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「信頼できない読み手」へ導く極上の物騙り『またの名をグレイス』

 「面白い小説とはセックスのようなもので、途中でやめるわけにいかない」と阿刀田高が言ってたが、まさにこの作品のためにある。

 抜群に上手い語りと、先を知りたい欲求と、語り手への疑惑が混交し、やめられない止まらない。ノッてる情交と一緒で、疲れたから続きはまた明日というわけにいかず、寝かせてくれない&寝かせるわけにいかない。いわゆる徹夜小説で、物語に夢中になっているうちに、溺れて沈んで目が覚めて、それでもまだ夢の中にいるような気にさせられる。後を引く展開がやめ時を失い、気づいたら朝。

 世界一信頼できるブッカー賞を受賞した、マーガレット・アトウッドの最高傑作と名高い『またの名をグレイス』をついに読んだ。150年前にカナダで起きた殺人事件を題材に、記憶や物語の信頼性やアイデンティティの揺らぎ、性と暴力といったテーマを織り込み、絶えず読み手の疑惑を誘いながら、物語沼へどんどん引き込む。

 語りの中心にはグレイス、表紙の女性がいる。類稀なる美貌と、極貧の生い立ち、教育は受けていないものの抜群の記憶力と語りのセンスに、思わず知らず引き込まれる。物語の最初、グレイスは二面性を持つかのごとく紹介される。一つは、殺人の実行犯を肉体で誘惑し、唆した悪女として。もう一つは、殺人犯に脅迫され、自分の身を守るため汚名を着せられた犠牲者として。

 これ、どちらの読み方でも成り立つが、凄いのは、彼女の独白も描かれているところ。普通なら三人称で隠しておき、決定的なところで一人称で暴くという手法だろうが、アトウッドは凄い。一人称の地の文で、グレイスの内心をあますところなく描ききり、三人称で時間軸を動かし、会話体で核心へ斬り込む。さらに、記事や手紙を駆使して外聞との乖離を示し、さっき読ませたストーリーへの信頼性を、あえて揺さぶりにくる。非常にリーダビリティーが高いくせに、油断できない読書になる。

 そして、グレイスの聞き手である精神科医サイモンがいい感じに糞野郎で、「信頼できる聞き手」だと思わせるのは登場した束の間だけのこと。あとはどんどん彼女の語りに飲まれてゆき、同時に「物語の外」の生活世界も染められてゆく。特筆すべきは、グレイスの物語る力には、種も仕掛けもないところ。摩訶不思議な「何か」がそうさせたのではなく、グレイスの言葉はそのまま発せられ、伝わってくる。だから、読者も同じ力に魅入られ、心をざわつかせることになる。

 巧妙に嘘をついているのか、精神に異常があるのか、不幸な弱者なのか―――表面をなぞってゆくと、ある着地点へ導かれる。これを呑み込んでもいい(Amazonレビューアーなんて典型)。だが、長い間、信頼できない語り手と向き合ってきた読者には、容易に信用できず、ミスリードを誘っていると感じるだろう。そして、それこそがアトウッドの醍醐味になる。ひょっとして彼女は、その場そのときの騙りを編み出していたのではないかと、読み終わった後も引きずられることになる。こうしたわたしの「読み」よりさらに深く読むことができる。そこには、一筋縄でいかない、したたかな女性像が浮かび上がる。だがそれも、誤りだろう。

 幾度も仮説を裏切られ切り抜けられ、おもわず彼女の言い分を呑み込みそうになる―――そこでわたしは気づくのだ。わたしこそが、「信頼できない読み手」になっているということに。

 いま知ったのだが、Netflixでドラマ化されるらしい。メアリー・ハロンが監督を、デビッド・クローネンバーグが俳優として参加するらしい([映画.com速報 : デビッド・クローネンバーグ、Netflixドラマ「またの名をグレイス」に俳優参加])。

 極上の物騙りに、呑み込まれるべし。

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なぜ『この世界の片隅に』を観てほしいのか

 来た。観た。良かった。

 封切り直後の映画館は、半分くらい埋まっており、それが多いのか少ないのか分からなかった。可笑しいシーンでは笑い声が場内を満たし、一杯になった胸から心が溢れだす場面では嗚咽が交じる。明るくなると拍手が沸きあがり、観た人みんな良かったと思っているんだなぁと分かる。

 結論から言うと、すばらしい映画なので、たくさんの人に観てほしい。できれば、大切な人と一緒に観てほしい。

 小学校高学年の娘を連れて行った。『君の名は。』『聲の形』と、今年はアニメ映画の当たり年で、どれも劇場で観てよかったねと話してたので、否でも応でも期待は高まっていた。『君の名は。』とは異なり、中高年ばかりの客層に少し驚く。「アニメは子供のもの」なんて時代もあったね(ジブリのおかげ)。

 あの原作のあの絵が動く、というだけで嬉しいと思ったのは最初だけで、あとは夢中で観てて、気づいたら終わってた。冗長な描写は1秒たりとも存在せず、あの世界がそのまま、無駄なく、きっちりとアニメーション作品になっていた。あのうつくしさに音が、さえずりやにぎわいやうたごえや、砲声や轟音や号泣が入ったものだと言えば伝わるだろう。そう言えば、原作読んでる人ならまっすぐ観にいくだろう。

 だからここでは、原作を知らない人に、なぜ観てほしいかを伝えてみよう。

 舞台は、1944年の呉。絵の上手い、18歳の浦野すずが主人公だ。彼女が広島から呉に嫁いでくるところから、物語は動き出す。物資不足の中、すずは懸命にささやかな暮らしを守るが、戦争の影は次第に濃くなってゆく……というのがお話の入口だ。

 伝えたいことは二つある。一つ目は、生きることは食べること。海苔や砂糖、米やスイカや芋が、人と人を結ぶ縁となり、人を生かしていく。食べ物で人はつながり、生活していくというごくあたりまえのことが、あたりまえに描かれていることに気づく。食事のシーンが象徴的に使われているのがいい。配給がだんだん乏しくなって、食卓がどんどん寂しいものになるのに、食べられる野草を採ってきたり、嵩を増やそうとあれこれ工夫するのが微笑ましい。

 ちょっと(?)おっとりしたすずさんの言動がまた可笑しくて、ともすると暗くなりがちな戦争の影が、そこだけ緩やかになっているかのように見える。寂しい夕餉と楽しい笑い声に加え、「みんなが笑って暮らせるのがええ」というセリフが胸にくる。

 なぜなら、この戦争がどのようになるか知っているから。すずの場所がどのように壊れてゆくかを、わたしは過去の出来事として知ってるから。シーンの折々に日付が入るので、観客は「その日」に向かって物語が進んでいることが分かる。

 その笑顔が失われるようなことになっても、どんなに辛いことがあっても、「食べる」描写をやめない。それは、観る人を勇気づける。まったく違うお話なのだが、レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役にたつこと』 ("A small, good thing")のラストで、悲しみの底で焼きたてのパンを食べる場面があるのだが、そいつを思い出す。生きるとは、食べること。食べ続けることなのだ。

 伝えたいもうもう一つは、物語の力だ。1944年で広島が実家で、20キロほど離れた呉が舞台というなら、どんな運命が待ち受けているか、わたしは「歴史」として知っている。しかし、この物語は、徹頭徹尾、彼女の場所を中心に描かれている。最も狭い範囲は、すずの見ている暗黒であり、最も広い視点は、すずのいる呉に爆弾を落とす飛行機からの視線になる。アニメーションだから物語のような一人称で描けないが、これはすずが見た世界なのだ。

 だから、誰かに伝えるための形容はない。「痛い」「辛い」「悲しい」「恐ろしい」といった感情表現は省かれ、出来事にまつわる解釈や主張もない。すずが何を見、どう感じたかは、彼女が描いたかのようにデフォルメされた「絵」で伝えられる。

 それと音! 戦闘機のエンジン音や跳弾の音、炸裂した破片の音、ものが焼ける音は、すべて彼女の耳がとらえた音として扱われる。彼女の「痛み」をわたしの痛みとして感じることはできないが、彼女の身に何が起こっているかは痛いほど分かる。辛すぎる現実は、そのままの形で受け止められない。すずの身に起こった物語にすることで、ようやく触れることができる。それが、物語の力だ。

 この物語の力は、今年読んだ『原爆先生がやってきた』を思い出す。小学6年生を中心にした、90分間の特別授業だ[原爆先生の特別授業]。原爆とイデオロギーを切り離し、一人の兵士の目から見た物語としてナラティブに伝えると同時に、原爆の科学構造や原理といった側面をも伝える授業だ。

 そこでは、「辛い」「悲しい」「恐ろしい」といった感情表現を廃し、身ぶり手振りや擬音もなくし、淡々と起きたことを口述する。原爆はダメとか反戦といった思い・解釈・主張も入れない。そこには、「平和」という言葉すら入っていない。イデオロギーを廃し、物語の形にすることで、ようやく飲み込むことができる。そこで何が起きたかは分かる。だが、どう思うかは、聞き手に委ねられているのだ。

 生きることは食べること。そして、物語の力。これが、未読・未見の方に伝えたいことだ。わたしの娘に伝わったかは、分からない。だが、一緒に観ることができて、本当によかった。

 原爆の悲惨な面を拡大することで、戦争を引き起こしたことに対する「呪い」や「罰」のように刷り込む教育を受けてきた。「戦争→核兵器→忌避するもの」という連想で戦争反対を訴える人々を目にしてきた。その一面だけに固執するのではなく、「みんなが笑って暮らせるのがええ」生活を脅かし、それぞれの居場所をなくすものという戦争の姿を、それこそあたりまえのように描いている作品は、初めてなのではないか。少なくともわたしは、寡聞にして知らない。

 「この世界の片隅」は、すずさんだけではなく、わたしも住まう世界であり、わたしの子どもが住まう世界でもある。その世界に対し、イデオロギーとプロパガンダにまみれた「戦争反対」ではなく、この映画を示すことができて、本当にうれしい。

 大事なことなのでもう一度、『この世界の片隅に』は、すばらしい映画なので、たくさんの人に観てほしい。できれば、大切な人と一緒に。

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知の巨人たちが取り組んでいる問題はこれだ『いま世界の哲学者が考えていること』

 やり方が分かっているものは、哲学に向いていない。森羅万象の問題のうち、やり方どころか、そもそも「問題」とすら認識されていないところから始まるのが哲学である。もしくは、問題の背景や根本領域からメタに捉え直し、やり方そのものを生み出すのが哲学である。

 だから、哲学に取り組むことで、視野は拡張され、思考ツールが集まり、なによりも「問題」そのものを疑う目が養われる。

 たとえば、与件を「物理学の問題」や「経済学の問題」に落とすならば、物理学や経済学の「やり方」で考えるしかない。それは一定の成果を生む一方、それぞれの「学」の前提から離れることはできない。

 しかし、哲学なら、それぞれの学問領域の成果に加え、「問題」そのものを疑い、再定義することで、さらに深く・広く考えることができる。「〇〇とは何か」をその学問領域に囚われずに追求し、「〇〇からもたらされるものは、結局なんなのか」を新しい目で評価することができる。

 そこで他領域を必要とするならば取り込めばいいし、ひょっとすると、新たな「やり方」―――すなわち、新しい学問領域を生み出すかもしれぬ。どんどん専門化・先鋭化する領域に比べ、哲学は自由で面白い。取り組むにあたり、関係が複雑すぎたり、領域が大きすぎて、既存の学問では手に負えなかったり、そもそも問題と捉えられなかった「新しい」問題が並んでいる。

 ・格差は本当に悪なのか
 ・脳科学で道徳を説明する
 ・人類は人工知能によって導かれるか
 ・ヒトゲノムの編集はなにを意味するか
 ・性犯罪者を化学的に去勢する是非
 ・地球温暖化対策の優先順位は?

 こうした問題について、いま世界最高の知の巨人たちが、何を考えているかが一望できる、エキサイティングな一冊なり。ただ、一冊で俯瞰しようとしているため、どうしても浅瀬の紹介になってしまい、読み手の得意・好きな分野だと物足りなさを感じるかもしれぬ。私の場合、人工知能や脳科学、経済と環境、生命倫理あたりはおさらいだった。

 たとえば、「格差は悪か?」の議論は、ハリー・フランクファート『不平等論』の山形浩生の訳者解説が分かりやすいし、人工知能は三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』が広範だ。ちょっと笑ったのが、『不平等論』のamazonレビューにおける2人の評者。どちらも★を一つしかつけていないのだが、自分の見えている領域でしか問題を認識できていない。自分が依って立つ前提を疑えていない好例となっている(もしくは、間違った読者に届いてしまったんだね)。

 実入りが大きかったのは、マルクス・ガブリエルの「新実在論」に触れたこと。物理的な対象だけでなく、「思想」「心」「感情」「信念」さらには一角獣のような「空想」さえも、存在すると考える。精神を脳に還元してしまうような自然主義的傾向を批判し、実在とは物理的なモノやその過程だけではないとして、原理的な次元からの再考を試みるという。科学的実在論の不確実性に揺らいでいるところだったので、いい刺激をもらえた。

 いっぽう、さらに考える余白に気付いた分野もある。「バイオテクノロジーは優生学を復活させるのか」という章で、ナチス型の優生学と現代の優生学の違いについて述べている箇所である。ナチス型の優生学は、国家が主体となって、個人の意志に反し、隔離・断種・殺害した。一方で、現代のバイオテクノロジーは国家の強制がないため、ナチス型の優生学ではないという。あくまでも自由に選び取ることができるデザイナーズベイビーであり、子どもの遺伝子工学的教育に過ぎないという。

 しかし、『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』を読む限り、ナチスが行ったのは「役に立たない人を安楽死させよう」というプロセスを明るみにしただけであり、強制的な介入に仕立て上げたのは、当時のドイツの医療社会であり、ひいては健康を強いるモラル的な風潮である。ナチスと結び付け、葬ることで違いを強調されても、生命の合理化という抽象度では残り続ける。もちろん程度問題なのだが、どの程度を是とするかは、これからも議論する余地がある。

 いま、何が問題となっていて、どこまで議論が進んでいるかを概観できる一冊。

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最も信頼できるのはブッカー賞『世界の8大文学賞』

 ノーベル文学賞や芥川賞、ブッカー賞などの受賞作品から「これは!」というものを選び、作家や翻訳家、書評家が全部読んだ上で実現した鼎談。おかげで積読山がさらに高くなる一方、わたしの偏見が解消された。

 というのも、常々思っていた「芥川賞って新人賞なのに勘違いしている人いる?」が喝破されてたから。日本最高の文学賞みたいに考えてる粗忽者は少なからずいる(ただし、これ読んでる人は該当しないはず)。だが、芸術性の高い作品に与えられる賞だと考えていると、本書で足元をすくわれる。最近の傾向は変わってきているようだ。

 普通なら、芥川賞は芸術性、直木賞はエンタメだと考えがちだが、東山彰良『流』をぶつけてくる。これは日本語で書かれてはいるけれど、日本になじみのない世界が描かれている。中国語を使ってポリフォニックな雰囲気を演出しつつ、言語的越境のような冒険が試みられているらしい。そういうものが平気な顔をして受賞して、なおかつ日本で沢山売れている。直木賞のほうがより芸術性の高い、激しいものを生み出しているというのだ。

 「フランス文学やイギリス文学みたいなものを日本語で書こうとしている人を誉めてあげる」芥川賞と、「日本から見た日本だけではなくて、アジアから見た日本というアジア的な感覚がある」直木賞は、面白い視点なり。純文とエンタメという硬直的な分けしかしてこなかったので、いい刺激になった(さり気なく芥川賞をdisっているのが笑えた)。

 そして、ノーベル文学賞。これも世界最高の文学に与えられると勘違いしてる人いるんじゃ……と思っていたら、見事にツッコミが入ってた。世界の文学賞っぽい雰囲気を出してはいるものの、ヨーロッパの主要言語しか読めない人が選考委員で、北欧の作家だとさらに有利。これに該当しない作家なら、翻訳に恵まれているのが必須となる。本書では、「ノーベル文学賞を獲ったにもかかわらず、別の理由でいい作家」としてマンローやパムクを紹介している(さり気なくノーベル文学賞をdisっているのが笑えた)。

 真打はブッカー賞だ。バラエティに富み、統一感がないのに「当たり」率が極めて高く、どれ読んでも満足したという記憶しかない。選考委員は大学教授から文芸評論家、引退した政治家、文学好きな芸能人と種々雑多で、毎年委員が変わるそうな。タコツボ的な癒着や、いかにも選考委員の好みに合わせた作品を書く……なんてことに無縁らしい。メッセージ性が強く出るノーベル文学賞とは対照的に、「実力で勝負」しているのがブッカー賞だろう。

 本書の収穫は、「ブッカー国際賞」を知ったこと。英語圏で書かれたブッカー賞を補完するために2005年につくられた賞だという。基準は、世界文学に大きな功績のある作家で、なおかつ作品が英語で読めること(翻訳も含まれる)。これ、ノーベル文学賞に真っ向勝負を挑んでいるが、受賞作家を見る限り、要チェックなり。翻訳の場合、原著者と翻訳者の共同受賞(賞金山分け)というシステムもいい。翻訳の業績はもっと評価されるべきだから。

 イスマイル・カダレ(アルバニア)
 チヌア・アチェベ(ナイジェリア)
 アリス・マンロー(カナダ)
 フィリップ・ロス(アメリカ合衆国)
 リディア・デイヴィス(アメリカ合衆国)
 クラスナホルカイ・ラースロー(ハンガリー)
 韓江(韓国)

 本書がいいのは、鼎談形式だから、発言者の「名前」が見えるところ。気になる本を推している人、気になるコメントをしている人をチェックして、その人の書いたもの―――書籍だけでなくtweetやブログなど―――を追いかける。わたしが知らないスゴ本をきっと読んでる面々ばかりだが、主催者の都甲幸治をはじめ、宮下遼、江南亜美子あたりが、特にツボだった。

 それぞれの賞ごと(章ごと)に、今後受賞してほしい人を挙げているのがまたいい。ノーベル文学賞の候補に多和田葉子を推しているのを見て激しくニンマリしたし、ボブ・ディランを挙げたのは大正解だった(9/23発行だから、鼎談はそのずいぶん前)。その次はグギ・ワ・ジオンゴ(ケニア)か……

 基本は、自分が気になる作家・作品を読んでる人を探し、その人が推してる(かつ自分の知らない)作家・作品を読む。これこそが、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」極意なり。その「あなた」を探すガイドブックとして。

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生きるのが痛い人に『拳闘士の休息』

 暗闇の中で手渡されるように巡ってくる本がある。

 作家も書名も覚えてて、大事なものになる確信めいた予感を孕みつつ、積読山に埋もれている。それが、何かのはずみで、ふと、浮上する。人に倦んだり、生きるのに疲れたり、仕事がしんどいとき(ネガティブばっかりw)、救いのように目に留まる。

 それが、トム・ジョーンズ『拳闘士の休息』だ。O.ヘンリー賞を受賞しているが、名作というよりも、むしろ生きるのに必要な糧のような一冊。畳み掛けるように饒舌で、叩きつけるような一人称の文体は、舞城王太郎やジム・トンプスンを思い出す(舞城氏は次作『コールド・スナップ』を翻訳している)。主役は露悪的に振舞っているだけで、語られているのはいつも「痛み」だ。生きるのが辛いとき、生きるのに必要な痛みが伝わってくる。

 ただし、摂取タイミングによる。この短編集、登場人物がことごとく、イカれてたり壊れたりしている。うつ病、末期がん、脳障害、ぐずぐずになった骨など、自分ではどうしようもない病苦に悩まされ、回復する術などなく、痛みと向き合うしかない人生を見せつけられる。読み手の内に痛みがあればあるほど、呼応するように読める。

 どの短編、どの作品を読んでも、きっと、引っかかってくる一文がある。表題でもある「拳闘士の休息」では、作者自身が傾倒したショーペンハウエルの、"人生とは何と虚しく不実なものであることか。その与える喜びの、何と欺瞞に満ちていることか" を引いてくる。その視線でもって、自身の暗い内側にある、敵意や憎悪を貯水池のように喩える件があって、まんま『ファイト・クラブ』を思い出す。さもなくば、『冷たい熱帯魚』のラストの叫び「生きるってのはな! "痛い"んだよ!」がこだまする。

 いちばんぐっときた「蚊」では、ここだけ引いたら陳腐に見えるが、読んでる途中は、分かる、分かるよと呟きたくなる。ここに出てくる「俺」は救急外科医であり、人体の壊れやすさを嫌というほど知っているから、太く短く刹那の喜びに賭ける。そんなことをおくびにも出さずに、ただ行動に移す。生きるのは"痛い"ってことを、知っているのだ。

たとえ俺がろくでなしだとしても、これだけは言える―――この人生、欲しいものは自分から行って手に入れたほうがいい、今のこれこそが唯一の旅、たった一度の旅なのだから。

 むろん感覚なんて主観的なものだから、彼・彼女の痛苦は想像するほかない。わたしの痛みはわたしのものでしかないことと一緒。それでも、逃げまわり、タフに立ち向かい、打ち倒され、のたうちまわっている姿から分かる。人生は痛みでできており、そうでないわずかな、ごくわずかな時間だけを大切に抱えることで生きていけるのだと。

 わたし自身、楽に死ねると思っていない。統計的にがんで死ぬんじゃないかな、と感じている。死ぬときではなく、死にいたる過程で痛みを感じるとき、この短編を、ふっと思い出すような気がしている。

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