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なぜ『この世界の片隅に』を観てほしいのか

 来た。観た。良かった。

 封切り直後の映画館は、半分くらい埋まっており、それが多いのか少ないのか分からなかった。可笑しいシーンでは笑い声が場内を満たし、一杯になった胸から心が溢れだす場面では嗚咽が交じる。明るくなると拍手が沸きあがり、観た人みんな良かったと思っているんだなぁと分かる。

 結論から言うと、すばらしい映画なので、たくさんの人に観てほしい。できれば、大切な人と一緒に観てほしい。

 小学校高学年の娘を連れて行った。『君の名は。』『聲の形』と、今年はアニメ映画の当たり年で、どれも劇場で観てよかったねと話してたので、否でも応でも期待は高まっていた。『君の名は。』とは異なり、中高年ばかりの客層に少し驚く。「アニメは子供のもの」なんて時代もあったね(ジブリのおかげ)。

 あの原作のあの絵が動く、というだけで嬉しいと思ったのは最初だけで、あとは夢中で観てて、気づいたら終わってた。冗長な描写は1秒たりとも存在せず、あの世界がそのまま、無駄なく、きっちりとアニメーション作品になっていた。あのうつくしさに音が、さえずりやにぎわいやうたごえや、砲声や轟音や号泣が入ったものだと言えば伝わるだろう。そう言えば、原作読んでる人ならまっすぐ観にいくだろう。

 だからここでは、原作を知らない人に、なぜ観てほしいかを伝えてみよう。

 舞台は、1944年の呉。絵の上手い、18歳の浦野すずが主人公だ。彼女が広島から呉に嫁いでくるところから、物語は動き出す。物資不足の中、すずは懸命にささやかな暮らしを守るが、戦争の影は次第に濃くなってゆく……というのがお話の入口だ。

 伝えたいことは二つある。一つ目は、生きることは食べること。海苔や砂糖、米やスイカや芋が、人と人を結ぶ縁となり、人を生かしていく。食べ物で人はつながり、生活していくというごくあたりまえのことが、あたりまえに描かれていることに気づく。食事のシーンが象徴的に使われているのがいい。配給がだんだん乏しくなって、食卓がどんどん寂しいものになるのに、食べられる野草を採ってきたり、嵩を増やそうとあれこれ工夫するのが微笑ましい。

 ちょっと(?)おっとりしたすずさんの言動がまた可笑しくて、ともすると暗くなりがちな戦争の影が、そこだけ緩やかになっているかのように見える。寂しい夕餉と楽しい笑い声に加え、「みんなが笑って暮らせるのがええ」というセリフが胸にくる。

 なぜなら、この戦争がどのようになるか知っているから。すずの場所がどのように壊れてゆくかを、わたしは過去の出来事として知ってるから。シーンの折々に日付が入るので、観客は「その日」に向かって物語が進んでいることが分かる。

 その笑顔が失われるようなことになっても、どんなに辛いことがあっても、「食べる」描写をやめない。それは、観る人を勇気づける。まったく違うお話なのだが、レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役にたつこと』 ("A small, good thing")のラストで、悲しみの底で焼きたてのパンを食べる場面があるのだが、そいつを思い出す。生きるとは、食べること。食べ続けることなのだ。

 伝えたいもうもう一つは、物語の力だ。1944年で広島が実家で、20キロほど離れた呉が舞台というなら、どんな運命が待ち受けているか、わたしは「歴史」として知っている。しかし、この物語は、徹頭徹尾、彼女の場所を中心に描かれている。最も狭い範囲は、すずの見ている暗黒であり、最も広い視点は、すずのいる呉に爆弾を落とす飛行機からの視線になる。アニメーションだから物語のような一人称で描けないが、これはすずが見た世界なのだ。

 だから、誰かに伝えるための形容はない。「痛い」「辛い」「悲しい」「恐ろしい」といった感情表現は省かれ、出来事にまつわる解釈や主張もない。すずが何を見、どう感じたかは、彼女が描いたかのようにデフォルメされた「絵」で伝えられる。

 それと音! 戦闘機のエンジン音や跳弾の音、炸裂した破片の音、ものが焼ける音は、すべて彼女の耳がとらえた音として扱われる。彼女の「痛み」をわたしの痛みとして感じることはできないが、彼女の身に何が起こっているかは痛いほど分かる。辛すぎる現実は、そのままの形で受け止められない。すずの身に起こった物語にすることで、ようやく触れることができる。それが、物語の力だ。

 この物語の力は、今年読んだ『原爆先生がやってきた』を思い出す。小学6年生を中心にした、90分間の特別授業だ[原爆先生の特別授業]。原爆とイデオロギーを切り離し、一人の兵士の目から見た物語としてナラティブに伝えると同時に、原爆の科学構造や原理といった側面をも伝える授業だ。

 そこでは、「辛い」「悲しい」「恐ろしい」といった感情表現を廃し、身ぶり手振りや擬音もなくし、淡々と起きたことを口述する。原爆はダメとか反戦といった思い・解釈・主張も入れない。そこには、「平和」という言葉すら入っていない。イデオロギーを廃し、物語の形にすることで、ようやく飲み込むことができる。そこで何が起きたかは分かる。だが、どう思うかは、聞き手に委ねられているのだ。

 生きることは食べること。そして、物語の力。これが、未読・未見の方に伝えたいことだ。わたしの娘に伝わったかは、分からない。だが、一緒に観ることができて、本当によかった。

 原爆の悲惨な面を拡大することで、戦争を引き起こしたことに対する「呪い」や「罰」のように刷り込む教育を受けてきた。「戦争→核兵器→忌避するもの」という連想で戦争反対を訴える人々を目にしてきた。その一面だけに固執するのではなく、「みんなが笑って暮らせるのがええ」生活を脅かし、それぞれの居場所をなくすものという戦争の姿を、それこそあたりまえのように描いている作品は、初めてなのではないか。少なくともわたしは、寡聞にして知らない。

 「この世界の片隅」は、すずさんだけではなく、わたしも住まう世界であり、わたしの子どもが住まう世界でもある。その世界に対し、イデオロギーとプロパガンダにまみれた「戦争反対」ではなく、この映画を示すことができて、本当にうれしい。

 大事なことなのでもう一度、『この世界の片隅に』は、すばらしい映画なので、たくさんの人に観てほしい。できれば、大切な人と一緒に。

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コメント

迷っていましたが、観てみます。

投稿: | 2016.11.23 16:43

>>名無しさん@2016.11.23 16:43

はい、ぜひどうぞ。
この映画があって、本当によかったと思っています。

投稿: Dain | 2016.11.23 17:18

すばらしかったですね。
日常パートのコメディ部分が、ちゃんと可笑しくて、愛おしいから、悲惨な部分がより胸にくるんですよね。

投稿: | 2016.12.04 23:07

>>名無しさん@2016.12.04 23:07

はい、戦争の悲惨さを訴えかけるのではなく、戦争の日常を描くことでその悲痛さが見えてくる───なんて自分で説明せずとも、伝わってきます。

投稿: Dain | 2016.12.06 23:27

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