文学の一つかみの砂金『文学理論講義』
「なぜ学ぶのか?」に対する太宰治の回答が、なかなか素敵だ。
学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。
太宰治『正義と微笑』
学問分野は様々だし、知はアップデートされる。だが、それでも残り続ける砂金というかエッセンスは必ずある。ネット検索に任せて学びを止めるのは、もったいないことだ。
ピーター・バリー『文学理論講義』は、文学における一つかみの砂金に相当する。これは、文学に携わる人にとってのご褒美のような一冊で、文学理論のエッセンスがぎゅっと濃縮されている。これまでの教科書だったイーグルトン『文学とは何か』になり代わる、新しいスタンダードだといえる。
あらゆる知と同じく、文学も守破離のプロセスを経る。すなわち、先達から学び、そこに疑いを抱き、独自の路を打ち立ててゆく。面白いのは、先達が踏んでいると批判したまさに同じ轍に後進が陥っているところ。理論は参照する/されるネットワークの中に浮かび上がるのであり、歴史や文化から独立した完全なる理論なんてものはない。文学におけるイデオロギーとして、理論が成り立っているのだ。
まず、リベラル・ヒューマニズムが槍玉に挙げられる。「良い」文学作品とは、それが書かれた時代や文化の個別性を超え、人間性の普遍的な部分に語りかけてくる。「良い」文学作品は、一つの時代のためだけの作品ではなく、すべての時代のための作品、ニュースであり続けるニュースなのである―――なんてことは大嘘で幻想にすぎない、というところから理論は始まる。
この伝統的な「良い」文学の前提を疑うことから、構造主義、脱構築、フェミニズム批評、新歴史主義、ポスコロ等が続々と繰り出される。その文学的イデオロギーが生まれた背景と、理論が乗り越えようとしたもの、そして実際にその理論に則った"読み"が解説される。
だいたい、「良い」とは何か? 文学全集にある文学作品か? カノンとして長い時代を読み継がれているものか? それは、ある価値観に沿って高い評価を得たに過ぎず、その価値観は社会的・政治的な背景に依存している。
それは、特定の人種・ジェンダー・階級の組合せの規範に「人間性」というラベルを貼って普遍性を醸しだしているだけなのだ。実際のところ、それはヨーロッパ中心主義で男性中心主義なものに他ならない(その例として、あえて女性作家ジェーン・オースティンの作品に潜む父権主義・帝国主義を炙り出すのが憎い!)。
したがって、「人間性」という言葉で作品を偉大だと訴えかけることは、実際にはそこで語られていない―――女性や白人でない人々の集団を周辺化し、無視し、否定することになりかねない。あらゆる規範から独立した絶対的な価値観なんてないように、「偉大な」作品を絶対視することを疑ってかかる。文学を用いて前提となる常識を疑う。この姿勢、自分に潜むバイアスを抉り出されているようで面白い。
典型的なのが、フェミニズム批評。男性主義に異を唱えるフェミニズム批評は、当時の風潮の後押しもあり、多大なる成功をおさめる。結果、「フェミニズム批評」という理論が制度化され、急進性を失う。その中でレズビアン研究者たちが自分の立場の急進性を主張し始める。
つまりこうだ、フェミニズムは、人種や文化、セクシャリティの差異を考慮するのが難しくなり、「都市に住む白人」「中流階級」「異性愛」の女性のみ対象として普遍化する傾向が強まる。結果、「田舎住まい」「黒人」「同性愛」の声や経験は排除される。フェミニズムの中から、父権制度"もどき"を再生産しているという批判が現れる。そして、フェミニズムから袂を分かち、ゲイと手を携え「クィア理論」が生まれてくる。
価値観の前提を疑う―――この姿勢自身もひとつの価値観なのだが、自らのバイアスを自覚しているのとしていないのとでは大いに違う。いるよね、勉強してきたことにしがみつき、それを金科玉条のごとく崇め奉り、それを脅かすものを蛇蝎の如く憎む輩。いわゆる「公式見解」こそが全てであり、他の解釈を聞き入れない―――すごくもったいない。
作者の手から離れた作品を、どう料理するかは読み手に委ねられている。「作家の気持ち」なんてものは、いったんは考慮した読みをするものの、それだけに縛られて読むのは愚の骨頂なり。もっと自由に読んでいいのだ。
たとえば、意味の多義性を求め、矛盾や対立、欠落を探す「木目に逆らって読む」方法が、ポスト構造主義の章で述べられる。テクストに逆らってテクストを読む。そこから得られる発見と喜びが、無上に素晴らしい。「俺の"読み"で合ってたんだ」と思う一方、その"読み"をひっくり返す理論に出会い、「いままで私は何を読んできたんだ!」と身もだえしたくなる。
本書が優れているのは、それぞれの理論の"読み"をシミュレートしてくれているところ。ポー『楕円形の肖像』の全文が巻末にあり、それぞれの理論が、どう料理しているかが分かる。本文を読まずに、いったん自分の解釈をメモっておき、しかる後に理論へ踏み込んでいくと、自分の"読み"の傾向が浮かび上がってくるので楽しいかも(一方、もっと面白い"読み"に出会えるかも)。
イデオロギーから離れ、テクニカルな手法を解説する「文体論」「物語論」も多くの発見があった。語りの手法で読み手の感情をコントロールするやり方が解説されている。ある文に接し、なぜあんな気分になるのか、どうしてこういう印象が得られるのか、手にとるように分かる。
たとえば、ハーディの『テス』を俎上に、テスがいかにしてアレックに屈服するかは、テクストで描写されている内容だけでなくその形式にも現れるという。本書では、レイプシーンの文法構造それ自体によって示されているというのだ。アレックが肉体的・社会的な力を持っていることは、彼(または彼の属性)が文の主語になっていることが強調される。「彼は(主語)彼女に(目的語)触った」「彼の指は(主語)彼女のなかに(目的語)沈み込んだ」といったパターンをとることで分かる。
あるいは、ミメーシスとディエゲーシスという語りの「モード」を例に、物語の焦点と緩急を解説する。ミメーシスは、「見せること、示すこと」であり、出来事がシーンとして具体的に再現され、直接見聞きしているような錯覚を与える。ディエゲーシスは、「告げること、述べること」であり、概観的あるいは要約的に語られ、必要な情報だけがかいつまんで伝えられる。
語り手は、読者と登場人物の双方から何かを「隠す」。そいて、ミメーシスとディエゲーシスを使い分けながら、隠されたものを明らかにしてゆく。物語の本質は遅延(情報伝達を遅らせること)であり、良い小説を書くための秘訣は、「読者を笑わせ、泣かせ、かつ待たせる」ことだという。
わたしが物語の何に心を動かされ、どのように「待たされ」ているかが、見えてくる。一種の種明かしを聞かされているようで、不安になるとともに、自分の「こころ」が透け見えて楽しい。
これまで読んできた小説を通し、わたしの中に残っている「砂金」を確かめると共に、まだ手付かずの部分があることに気づき、嬉しくなる。
文学は、楽しい。それは、バイアスを映す鏡であり、世界の見方を変える立ち位置であり、何よりも人生に隠された芳醇さを味わう舌だ。生きて読むことの喜びを、あらためて教えてくれる、得難い一冊。

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