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数学と数学論のあいだ『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』

 数学の良いところは、待っていてくれること。

 もう授業も受験もないので、時間制限は残りのライフのみ。時代の風に翻弄される政治経済歴史と違い、「新しい=良い」教に染まった物理化学生物と異なり、好きなときにやり直せるのが嬉しい。前回のセーブポイントから始められ、学んだだけ進められるのも数学の良いところ。

 そして、前回攻略できなかった、ゲーデルの不完全性定理に再挑戦する。8年ぶりの再再読だが、「数式と少女のときめき」は健在で、読み物としても入門書としても抜群に面白い。さらに「数学に苦労していたわたしの高校時代」と「『数学ガール』に没頭していた8年前」を重ね、二重の意味で懐かしい。

 全10章に分かれ、最終章(ゲーデルの不完全性定理)に取り組むための伏線が張り巡らされている。嘘つき者のクイズに始まり、ペアノの公理やラッセルのパラドクス、そしてイプシロン・デルタと対角線論法で「数学を数学する」準備をする。

 「高校生がゲーデルの不完全性定理を理解するために何が必要か?」をとことん考え、足りない概念や道筋を洗い出している。最初に読んだときには気付かなかったが、9章までに解説された概念・数式・体系というピースが、最終章でビシッとハマってゆくところは、上質のミステリのように面白い。

 その一方で、数学を学ぶにつれて浮かんできた"わだかまり"のようなものが可視化されている。≪意味≫を≪形式≫として捉えるために、≪意味の世界≫と≪形式の世界≫という考え方が紹介される。問題(意味)に対し、数式(形式)を立てたなら、後は機械的に解くことで、答えを得ることができる。そして、数式の答えは、問題の答えになる。

 この考えは本書を貫いている。いったん形式体系で表せるならば、所定の公理・規則に従って展開させることができる。必ずしも数学的である必要性はなく、むしろ今までの数学的な意味や慣用に引きずられないよう、「知らないふり」「忘れたふり」をしてシステマティックに振舞えと命ぜられる。

 この「知らないふり」ゲームは、ものすごく面白い。自分がいかに意味に引きずられて考えているかが、よく分かる。ウィトゲンシュタインやクリプキのこだわりを実践的になぞっているようで、ワクワクさせられる(ただし、意味の正当化と規則の正当化は異なるやり方で果たさなければならない『意味と規則のパラドックス』は、いったん脇においておく)

 そして、形式体系に落とした46の定義と数学ガール(ズ)の対話によって、不完全性定理が証明されている。残念ながら今回も力尽き、p.358の全体像を見ながら追いかけることになったが、それでも脳汁あふれる旅路だった。わたしの"わだかまり"は、この旅路の最後、「不完全性定理が≪数学≫の限界を証明してしまったのではないか?」というテトラさんの質問に対するミルカさんの返答に現れる。

「議論に混乱がある。テトラは、≪数学というもの≫という言葉をどういう意味で使っているのだろう。それは、(1)きちんと定義を書き下して、なんらかの形で形式的に表現できる何かだろうか。それとも、(2)定義を書き下すことはできず、私たちの心に浮かんでいる、数学という名を付与するにふさわしい何かだろうか。どちらのつもりで言っているのかな?

もしも(1)のつもりならば、≪数学というもの≫は条件を確かめた後に不完全性定理の対象となりうる。そして≪数学というもの≫は不完全性定理の結果に支配されるだろう。

しかし、もしも(2)のつもりならば、≪数学というもの≫は不完全性定理の対象ではない。それは数学「論」の対象か、哲学の対象か……ともかく、数学の対象ではない。ということは、不完全性定理の対象でもない。だから、≪数学というもの≫は不完全性定理の結果に支配されない。

さらに≪数学というもの≫が(1)なのか(2)なのかを識別することは、これまた数学が扱うことではない。

だから私の考えはこうだ。不完全性定理の結果を使って数学的な話をしたいなら、対象を数学にしぼって話そう。そうではなく、不完全性定理の結果からインスピレーションをもらって数学論的な話をしたいなら、そのつもりで話そう。忘れてはならないのは、数学論的な話は、「数学的に証明された」わけではないということ」

僕は、ミルカさんに問いかける。

「≪数学を形式的体系として表現する≫のは不可能だということ?」

彼女は目を閉じ、首を横に振る。

「というよりも、≪数学とは何か≫を定めるのは≪数学≫ではないということ。それは≪数学観≫だ。だから≪数学とは〇〇である≫という主張は───数学的に証明できない」

「要するに≪数学的な議論と、数学論的な議論は分けるべき≫なんだ」

 ミルカさんの言う(1)「きちんと定義を書き下して、なんらかの形で形式的に表現できる何か」とは、形式体系だと理解した。そして、≪意味の世界≫から≪形式の世界≫に移ることで、所定の公理・規則に従って展開し、他の数学的な意味や慣習は「知らないふり」ゲームをし続けることができる。

 問題はここにある。ミルカさんは、不完全性定理を議論するにあたり、≪数学というもの≫を、いったんは(1)としている。しかし、わたしはこの前提である「不完全性定理を議論するにあたり」を省略し、≪数学というもの≫は(1)であると考えてしまっていた。

 すなわち、数学とは公理と規則とそれらを示す記号の組み合わせの総体だとみなしていたのだ。だから、人が知っている数学的知識のすべてをAIに学ばせることで、「人が知らない」数学的証明について自動的に検証できるに違いないと考えていた。「数学は、計算できる」。もちろん、これはヒルベルトが立てた目標であり、ゲーデルが打ち砕いたものだ。だから、わたしは≪数学というもの≫の限界が証明されてしまったように感じたのだ。

 ここまで理解した上で、まだ分からないことがある。ミルカさんは、(1)数学的な議論と(2)数学論的な議論は分けろという。その通りだ。だが、≪数学≫がなんであるかについては言明を巧妙に避ける。≪数学というもの≫と(カッコ抜きの)数学を使い分け、ミルカさんにとって数学が何であるかは、ついに分からない。

 最初は、ミルカさんにとっての数学とは(1)であると考えていた。すなわち、「きちんと定義を書き下して、なんらかの形で形式的に表現できる何か」である。だが、(1)とするなら、先にわたしが陥った形式主義の罠にはまることになる。だから、不完全性定理の議論をする上での前提を置いたのだろう。

 しかし、ミルカさんの言う、≪数学というもの≫を決めるのは≪数学観≫だというのは本当だろうか? 数学「観」というのであれば、人により時代により変わってゆく。数学とはそんなものなのだろうか? 素朴なプラトニストだったわたしからすると、疑わしい。それこそ≪数学というもの≫は、(2)「私たちの心に浮かんでいる、数学という名を付与するにふさわしい何か」になってしまう───とグルグルする。

 わたし自身、数学の教科書に載っている事柄だけでなく、「人はどのように数学を理解しているか」に興味がある。人の想像力の限界があるとするならば、それは数学で表せる限界を調べることで明らかになる、と信じる。だから、ミルカさんにとって≪数学というもの≫が何であるかが知りたい。「それは数学≪論≫の話だろう」とはぐらかされるだろが、そこは壁ドンして、「ではミルカさんにとっての数学は?」と問うてみたい。

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