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本好きあるある『吉野朔実は本が大好き』

 もちろん、好きな本を読むことは楽しい。だが、好きな本について語り合うことは、もっと楽しい。

 読書は孤独な行為かもしれないが、書を語るのはもっとオープンになると嬉しい。オフ会を開くのはそのため。好きな本を持ちよって、ああだこうだと語り合うのは至福のひととき。11月26日に「失恋」をテーマにオフ会をやるので、ご興味のある方は[スゴ本オフ]をどうぞ。

 本を読んでいるときも、「これ、あの人に薦めたらこう読むだろうな」とか、「これとあの本を合わせたら、面白い化学反応になるだろうな」などと妄想をたくましくする。書を措いて友に会おう。面白い本が、もっと面白くなる。

 これは、リアルで知り合ってなくてもいい。作品について楽しく語るエッセイやブログ主と、一方的に友達になればいい。吉野朔実はそんな読み友達の一人で、『少年は荒野をめざす』『ECCENTRICS(エキセントリクス)』を通じ、少女の不完全性について学ばせてもらった。そんな彼女が「本の雑誌」に連載していた読書エッセイコミックが、一冊になった。今までの以下の「吉野朔美劇場」シリーズの単行本にプラスアルファして、オールインワンになった。読み応えあるデ。

  1. お父さんは時代小説が大好き
  2. お母さんは「赤毛のアン」が大好き
  3. 弟の家には本棚がない
  4. 犬は本よりも電信柱が好き
  5. 本を読む兄、読まぬ兄
  6. 神様は本を読まない
  7. 悪魔が本とやってくる
  8. 天使は本棚に住んでいる

 まさに、本好きの、本好きによる、本好きのための一冊で、どこから読んでも楽しい。「出先で読む本が尽きたとき」「上・下巻はまとめて買う派」「誰にとっても面白い本はあるか?」「いちばん人に贈った本」など、あるあると頷きながら読むことになる。

 いちばん頷いたのは、「星の王子さまに関する二、三の秘密」のくだり。読んだ本を手元に置いておこうという執着心は薄いというが、私もそう(物理的な制約もある)。その奇妙な例外が、『星の王子さま』になる。あちこちに分散して3、4冊はあるはず。というのも、人にあげまくるからだ。年齢立場に関係なく、無条件に「読んで」と渡せるもの。

 面白いことに、「読んだことある」という人のたいていは「あんまり…」「イマイチ」という感想だ。わかる。名作だということで押し付けられて(義務的に)読んでも、初読ではピンとこない(はず)。しかし、時を経て再読すると、化けるんだ。自分が変化していることが、確実にわかる。

漫画家になって、実家を出て、ひとりで暮らすようになった20代にも読んでみました。この時初めて凄いと思い、いろんな人が、人にあげたくなったり、大事にしたいと思うのがよく解りました。

私が感動したのはたぶん表現力です。形の無いものや、目には見えないものを説明する能力。毎日毎日漫画を描いていた私が、一番欲しいものでした。

 『星の王子さま』は、読んだその時に「いい本」に思えなくても、再読のときに「いい本」になる稀有な本。それを知っている人が、一人で何冊も買っては贈り、買っては配りしているので、いつまでたってもベストセラーなんだろうね。

 客の趣味や傾向とかのリストつくって、本を紹介する商売のネタが出てくる。「けして私が読みそうにないけれど私が好きそうな本」ありませんか?と問いかけるところがあるが、まさに「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」まんま。

 読書友達には恵まれていたみたいで、互いにお薦めしあったり「これ読め」と送りつけあったりするやりとりが楽しい。そのとき、「いかに相手に興味を持ってもらうか」を工夫する様が、そのままレビューになり、紹介になる。漱石の『こころ』のクライマックスで、ちょっとだけ開いた襖を示し、「サイコミステリー」だと評したり、『その女アレックス』を「証人が出てくるたびに善玉悪玉が入れ替わる裁判モノみたい」と紹介する手腕はさすが。既読作品はもう一度読みたくなるし、未読はやっぱり読みたくなる。これ一冊で積読山がさらに高くなるデ。

 本好きあるある、頷きながら、耽読すべし。

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水樹奈々に寝かしつけてもらう『おやすみ、ロジャー』

 ここ数年、なかなか寝付けなかったのが、一瞬で眠れた。

 もちろん、あれこれ試してきた。昼間は日光を浴びるとか、寝る前はブルーライト避けるとか。しかし、横になって目を閉じても、雑事や悩みが頭をめぐり、なかなか眠りに入れない。体が眠りたいのに、頭がそうさせてくれぬ。悶々してるうちに朝が来たことも幾度かある。

 それが、一発で眠れた。

 だがこの眠り、まったく理解を超えてた……ありのまま、起こったことを話そう。「私は、水樹奈々の朗読を聞き始めたと思ったら、いつのまにか朝になってた」。何を言っているのか、分からないと思うが、自分も、何されたのか分からない。快眠CDだとかチャチなものじゃなく、もっと恐ろしいものの片鱗を味わった。

 それが『おやすみ、ロジャー 朗読CD』である。もとは「魔法のぐっすり絵本」と呼ばれており、小さな子どもの寝かしつけのために研究された絵本だ。喚起されるイメージや、音節のリズムを考慮した言葉で構成されており、リラックスさせる工夫が随所にある。それを、声優が朗読してくれるのだ。

 その危険性は、説明書きにある。「車、バイク、自転車など、あらゆる乗り物を運転中に聞いたり、運転している人に聞こえる大きさでCDを流すことは、絶対におやめください」と警告している。

 これは、一種の催眠術のようなもの。兎の子どものが、寝かしつけてもらうというだけの単純なお話に、「だんだん体が重くなる…」「気持ちが楽になってゆく」といった語りかけを混ぜ、足先→脚→胴→腕→頭の順番に力を抜いてゆき、イメージにより身体を温かくしてくれる。

 水樹奈々の朗読が素晴らしい。耳元に、ささやきかけるように話してくれる。プリキュアやシンフォギア、最近だったら『この美術部には問題がある!』のOPテーマにある「強くて可愛い」イメージが、完全に覆される。ゆったりとした、柔らかくて温かい語り口が快く、イヤホンで聞くと吐息すら伝わってくる。

 ただ、彼女の言うとおりに、楽にしていくだけでいい。「ゆっくり、ゆーっくり」「くたくたになってくる」と文字列だけだと表現しづらいが、実際に聞くと、こっちの思考のペースが緩慢になり、重くなる。話の継ぎ目に入れてくる、彼女の「あくび」が猛烈に可愛い。普通なら覚醒するはずなのだが、その「声」に抗えぬ。ファンタジーや伝奇モノで「声で支配する」能力があるが、まさにそれ。

 結局、その兎の子がどうなったのかは知らないまま、落ちる。そう、墜落するように眠れる。普段なら、のどが渇いたり、ちょっとした物音で何度も目が覚めてしまうのだが、それもなかった。まるで、スイッチを切るように眠れる。

 目覚めると、拭ったように明晰だ。こんなクリアな感覚は久しぶりだ。いつもは、どんよりとした意識で一日が始まるのに、まるでない。最初に考えたこと「腹へった」←これも数年ぶり。

 そして今、完全に覚醒しているのだが、彼女の朗読を思い浮かべるだけでリラックスしてくる(「あくび」なんて脳汁が出るくらい)。おっと忘れるところだった、中村悠一ver.もある。魔法科高校の司波達也や、痛いナルシス・カラ松のイメージは完全にない。声はソレなのに、まるで違うのだ! 声優すごい。声に眠りを支配される喜び(?)を知るべし。

 眠るのが下手な人にお勧め。スゴ本オフにも持っていくので、お試ししたい人は教えてね。

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『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』はスゴ本

 「役に立たない人を安楽死させよう」という世の中になるなら、それはどんなプロセスを経るか?

 これが、嫌と言うほど書いてある。ヒトラーの秘密命令書から始まったT4作戦[Wikipedia]を中心に、医師が「生きるに値しない」と選別・抹殺していった歴史が緻密に書かれている。

 対象となった人は多岐に渡る。うつ病、知的障害、小人症、てんかんに始まり、性的錯誤、アル中、反社会的行動も含まれていた。こうした人びとが何万人も、ガス室に送られ、効率的に殺されていった。ユダヤ人の迫害にばかり目が行っていて、本書を読むまで、ほとんど知らなかった自分を恥じる。本書は、不治の精神病者はガス室へ『夜と霧の隅で』で教えていただいた(hachiro86さん、ありがとうございます)。

 問題は、ナチスに限らないところ。優生学をナチスに押し付け断罪することで、「消滅した」という図式にならない。社会システム化された「安楽死」(というより集団殺人)は、びっくりするほどありふれて見えて、そこだけ切って読むならば、ディストピア小説の一編のようだ。ハンナ・アレントが観察した、「悪の陳腐さ」そのもの。

 著者は主張する。欧米社会では伝統的に障害者を医療の枠でとらえ、「決して回復しない病人」とみなしてきた。異なるものへの恐れ、病人や障害者の持つ弱さへの憎しみ、完璧な健康、完璧な肉体への異常な衝動は、もともとそこにあり、ナチスドイツはこの闇を白日のもとにさらしたにすぎないというのだ。

 確かにこの計画は、ヒトラーが承認し、第三帝国の下で実行されたのは事実だ。だが、計画を生みだしたのは医者であり、遺伝学や生理学の権威が、科学的正当性のもとで推進したものだ。そこには、「善意」すらあったという。リハビリ可能なものはリハビリで「治癒」し、「治癒不能」なものを抹殺することで、民族の浄化に貢献すると信じていた。

 ヒトラーが署名したのは、治癒不能の重い病気を抱える患者に対し、十分慎重な診察のもと、安楽死がもたらされるよう、特定の医師の権限を拡大する命令書だ。当初は、苦しみから解放するという建前だった。社会の幸福のため、科学的正当性のもと、社会を合理化しようとしたというのだ。結果として狂気の沙汰が生まれたからといって、始めた人は狂人とは限らぬ。その見極めはどうすればできるのか?

 ひとつの斬り口として、「健康」というマジックワードが挙げられる。

 戦力増強という目的があったものの、ナチスほど国民の「健康」に執着した組織はなかったという。タバコとアルコールの追放運動を大々的に行い、飲酒運転には高額な罰金を課した。結核の早期発見のためのX線検査、学校での歯科検診、身体検査を制度化したという。全国的なキャンペーンが行われ、栄養のある食事、運動、新鮮な空気、適切な休養が啓発された。決められた「健康」を満たせない者は「役に立たない」とみなされる。つまり国民は、「健康」を強要されたのだ。

 もちろん「健康」であることは望ましい。だが、「健康」を決めるのは医者だというのは少し変だ。そして、「健康」でない人は排除すべしという考えは全くおかしい。健康ジャンキーを揶揄する「健康のためなら死んでもいい」言葉があるが、ブーヘンヴァルト収容所の所長のこの言葉も負けず劣らず強烈だ「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」。そして、「健康か否か」の線引きが医者にのみ委ねられ、「健康か死か」という二択しかないのであれば、それは狂気の沙汰にしか見えない。

 「健康」は、一見、中立的な善に見える。誰だって病や苦痛を避けたいから、健康に異を唱える人などいない。だが、誰も反対しないからこそ、「健康」をレトリックとして、先入観を押し付けることができる(この場合は第三帝国のイデオロギーだ)。

 このレトリックは、第三帝国が無くなっても感じることができる。若々しい男女や、はつらつとしたお年寄りが宣伝する、「健康食品」や「健康的な体」というメッセージの背後にある、「健康への強迫観念」を、確かに感じることができる。

 「健康」の背後にあるモラル的な風潮をあぶりだしたレポートとして、『不健康は悪なのか』がある。ヘルスケア用語に隠された肥満嫌悪や、「ポジティブであり続けること」を強要される癌患者、新薬を売るために創出される精神疾患など、「健康」という言葉に隠されたイデオロギーが、グロテスクなまでに暴かれる。「不健康な人は排除される」世の中が来るのなら、その途中経過はここにある。

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人工知能=科学∩技術∩哲学『人工知能のための哲学塾』

 人工知能を実現するための、哲学的な手がかりとなる一冊。

 人工知能は、科学、技術、哲学が交錯するところにある。「知能とは何か?」を問うのが哲学であり、この問いを探索するのが科学であり、実現するのが技術になる。最近の人工知能ブームでは、科学と技術に目が行きがちだが、本書は根本のところから応えようとしている。新しく見えるだけの場所から離れ、現象学や認識論を俯瞰することで、現在の人工知能の限界が逆説的に見えてくる。

 ブームに乗っかって、たくさん本が出ているが、わたしが求める「本質」は無い。たいていの人工知能本は、「考える」が本質であるといい、意思決定用のモジュールを積めばよしとする。「考える」とは何かという問いは保留され、おなじみの「入力→処理→出力」ルーチンに落とし込まれる。

 そして、意思決定のためのデータを機械学習で増やしたり、アルゴリズムに動的にフィードバックさせる話になる。プロ棋士に勝つソフトウェアや、自動運転、人間そっくりの受け答えをするAIは、たしかに凄いのだが、なにか違う。

 わたしが求める本質とは、「考える」とは何かという問いかけに向かうもの。認知科学を齧ると、ヒトは脳以前に「考える」に近似した処理をしていることが分かるし([野性の知能])、分析哲学を読むと、「考える」基となる言語には身体的なメタファーが付いて回っていることに気づかされる[レトリックと人生]

 コンピュータに喩えるなら、データは環境に埋め込まれており、それを取得する方法に既に一定の意味が付いてくる。その「意味」は、いま解決したい問題によって解釈が変わってくる。同じクラスでも、状況によって異なるインスタンスが生成される(鉛筆がマドラーになったり武器になったり)。さらにいうなら、問題によって何をデータとみなすのか? という問いすら変わってくる。

 こうした問題意識に対して、以下の演目で応えてくれる。次に進むべき領域が見える議論もあれば、わたしが見落としていた観点もあり、積読山がさらに高くなる。

 第一夜 フッサールの現象学  現象学と人工知能の関係性
 第二夜 ユクスキュルと環世界 キャラクターの主観世界
 第三夜 デカルトと機械論   デカルト的な世界観
 第四夜 デリダ・差延・感覚  予測と感覚
 第五夜 メルロ=ポンティと知覚論 知性と身体性の関係

 実は、第零夜にあたるオーバービューは無料で公開されている([改めて知りたい、人工知能とは何か?:「人工知能のための哲学塾」第零夜])。ほとんど本書のまとめみたいになっており、10分で概観を知ることができる。なお、資料一式も無料で公開されており、[人工知能は、いつ主観的世界を持ち始めるのか?]から参照できる。

 ありがたいのは、単純に知性に関する哲学の議論を並べているだけでなく、それがAIの議論にどのように関わるかを深めているところ。

 たとえば、ギブソンのオプティカルフローの概念。「眼」はカメラに喩えられるが、生物の眼はそれほど精緻にはできていないという。ぼんやり明るい/暗いが分かる程度で、生物が移動することで明暗が変化し、周囲の光の配列が変わっていく(オプティカルフロー)。近くのものは速く動き、遠くのものは変わらない。それによって自分の位置や姿勢、周囲の情報を得ている。つまり、生物の「眼」は漠然と見るのではなく、自分の身体がどうなっているかを確認する機能として働いているというのだ。この概念から、ロボットや人工知能の「眼」は細かく世界を見すぎているのではないかという疑問が示されている。

 あるいは、現在のゲームキャラクターのAIに欠けているものとして、「身体感覚」を挙げる。ある程度までは自律的となっているものの、キャラクター自身が内部の身体感覚(自己感)を持っておらず、リアリティを感じにくくさせている。人の身体保持感覚は、所与のものではなく、身体を動かすたびにフィードバックされ(遠心性コピー)、それ故、「この身体は自分自身のものだ」と思い込ませているというのだ。著者は、メルロ=ポンティを引きながら、能動的主体としての行動の志向性を述べる。即ち、何ができるかということが意識の根本にあり、最初は「我思う」ではなく、「我能う(あたう)」というのだ。

 「人のような」は、人マネでもなく、人のふりをするという意味でもない。それは、「主観的な世界」を持つということであり、身体性と共にあることが分かる。「主観的な世界を考える」を意思決定モジュールに任せるのではなく、絶えずフィードバックを受けながら自身を確認する身体感覚と共に実装されなければならないことも見えてくる(たとえポリゴンの中の世界であろうとも)。

 哲学から人工知能に迫りながら、「知能とは何か」の本質へ掘り下げてゆく一冊。

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いい音楽・映画・文学は、私の経験になり、あなたの記憶となる(スゴ本オフ「音楽」まとめ)

 こんなつぶやきを目にしたことがある。

「いい映画は、家じゃなくて映画館で観たほうがいい。行き帰りの景色や、(一人じゃなかったら)一緒に観た人もひっくるめて、映画の思い出になるから」

 作品は単独で世に送り出されるが、受け止める人は、それに触れたときの感動を、そのときの空気や感覚も一緒になって、記憶する。作品を「とくべつなもの」にしている秘密は、ここにある。

 これ、映画に限らず、音楽も文学も一緒やね。いいものに会うと、作品と体感が一体になって経験になる。誰かに推されて触れた作品は、そのときの熱っぽいお薦めセリフとペアで覚えている。

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 好きな作品を持ち寄って、まったりアツく語り合うスゴ本オフ。そこで出会った「これは!」も凄いが、それをお薦めされたときの語りとか背景で流れてた映像もひっくるめて「わたしの経験」になっている。今回のテーマは「音楽」、皆さんが持ちよった作品を「とくべつなもの」にしている理由が語られる。

 詳細は、実況tweetまとめ「小澤征爾、村上春樹とボブ・ディラン、Jポップ歌詞論、電子音楽の歴史、吹奏楽課題曲…濃くて混沌の『音楽と本のスゴ本』実況まとめ」をご覧になっていただくとして、ここでは「作品+経験=とくべつなもの」でまとめてみよう。

 予言的で驚いたのが、すぎうらさんのボブ・ディラン『追憶のハイウェイ61』ご紹介(スゴ本オフが10/8、ノーベル文学賞発表が10/13)。村上春樹を通じて知ったボブ・ディラン、当時は女の子に振られて1日聴いていたという。熱心にハルキを読んでたハタチの記憶と強く結びついており、特に、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が決定打になった。生まれる前の音楽なのに、自分の青春の音楽として決定的にしたのは、この本のなせるワザだという。

 懐かしさと新しさで胸いっぱいになったのが、高橋さんが持ってきた『電子音楽 in Japan』。日本における電子音楽の変遷をたどったノンフィクションなのだが、付属のCDを再生すると、あちこちから驚きの声が! 鉄腕アトムの足音や、東大寺の鐘の音から作った東京オリンピックの電子音楽など、「リアルを加工した電子音」が、なぜか新しく聴こえる。次に流してもらったYMOの1stアルバムはゲームそのものやね。namcoからYMOに入った私の胸が熱くなる。電子音楽の歴史が音楽の歴史と重なっているおっさんホイホイ状態になる。

誤「歳をとったら我々も演歌を聴くようになる」
正「我々が聴いている音楽が『演歌』と同じ扱いになる」

 というつぶやきを聞いたことがあるが、本当やね。

 それを逆回しにしてて面白かったのが、やすゆきさんの話。もともと音楽大好きなのに、レッチリとメタリカをあらためて聴くようになったらしい(理由:BABYMETALが好きすぎて)。で、昔のアルバムを出汁にして、キレッキレのダンスをyoutubeで観ながらBABYMETALを熱く語る。彼女らが生まれる前のロックが、彼女らが踊ることで、新しく聴こえるのが面白い。この「若いのに懐かしい」ところに、おっさんホイホイの秘密があるのかも。

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 で、わたし。最初に聴いたときが強烈すぎて、以後、同じ感覚になったとき脳内で流れる曲を紹介した。それは、「マルサの女」のテーマ。キレ味鋭い犯罪小説を読むとき、(特に準備の段階で)この音楽が流れ出す。「犯罪音楽(crime music)」として、刷り込みレベルにまで浸透している。そして、映画よりずっと泥臭く生々しい、「マルサの男」を描いたノンフィクション『徴税権力』をお薦めする。金丸信5億円ヤミ献金事件の舞台裏から始まり、国税庁vs大企業、マスコミ、創価学会など、エグい話のオンパレード。事実は映画よりもエグいことがよく分かる。

 最後に。これはオフ会の最初にも語ったけれど、そしてこのエントリの冒頭でも触れたんだけれど、繰り返す。いい映画は、映画館で。『君の名は。』は映画館で観るべし。Radwimps「前前前世」は映画と強く結びつき、音楽を聴くと映画を思い出し、それを観たときの記憶を思い出すだろう。わたしは娘と一緒に観た。その思い出は一生モノだろう。

 次回は「失恋」がテーマ。失恋で終わってもいいし、失恋から始まる物語でもいい。「恋とは何か?」から語ってもいいし、失恋したときに読んだ本もあり。もちろん、本に限らず、音楽も映像もゲームも演劇も博物展もありあり。詳細はfacebook[スゴ本オフ]で。facebookアカウント持ってないな方は、やすゆきさん(@yasuyukima)わたし(@Dain_sugohon)へどうぞ。

 ご紹介いただいた作品は次の通り、次の一冊・一曲にどうぞ。

  • 「Adam Ballet(アダンバレエ)」から「有終の美」Cocco
  • 「CLAIR DE LUNE」
  • 「Melodic Solfege 」さくら学院
  • 「METAL RESISTANCE」BABYMETAL
  • 「Monsters」BiSH
  • 「Perfect days for jungle cruise」
  • 「Premitive」BiSH
  • 「ST. ANGER」METALLICA
  • 「STADIUM ARCADIUM」Red Hot Chili Peppers
  • 「We didn’t start the fire」Billy Joel[youtube]
  • 「ガンダーラ」ゴダイゴ[youtube]
  • 「キラメキの雫」さくら学院
  • サッチャル・ジャズ・アンサンブル
  • 全日本吹奏楽コンクールの課題曲C「ディスコキット」の楽譜
  • 『アイアンマウンテン報告―――平和の可能性と望ましさに関する調査』[pdf]
  • 『Jポップで考える哲学』戸谷洋志(講談社文庫)
  • 『アフガニスタン敗れざる魂―マスードが命を賭けた国』長倉洋海(新潮社)
  • 『おやすみロジャー』カール=ヨハン・エリーン(飛鳥新社)
  • 『コレラの時代の愛』ガルシア・マルケス
  • 『さらばモスクワ愚連隊』五木寛之(新潮社)
  • 『ソウルサーチン R&Bの心を求めて』吉岡正晴(音楽之友社)
  • 『なぜアーティストは生きづらいのか?』手島将彦、本田秀夫(リットーミュージック)
  • 『ハリウッド・バビロン』ケネス・アンガー(パルコ)
  • 『ピアノ』芥川龍之介
  • 『ビジュアル・コンプレキシティ』マニュエル・リマ(ビー・エヌ・エヌ新社)
  • 『ぼくが消えないうちに』A.F.ハロルド(ポプラ社 )
  • 『マイ・ラスト・ソング』久世光彦(文芸春秋)
  • 『みんな夢の中』久世光彦(文芸春秋)
  • 「みんな夢の中」高田恭子
  • 『ムジカ・マキーナ』高野史緒(早川書房)
  • 『音楽小説名作選』五木寛之・選(集英社文庫)
  • 『雅楽 『源氏物語』のうたまい』付録DVDより『青海波』[youtube]
  • 『楽譜の余白にちょっと (新潮文庫)』大町 陽一郎
  • 『完本 美空ひばり』竹中 労(ちくま文庫)
  • 『空海の風景』司馬遼太郎
  • 『空想紀行』芦田みゆき(講談社)
  • 『熊と踊れ』アンデシュ・ルースルンド(ハヤカワ・ミステリ)
  • 『熊の木本線』筒井康隆
  • 『君の知らない物語』アイドルルネッサンス
  • 『源氏物語』第一巻 谷崎潤一郎訳(中公文庫)
  • 「魂拳Soul Punch」THE CRRZY KEN BRND
  • 『左手のためのピアノの演奏曲』
  • 『三蔵法師』中野美奈子(中公文庫)
  • 『少女革命ウテナ』Blu-ray BOX
  • 『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』
  • 『赤の女王』マット・リドレー(早川書房)
  • 『絶対音感』最相葉月
  • 『徴税権力』落合博実(文芸春秋)
  • 『追憶のハイウェイ61』ボブ・ディラン
  • 『田宮模型の仕事』田宮俊作(文春文庫)
  • 『電子音楽 in Japan』田中雄二(アスペクト)
  • 『武満徹・音楽創造への旅』立花隆(文藝春秋)
  • 『風の馬』(写真集)
  • 『冒険歌手』峠恵子(山と溪谷社)
  • 『僕の音楽武者修行』小澤征爾
  • 「夜空を全部」sora tob sakana
  • 『夜想曲集Nocturnesー音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』カズオ・イシグロ(早川書房)
  • 「夜明けBrand New Days」ベイビーレイズJAPAN

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私の境界は外に開いている『具体の知能』

 プレステVRで「バイオハザード7」を初めてプレイしたとき、面白いことが起きた。「寒く」なったのだ。

 暑い盛りでクーラーきいてなくて汗かいているのに、「寒い」のだ。もちろん、めちゃくちゃ怖い思いをしたので寒く「感じた」のかもしれないが、違う。吐く息は白く、鏡は曇る。「私が」物理的に寒いのだ。ヘッドセット&ヘッドホンに包まれた頭を動かした分だけ、世界の「見え」と「聞こえ」が変わってくる。あの、空気の感じを、肌だけではなく眼でも知覚してたんやね。

 ラバーハンド実験もそう。自分の手を隠し、代わりに本物そっくりのゴム製の手を並べておく。ゴムの手に対し、ブラシで撫でたり、氷を近づけると、隠した自分の手が「触られている」「冷たい」と錯覚してしまう実験だ。あるいは、「停止したエスカレーター」を歩いたことはあるだろうか? あの黒い階段は動いているという思い込みのため、足の踏み出しが難しく感じたことはないだろうか。

 私はある。言葉では難しいが、視覚情報に身体が騙されているというよりも、「見え」の前に身体性が連動されている感覚がある。反射に近いが、生得的なものではなく、経験を裏切る錯覚のような反応だ。

 すなわち、知性を「入力→判断→出力」のプロセスに分けたとき、入力段階で成されているプレ判断のようなもので、入力される客体が持っている情報をトリガーとする。ドアノブ(握ることができる)とか、リンゴ(食べることができる)に代表される、アフォーダンスと呼ばれる概念をプレ判断するような「見え」だ。私の「見え」は、私の外側に既にあるという感覚だ。

 視覚ではなく、お玉やハンマーなどの道具を手にしたときにも、この経験をする。お味噌汁をお玉ですくうときや、ハンマーで釘を打つとき、私と道具の境界はグリップを握った手の部分なのだが、そこは感じて(意識して)いない。もちろんグリップの感覚から情報を受け取っていることは事実だが、「私」はお玉の先・ハンマーのヘッドにまで拡張されている。その道具に馴染めば馴染むほどこの感覚は強く、うっかりぶつけてしまうと「痛ッ」とつぶやいたりする(私の身体はどこにも当たっていないのに!)。

 この、私を拡張した感覚の研究成果をまとめているのが、本書になる。知覚という現象はアタマの内部で起きているのではなく、私と私を取り巻く環境との間で起きていることが分かる。「私の拡張」は、テンセグリティと触力覚やギブソンの媒質論によって解説されている。

 そこでは、「入力→判断→出力」や感覚器官と脳といった要素還元的なものではなく、「動く」器官と「感覚する」器官が同一だったり(即ち手)、環境を探りながら働きかける運動器官としての身体が現れてくる。何かを知ろうとするとき、私たちは身体を動かしたり、「なにか」を回したりして探索する。

 たとえば、新しいハンマーを持つとき、手首をぐるぐる回したり、ヘッドをゆらゆら動かして扱いやすさを測る。このとき、グリップから伝わる触覚へのばらばらな刺激を元に脳内でハンマーを再構成しているのではなく、手の先にあるハンマーという秩序(ヘッドとグリップで構成される経験的に獲得してあるハンマーらしさ)を検知・識別している。身体を動かすことで「ハンマーという不変のパターン」を浮かび上がらせているというのだ。

 「見る」についても、同じ考え方が適用される。何かを「見る」とき、私たちはどこかに固定されていて、無理やり網膜に光が投影されているわけではない。客体を眺め、見まわし、近寄って見ている。著者は警告する。

「見る」ことの議論を、光受容器への入力から始めてしまうと、それ「以前」に起こっている生きた活動は、すっぽりと抜け落ちてしまう。ニュートン以来、「見る」ことを、網膜像が入力された「以降」の内的なプロセスへと還元しようとする思考の習慣は根強い

 この還元主義的な思考から離れると、網膜像や光受容器の興奮は、入力ではなく、環境を視線につなぎとめ、見まわし、焦点を合わせるといった、身体全体の「見る」活動の結果として付随して起こっている現象だと考えることができる。この発想が凄い。そして、ギブソンの「包囲光配列」の考え方を用いて、「見る」とは観察点を包囲する光の配列を足場として、その変化や不変を検知し、識別する動物の活動がまるごとかかわるものとする。

 つまり、「見る」とは、感覚器へのばらばらな刺激を前提としているのではなく、観察点の移動がもたらす包囲光の構造の変化を通じて、「不変な」構造を洗い出す行為になる。観察者が眺め、見まわし、近づく動きによって、地面や物の肌理に依存する「不変量(invariants)」を抽出することの結果として「見る」ことになるのだ。

 ヒトの生理学的構造は変わっていないのに、「知覚」への生態学的アプローチによって「見る」「感じる」がこれだけ変わるのに驚く。このアプローチは、ものすごく面白い。『教養としての認知科学』『野性の知能』『「こつ」と「スランプ」の研究』など、最近の認知科学の読書がつながってゆく。世界は変わっていないのに、世界の捉え方が変わってゆくことを体感する一冊。

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