本を読まずに文学する『遠読』
司馬遼太郎の『峠』に、「彫るように読む」という表現が出てくる。越後長岡藩家老・河井継之助の読書スタイルだ。一画一字、目に刻みつけるように読むやりかたで、わたしの知る限り、本との距離が最も近い精読(close reading)である。原典とゼロ距離で向き合い、くりかえし味読・咀嚼し、心胆を練るような読書だ。
遠読(distant reading)は、その対立概念になる。著者の造語で、「野心的な読みはテクストからの距離に正比例する」と焚きつける。著者はフランコ・モレッティ、スタンフォード大学文学部教授でマルチリンガルで、ゴリゴリの文学読みで、膨大な文献を背景に煽ってくる。
つまりこうだ、いわゆるカノン(正典)を精読するだけで世界文学を語るには限界がある。コンピュータや統計手法を用いたデータ解析を行い、文学を自然科学や社会学のモデルでとらえ直すことができないか。そこでは、本との距離こそが知を得る条件であり、もっと大きい単位に焦点を合わせ、技巧やテーマ、ジャンルや文彩を「本」という単位から離れてみるのだ。これにより、テクスト自体が消えてしまうことだってありうる。それでいいんだと。「テクストをいかに読めばいいかは分かっている、さあ、いかにテクストを読まないか学ぼうではないか」。
読者や同業者を挑発してくる姿勢がたいへん面白い。だが、炎上上等の書きっぷりなので、こちらも便乗して批判的に読んでしまう。
たとえば、シャーロック・ホームズの研究。進化論の適者生存をなぞらえ、「ある作品が正典(カノン)として残るのはなぜか?」を分析する。生き残る作品・消える作品の違いを、ホームズと同時期に書かれた大量のミステリーを読むことで解き明かす試みだ。これ、試みとしてはすごく面白いが、発想が文学部から一歩も出てないため、アプローチが限定的となっている。
なぜなら、ホームズが始まってから最初の10年分の『ストランド・マガジン』にある他の短編ミステリー160作品を読み、「ホームズといかに形式的に異なっているか?」しか見てないから。具体的には以下の二分岐条件に落とし込み、最終的にホームズが生き残るツリーを描く。
条件1:手がかりの有無
条件2:手がかりの必要性
条件3:目に見える(予め読者に与えられている)
条件4:解読可能
ホームズの人気を決定的にしたものを、作品の内部にしか(それも形式主義的な観点からしか)求めていない。読者の嗜好、市場の動向、出版社や著者のマーケティング、人口動態といった外的・環境的要因がごっそり抜けている。「生き残ったテクストはライバルたちよりも形式的・象徴的に環境に適していたのである」結論にしたい気持ちは分かるが、ホームズの作品に適うような形式的分析しかできないなら、生存バイアスそのものやね。形式主義にこだわる様は、深夜に街灯の下で鍵を探す話を思い出す。
進化論を文学に適用したいのなら、形質(形式)だけに注目するのではなく、環境(市場)も併せて分析する必要があるかと。たとえば、同時期の大ベストセラーなのにカノンとして扱われなかったシュウエル『黒馬物語』やハガード『洞窟の女王』の理由を、形式的な視点から比較してみると面白いかも。
また、ウォーラーステインの世界システム理論をモデルに、中心から半周辺、周辺へと文学の形式が伝播していく様を論じている。それぞれの境界でプロットは中心(=西欧)、素材は周辺(=それ以外)の作品が生まれ、その構造的不和(生焼けの小説)が新しいダイナミズムをもたらすと主張する。西欧中心主義が鼻につくが、市場の圧力は消費だけでなく生産も形作り、小説の形式自体を変えてしまうという指摘は正しい。翻訳小説のプロットをモデリングして、形態学的視点から外国文学の影響を分析すると面白そうだ。
さらに、ネットワーク理論をシェイクスピアの作品に援用し、登場人物のネットワーク図から『ハムレット』をクラスター化する試みをする。キャラクター相関図は見慣れているが、「どこまで外したら"ハムレット"でなくなるか?」という仮説であれこれ人物を消していくのはスリリングだった。これは『ハムレット』を精読し、ハムレットの中にいると決して見えない「読書」だろう。
進化論や世界システム理論、パラダイムシフトといった「モデル」を文学に適用する試みは、とても刺激的だ。著者はテキストからの「距離」を強調するが、これは、『読んでいない本について堂々と語る方法』と同じだ。本を読むとは、そこに現れるテクストを理解/追体験するのみならず、その本について語れることも求められる。
普通の文学者なら、一定量のカノンをそれこそ彫るように読んだ上で、「その本」がカノンの配置図の中で相対的にどの位置づけになるかを語る。だが、一筋縄でいかない文学者なら、「その本」の配置図を、進化論や世界システム理論など、別のモデルに置き換えてしまう。置き換えたモデルの中で「その本」について語れるのなら、もはや「その本」を読んでいる必要などない。むしろ新たなモデルの位置づけを惑わせないために、テクストそのものは邪魔になってしまうかもしれぬ。もちろんこれは、極端な話だが、そいつを大真面目にやってしまったのが、『遠読』なのだ。
本を読まずに文学する遊び方が詰まった一冊。
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