『石蹴り遊び』読書会が面白かった
コルタサルの奇妙な小説『石蹴り遊び』の読書会に行ったら、目からウロコが飛び跳ねていった。主催のuporekeさん、ありがとうございました。
何が面白いかというと、様々な「読み」に会えること。一冊の小説から受け取ったものをお互いに見せ合って伝え合うのが良い。「そう感じたのはなぜ?」とか「ここからあれにつなげたのか!」などとおしゃべりすることが、なんと楽しいことか。たしかに読書は孤独な営みだが、小説というひとつの幻想を共有することで、慰められる思いがする。まるで、極寒の深夜に、焚き火を囲んでいるかのような高揚感と一体感を分かち合える。
そして『石蹴り遊び』。作者はフリオ・コルタサル。わたしの場合、『南部高速道路』から入ったので、コルタサルは短篇の名手という第一印象だった(ちなみに『南部高速道路』は傑作なので読むべし)。600頁近い、ちょっとした鈍器並みの『石蹴り遊び』は、なかなか骨の折れる読書だった(感想は曼荼羅・パンドラ・反文学『石蹴り遊び』に書いた)。
『石蹴り遊び』は物理的には1冊の本だが、実は2冊の本として読める。というか、作者そう読むことを推奨している。最初は1章から56章を順に読む。次は、第73章から始まり、作者が提示する「指定表」に従って読み進める(各章にはナンバリングがしてある)。こんな感じだ。
73-1-2-116-3-84-4-71-5-81-74-6-7-8-93-68-.....
よく見ると、...-1-2...-3...-4...-5... とあり、最初の1冊の間に他の章が挟み込まれる構成となっている。他の章は、著作ノートの断片や新聞のスクラップ、広告や引用など雑多な寄せ集めで、唐突だったり冗長な印象を受ける。
ところが、2冊目を進めてゆくと仰天する。同じ『石蹴り遊び』という本に、違う書物が姿を現してくる。そこでは、1冊目で語られなかった理由が説明されていたり、脇役が実は極めて重要な人物だったり、宙ぶらりんの行動の「続き」が入れ子的に補てんされていたり、1冊目にはない可能世界を生きていたりする。
そもそもこの『石蹴り遊び』は何なのか? わたしは、1冊目では脇役だった、ある人物が書いた小説なのではと考えた。そう仮定すると、その人物が書いた覚書、原稿、引用メモは、2冊目のあちこちに出現し、それをつないで読んでいくと、1冊目と2冊目が、ちょうど図と地をひっくり返すように入れ替わる。1冊目の中に、その人物が書いたノートを皆で読むというシーンがあるが、それこそが「読者を共犯者に仕立てる」この小説の臍ではないか―――と考えた。
もちろん、読書会ではわたしの「読み」と同意見の人がいた(水声社版の解説がまさにそれだ)。だが、だからといって「正しい」とは限らないのが面白いところ。むしろ、わたしと違う「読み」の方が楽しい。『石蹴り遊び』が何と結び付けられているかに着目して、そのつながりから炙り出すような見方だ。構造的に似たものとしてパヴィチ『ハザール事典』が挙げられたが、ヘラー『キャッチ=22』もそうかも。「指定した番号の章を読む」手法は、いわゆるアドベンチャーブックから美少女ゲームへの系譜につながる。この辺は、keyの傑作『CLANNAD』を元に、わたしが熱苦しく語ってきた。
そうしたつながり読みの中で、一番面白かったのは、「読者をコルタサルに仕立てる」というもの。これは三柴ゆよしさんから教えていただいた「読み」だ(ありがとうございます!)。1冊目では脇役、2冊目ではこの小説自身の「作者」としても読める、「ある人物」のことだ。実はこの人物は、コルタサルなのではないか、という仮説だ。
え? 『石蹴り遊び』を書いたのはコルタサルだから、この小説の「作者」としてみなせる「ある人物」はコルタサルでいいんじゃないの? というツッコミは正しい。だがちょっと待ってくれ、事態は少し複雑だ。
いったん『石蹴り遊び』から離れ、コルタサルの代表作を振り返ると、面白い共通点がある。それは、「他の存在に変身する」だ。たとえば、異なる二つの世界が同時進行する『すべての火は火』。最初は段落レベルで交代していたのが、緊迫度を増すにつれ、フレーズや言葉を契機として異世界に変わり、物語は驚くべき結末に向かって邁進する(これも傑作だから読むべし)。あるいは、意識が山椒魚に乗り移る男の話『山椒魚』に代表される変身譚でもいい。現実が重ね書きされるような非現実感が、コルタサルの魅力だといっていい。
その上で『石蹴り遊び』を眺めると、2冊目に挟み込まれている雑多な文の断片は、「ある人物」が小説を書くために準備した、様々な素材に見えてくる。ちょうど撮影済だが未編集の映画のテープ群のように、作品のどこに差し込むかまだ決めかねている素材なのだ。1冊目で起きる運命により小説は未完となるが、登場人物たちがこれらの素材を発見し、吟味する場面が出てくる。2冊目に差し込まれる断片は、登場人物たちと共に、読み手(=わたし自身)が「ある人物」になり代わり編集することを誘っている。
その一方で読み手は、コルタサルが示す「指定表」を元に、あっちの素材、こっちの素材に付き合うことになる。これは、『石蹴り遊び』のコルタサル版であり、ディレクターズ・カットなのだ。
読み手は、行きつ戻りつしていくうちに、コルタサルの目で『石蹴り遊び』の素材を見るようになり、コルタサルの頭で『石蹴り遊び』を考えるようになる。そのうち、読者の目は炯々と輝き、眉間に縦皺が生じ、もじゃもじゃ髭が生えてきて、ついにはコルタサル自身に変身してしまう―――のかどうかは分からないが、「ある人物」≒コルタサルのつもりで『石蹴り遊び』を再編するなら、わたしの版だとこうなる。
60-61-62-66-71-74-79-82-86-94-95-96-97-
98-99-102-105-107-109-112-115-116-121-
124-136-137-141-145-151-152-154-155
「読者をコルタサルに仕立てる」という「読み」は妄想が捗る捗る。他にもユニークな読みが提示され、その度に目からウロコが飛び跳ねていった。小説に「正解」なんてないんだね。
小説に「解答」があって、そこからの距離によって正しさが伸び縮みするのなら、それは小説である必要がなかろう。辞書でも読んでりゃいい。そうではなく、同じ一冊から、様々な「読み」が発生し、それに共鳴したり反発したりを繰り返すことで、その読み手が見えてくる。それが面白いんだ。そこに置かれた物としての一冊が面白いのではなく、そいつを生身の人間が「どう読んだか」が肝なのだ。
いま、「読み手」と言ったが、別に第三者である必然性はない。過去にそれを読んだ自分自身と比較することもできるし、世界で最初の「読み手」である作者がどう読んでいたかを想像するのもあり。『石蹴り遊び』の風呂敷は、そこまで広げて遊べるくらい自由に読むことができる。
小説は、読み手と同じ数だけ「正しさ」があってもいい。uporekeさんの読書会は、そういう懐の深さがある。世に、「大書評家」なる人が参加者の「読み」を採点するような読書会があるらしいが、not for me だね。あるいは、怖いもの見たさで覗いてみようか……
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