法を紹介する自己啓発本、タイトルに”Money”がある映画や音楽って、けっこうありそう。あなたのアイディア次第で、いくらでも膨らみますぞ。

9/2(土) 13:00-18:00、渋谷某所
参加費2000円
お申込はこちら→[スゴ本オフ「お金」]

 全体の流れはこんな感じ。午後いっぱいを使って、飲んだり食べたり、まったりしながらやってます。途中参加・退場自由・見学歓迎なので、お気軽にどうぞ。

  1. オススメ作品を持ってくる
  2. お薦めを1人5分くらいでプレゼンする ※twitterのハッシュタグは「#スゴ本オフ」
  3. 「それが好きならコレなんてどう?」というオススメ返し
  4. 本の交換会 ※交換できない作品は持ち主が回収


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生命をメタレベルで考える『生物圏の形而上学』

 これは面白かった。『生物圏の形而上学』は触媒となった一冊なり。

 ノンフィクションには、新たな知見を得られるものと、自らの知見と化学反応を起こすものがある。本書は後者寄り。「生命とは何か」について、より根源的でメタ的な視点より捉え直し、わたしの思考の倍率を上げ、妄想を煽り立て、アイディアの触媒となった。

 読みながら思い出したのは、街灯の下でカギを探すジョーク。深夜、街灯の下でウロウロしている男がいる。カギを探しているという。一緒に探してみるが見つからない。本当にここで失くしたのかと聞くと、「いや、失くしたのは向こうの暗がりです。あそこは暗くて見えないので、明るい所で探しているのです」というやつ。真に重要なところではなく、定式化できるモデルに固執する経済学を揶揄するために使われるジョークである。

 だがこのジョーク、「生命の起源は地球にある」と主張する一部の生物学者にも適用できそうで楽しい。というのも、彼/彼女らは、現在発見されているものが全てで、それ以外のものは存在しないものとして論考を組み立てているから。

 「生物とは何か」について、かつては、地表で容易に観察できるものから考察していた。だが、科学技術の進歩により、深海層や、岩盤層といった、人の目が容易に届かない場所で微生物の生態系を見出すようになった。また、高温や高圧、高アルカリといった極限環境で増殖する微生物の存在が明らかになるに従い、生物学の教科書は次々と書き換えを余儀なくされていった。生物とは、街灯の下だけでなく、暗がりにもいるのだ。「人知の及ばぬ環境で、まだ発見されていない生物がいる」と断言したところで、反論する者はいないだろう。

 しかし、街灯の明るみにあるものを全てとするあまり、暗がりにいる生物の可能性を切り捨てる人がいる。「生命の起源は地球にある」と主張する人々だ。もちろん、生命の起源を地球に求めるのは結構だが、だからといって宇宙に生命はいないとは言えないだろう。現時点でこれだけ多様な環境で沢山の種類の生命を見出しているのだから、どの暗がりにも「いる」可能性は否定できない。可能性の問題とするならば、街灯の下の「光が当たっている部分」よりも「目の届かない暗がりの部分」の方が、はるかに大きいのにね。

 なぜ、彼/彼女らは、「生命の起源は地球にある」ことに固執するのだろう。それは、科学が神に取って代わった(と信じる)ことで説明できるかもしれない。つまりこうだ、「生命を創造した神」に成り代わり生命の起源を説明しようとするならば、「神」の限界を引き継ぐことになるから。その「神」が創造した生命の範囲が、人知の及ぶ陸海空までなら、そこに成り代わった科学の(最初の)限界は、陸海空までになる。地下深層や成層圏、はては地球外の生命まで創造した想像力あふれる「神」ならば、代わりに立つ科学は、拡張された範囲まで説明することを試みるだろう。もちろん「最初の」限界と述べたのは、それを超えるエビデンス(極限環境の微生物等)が見つかるまでの話だ。

 ヒトが微生物を見るように、ヒトを見るような存在(例えば神的な存在)を考えてみよう。その存在からすると、ヒトはあまりにも微小でか弱い。だが微小ななりに工夫して生き延び、この地に繁栄している。夜になれば、ヒトの活動が「光」となってその存在の目に届くだろう。明るい場所にヒトが沢山いるから、ヒトはそこで誕生したのか? そんなことはない。ヒトの起源をアフリカに求めるのは、自然人類学における有力な説である。

―――ここまでが、わたしの妄想なり。宇宙・ヒト・微生物を俎上に、ミクロからマクロまで縦横無尽に駆け回る本書のおかげで、妄想がはかどるはかどる。

 「生命とは何か」を宇宙から問い直したり、生命をサイズから定義する試みは、読んでて大変楽しい。「なぜ微生物は小さいか?」についてここまで掘り下げた議論は、生細胞を物理的に見たシュレディンガー『生命とは何か』以来なり。「世界をやり直してもヒトは生まれるか?」や「海底火山と氷床下湖に地球外生命のカギを見つける」など、問いの立て方、発想の仕方が抜群に上手いのだ。

 たとえば、南極大陸の氷底湖であるボストーク湖を紹介する。厚い氷に覆われ、1500万年も外界から隔絶された湖で、3800メートルの氷床を掘削して得られた湖水サンプルのDNA分析から、未知の微生物が多数存在することが示唆されたという。著者はその目を空に向け、木星の第2惑星「エウロパ」を指さす。表面は氷に覆われているが、氷の殻の下に液体の水、すなわちエウロパの海がある。南極の氷床下湖の探査は、エウロパの氷床下海の前哨戦であり、宇宙生命探査にもつながっているというのだ。

 あるいは、2015年から始まっている国際宇宙ステーション(ISS)の「たんぽぽ計画」を解説する。東京薬科大学の山岸教授をリーダーとした宇宙微生物サンプリングのプロジェクトである。ISSの日本の実験棟の曝露部に微生物サンプラーを置いて、ISS軌道高度から採取しようというのだ。もし、地球外微生物が採れたら「世紀の大発見」だし、もし、それがダメで地球の微生物しか採れなくても、「生物圏の範囲の拡大」はやはり大発見になるという。2018年に予定されている最終回収が待ち遠しい。

 さらに、カリフォルニア大学バークレー校の研究チームが発表した、「0.0002ミリ以下の微生物」の紹介も興味深い。このバクテリア群はあまりに体が小さいため、ゲノムも小さくなっているという。その結果、増殖や代謝に必要な遺伝子を欠いているが、バクテリア同士が助け合うことで互いの不足を補っているというのだ。ここ近年で明るみに出てきた部分が「生物とは何か」の定義を書き換えようとしている。

 現在、地球にいる生物は、地球で適応した生物にすぎない。微生物のレベルで見るならば、宇宙には生命体が「うじゃうじゃ」いると考える。単に暗がりにいるだけで、わたしたちがまだそこを「見て」いないだけなのだ。そして、わたしたちが「見る」日は、思ったよりも近い。そんなワクワクを掻き立てる一冊。

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