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生きるための保険『私の生きた証はどこにあるのか』

 自殺した人が遺す言葉は、「死にたい」というよりも「生きたくない」が多いと聞く。

 死にたい理由が100あっても、生きる理由が1つでもあれば生きる。何のために生きるのか分からなくなったら、たった一つの死にたい理由に背中を押されてしまうのか。そんな背中に、アンパンマンのマーチは深々と刺さる。

何のために生まれて
何をして生きるのか
答えられないなんて
そんなのは嫌だ

 そんなとき、生きる理由を探すのは危険だ。なぜなら、自分にとって目標としてたもの、夢、愛する人や何かを一つ一つ思い浮かべても、一つ一つ消していくだろうから。生きる理由「だったもの」を拾い上げては捨ててゆく、そんな悲しい作業となるだろうから。

 だから、そんなときは、いきなり解答を見よう。『私の生きた証はどこにあるのか』に書いてある。しかも、最初の章にまとめてある。

 ほら、難しい数学の問題を解くことを考えてみよう。うんうん悩んで試行錯誤して「解」に到達することも尊いが、まずは解答と解説を見てしまって、自分のチカラで解けるかどうかを逆算するのだ。制限時間が限られているときほど、効率がいい(特に、死にたくなったとき)。

 何のために生きるのか? 富か、友か、知恵か、名誉か、妻子か。答えのエッセンスは、聖書の中の最も変わった聖書と言われている「コヘレトの書」にある。ここだ。

「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れてくださる。……太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。……何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府(よみ)には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」
コヘレトの言葉 9章7-10節

 序章のここを読んだとき、正直、分からなかった。これがどうして「生きる意味」になるのか。本書はこの解答の「解説」だといっていい。コヘレトの言葉にまつわる物語や、同じ悩みに苦しみ乗り越えた古今東西の人々のエピソードを紹介しながら、著者は、この疑問に一冊かけて答えてくれる。

 たとえば、オスカー・ワイルドの言葉を紹介する。

「この世には、二つの悲劇がある。
一つは人が望むものを手に入れられない悲劇である。
もう一つはそれを手に入れた悲劇である」

 成功することにどれほど頑張ったにせよ、成功が私たちを満足させることはないという。ペシミスティックな、ともすると無常観を漂わせながら、幸福の追求は間違った目標だと説く。何が幸せかを他人任せにすると、誰かが定義した「幸せ」を、一生涯かけて追い続けることになると警告する。

 幸せは蝶のようなもので、追いかければ追いかけるほど、遠ざかり隠れてしまうという。追いかけることをやめ、虫取り網を捨て、満足できる人生とは何かという大きな答えではなく、ささやかな多くの答えを大切にせよと説く。

 あるいは、ノーベルの死亡記事のエピソードを紹介する。

 アルフレッド・ノーベルは、生きているときに自分の死亡記事を読むという、めずらしい経験をする。ノーベルの兄が死んだにもかかわらず、新聞記者が間違えて、アルフレッドの死亡記事を掲載してしまったのだ。そこでは、ノーベルは、戦争を効率化するダイナマイトを発明したことで巨万の富を築いた人物と描かれていた。

 自分が死と破壊の商人として記憶されることに衝撃を受けたノーベルは、自分の財産を元手にして、賞を設立することにした。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和という分野で、顕著な功績を残した人物に贈られる賞である。いまや彼は、大量破壊・殺人兵器で大金持ちになった人ではなく、設立した賞ゆえに記憶されている。

 もっとも印象深かったものは、「コヘレトの言葉」の物語だった。

 著者は、富、名声、ハーレムの美女などすべてを持っていた。充分な教養を持ち、人生に取り組んでいた。生きる意味を追い求め、長い年月をかけて探し求めたが、「○○○を手に入れることで人生の諸問題を一挙に解決する」その○○○を見つけることはできなかった。代わりに、一つの大きな解答を見つけようとしても無駄だということに気づいたという。人生は瞬間の連続であり、その一つ一つを精一杯生きることが幸せになるということなのだ。

人生を、見返りや喜びを探し求めるための時間であると考えていると、生きていることが何を意味するのかを完全に誤解してしまいます。躍起になって欲求不満をつのらせながら、人生を価値あるものにするであろう成功や見返りを日々、年々くまなく探し求めることは、明らかな答えを見逃し続けていたようなものです。自分がいかに生きるべきかを学ぶことができれば、人生そのものが見返りとなるのです。

 そして、「人生は、私に何を用意してくれるのか?」と問うのをやめて、「私は人生で何をするのか?」と問いはじめよと言う。逆だったんだね。人生から何か価値を受け取るつもりで生きるのではなく、人生に何か価値あるものを渡せるか? という姿勢で今を生きよというのだね。

 人生を微分すると今になる。今の、一つ一つの瞬間こそ人生なのだ。これは、そんな人生の保険となる。文字通り、生きるための保険だ(世にある「生命保険」は定義上「死亡保険」である)。著者は『なぜ私だけが苦しむのか』のクシュナーだ。こちらは、人生を二分するような酷い運命に苛まれるときに、思い出してほしい。

 『私の生きた証はどこにあるのか』『なぜ私だけが苦しむのか』は、タイトルだけでも覚えておきたい。「死にたい」というよりも「生きたくない」ときに、思い出すために。

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物語は、騙られるときにのみ存在する『不在の騎士』

 これは面白かった!

 中世の騎士道物語のフォーマットに則りつつ、ユーモアたっぷり、ちょっぴりエッチ、ハラハラドキドキさせられる。わずか200ページの中で、読み手を大いに笑わせ、泣かせ、驚かせながら、「存在するとはどういうことか?」という物語的実在論ともいうべき深い問いまで突きつけてくる。

 主人公は、白銀に輝く甲冑を身にまとったアジルールフォ。剣は一流、勇猛果敢、教養深く弁も立つ。15年前、とある淑女を悪漢から救い出して以来、数々の武功を立ててきた騎士の中の騎士である。ただし、鎧の中は空っぽだ。肉体を持たず、意思の力だけで存在する「不在の騎士」は存在するのか。

 そこで、おっさん世代なら『銀河鉄道999』の車掌さん、若い人なら『鋼の錬金術師』のアルフォンス・エルリックを思い浮かべるかもしれぬ。面白いことに、それ、正解なのだ。

 車掌さんが制服の下が空っぽなのを告げるのは、「車掌」という役割がもう必要とされなくなる物語のラストになる。また、アルフォンスが鎧を必要としなくなるのは、「肉体を取り戻すための」エルリック兄弟の冒険が終わるときだ。

 その役割や目的が(失われたり達成されることで)なくなると、それを担っていた制服や鎧が、なかったことにされる。言い換えるなら、その役割や目的といった"存在意義"のために、外殻が必要とされるのだ。

 では、最初から肉体を持たず、"存在意義"だけで存在する「不在の騎士」はどうだろう? 王に仕え、貴婦人に献身する、騎士道精神を具現化した存在で、自分が何者であるかを充分にわきまえている。その最初の武勲「15年前に救い出した処女」の処女性が疑われ、騎士の資格を問われることになる。かくして自分の存在意義の証を立てるべく遍歴の旅に出る。

 その旅は、ドン・キホーテやオイディプス王、ミュンヒハウゼン男爵の冒険を彷彿とさせつつ濃密に(なにしろページが足りない)"巻き"で進行する。漫然と物語に身を任せても楽しめるのだが、そこに仕込まれた寓意に気付くと地雷だらけになっていることが分かり愕然とする。

 即ち、「物語は、語られるときにのみ存在する」という事実だ。これは、自分の武勇伝を誇張して吹く武人たちや、この「"不在の騎士"という物語」を語る修道尼のエピソードに埋設されている。フィクションをフィクションたらしめているのは、それを語る人が「お話」として扱っているから。

 その語り手の次元は、語られたフィクションからすると"ノン"フィクションになる。語り手が物語りを「騙る」のは、武勇を大きく見せたいとか、修行の一環であるといった動機が必要だ。

 騙る動機が(失われたり達成されることで)なくなると、それを担っていた物語が、なかったことにされる。言い換えるなら、その動機のために、外殻すなわち物語が必要とされるのだ。メタフィクショナルな展開に驚きつつも、この物語における「不在」の二重性に舌を巻く。これは凄い

 著者は文学の魔術師イタロ・カルヴィーノ。架空の都市の見聞録を描いた『見えない都市』に触れたときも、銀河鉄道999とつなげて読んだ→[『見えない都市』と銀河鉄道999]

 物語は、騙られるときにのみ存在する。メタで濃密で極上の物騙りをどうぞ。

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形が進化するとはどういうことか『形態学』

 「動物の形が進化するとはどういうことか」という問題に取り組んだ生物学の歴史を振り返りながら、形態学を体系的に説明してゆく。面白いのは、形態学の歴史に、体の構造と形に対する観念の変遷が垣間見えるところ。

1. どのようにそんな形になってきたのか(仕組みの問題)
2. なぜそのような形になっているのか(意味の問題)

 「どうしてそうなっているのか」という問いかけには、二つの問題が潜んでいる。1.の仕組みやメカニズムを問う、"how"と、2.の理由や意味を問う"why"である。科学者は、観察や実験を経て1.を分析するとともに、一貫性のあるストーリーで2.を説明づけようとする。

 "how"の答えと"why"の答えの間に恣意性や当時の観念が入り込み、話をややこしくする。分けて考えることで議論はシンプルになるにもかかわらず、"why" に答えたい欲望が科学を推進させる。科学の見方にキリスト教的な観念が入り混じる。そこが面白い。

 たとえば、「個体発生は系統発生を繰り返す」ヘッケルの反復説が紹介される。胚の形が受精卵から成体の形へと複雑化することと、自然史における動物の複雑化との間に並行関係を見出したものだ。魚、カメ、鶏、ヒトの初期の胚の画像を並べた図を見たことがあるだろう。成体へのプロセスは、進化のプロセスを辿り直しているという主張だ。

 実例として、初期に形成される鰓裂は、哺乳類では使用されることなくすぐにふさがってしまうから、哺乳類が魚類を経て進化した証拠が挙げられる。


[Wikipedia:反復説]

 この画像は、当時観察されたことのないヒトの初期胚を、見てきたような体で描くだけでなく、意図的に単純化されたものだという。

 「下等な」動物から「高等な」動物へと並べる系列をつくると、それは個体発生過程のアナロジーになる。だが、「下等」「高等」といった評価は、人間の主観による不正確な概念でしかない。体の形は、その生物が適応してきた結果にすぎず、環境が変われば形が変わるのは当然であり、そこに上も下もない。

 そこで単純に進化を辿り直しているわけではなく、祖先において存在した前駆体をベースとして、それぞれの環境に合わせ、派生的な特徴が加わったり、二次的に変形・消失することによって適応しているというのだ。

 反復説のエビデンスとして挙げられる「哺乳類の発生初期の鰓裂」は、次のように解説される。エラが不要だからふさがるのではない。エラに分化する前の段階から、エラでないものに分化していく。具体的には、咽頭弓(鰓に分化する前段階である)から、顎、中耳、口蓋扁桃、胸腺、副甲状腺に分化する。

 これは、咽頭弓から発生する組織構造の多様化にもあてはまる。すなわち、顎口類(サメなど)の「顎」、陸上脊椎動物における音を伝える「耳小骨」、カメレオンやキツツキの長い舌の運動を支える「支持骨格」、エリマキトカゲが威嚇に用いる「エリ」などがそれにあたる。

 これらの器官は、水中での呼吸とは関係のない機能を果たしているが、その基本構造は、咽頭弓ができ、そこに神経堤細胞が流入し、さらには発現のスイッチを入れるホメオボックス遺伝子Dlxが発動し、そしてやっと動物ごとの独特の変形を加えることができるという。

 エリマキトカゲのエリを作り出しているのは、トカゲ独特の発生プログラムだが、それが働くためには、脊椎動物の基本的な咽頭弓の発生プロセスがまず遂行されなければならない。仮に発生中に咽頭弓ができなければ、高度な器官構造も発生できない。言い換えるなら、咽頭弓ができなくなるような変異は、淘汰を通じて消えてゆく。

 いまあるものをベースに、構造を使いまわし再利用してゆかざるを得ない。生きている体というのは、航海中のノイラートの船団のようだ。うまく行かないからといって陸に上げて一から作り直すわけにはいかない。進化のプロセスの中で、少しずつ改善してゆくしかないのである。

 発生も進化も、時間軸に沿って形態パターンが複雑化、組織化されてゆくプロセスであり、両者に平行性を見出すのは、自然な発想だという。だが、人を動物の上位に置く価値観が、仕組みの問題(どのようにそうなのか)を、意味の問題(なぜそうなのか)として応えようとしている動機が見える。

 ゲーテの観念論的形態学にも、同様の動機が透ける。ゲーテは、動物がとる様々な形に、「理想像」あるいは「原型」を当てはめようとしたが、プラトンのイデア論を生物学に適用したものだろう。

 観察者の思考に浮かび上がる「原型」というイメージは、理解のための良いアナロジーとはなるものの、何ら実体をともなったものではないという。事実上、それは動物や植物が発生の初期に成立させる、一次的な原基の配置や分節パターンのなす一般形態であり、最初のノイラートの船にすぎない。ここにも、仕組みの問題の背後に意味の問題が隠れている。

 形の後ろに意味がある。その意味を探すと、さらに面白く読める。

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メタファーから解く時間論『時間の言語学』

 時間とは何か? 言語学からの腑に落ちる解答。「時間」について思考の奥底で抱いていた認識が暴かれる一冊。

 アウグスティヌスは、この問題の本質を端的に語る。「時間とは何か。人に問われなければわかっているが、いざ問われると答えられない」。「時間論」といえば、これまで物理学や天文学、哲学や心理学、社会学からのアプローチがあった。それぞれの分野での見解はあるのだが、著者はこれに疑義を呈する。

 つまりこうだ。どの学問領域であれ、時間の「流れ」や「進行」を口にしながら、その方向を当然のように過去から未来へと想定している。ビックバンをはじめとして、時間の「矢」は未来へと向かっている―――ここから疑い始めている。そして、「時間とは何か」に直接答えるのではなく、「時間をどのようなものとして捉えているか」という観点から、時間の本質に迫る。

 著者はレトリックを専門とする言語学者。日本語と英語の豊富な事例を駆使しながら、時間に関する私たちの認識を炙り出す。その強力な武器は、メタファー(隠喩)になる。「AはB」というとき、A(未知の概念)をB(既知の概念)を通じ、その類似性に基づき理解しようとする。

 メタファーは、単なる言葉の飾りではなく、本質をどのように言換え・捉えているかを知る視点であり認識範囲なのだという。あたりまえのように使っているため気にも留めないが、それゆえに、思考回路を牛耳っているのがメタファーだというのだ。

 たとえば、「時は金」。これは、近代からの概念だという。1903年の小学校の教科書が初で、"Time is money"「時は金なり」という語呂のよさから成立した比喩であり、それが我々の思考回路を方向付けているというのだ。その究極の現れは「時間給」。すなわち、「働き」を成果や見返りではなく、時間で測るという考え方だ。

  • 時間を(お金のように)使う
  • 時間を(お金のように)浪費する
  • 時間を(お金のように)大切にする

 もちろん、時間は価値があるものだという点は大昔から変わらない。だが、それが「お金のようなもの」と刷り込まれることで弊害が出てくる。「人月」なんてまさにそれで、「お金で時間を買う」ことが可能だという考えが導かれる。妊婦を十人集めれば一ヶ月で赤ちゃんが出てくるわけではないのに、ソフトウェア業界だと本気でできると信じてる人がいるから驚きだ。正しくは「お金で買える時間もある」だが、「時は金」というメタファーは「時と金は交換できる」というバイアスを助長させる。

 意味と認識の仕組みであるメタファー思考に注意を促し、認識の偏りを炙り出す。本書は、様々な学問分野で当然のように使っている、時間の「流れ」そのものにバイアスが潜んでいると指摘する。時間は、「過去から未来に向かって流れてゆく」という表現が促す思考は、実は、錯覚だというのだ。

 この錯覚を明らかにするため、2つのキーワード「動く時間」と「動く自己」を提起する。

 「動く時間」とは、自分が留まっていて、未来が自分に向かってやってくるというイメージである。動く歩道の上に自分(=いま)が立っており、世界が通り過ぎてゆく感覚だ。この場合、過去は「以前」のものであり、未来は「以後」にやってくる。

  • 今後ともよろしくお願いします(今後=未来)
  • 以前の会議の議事録(以前=過去)
  • Spring has come(春が来た:春=冬の後に来る未来)
  • two years ago(2年前:2年もすっかり過ぎてしまって)「すっかり」を示す強意"a" + "go" の過去分詞 "gone"行ってしまった

 「動く自己」とは、自分が未来に向かって進んでゆくイメージである。過去は後ろにあり、未来は前に広がっている。世界はそのままそこにあり、それを認識する自分が、一瞬一瞬進み具合を更新してゆく感覚だ。この場合、過去は「後」にあり、未来は「前」に横たわっている。

  • 前途洋々(前に広がる=未来)
  • 昔を振り返る(振り返る後ろ=過去)
  • look back(過去を振り返る)
  • be going to (人を主語にして、決まっている予定をこれから行う=人から見た場合、未来は進む先になる)

 「動く時間」と「動く自己」、認識の仕方によって時間の向きが逆になる。両者を時間が過去から未来に向かって流れるという発想は、この「動く時間」と「動く自己」を混同しているところから生じる錯覚だというのだ。

 認識の仕方によって振る舞いを変える。このメタファー思考は非常に面白い。ただ、他の分野、例えば物理学で扱われる「時間」が錯覚だという主張は頷けない。

 自然科学での時間概念は、パラメータや物理量の一つとして扱われている[wikipedia:時間]。『時間とは何か (別冊ニュートン)』によると、時間の進む「向き」は問題として扱われていない。「過去から未来へ」といった表現は、あくまで一般向けに説明するための言い方であり、物理学そのものとしてはどちらでもよいというのだ。

 たとえば、ニュートン力学における時間の「向き」について、こんな思考実験が紹介されている。太陽系外で見つかった、未知の惑星の公転運動の記録フィルムがある。フィルムをある方向に再生すると、惑星の軌跡は右回りになる。フィルムを逆に再生すると、左回りになるが、どちらの映像も不自然さはない。

 これは、惑星の公転運動を支配するニュートン力学が、時間の向きを区別しないためにおきる現象になる。そして、ニュートン力学に限らず、マクスウェル電磁気学、アインシュタイン相対性理論、量子論はいずれも、時間の「向き」を区別しないというのだ。

 時間の「向き」が生じるのはこうした物理学を私たちに説明する際のメタファーに潜む。ここに着目すると、ジュリアン・ハーバーの見解が紹介されている。そのメタファーが面白くなってくる。

 曰く、時間とは量子論であらわされる宇宙の中にいる存在が経験する錯覚であり、物理学では創発的(emergence)な存在だという。創発的とは、本質的(fundamental)な何かから生み出されたものだという考え方である。

 たとえば、「温度」は創発的な性質を持っている。温度そのものは本質的なものではなく、分子と分子間の相互作用の結果、「温度」という概念が創発的に生まれてくる。

 一つ一つの分子の運動量は測定できないが、その統計値を我々は便宜上「温度」と呼ぶ。温度は、それを受け取る主体によって振る舞いを変える。体温計で測るならば、「(体温が)熱い」「熱が出た」というが、温度計で測るなら「暑い一日」になる。

 「熱い」は、熱源が主体の外側にあって、熱を受け取る感覚であり、焦点は熱源に当たっている。一方「暑い」は、熱源は主体の外側にあるものの、熱を感じている主体に焦点が当たっている。「温度」をどのようなものとして捉えているかによってメタファーが変わる。だが、それは創発的な概念を我々がどう表現するかという議論なのであり、ことさらその相違を強調しても詮無かろう。むしろ、その差異から、メタファー思考の偏りに気付くほうが、よほど面白い。

 言語学の時間論からメタファー思考を学ぶ一冊。

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文学の一つかみの砂金『文学理論講義』

 「なぜ学ぶのか?」に対する太宰治の回答が、なかなか素敵だ。

学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。
太宰治『正義と微笑』

 学問分野は様々だし、知はアップデートされる。だが、それでも残り続ける砂金というかエッセンスは必ずある。ネット検索に任せて学びを止めるのは、もったいないことだ。

N/A

 ピーター・バリー『文学理論講義』は、文学における一つかみの砂金に相当する。これは、文学に携わる人にとってのご褒美のような一冊で、文学理論のエッセンスがぎゅっと濃縮されている。これまでの教科書だったイーグルトン『文学とは何か』になり代わる、新しいスタンダードだといえる。

 あらゆる知と同じく、文学も守破離のプロセスを経る。すなわち、先達から学び、そこに疑いを抱き、独自の路を打ち立ててゆく。面白いのは、先達が踏んでいると批判したまさに同じ轍に後進が陥っているところ。理論は参照する/されるネットワークの中に浮かび上がるのであり、歴史や文化から独立した完全なる理論なんてものはない。文学におけるイデオロギーとして、理論が成り立っているのだ。

 まず、リベラル・ヒューマニズムが槍玉に挙げられる。「良い」文学作品とは、それが書かれた時代や文化の個別性を超え、人間性の普遍的な部分に語りかけてくる。「良い」文学作品は、一つの時代のためだけの作品ではなく、すべての時代のための作品、ニュースであり続けるニュースなのである―――なんてことは大嘘で幻想にすぎない、というところから理論は始まる。

 この伝統的な「良い」文学の前提を疑うことから、構造主義、脱構築、フェミニズム批評、新歴史主義、ポスコロ等が続々と繰り出される。その文学的イデオロギーが生まれた背景と、理論が乗り越えようとしたもの、そして実際にその理論に則った"読み"が解説される。

 だいたい、「良い」とは何か? 文学全集にある文学作品か? カノンとして長い時代を読み継がれているものか? それは、ある価値観に沿って高い評価を得たに過ぎず、その価値観は社会的・政治的な背景に依存している。

 それは、特定の人種・ジェンダー・階級の組合せの規範に「人間性」というラベルを貼って普遍性を醸しだしているだけなのだ。実際のところ、それはヨーロッパ中心主義で男性中心主義なものに他ならない(その例として、あえて女性作家ジェーン・オースティンの作品に潜む父権主義・帝国主義を炙り出すのが憎い!)。

 したがって、「人間性」という言葉で作品を偉大だと訴えかけることは、実際にはそこで語られていない―――女性や白人でない人々の集団を周辺化し、無視し、否定することになりかねない。あらゆる規範から独立した絶対的な価値観なんてないように、「偉大な」作品を絶対視することを疑ってかかる。文学を用いて前提となる常識を疑う。この姿勢、自分に潜むバイアスを抉り出されているようで面白い。

 典型的なのが、フェミニズム批評。男性主義に異を唱えるフェミニズム批評は、当時の風潮の後押しもあり、多大なる成功をおさめる。結果、「フェミニズム批評」という理論が制度化され、急進性を失う。その中でレズビアン研究者たちが自分の立場の急進性を主張し始める。

 つまりこうだ、フェミニズムは、人種や文化、セクシャリティの差異を考慮するのが難しくなり、「都市に住む白人」「中流階級」「異性愛」の女性のみ対象として普遍化する傾向が強まる。結果、「田舎住まい」「黒人」「同性愛」の声や経験は排除される。フェミニズムの中から、父権制度"もどき"を再生産しているという批判が現れる。そして、フェミニズムから袂を分かち、ゲイと手を携え「クィア理論」が生まれてくる。

 価値観の前提を疑う―――この姿勢自身もひとつの価値観なのだが、自らのバイアスを自覚しているのとしていないのとでは大いに違う。いるよね、勉強してきたことにしがみつき、それを金科玉条のごとく崇め奉り、それを脅かすものを蛇蝎の如く憎む輩。いわゆる「公式見解」こそが全てであり、他の解釈を聞き入れない―――すごくもったいない。

 作者の手から離れた作品を、どう料理するかは読み手に委ねられている。「作家の気持ち」なんてものは、いったんは考慮した読みをするものの、それだけに縛られて読むのは愚の骨頂なり。もっと自由に読んでいいのだ。

 たとえば、意味の多義性を求め、矛盾や対立、欠落を探す「木目に逆らって読む」方法が、ポスト構造主義の章で述べられる。テクストに逆らってテクストを読む。そこから得られる発見と喜びが、無上に素晴らしい。「俺の"読み"で合ってたんだ」と思う一方、その"読み"をひっくり返す理論に出会い、「いままで私は何を読んできたんだ!」と身もだえしたくなる。

 本書が優れているのは、それぞれの理論の"読み"をシミュレートしてくれているところ。ポー『楕円形の肖像』の全文が巻末にあり、それぞれの理論が、どう料理しているかが分かる。本文を読まずに、いったん自分の解釈をメモっておき、しかる後に理論へ踏み込んでいくと、自分の"読み"の傾向が浮かび上がってくるので楽しいかも(一方、もっと面白い"読み"に出会えるかも)。

 イデオロギーから離れ、テクニカルな手法を解説する「文体論」「物語論」も多くの発見があった。語りの手法で読み手の感情をコントロールするやり方が解説されている。ある文に接し、なぜあんな気分になるのか、どうしてこういう印象が得られるのか、手にとるように分かる。

 たとえば、ハーディの『テス』を俎上に、テスがいかにしてアレックに屈服するかは、テクストで描写されている内容だけでなくその形式にも現れるという。本書では、レイプシーンの文法構造それ自体によって示されているというのだ。アレックが肉体的・社会的な力を持っていることは、彼(または彼の属性)が文の主語になっていることが強調される。「彼は(主語)彼女に(目的語)触った」「彼の指は(主語)彼女のなかに(目的語)沈み込んだ」といったパターンをとることで分かる。

 あるいは、ミメーシスとディエゲーシスという語りの「モード」を例に、物語の焦点と緩急を解説する。ミメーシスは、「見せること、示すこと」であり、出来事がシーンとして具体的に再現され、直接見聞きしているような錯覚を与える。ディエゲーシスは、「告げること、述べること」であり、概観的あるいは要約的に語られ、必要な情報だけがかいつまんで伝えられる。

 語り手は、読者と登場人物の双方から何かを「隠す」。そいて、ミメーシスとディエゲーシスを使い分けながら、隠されたものを明らかにしてゆく。物語の本質は遅延(情報伝達を遅らせること)であり、良い小説を書くための秘訣は、「読者を笑わせ、泣かせ、かつ待たせる」ことだという。

 わたしが物語の何に心を動かされ、どのように「待たされ」ているかが、見えてくる。一種の種明かしを聞かされているようで、不安になるとともに、自分の「こころ」が透け見えて楽しい。

 これまで読んできた小説を通し、わたしの中に残っている「砂金」を確かめると共に、まだ手付かずの部分があることに気づき、嬉しくなる。

 文学は、楽しい。それは、バイアスを映す鏡であり、世界の見方を変える立ち位置であり、何よりも人生に隠された芳醇さを味わう舌だ。生きて読むことの喜びを、あらためて教えてくれる、得難い一冊。

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