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猫町倶楽部の読書会『利己的な遺伝子』

 日本最大の読書会「猫町倶楽部」が楽しかった。

 課題図書を読んできて、グループディスカッションで交流する。2006年に発足し、東京、名古屋、京都で月例会、5000人超の参加者、商業的なランキングと一線を画し、硬めの本を俎上に、本と人・人と本との出会いをプロデュースしてきた。好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会「スゴ本オフ」とは偉い違う。

 参考になるかなーと思いながら興味半分・視察半分で参加してきたんだが、これがまためっぽう面白い&タメになる。主催の方、運営の方、ボランティアの方、お疲れ様でした、大変勉強になりました。

 さて、行ったところが、六本木のシスコシステムズ。広~いトレーニングルームに100名超が集まって、1グループ8名ぐらいに割り振られる(美男美女ばかりで、うだつの上がらぬオッサンは私一人だったことを報告しておこう)。そして課題本(ドーキンス『利己的な遺伝子』)について150分語り合い、後は希望者で飲み会という寸法。ディスカッションにはただ一つのルールがあり、それは、「人を批判しない」こと(これ重要)。各グループにファシリテーターがついており、ブックトークの方向づけやタイムマネジメントをしてくれる。

 初対面なので、自己紹介→参加のきっかけ→アイスブレイクで一巡する。医療、IT、広告業界、金融と、さまざまな人たちと交流できるのが良い。わざわざ読書会に来ることもあって、みなさん「本好き」「読書好き」ばかり。文学クラスタの人もちらほらおり、ちょっと話しただけで、めちゃくちゃ読み込んでいることが分かる。レベル高けぇ!

利己的な遺伝子 さて、お題の『利己的な遺伝子』。偉い学者が書いた大ベストセラーということで、無批判に信じている人がけっこういて驚く。つまり、「利己的な遺伝子」という存在が生物をコントロールしているという前提で語られる。我々は遺伝子の乗り物であり、私たちの考えや判断すら支配している、という理解だ。それはまさに、ドーキンスがミスリード(misLead)させようとした仮説であり、「分かりやすさ」と引き換えにミスリード(misRead)した罠だ。

 詳しくは[分かりやすさという罠]に書いたが、ドーキンスの主張をまとめると、「生物のあり方や行動様式を説明するとき、遺伝子の自己複製というレベルからだと整合的に理解できるよ」となる。どうしてそんな特徴をもつ生物がいるのかという疑問に対し、「そんな特徴をもっている奴が生き残ったからだ」と説明できる。

 この「そんな特徴を持っている" 奴 "」がクセモノだ。人でないものを人のように扱う”擬人化”により、理解しやすくなる。その代償として、仮説をムリヤリあてはめることで、上手く説明できないハミでる部分が出てくる。社会や歴史、文化や宗教から派生する多様性であり、それは本書では「ミーム」としてまとめられる。「ミーム」の章の取って付けた感は、ディスカッションでもツッコミが入り、信者 v.s. アンチの様相になって話が湧きたつ。

 わたし自身は、アンチ・ドーキンスの役をやったほうが面白かろうと思って、ユクスキュル『生物から見た世界』や、バレット『野性の知能』から絡め手で攻める。[動物を観察する際、ヒトに似た属性の有無を探し、ヒトの基準で動物の行動を評価する擬人化の罠に陥っていないか?] という方向から援護射撃をする。

 そこからの議論がめっぽう面白かったなり。遺伝子を最大化させる戦略の話から、子育ての肉体的・精神的コストから見た男女の差の話になり、「可愛がっていた子が実は血がつながっていなかったことが分かったら?」という議論になり、倫理や規範を度外視したフリーライダーへの淘汰圧の話となり、そこからレイプを是とする人は淘汰圧により無くならないのか? という話へ飛ばす。[レイプは適応なのか?(人はなぜレイプするのか)]という、初めて会った人同士では危険すぎる議論を吹っ掛ける。紆余曲折の末、めっちゃ常識的な結論(適応かどうかは置いといて、全体としてバランスを取ろうとしているんじゃないの?)に落ち着く。

 さらに、遺伝子の生存戦略を囚人のジレンマに置き換ると、『ライアー・ゲーム』で学べるよという貴重な情報を賜る(ありがとうございます! 読みます!)。また、適応(生き延びられるか否か)という観点から、進化と適応のミスマッチである病気の本質(『病気はなぜ、あるのか』)になったり、ある種の病気は必要悪であるという進化医学の最先端『ヒトは病気とともに進化した』に飛んだり、好き放題に拡散していく。

 そうこうしていると、吉川浩満さんご本人が降臨する。すごいよ猫町倶楽部! 先のドーキンスの胡散臭さを吹っ掛けると、打てば響くのが楽しい。短い時間だけれど、濃密なお話を伺うことができた(ありがとうございます!)。特に、ドーキンスの隠喩の指摘が鋭い。「遺伝子は不滅です」というとき、そう発言する/発言を聞く人は、”生きている”のだから、そこに至るまでの遺伝子の生存戦略を経てきて、”生き残っている”のは事実である。一方で、”不滅”という未来永劫、生きているのかと問うならば、それは嘘であるという話になる。さらに「不滅」という極めて宗教色の強いメタファーを駆使するのがドーキンスだよ、と釘を刺してくれるのが嬉しい。

 というわけで、脱線しまくり話飛びまくりの犯人は、わたしです。話かき混ぜすぎてごめんなさい。ドーキンスをボコボコにしてすみません。でも、『利己的な遺伝子』のおかげでこの世界の面白さを知り、あちこち渉猟するようになったのは事実。そして、最初に付けられた題名『生物=生存機械論』なら、きっとこれほど売れなかっただろうし、わたし自身も手にしたかどうかあやしい。

 最後に、このブログの宣伝と、最近のイチオシ『冴えない彼女の育てかた』について全力で語らせていただきました。また参加したいですな。

 冴えカノ読書会もええなぁ……

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胃がん100万、乳がん200万、肺がんだったら300万『がんとお金の本』

 がんになったときの、「お金」関連がまとめられている。検査や治療の明細、公的医療費助成制度の活用法、収入や生活の不安を支える公的制度など、「生きる」費用対効果を考える上で、有用な一冊。国立がん研究センター監修。

 タイトルはもちろん乱暴だ。がんの発生場所、病期(ステージ)、治療方法、入院期間などによって、まるで違う。「がん」という名前だけで、全然別の病気に見える。例えば、胃がん100万の事例は、「ステージI期、腹腔鏡下幽門側胃切除術のみ、11日間入院」の場合。大動脈リンパ節転移で切除不能だと化学療法のみとなり、46万と半額になる。ステージが進むほどやれることが限られてくる傾向がある。

 問題は、がんになるか、ならないかではない。問題は、「いつ」がんになるかということと、「どの」がんになるかである。

 日本人の2人に1人はがんになるのなら、がんに罹ることを前提としたほうがいい。問題は、それがいつ発見できるのか、そして、どの部位で見つかるのかを想定して、準備をしておいたほうがいい。

 そして、罹患部位ごとの5年生存率を見ながら、どこまでの治療を選ぶかを考えておく。そのために、どの段階でどのような治療が標準的なのか(そしてそれはいくら位なのか)、押さえておく必要がある。「できるだけの治療」を目指すなら、いくらでもお金を注ぎ込むことができる。標準治療からかけ離れた、「ニセ医療」に全財産を取られることだってある。

 たとえ予後が良くても破産したら意味がない。お父さんが助かっても、家族が地獄を見るならば、何のための「お父さんの命」か。生きているだけで幸せと言えるのは、そう言ってもらうために、先立つものがあってこそ。

 わたしが5年生き延びるためにかかる費用が、ある一線を越えそうなら、治療の方向を変えよう。わたしの残機を念頭に、残りの人生の品質を最大化するためのケアに切り替えるつもりだ。これは、わたしの決定であり、他人は知らぬ。「金かかるから諦めろ」とは、自分には言い聞かせられても、他人には言えぬ。

 そのために、どの部位のがんに罹り、どの時点で発見されると、いくら掛かるのか、予め知っておきたい。これ、いざ宣告されたなら、ショックのあまり検索してしまうから。そして、「自分で治す」「切らずに治す」「医者に頼らない」といった宣伝に、うっかり引っかかること必至だから(「お金があまりかからない」の暗喩にすぎぬ)。

 がんになる人がそれだけいるということは、そうした人々を支える助成制度が準備されている(この点、日本はすごいと思う。金の切れ目が、命の切れ目である国と比べて)。高額療養費制度は知ってはいたが、高額介護療養費と合体した制度があることは知らなかった。

 他にも、高額医療費の貸付制度や、収入に不安がある場合に頼れる制度が紹介されている。上手く活用することで、命の切れ目の上限額ラインを引き上げることは可能だ。緩和ケアに保険が利いたり、ロボット手術支援システム「ダビンチ」の手術に保険が使えることを知ったのは、新たな発見なり(ただし、手術部位による)。

 金の切れ目が、命の切れ目にならぬように。

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劇薬小説『異形の愛』

 「劇薬小説」というジャンルがある。心をざわめかせ、脳天を直撃し、己を打ちのめすような小説だ。憎悪、歓喜、憤怒、悲嘆、さまざまな感情を爆発させる猛毒だ。

 怖いもの知らずで聞いて回り([人力検索はてな:最悪の読後感を味わいたい])、エロもグロもゴアも手当たり次第に読んできた。10年かけて渉猟してきたベスト(ワースト?)5はこれ→([劇薬小説ベスト])。

 しかし、『異形の愛』は読めなかった。

 正確には、序盤までだった。予備知識ゼロで手にとって、これが一体、何の小説であるかに気づいたとき、二度と触れられなくなった。最初に本書を手にしたとき、まだ幼いわが子と重なってしまい、先に進められなくなってしまったのだ。

 これは、巡業サーカスの家族の物語である。団長であるパパは、薔薇の品種改良に想を得て、わが子の品種改良を試みる。すなわち、子どもが「そのままの姿」で一生食べていけるよう、意図的に畸形を目指すのである。ママの排卵と妊娠期間中、コカイン、アンフェタミン、それに砒素をたっぷり摂り、殺虫剤のブレンドから放射線まで試す。

 そうして生まれてきたのは、腕も脚もないアザラシ少年(サリドマイド児)の兄、完璧なシャム双生児の姉、一見フツウだが特別な力を持つ弟、そして、アルビノの小人の「わたし」である。物語は「わたし」によって導かれ、過去と現在を行き来しながら、家族への愛が語られる。

 見世物のキャラバンでは、フリークスこそが望まれ、フツウは入れない世界なのだ。他にも、家族の外から入り込んでくる変人が現れるが、五体不満足を目指す動機が無残としかいいようがない(袋男のエピソードは強烈である。注意して読まれたし)。

 価値観は転倒しているにも関わらず、その愛は正当なものだ。歪んでいるのは、そう見ている読み手であるわたしであることに気づく。その身の捧げ方がいかに特別なものであっても、やっていることは狂気としかいいようのない行為であっても、名付けるとするならば、愛としかいいようがない。この小説に「結論」というものがあるのなら、それはここになる。

強いのは愛する側なんだという思いを引きだした。愛されるなんてはかないもの。お返しに愛されたからって、それがなんになる? そうわたしは自問した。暗闇で背骨を暖めるため? わたしの愛など、アーティには関係のないことだ。それは秘密の切り札、恥毛の下に彫った青い鳥の入れ墨か、ケツの穴に隠したルビーのようなものだ。

 言葉にできないものを言葉を通じて知ることがフツウの文学ならば、言葉にしてはいけないものを言葉を通じて知るのが本書である。笑える&泣ける家族のエピソードを散りばめつつ、残酷な運命に向かって平凡な日常を続ける現代のおとぎ話は、ジョン・アーヴィングの傑作『ホテル・ニューハンプシャー』を思い出す。アーヴィングを読んだ人に対しては、『異形の愛』とは、フリークス版の『ホテル・ニューハンプシャー』だと言えば上手く伝わるかもしれぬ。

ホテル・ニューハンプシャー上巻ホテル・ニューハンプシャー下巻

 やっていることは、商品としての赤ちゃん「デザイナーベビー」に連なる。遺伝的に劣位な胚を除外する生殖補助、肌・目・髪の色や遺伝特質を予めセットアップするサービス、亡くした子どもの代わりにつくられる生物学的に同一のレプリカントなど、ベビービジネスは巨大な市場になっている。にも関わらず、そこに異質を感じるのはぜか。さらに、異形たちの愛にフツウの愛を感じるのはなぜか。自分は「大丈夫」だと信じたいのか? 読めば分かる。試すつもりで読むといい。

 きれいはきたない、きたないはきれい。闇と穢れの中を読み進め。

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『女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと』(西原理恵子)は、娘の幸せを願う全ての親に伝えたい

 これは重要な一冊。これを娘に伝えられるかどうかが、娘の幸せを左右することだから。年頃の娘を持つ全ての親に渡したい。

 中身はいつものサイバラ節と、ちと違う。「母」という立場から反抗期の娘に宛てた手紙のような、それまでの半生を振り返って「いろいろあった」とつぶやくようなエッセイなり。さらりと書いてあるくせに、幸せの勘所というか、不幸を避ける考え方のようなものがきっちりとまとめられている。

 過去作を読んできた方には、目新しいものはないかもしれぬ。だがこれは、西原理恵子が伝えてきた「金の話」「男との関係」「幸せへの近づき方」の、いわばエッセンスを凝縮したものになる。一番重要なところを引用する。

大事なのは、自分の幸せを人任せにしないこと。そのためには、ちゃんと自分で稼げるようになること。

 そのために、最低限の学歴は確保する。できれば、資格もとって、スキルアップしておく。結婚するときは、夫に内緒の貯金を持っておく。「今は離婚できない」と「いつでも離婚できる」では人生大ちがいだという。理不尽な暴力(肉体的なものに限らず、言葉や態度も含む)を振るう人は、相手が逃げられない状況になってはじめて本性を現す。

 もちろん、そんな人だと分かっていたら、一緒になったりしない。だが、「そんな人ではない」と思っていても、リストラされたり、アルコールにはまったり、環境が変われば人も変わる。そんな人の具体例がこれまた生々しく、どす黒い。そうなる前に、逃げろという。「逃げる」という選択肢があることを、そうなる前に予め知っておき、それを選べる自由を持てという(それが金であり、金になる手に職なのだ)。

「自分さえ我慢すれば」は間違い。まず自分がちゃんと幸せにならなくってどうする。自分をちゃんと大切にできるって、女の子にとってすごく大事なこと。

 「いい子」になるなという。「優しい子」になるなという。そういう、優しくていい子は、自分の幸せを後回しにして、人に譲ってしまうから。譲られた人は感謝なんてせず、次からは当然になるというのだ。この件は、内田春菊のケーキの喩えを思い出す。

 ある女が手間暇かけて美味しいケーキを焼いた。それを一切れ、気になる男に差し上げたとしよう。男はうまいうまいと食べ、もっと欲しいと言い出す。女は躊躇するのだが、男は「一切れくれたのなら、全部くれても一緒だろう」と腹を立てるというエピソードだ。

 ケーキは肉体関係を指しているのだが、これは「やさしさ」にも通じる。最初の一切れは彼女の好意や優しさかもしれぬ。だが、それを当然視してもっとよこせという男に対し、我慢してつきあう必要はない。

 他にも、「女の一途は幸せの邪魔」「自由ってね、有料なんですよ」「人生は我慢くらべじゃない」など、名言だらけなり。娘の幸せを願う全ての親に、ぜひ読んで欲しい。そして、わたしの娘にも読んで欲しい一冊。

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エッチする直前こそが人生だ『初情事まであと1時間』

 タイトルまんま「初エッチするまであと1時間」のカップルを描いた、シチュエーション恋愛オムニバス。ニヤニヤが止まらないまま進んでいくと、初々しさにほっこりしたり、健気さにほろりときたり、切なさに撃ち抜かれたり。

 あくまでも、エッチするまでの1時間なので、性行為そのものは描いてない。「あと50分」「あと31分」といったカウントダウン的なナレーションが入るが、「スタート!」以降は「ご想像にお任せします」状態となる。だから表紙に「成人向け」マークは入っていないのだが……のだが、これが読むほうにとってはとってもドキドキもの。

 なぜなら理由は2つある。

 一つは、典型的な「やれる」パターンの場合。「両親が旅行の彼女の家に招かれました」など、リビドー全開のシチュエーション。にもかかわらず、二転三転する様がワクワクを加速させる。もう一つは、どう考えても「やれない」パターン。こじらせ処女、腐らせ童貞、生命の危機など、エッチからほど遠い状況で、刻々と進むカウントダウン。そこから持ってくウルトラCがニヨニヨさせる。

 これは倒叙型の亜種だね。ほら、『刑事コロンボ』のような、最初から犯人が分かっていて、探偵がアリバイやトリックを崩すやつ。『初情事まで』は、2人が結ばれること、しかも「あと1時間」で初の一線を越えることが分かっている。そして、「あと1時間」という短い間に、2人の距離が揺れたり離れたり、意外な事実が明るみに出て、あれよあれよとくっついたり。

 似たようなシチュエーションで、『やれたかも委員会』という、これまた傑作がある。が、『やれたかも』はタイトルどおり、結果的にはやれなかったが、あるいは状況やセリフにより「やれたかもしれない」という美しい余地は残されている。聴牌はしてたが和了れなかったのが『やれたかも』なら、『初情事まで』はオープンリーチで自摸られるようなもの。

 「初情事」と「発情時」を掛けているのも面白い。やることは一緒なのに、やるまでが違う。それが、個性であり、文化であり、ドラマであり、思い出となる。「漫画家と編集者」「勇者と魔法使い」「幼なじみで大学生で」が好き。お試し版の第一話が、これまたいい→「初情事まであと1時間:case1」

 エッチする直前こそが人生だ。

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東大・京大で『勉強の哲学』が一番売れている理由「勉強するとキモくなる」

 「勉強とは何か?」を根源的に考えた一冊。一言なら「勉強とは変身である」になる。

 巷に数多のノウハウ本ではない。意識高い系の自尊心をくすぐる本ではない。勉強するとはどういうことか、勉強することで何が起きるのかを、言語と欲望の問題にまで踏み込み、掘り下げる。

 議論のバックグラウンドに、フーコーの権力システム、ドゥルーズ&ガタリの脱コード化、さらにウィトゲンシュタインの言語観をも引き込んでいるが、咀嚼しきった上で原理的に考え抜く、その知的格闘が面白い。

 勉強すると何が起きるのかを考える際、勉強する「前」はどうなっているかに着目する。自分が話す(=考える)言葉やコードは、そのときに自分がいる環境に依存しているという。半径5mの仲間や学校、家族、手元の端末のSNS、マスコミ、社会などから、「こうするもんだ」というコードにノッて話し、考え、行動する保守的な状態だという。

 それが、勉強することにより、慣れ親しんだ「こうするもんだ」から、別の「こうするもんだ」に移行する。集団的なノリに共感できなくなったり、あるいはそうであった自分を客観視するようになる。この「場」から浮いた感覚や言葉が自分をキモくさせるというのだ。

 勉強により、言葉が拡張する。今まで使っていた同じ言葉とは別の意味を持つことに気づく。この「違和感」が重要だと説く。言葉の手触りというか、透明度の違いのようなもの。わたしの例だと、「無限」だな。数学をやりなおして無限は計算できることを教わった(数学と数学論のあいだ『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』)。さらに、無限に大小があることを知った(大人のための数学『無限への飛翔』)。最初は、会話で使う形容的な「ムゲン」と数学的に定義された複数の「無限」の収まりの悪さを感じ、次に、そのズレを意図的に使い分けるようになった。勉強により、自分「が」キモく感じると同時に、自分「を」キモくさせていることに自覚的になる。

 勉強により、自己を言語的にバラす。これまで囚われていた環境のコードを疑って批判する(アイロニー)手法と、コードに対して意図的にズレようとする(ユーモア)手法により、自己破壊と拡張・メタ化を行うというのだ。その結果、発想の可能性を狭めていた環境のノリから離れ、別の環境、他の次元の発想が考えられるようになる。著者曰くこれが「賢く」なるということだ。

 この取組みは、『アイデア大全』でしつこく追求されている「問題の再定義」やね。「問題を様々な角度から検討する」だけでなく、問題の前提を疑ったり、問題を「問題」として成り立たせている構造を組みなおす。『勉強の哲学』で抽象度の高い議論に揉まれたら、『アイデア大全』の具体的すぎる手法を試したくなる。「シソーラス・パラフレーズ」「対立解消図」「フォーカシング」「P.K. ディックの質問」は、そのものズバリだろう。併せて読むことをお薦めする。

 『勉強の哲学』は、東大・京大の生協書籍部の売上No.1とのこと。勉強するとはどういうことか、勉強することで何が起きるのかを深く知れば、「なぜ勉強するのか」の答えは自ずと見つかる。

 勉強とは、変身である。勉強しよう。

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数学と数学論のあいだ『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』

 数学の良いところは、待っていてくれること。

 もう授業も受験もないので、時間制限は残りのライフのみ。時代の風に翻弄される政治経済歴史と違い、「新しい=良い」教に染まった物理化学生物と異なり、好きなときにやり直せるのが嬉しい。前回のセーブポイントから始められ、学んだだけ進められるのも数学の良いところ。

 そして、前回攻略できなかった、ゲーデルの不完全性定理に再挑戦する。8年ぶりの再再読だが、「数式と少女のときめき」は健在で、読み物としても入門書としても抜群に面白い。さらに「数学に苦労していたわたしの高校時代」と「『数学ガール』に没頭していた8年前」を重ね、二重の意味で懐かしい。

 全10章に分かれ、最終章(ゲーデルの不完全性定理)に取り組むための伏線が張り巡らされている。嘘つき者のクイズに始まり、ペアノの公理やラッセルのパラドクス、そしてイプシロン・デルタと対角線論法で「数学を数学する」準備をする。

 「高校生がゲーデルの不完全性定理を理解するために何が必要か?」をとことん考え、足りない概念や道筋を洗い出している。最初に読んだときには気付かなかったが、9章までに解説された概念・数式・体系というピースが、最終章でビシッとハマってゆくところは、上質のミステリのように面白い。

 その一方で、数学を学ぶにつれて浮かんできた"わだかまり"のようなものが可視化されている。≪意味≫を≪形式≫として捉えるために、≪意味の世界≫と≪形式の世界≫という考え方が紹介される。問題(意味)に対し、数式(形式)を立てたなら、後は機械的に解くことで、答えを得ることができる。そして、数式の答えは、問題の答えになる。

 この考えは本書を貫いている。いったん形式体系で表せるならば、所定の公理・規則に従って展開させることができる。必ずしも数学的である必要性はなく、むしろ今までの数学的な意味や慣用に引きずられないよう、「知らないふり」「忘れたふり」をしてシステマティックに振舞えと命ぜられる。

 この「知らないふり」ゲームは、ものすごく面白い。自分がいかに意味に引きずられて考えているかが、よく分かる。ウィトゲンシュタインやクリプキのこだわりを実践的になぞっているようで、ワクワクさせられる(ただし、意味の正当化と規則の正当化は異なるやり方で果たさなければならない『意味と規則のパラドックス』は、いったん脇においておく)

 そして、形式体系に落とした46の定義と数学ガール(ズ)の対話によって、不完全性定理が証明されている。残念ながら今回も力尽き、p.358の全体像を見ながら追いかけることになったが、それでも脳汁あふれる旅路だった。わたしの"わだかまり"は、この旅路の最後、「不完全性定理が≪数学≫の限界を証明してしまったのではないか?」というテトラさんの質問に対するミルカさんの返答に現れる。

「議論に混乱がある。テトラは、≪数学というもの≫という言葉をどういう意味で使っているのだろう。それは、(1)きちんと定義を書き下して、なんらかの形で形式的に表現できる何かだろうか。それとも、(2)定義を書き下すことはできず、私たちの心に浮かんでいる、数学という名を付与するにふさわしい何かだろうか。どちらのつもりで言っているのかな?

もしも(1)のつもりならば、≪数学というもの≫は条件を確かめた後に不完全性定理の対象となりうる。そして≪数学というもの≫は不完全性定理の結果に支配されるだろう。

しかし、もしも(2)のつもりならば、≪数学というもの≫は不完全性定理の対象ではない。それは数学「論」の対象か、哲学の対象か……ともかく、数学の対象ではない。ということは、不完全性定理の対象でもない。だから、≪数学というもの≫は不完全性定理の結果に支配されない。

さらに≪数学というもの≫が(1)なのか(2)なのかを識別することは、これまた数学が扱うことではない。

だから私の考えはこうだ。不完全性定理の結果を使って数学的な話をしたいなら、対象を数学にしぼって話そう。そうではなく、不完全性定理の結果からインスピレーションをもらって数学論的な話をしたいなら、そのつもりで話そう。忘れてはならないのは、数学論的な話は、「数学的に証明された」わけではないということ」

僕は、ミルカさんに問いかける。

「≪数学を形式的体系として表現する≫のは不可能だということ?」

彼女は目を閉じ、首を横に振る。

「というよりも、≪数学とは何か≫を定めるのは≪数学≫ではないということ。それは≪数学観≫だ。だから≪数学とは〇〇である≫という主張は───数学的に証明できない」

「要するに≪数学的な議論と、数学論的な議論は分けるべき≫なんだ」

 ミルカさんの言う(1)「きちんと定義を書き下して、なんらかの形で形式的に表現できる何か」とは、形式体系だと理解した。そして、≪意味の世界≫から≪形式の世界≫に移ることで、所定の公理・規則に従って展開し、他の数学的な意味や慣習は「知らないふり」ゲームをし続けることができる。

 問題はここにある。ミルカさんは、不完全性定理を議論するにあたり、≪数学というもの≫を、いったんは(1)としている。しかし、わたしはこの前提である「不完全性定理を議論するにあたり」を省略し、≪数学というもの≫は(1)であると考えてしまっていた。

 すなわち、数学とは公理と規則とそれらを示す記号の組み合わせの総体だとみなしていたのだ。だから、人が知っている数学的知識のすべてをAIに学ばせることで、「人が知らない」数学的証明について自動的に検証できるに違いないと考えていた。「数学は、計算できる」。もちろん、これはヒルベルトが立てた目標であり、ゲーデルが打ち砕いたものだ。だから、わたしは≪数学というもの≫の限界が証明されてしまったように感じたのだ。

 ここまで理解した上で、まだ分からないことがある。ミルカさんは、(1)数学的な議論と(2)数学論的な議論は分けろという。その通りだ。だが、≪数学≫がなんであるかについては言明を巧妙に避ける。≪数学というもの≫と(カッコ抜きの)数学を使い分け、ミルカさんにとって数学が何であるかは、ついに分からない。

 最初は、ミルカさんにとっての数学とは(1)であると考えていた。すなわち、「きちんと定義を書き下して、なんらかの形で形式的に表現できる何か」である。だが、(1)とするなら、先にわたしが陥った形式主義の罠にはまることになる。だから、不完全性定理の議論をする上での前提を置いたのだろう。

 しかし、ミルカさんの言う、≪数学というもの≫を決めるのは≪数学観≫だというのは本当だろうか? 数学「観」というのであれば、人により時代により変わってゆく。数学とはそんなものなのだろうか? 素朴なプラトニストだったわたしからすると、疑わしい。それこそ≪数学というもの≫は、(2)「私たちの心に浮かんでいる、数学という名を付与するにふさわしい何か」になってしまう───とグルグルする。

 わたし自身、数学の教科書に載っている事柄だけでなく、「人はどのように数学を理解しているか」に興味がある。人の想像力の限界があるとするならば、それは数学で表せる限界を調べることで明らかになる、と信じる。だから、ミルカさんにとって≪数学というもの≫が何であるかが知りたい。「それは数学≪論≫の話だろう」とはぐらかされるだろが、そこは壁ドンして、「ではミルカさんにとっての数学は?」と問うてみたい。

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