生きるための保険『私の生きた証はどこにあるのか』
自殺した人が遺す言葉は、「死にたい」というよりも「生きたくない」が多いと聞く。
死にたい理由が100あっても、生きる理由が1つでもあれば生きる。何のために生きるのか分からなくなったら、たった一つの死にたい理由に背中を押されてしまうのか。そんな背中に、アンパンマンのマーチは深々と刺さる。
何のために生まれて
何をして生きるのか
答えられないなんて
そんなのは嫌だ
そんなとき、生きる理由を探すのは危険だ。なぜなら、自分にとって目標としてたもの、夢、愛する人や何かを一つ一つ思い浮かべても、一つ一つ消していくだろうから。生きる理由「だったもの」を拾い上げては捨ててゆく、そんな悲しい作業となるだろうから。
だから、そんなときは、いきなり解答を見よう。『私の生きた証はどこにあるのか』に書いてある。しかも、最初の章にまとめてある。
ほら、難しい数学の問題を解くことを考えてみよう。うんうん悩んで試行錯誤して「解」に到達することも尊いが、まずは解答と解説を見てしまって、自分のチカラで解けるかどうかを逆算するのだ。制限時間が限られているときほど、効率がいい(特に、死にたくなったとき)。
何のために生きるのか? 富か、友か、知恵か、名誉か、妻子か。答えのエッセンスは、聖書の中の最も変わった聖書と言われている「コヘレトの書」にある。ここだ。
「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れてくださる。……太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。……何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府(よみ)には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」
コヘレトの言葉 9章7-10節
序章のここを読んだとき、正直、分からなかった。これがどうして「生きる意味」になるのか。本書はこの解答の「解説」だといっていい。コヘレトの言葉にまつわる物語や、同じ悩みに苦しみ乗り越えた古今東西の人々のエピソードを紹介しながら、著者は、この疑問に一冊かけて答えてくれる。
たとえば、オスカー・ワイルドの言葉を紹介する。
「この世には、二つの悲劇がある。
一つは人が望むものを手に入れられない悲劇である。
もう一つはそれを手に入れた悲劇である」
成功することにどれほど頑張ったにせよ、成功が私たちを満足させることはないという。ペシミスティックな、ともすると無常観を漂わせながら、幸福の追求は間違った目標だと説く。何が幸せかを他人任せにすると、誰かが定義した「幸せ」を、一生涯かけて追い続けることになると警告する。
幸せは蝶のようなもので、追いかければ追いかけるほど、遠ざかり隠れてしまうという。追いかけることをやめ、虫取り網を捨て、満足できる人生とは何かという大きな答えではなく、ささやかな多くの答えを大切にせよと説く。
あるいは、ノーベルの死亡記事のエピソードを紹介する。
アルフレッド・ノーベルは、生きているときに自分の死亡記事を読むという、めずらしい経験をする。ノーベルの兄が死んだにもかかわらず、新聞記者が間違えて、アルフレッドの死亡記事を掲載してしまったのだ。そこでは、ノーベルは、戦争を効率化するダイナマイトを発明したことで巨万の富を築いた人物と描かれていた。
自分が死と破壊の商人として記憶されることに衝撃を受けたノーベルは、自分の財産を元手にして、賞を設立することにした。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和という分野で、顕著な功績を残した人物に贈られる賞である。いまや彼は、大量破壊・殺人兵器で大金持ちになった人ではなく、設立した賞ゆえに記憶されている。
もっとも印象深かったものは、「コヘレトの言葉」の物語だった。
著者は、富、名声、ハーレムの美女などすべてを持っていた。充分な教養を持ち、人生に取り組んでいた。生きる意味を追い求め、長い年月をかけて探し求めたが、「○○○を手に入れることで人生の諸問題を一挙に解決する」その○○○を見つけることはできなかった。代わりに、一つの大きな解答を見つけようとしても無駄だということに気づいたという。人生は瞬間の連続であり、その一つ一つを精一杯生きることが幸せになるということなのだ。
人生を、見返りや喜びを探し求めるための時間であると考えていると、生きていることが何を意味するのかを完全に誤解してしまいます。躍起になって欲求不満をつのらせながら、人生を価値あるものにするであろう成功や見返りを日々、年々くまなく探し求めることは、明らかな答えを見逃し続けていたようなものです。自分がいかに生きるべきかを学ぶことができれば、人生そのものが見返りとなるのです。
そして、「人生は、私に何を用意してくれるのか?」と問うのをやめて、「私は人生で何をするのか?」と問いはじめよと言う。逆だったんだね。人生から何か価値を受け取るつもりで生きるのではなく、人生に何か価値あるものを渡せるか? という姿勢で今を生きよというのだね。
人生を微分すると今になる。今の、一つ一つの瞬間こそ人生なのだ。これは、そんな人生の保険となる。文字通り、生きるための保険だ(世にある「生命保険」は定義上「死亡保険」である)。著者は『なぜ私だけが苦しむのか』のクシュナーだ。こちらは、人生を二分するような酷い運命に苛まれるときに、思い出してほしい。
『私の生きた証はどこにあるのか』『なぜ私だけが苦しむのか』は、タイトルだけでも覚えておきたい。「死にたい」というよりも「生きたくない」ときに、思い出すために。
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コメント
クシュナーはずいぶん初歩的な謬見にとらわれているひと、という印象なのです。たとえば、
男性主観(本文引用部分「日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。」想定される「あなた」は男)。
動物は人間以下(『なぜ私だけが…』5章)。
狭量で些末な指摘かもしれませんが、このあたりのことに違和感を持たないでいられる宗教者の論を、その正当性を、疑わずにはいられません。
文(もん)は執見(しっけん)に随(したが)って隠れ、義は機根(きこん)を逐(お)って現るのみ
文意:文章は読む人の側に自分の心に固執して離れない見解があれば、せっかくの文章の真意は隠れてしまうのであって、真理の教えは、素質に応じて現れるものである。
(『空海コレクション1』「秘蔵宝鑰」)
クシュナーの素質を疑うぼくの素質が貧しい、という可能性もおおいにありえますが。
投稿: AiR | 2017.04.26 12:34
>>AiRさん
コメントありがとうございます。ご指摘の「初歩的な謬見」は、書かれた時代や文化によるものだと思います。そこに固執して、以降の論の正当性を疑うのであれば、それまでかと。
ご縁がなかったということで。
投稿: Dain | 2017.04.27 00:11
最近「夜と霧」を読んだのですが、その中で示されていた答えのようなものに通ずるのではと勝手に考えています。
積み重なる存在の大切さのような。
どうにも曖昧な言葉で書くことになってしまいますが、この書評だ具体的に解説して、明示して下さるので助かります。クシュナーを今度読んでみたいと思いました。
フランクルとクシュナーには似ている部分があるのでしょうか?
投稿: 黄色 | 2017.04.28 07:35
>>Dainさん
お返事ありがとうございます。
己の執着を手放すか、本を手放すかは自由――ならば執着のほうを手放すのが吉だろう、という考えに思い至りました。
動くことができない「本」に対するには、本(著者)の観点にできるだけ寄り添って(自分を引っ込めて)臨むほうがより、フェアだろうと。
自分で「些末」と思うような見解に執着することの不自由を反省しています。どうしてこのような非論理的構築をしてしまったのだか。
さいしょ、『なぜ私だけが…』のことを、よい本だと評価していたのに。しかし読み返すうち、どういうわけかあら探しをするようになってしまって。
『なぜ私だけが…』を読み返すとともに、『私の生きた証はどこにあるのか』も、近いうちに読んでみようと思います。
投稿: AiR | 2017.04.28 11:47
>>黄色さん
コメントありがとうございます。おそらくはここかと。
>「人生は私に何を用意してくれるのか?」と問うのをやめ、
>「私は人生で何をするのか?」と問いはじめよと言う。
>人生から何か価値を受け取るつもりで生きるのではなく、
>人生に何か価値あるものを渡せるか? という姿勢。
『夜と霧』にも同じ一節があり、そこで互いに重なり合っています。人生から何かを受け取るつもりで生きているのなら、いつまでたっても満足する人生にはならないのだと思います。なぜなら、人の欲には限りがないからです。
>>AiRさん
お返事ありがとうございます。読むのも読まないのも自由でよいのだと思います。「己の執着」は難しい問題だと思います。わたしの場合、認知科学の勉強を進めることで思い至ったのですが、「己の執着」から自由になることは不可能なので、せめては自覚的に生きていこうとしています。
投稿: Dain | 2017.04.30 07:43
仏教的な考えを学んでいくと、そういった業にとらわれる事の無意味さに思い至るように思います。そうして、世界が輝きに満ちたような安らかな気持ちになれるんですよね。
ブッダは、生きることは苦しみであると定義していますし、その言葉につられて仏教を学んでいくと安らぎが得られるのは、仏教が人を救う事を目的としているからなんだな、という事が分かるような気がします。
いずれにせよ、人生をいい方向に肯定的に捉える事は、大切な事ですよね。
投稿: 村野健 | 2017.05.05 17:45
>>村野健さん
コメントありがとうございます。ご指摘の通りだと思います。ブッダの教えを学ぶにつれ、信仰対象というより、良く生きるためのメソッドのように捉えています。
投稿: Dain | 2017.05.06 08:02