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『数学の認知科学』はスゴ本

 人の思考のうち、最も抽象的で厳密なものは数学にある。だから、過去から現在に至るまでの人類の思考のマップがあるとするなら、その全体像の輪郭は、数学によって形作られている。つまり、数学を調べることで人の思考の構造と限界が分かる。

 一方、数学は具体的なところから始まる。「数を数える」なんてまさにそうで、10進数が一般的な理由は、10本の指で数えたから。xy座標でy軸が量、x軸が時空的な変化に結び付けられるのは、重力により増えるモノは積み上がり、移動するものは横方向だから。指は10進数の、デカルト座標は時空間のメタファーであり、数学を調べることで思考の身体的な拠り所が明らかになる。

 数学そのものは抽象的で厳密だが、これを理解する人は具体的で経験的な存在だ。『数学の認知科学』は、「人は数学をどのように理解しているか?」をテーマに掲げ、この具体と抽象のあいだを認知科学のアプローチで説明する。著者はジョージ・レイコフ、言語活動のみならず思考や行動にいたるまで、人の営みのあらゆるところにメタファーは浸透しているという名著『レトリックと人生』が有名だ。

 『数学の認知科学』を一言でいうなら、「人はメタファーを通じて数学を理解する」になる。人の抱く抽象概念は、感覚-運動経験から推論様式(すなわちメタファー)を用いて取り込んでおり、数学の厳密さの領域の外にある「人の抱く数学的概念」は、このメタファーを調べることで明らかになると仮説立てる。そして、数学自身では明確にできない「数学的概念の本質」に迫る。「数学の説明」ではなく、「数学の理解の説明」なのだ。具体と抽象、感覚と公理のあいだこそが本書のキモであり、ぞくぞくするほど面白い。

 なぜなら、いままで感じてきた、数学に騙されているような感覚が明らかになっているから。数学の「正しさ」について、ずっと抱いてきた疑問がどこにあるのか分かったから。例えば、無限の話に出てくるこれ。

 0.999…… = 1  ――― 式1

 左辺は小数点以下、ずっと9が並んでおり、尽きることはない。これと1が等しいことに、「正しさ」を感じられない。もちろん表面上は分かっているフリをすることはできる。

 0.333…… = 1/3  ――― 式2

 式2は「正しい」。そして式2の両辺に3を掛けると式1が成立するから「正しい」と自分を納得させることもできる。しかし、ずっと続く左辺と、値が確定した右辺を、等式で結ぶことそのものに違和感がある。0.999... が1に限りなく近づくことを示すなら「=」ではなく「→」じゃないのかと考えていた。

 あるいは、導関数にしても然り。xがaからbまで変化するときの関数y=f(x)の平均変化率を求め、この平均変化率においてbを限りなくaに近づけた値が式3になる。

 f′(a)=lim(b→a) f(b)-f(a)/b-a ――― 式3

 図形的には点A(a,f(a))と点B(b,f(b))があり、点Bが点Aに限りなく近づくとき、点Aにおける接線に近づき、最終的に関数y=f(x)の点Aにおける接線の傾きになるという説明だ。

 しかし、点Aにおける接線の傾きということは、点Bは点Aと一致しており、すなわち「b=a」のため、式3はゼロで割っていることになる。ゼロ除算を回避するため「b=a」ではなく、(限りなく近づくという意味で)「b→a」と表現する一方で「0.999…=1」と記述する。どちらかを「正しい」とするならば、もう一方は「正しくない」ことになる。

 「それ定義の話だから」←知ってる。正しさを完結させる一連のロジックにおいて、その前提のところで頭を抱えても仕方がない。中学高校は「数学は暗記科目」と割り切って駆け抜けたけれど、やり直してみればみるほど、わたしの頭の悪さ加減に慄然とする。大きさを持たない「点」が数直線を「埋め尽くす」ことなんて可能なのかとか、数の本質は countable なものか、それとも measurable なのかなど、知れば知るほど定義以前のところで分からなくなっていた。

 もちろんこの悩み、わたしが人類初ではない。本書では、デデキントの切断を介した実数の概念や、ニュートンやライプニッツの流率(導関数)の計算法を紹介しながら、ここに無限のメタファーが用いられていると指摘する。すなわち、際限なく進行し続けるプロセスが、終わりと究極的な結果を持つプロセスとして概念化されたメタファーだとする。

 人は未知のものを既知のもので理解する。「同じもの」を見わけて、集まりをいくつか「数え」、集まりの大小を見わけたり、その最小単位(1)を判別する概念は、人は生まれながらにして持っている。味覚や視覚のような数学的感覚「数覚」についてはスタニスラス・ドゥアンヌ『数覚とは何か』が詳しい。「1」の1らしさ、「2」の2らしさ、そして「3」の3らしさは、実際に数えることなく計算できる認知的量だという。そして生得的な感覚として、数字や文字の視覚的認知が頭頂・側頭領域に特殊化されているという。数覚はかなり生臭い、アナログ的なものであることが解説されている。

 この、数学以前の身体的で直観的なメタファーをブレンドしながら、数論、集合論、代数学、幾何学、微積分など、数理哲学の奥深いところまで潜る。そこで説明されるのは、それぞれの分野の数学的な解説ではなく、たとえば集合論なら「集合論をどうやって理解されるのか」という正しさのメカニズムなのだ。定義以前の「分かり」から出発した、認知メカニズムだといっていい。

 最終的にはオイラーの式「eπi=-1」を、概念メタファーを用いて説明する。「ネイピア数をπi乗するとはどういうことか」という壁で力尽きていたわたしは、全く異なるアプローチでその壁を迂回することができ、ほとんど感動に近いものを得られた(ただし、分かった気になっているだけなので『オイラーの贈物』で学びなおすつもり)。

 恥を忍んで告白すると、この概念メタファーからのアプローチで、イコール(=)の多義性に気づかされた。数学に騙された感があるのは、等式に(暗黙裡に)含まれる様々な意味に翻弄されていたことに、ようやく気付いたのだ。例えばこうだ。

 3 + 5 = 8 ――― 式4

 8 = 5 + 3 ――― 式5

 3 + 5 = 4 + 4 ――― 式6

 簡単な等式だが、式4は3に5を加えた結果「生じる」ことを示し、式5は左辺は右辺に「分解できる」(積なら因数分解できる)ことを示し、式6は左辺と右辺が「同値結果となる」ことを示す。連立方程式なら、これを解くことで「得る」という意味を持ち、対数式なら「対応づける」になる。結果、状況、対応など、数学的文脈によって「=」は様々な意味を持つ。わたしは計算結果を示すもののように捉えていた(対数の件で混乱したことがあったが、「同値」と「対応づけ」を取り違えたせいだと考える)。

 たとえば「0=φ」と定義した瞬間に、概念上の多義性は発生しているのだが、それでも混乱せずに数学者が自分の数学に没頭できるのは「定義の話だから」だけではなく、そこにメタファーが作用しているのを直感的に理解しているからではないかという指摘は鋭い。「0」は決して「φ」ではないし、そう「約束ごと」しているだけでなく、「空っぽの器」というメタファーが背後にあるからこそ「=」でつなげることができるのだ。

 かつて、数学の「正しさ」について大いなる欺瞞を抱いていた。

 もちろん数学は「正しい」。だが、そこにおける「正しさ」とは予め決められた定義や公理の組み合わせから外れていないこと、(もしくは新たな概念を導入する場合)元の体系との整合性がとれていることになる。この世界にいる限り、その「正しさ」は疑いようもない。だが、この世界を知らない人は、どうやってその「正しさ」を理解するのだろうか……そんな疑問を抱きながら加藤文元『数学の想像力』を読んだ。

 そこでの結論は、数学の正しさの「規準」は明快だが、正しさの「根拠」は極めて非自明だという。そもそも「正しさ」に根拠などというものがあるのか? この疑問への明快な解には至らないにせよ、そこへのアプローチにより、数学の「正しさ」が少しも自明ではないこと、そしてその非自明性が数学を柔軟性に富んだものにしている―――そして、この「非自明性」を説明づけているものこそが、『数学の認知科学』でいう概念メタファーになる。

 『数学の認知科学』のおかげで、これまで読んできた数理哲学のピースが埋まっていくと同時に、数学の素晴らしさは人の思考の素晴らしさにそのままつながっていることに気づかされた。数学に対し、普遍的・絶対的なプラトニズムを勝手に投影していたが、むしろ人の身体と脳、認知的能力、そして日常生活と文化を基礎としていることが分かった。

 数学は、人の思考がもつ美しさ、豊富さ、複雑さ、広範さ、重要さの壮大な実例であり、わたしは概念メタファーを使って、いつでもそこへアクセスすることができるのだ。

 「数学がやってきたところ」から思考の本質に迫るスゴ本。

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わかりやすいデザインの教科書『ノンデザイナーズデザインブック 第4版』

 企画書、提案書、レポート、プレゼンのスライドなど、資料を作るあらゆる人にお薦めしたい名著『ノンデザイナーズデザインブック』の新版が出たので、あらためてお薦めする。

 かつては「新人にお薦め」と言っていたが、新人でも知ってる人は知ってるし、お歳を召してもダメな人は一定数いる。なのでこれは、社会経験というよりも、「知っているか否か」だけなのだ。何を知っているかというと、「伝えたいことを明確で分かりやすくアレンジするには、どこに目を向ければいいか」である。もっと具体的に言うと、上司や指導者から「おまえの資料はイマイチだ、なぜならココが○○だから……」という試行錯誤したことがあるか否かだ。

 この「変更前」「変更後」を比べるのは、ものすごく勉強になる。なぜなら、自分が作った「変更前」だけを眺めても、イマイチなのは分かるが、どこがイマイチなのか言葉にできない(指差せない)から。上司からダメ出しを食らって何度も直した経験がある人なら、自分の資料のまずいところを具体的にどうすればいいか指摘してもらっただろう。

 『ノンデザイナーズデザインブック』は、「変更前」のイマイチなところを言葉にし、「変更後」を示してくれる。中身は同じなのに、すっきりとして、読ませたいものがすっと目に入ってくる。何よりも、読んでみようという気にさせてくれる。何かの形式をコピーすればいいとか、文字修飾のテクニックを覚えろというのではなく、もっと原則的な、ほとんどセオリーに近い「見方」「考え方」のようなものだ。基本的なやつはこれ。

コントラスト
コンテンツの要素(書体、色、サイズ、形、空き)が同一でないなら、類似するのを異ならせ、視覚を引きつける

反復
色、形、テクスチャー、位置関係、フォント、サイズなどの視覚的要素を、作品全体を通して繰り返すことで、組織化を促し、一体性を強化する

整列
意図に沿って要素を配置することで、すっきり洗練された見え方を生み出す

近接
関連する項目をグループ化して、一個の視覚的ユニットとして認識させ、情報を組織化することで混乱を減らし、伝えたいことの構造を読者に示す

 言葉を羅列してもピンとこないけれど、それぞれのセオリーを適用した「変更前」「変更後」の事例を並べてくれるので、どこに目をつければいいかすぐに分かる。英語のレイアウト事例ばかりではなく、日本語ならではの原則を、名刺、フライヤー、ウェブ(申し込みフォーム/メニュー)のデザインサンプルを用いて解説してくれる。

 わたしの職場では「カラコピ厳禁」なのであまり使わないが、色と色の関係(補色、トライアド、スプリット・コンプリメント・トライアド)を用いて色相環を概説してくれたり、シェードとチントや暖色と寒色の役割をピンポイントで説明しているのがいい。ちょっとしたポスターやフライヤーなら、これで自信をもって自由に遊ぶことができる。

 さらに、どうしようもない「変更前」を渡されたとき、どこから手を付ければまで手ほどきしてくれている。簡単にまとめると、(1)焦点から始める(真っ先に見てもらいたいもの、面白いもの、伝えたいものを見つける)、(2)コンテンツをグループにまとめる(グループ間の関係を近接のテクニックで寄せる/離す)、(3)強い線を見つけて整理する(強い線=インデントや箇条書き、見出しをそろえる透明な線)、(3)反復を用いて情報を構造化する、(4)コントラストを設ける。たしかにこれは、わたしの上司が指摘していった順番やね。

 パワポのスタイルを弄ったりExcelグラフの種類を変えて「がんばった」気になるのではなく、伝えたいことを分かりやすい構造にする方法と、その見方が身につく。

 デザインを正式に学んだことはないけれど、デザインをする必要がある人たちのため書かれた、貴重で重要な一冊。

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「NEW GAME!」の涼風青葉は何を読んでいるのか?

 「NEW GAME!」いいよね。ゲーム会社で頑張る女の子を描いたコミック&アニメは、痛勤電車と朝残業で消耗したおっさんを癒してくれる。

 主人公は涼風青葉18歳、上司も同僚もかわいい女の子で、画面から男臭を抹消しているサービス精神もいい。本来は「おっさんが作っておっさんが消費する」のだから、男が出てこないファンタジーなのは合点承知だ。しかし、「激務すぎて疲労のあまり、おっさんが互いを美少女としてしか認識できなくなった」説を見かけてしまい、以後そのような目が混じるようになった自分が情けない。そして今回は、それを補強するような記事になってしまって申し訳ない。

 なぜなら、これから彼女たちが何を読んでいるかを紹介するから。青葉の職場はブースによって仕切られており、各人の席には様々な本やオブジェが並んでいる。そういう背景から彼女たちの趣味を想像するのは愉しい。特に好きなのは、仕事上の資料を除いた個人の本に見えるもの。妙に趣味の偏った(?)作品があって、「ボクもこれ好きー」とか脳内会話のネタにもなる。わたしぐらい上級になると、二次元の女の子が好きな本を読むだけで幸せになれる(「長門有希の100冊」を全読しようとした昔が懐かしい)。

 まず涼風青葉。第一話の入社初日、自席に本が無いため、二話以降に見かける本は、基本的に彼女が持ち込んだものと考える。座右にCGの参考書やグラフィックデザインの資料があるが、これはお仕事の本だね。

 青葉から見て右上の書棚に、『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川達雄)がある。生物学を「サイズ」の概念からとらえた名著なり。ゾウの寿命は長く、ネズミは短く見えるが、これは人が生み出した「時間」という概念で見ているから。心臓の鼓動で比較すると、ゾウもネズミも同じく、ほぼ20億回になる。つまり、ゾウのようなサイズの大きい動物はゆっくりと鼓動し、ネズミのような小さい動物はせかせかと脈打つ。物理的な時間とは違った生理的時間がそれぞれの動物に流れているという考えは目鱗かも。時間だけでなく、動物の生活圏や活動範囲にもサイズが関連するという指摘は興味深い。一般教養の課題図書にありそうだから、ねねっちに薦められたのかも。

 さらに、『棒がいっぽん』(高野文子)を見つけてちょっと踊った。ただでさえかわいいのに、これで5割増し。ただこれ、オススメする言葉が見つからない。この短編コミック集、「面白い」のは抜群なのだが、その面白さを伝えるのが難しい。カメラワークというかコマのレイアウトというのが独特で、初読は「ゴダール…?」と思った。一話一話、異なる話法を使ってて、話は普通なのに、奇妙な感覚に陥ったり、話がぶっ飛んでているのになぜか懐かしく感じたり。読み返すたびに発見があり、手触りがあり、シュールが加速する、とにかく読んでみて、どんなマンガとも違うから! というしかない作品。

 高野文子つながりだと、ディレクターの遠山りんの本棚に『黄色い本』を見つける。これ好きな人は「だよねーーー!」と握手したい抱きしめたい。これは、『チボー家の人々』という長編小説を読み耽る女子高生を描いたマンガなのだが、「本を読むとはこういうこと」だといいたくなる。ふとしたはずみに登場人物のセリフを耳にするのをはじめ、目の隅や背後にたたずんでいるのを感じたり、最後にはお互いに言葉を交わしたりする。これを妄想と片付けるのは簡単だが、読書とは対話であり、対話を通じて自分を深める行為なのだということが、「視覚的に」分かる。わたし自身、『チボー家の人々』を読んだとき、(彼女ほどにはないにせよ)主人公のジャック・チボーにのめりこんだ経験がある。小説を通じた彼女の追体験を追体験する、珍しい読書になる。

 アニメの背景さんは高野文子ファンなのか、『ドミトリーともきんす』らしき本もあった。これで『るきさん』があったら最高なのだが、未だ発見できていない(ひふみん棚が怪しい)。

 一番叫んだのは、『エンデの遺言』を見つけたとき。青葉の上司、八神コウの書棚にあった。背表紙から察するにNHKブックス版だが、廉価な文庫版が出ている。エンデってあのエンデ? そう、『モモ』や『はてしない物語』をの、あのミヒャエル・エンデだ。元はエンデが遺したテープを元に制作されたドキュメンタリー番組があって、それを書籍化したものになる。『モモ』が「時間に支配された人々」を寓話的に描いているのに対し、『遺言』は、「お金に支配された人々」に真正面から取り組んでいる。読んだのはずいぶん前だが、「腐るお金」「払わされる金利」の概念はユニークだと感じた。後者はマイナス金利の形で目にしているし、本書自身、リーマンショックを予言した書とも呼ばれている。でも八神さん、なぜこれを持っているの? 『鏡のなかの鏡』っぽい本も並んでいるので、エンデのファンなのかも。

 ラインナップを見る限り、八神さん、かなりの濫読家のようだ。右手上段に乱雑に積まれている文庫は、岩波赤(たぶん『やし酒飲み』)、新潮文庫(たぶん『天平の甍』)、ハヤカワ(たぶんエラリー・クイーン)、そして講談社文庫(たぶん『虚無への供物』)、講談社学芸文庫、ちくま文庫(たぶん尾崎翠)と様々。『クレーの日記』はコウさんに似合うかも。さらに図書館のラベルが付いた本が2冊あり、延滞しているんじゃないか……と毎週やきもきしている。

 他にも青葉の棚で確認できたのは、『風の又三郎』、『グールドを聴きながら』(吉野朔実のだよね!? いいね!)、『幸福論』(たぶん新潮文庫のアランの方)、『スープの本』と盛りだくさん。

 これらはおそらく、背景さんの趣味なんだろう。そんなことわかってる。けれども、「これ、青葉ちゃんが読んでた本……」と想像すると、ちょっとドキドキするお得感がある。次回は、女の子だけでなく、その背景にも目を向けてみてはいかが? ひょっとすると、あなたの本棚にある本が見つかるかも。

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目が合ってしまった一冊『砕け散るところを見せてあげる』

 書店で呼び止められることはあるが、これは目が合ってしまった。いにおイラスト強い。

 そして面白いことに、書店で面陳+縦置きだと微笑んでいるように見える女の子が、横向きだと泣いているように見える(玻璃という名前らしい)。なぜ泣いているのか? そして「砕け散る」なんて不穏なキーワードを裏付けるかのような出だしに引っかかりながら読み始める。人は星屑でできているから、「砕け散る」のかと想像するが、酸素や炭素だけでなく思い出の縁になることを指すようだ。

最初に出会ったあの月曜のことが忘れられない
玻璃は、すぐに世界から消えてしまった。そんな結末をも予感させる、あれはあまりにも不穏な出会いだった。

 胸騒ぎはすぐに確信になる、これはいじめの話だ。こういう嫌な予感はよく当たる。語り手の清澄の正義感というかヒーロー感覚が空回りしないように祈りつつ読む。そういう読み手を斟酌してか、孤独の痛みを知りつつ相手との距離感を測りつつ見守る態度が暖かい。

 そうこれは、彼女の秘密を軸にして、ボーイ・ミーツ・ガールを語った体裁を取る。もちろんそれは陰惨で重くてとんでもないものを見せてくれるのだが、むしろそれに向き合う彼の優しさと強さ、そして思いやる気持ちを知るための物語なのかと思う。

 竹宮ゆゆこ作品はいつもそう。ツンドラもしくは不思議ちゃんな彼女と、それを見守る彼の話。その優しさがあちこちに飛び散ってて、いかにもラノベなスピード感と軽妙リアルな会話に紛れがちだが、再読するたびに読み手を温めてくれる。そういう、くりかえしを促す作品なのだ。

 読んだ人向けの答え合わせ。ネタバレ反転表示。UFOとは、背負った罪の意識・運命のこと。「俺」をミスリードさせる叙述トリックは上手いけれど、なぜそうしたかを考えると、語り手の背後の作者の想いが伝わってくる。愛は、物語のあちこちに「砕け散って」おり、再読を促すことで気付いてもらいたがっている。最後の一文は清澄とも清澄の子ともどっちに読んでもいいように仕組んである。普通の叙述トリックだと、バレた後は綺麗に分かれるのだが、本作が珍しいのは、バレた後でもどちらでも(両方でも)読めるところ。つまり本作はループしており、文字通り「愛には終わりがないことを信じている」のだ「最後の一文、その意味を理解したとき、あなたは絶対、涙する」という惹句も、伊坂幸太郎の評もソコを指しているが、ラノベのパッケージに騙されないように。

 

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「シン・ゴジラ」を観て震えた人に、『日本沈没』を勧めたい

 「シン・ゴジラ」すごかった。とんでもないものを観てしまった感がいっぱいで、その日なにも手につかなかった。ネタバレせずに感想を言うのはほぼ不可能だし、すでに多くの毀誉褒貶が出回っているので、ここでは、観た人向けに『日本沈没』を勧める。

 未曾有の事態が起きたとき、日本人はどうするか? というのがテーマだ。日本列島に恐るべき異変が起きると分かったとき、政府はどう準備・対応するか、国民はどう反応するか、群発地震や火砕流に自衛隊や米軍はどのように動くか……といった災害モノの俯瞰カメラから、家族や恋人とのドラマや絆に単焦点を合わせた物語を織り込む。翻ってさらに巨視的に、日本海溝から地上1000mの視線を駆使して、日本を巨大な竜の断末魔にたとえた地質学的考察を語る。政治的駆け引きや世界経済への波及、軍事バランスの変動から地政学的な平衡関係が崩れた後まで、「物理的に日本をなくす」シミュレートを、徹底的にしてみせる。

 そこで貫かれるものは、日本人のしぶとさ。絶体絶命のとき、もうダメだと覚悟したとき、どう考えても助からない状況で、逃げる人、助ける人、踏みとどまる人、さまざまな場面に遭遇する。それぞれに大切なものがあり、そのために自分をなげうつ、そんな態度はいかにもかもしれぬ。もちろん小松左京だから、自己犠牲の物語フォーマットに収まるはずもなく、粛々と日本は壊れてゆき、それでも日本人は生きていく。

 シンクロニシティというか、記憶の焦点が重なるのは、大災害のあとの光景だ。建物や乗り物がめちゃめちゃに折り重なり、一部がくすぶっている中、生き延びた人たちが生活を始めようとするシーンがある。表面上は何事もなかったかのように出勤したり登校することで、異常を日常で上塗りする。もちろん死んでいった人は数多いが、悲しみに立ち止まるのではなく、悲しみと共に日常を生きる、これが日本人の強さなのかもしれぬ。

 「シン・ゴジラ」を観ているときに、心のなかで幾度も「がんばれ、がんばれ」と唱えていた(声に出せるものならそうしていただろう)。『日本沈没』も同じ気持ちになる。読みながら思わず応援したくなるだろう。ある人物の奮闘だけでなく、そこで生活し、生き延びようとする人々に向けて。もちろん同じカタルシスを求めてはいけない。だが、そこに描かれる「日本人」は変わらない。

 「シン・ゴジラ」を観て震えた人、叫びたくなった人、熱くなった人に、ぜひ読んでほ欲しい。

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原爆とイデオロギーを切り離す『原爆先生がやってきた!』

 原爆の授業があるらしい。

 小学6年生を中心にした90分間の特別授業で、600校5万人を超える子どもたちが受けている。その感想はさまざまだが、「面白かった」「もっと知りたい」という反応が目を引く。原爆の授業が面白いとは面白い。「原爆→恐怖→反戦」の刷り込み教育を受けてきたわたしからすると、原爆とは忌避するべきものではないのか? 「もっと知りたい」とはどういうこと?

 一読して気付かされた、わたしの考えではいずれ風化してしまう。というのも、記憶に忌むべきというレッテルを貼って封印するというやり方だと、そのまま忘れ去られてしまうから。「戦争の記憶を風化させないように」という謳い文句はずいぶん前から聞かされてきているが、時の経過とともに風化する。そうしないためにどうする? さらに恐怖を煽る?

 そうではなく、「面白くする」というのが答えだ。面白おかしく、という意味ではなく、興味を抱いてもらう。風化とは、誰も見向きもしなくなること。恐怖を煽って忌避させるのではなく、もっと知りたいと思ってもらう。さらに学ぶきっかけを提供する、そういう仕掛けと工夫がいたるところに張り巡らされているのが、原爆の授業になる。

 たとえば、授業のスタイル。前半45分は、筆記用具やメモは一切持たない(持たせない)。椅子の下に置いてもらい、両手は開けておく。「聞く」ということに注力して欲しいからだという(そのために、床上に体操座りはさせず、必ず椅子を用意してもらうという徹底ぶり)。

 そして、原爆に遭遇し、生き延びた兵士の物語をする。形式は物語だが、語られていることは事実である。物語は一人称で、淡々と語られる。スライドはあるが映っているのは地図のみ。ひたすら言葉だけ。身ぶり手ぶり禁止、痛い、辛い、悲しい、恐ろしいといった感情表現なし、擬音語の連発もない。原爆はダメとか反戦といった思い・解釈・主張も入れない。イデオロギーを一切排除し、ただ起きた出来事を語る。

 後半45分は原爆そのものについての知識だ。原爆の構造や威力、核分裂や核融合といった現象を噛み砕き、科学的な側面から解説する。ここにも感情や主張は入れない。あくまで「何が起きたか」「どのように起きたか」を淡々と説明する。この徹底ぶり、90分間の授業の中で、「平和」という言葉すら入っていないことに驚く。

 そこで何を思うかは、各人に委ねられる。「戦争はいけない」と主張する生徒もいるし、「抑止力としての必要性」を考える人もいる。それぞれの意見に対し、「正しい」「間違っている」という判断はしない。ただ、賛同する、反対するといった賛否をいえるだけだという姿勢だ。

 反戦・反核を伝えるための原爆教育とは真逆の方法に、反発もあるのではと思うと案の定、「体験者でもないのに語る資格があるのか」という批判もあるらしい。

 これについては、むしろ第三者だからこそ客観視できるという。悲惨な体験をした人が語ると、どうしても自分の思いが入ってくる。思いや主張は押し付けになり、押し付けは聴き手の心を離れさせる。強いメッセージ性やビジュアルは「嫌だ!」という感情を掻き立てることになるから。

 さらに、「体験」を飲み込める形にするために物語化する。物語には、必ず話者がいる。実体験者が話者になる場合と、その人から伝えられて話者になる場合と二通りあるが、いずれも「サバイブしてきた」安心感がある。真の意味での体験者とは、話者になることもなく苦しみ悲しみ死んでいった人になる。つまり、そこで語られているという話は、(少なくとも語られている範囲の中では)生きた人の物語なのだ。

 サイトは原爆先生の特別授業、分かちがたく結びついている原爆とイデオロギーを切り離し、原爆そのものについて知ってもらう。そのきっかけとなる授業だ。原爆先生の羽生さん、良い本をご紹介いただき、ありがとうございます。

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本を読まずに文学する『遠読』

 司馬遼太郎の『峠』に、「彫るように読む」という表現が出てくる。越後長岡藩家老・河井継之助の読書スタイルだ。一画一字、目に刻みつけるように読むやりかたで、わたしの知る限り、本との距離が最も近い精読(close reading)である。原典とゼロ距離で向き合い、くりかえし味読・咀嚼し、心胆を練るような読書だ。

 遠読(distant reading)は、その対立概念になる。著者の造語で、「野心的な読みはテクストからの距離に正比例する」と焚きつける。著者はフランコ・モレッティ、スタンフォード大学文学部教授でマルチリンガルで、ゴリゴリの文学読みで、膨大な文献を背景に煽ってくる。

 つまりこうだ、いわゆるカノン(正典)を精読するだけで世界文学を語るには限界がある。コンピュータや統計手法を用いたデータ解析を行い、文学を自然科学や社会学のモデルでとらえ直すことができないか。そこでは、本との距離こそが知を得る条件であり、もっと大きい単位に焦点を合わせ、技巧やテーマ、ジャンルや文彩を「本」という単位から離れてみるのだ。これにより、テクスト自体が消えてしまうことだってありうる。それでいいんだと。「テクストをいかに読めばいいかは分かっている、さあ、いかにテクストを読まないか学ぼうではないか」

 読者や同業者を挑発してくる姿勢がたいへん面白い。だが、炎上上等の書きっぷりなので、こちらも便乗して批判的に読んでしまう。

 たとえば、シャーロック・ホームズの研究。進化論の適者生存をなぞらえ、「ある作品が正典(カノン)として残るのはなぜか?」を分析する。生き残る作品・消える作品の違いを、ホームズと同時期に書かれた大量のミステリーを読むことで解き明かす試みだ。これ、試みとしてはすごく面白いが、発想が文学部から一歩も出てないため、アプローチが限定的となっている。

 なぜなら、ホームズが始まってから最初の10年分の『ストランド・マガジン』にある他の短編ミステリー160作品を読み、「ホームズといかに形式的に異なっているか?」しか見てないから。具体的には以下の二分岐条件に落とし込み、最終的にホームズが生き残るツリーを描く。

 条件1:手がかりの有無
 条件2:手がかりの必要性
 条件3:目に見える(予め読者に与えられている)
 条件4:解読可能

 ホームズの人気を決定的にしたものを、作品の内部にしか(それも形式主義的な観点からしか)求めていない。読者の嗜好、市場の動向、出版社や著者のマーケティング、人口動態といった外的・環境的要因がごっそり抜けている。「生き残ったテクストはライバルたちよりも形式的・象徴的に環境に適していたのである」結論にしたい気持ちは分かるが、ホームズの作品に適うような形式的分析しかできないなら、生存バイアスそのものやね。形式主義にこだわる様は、深夜に街灯の下で鍵を探す話を思い出す。

 進化論を文学に適用したいのなら、形質(形式)だけに注目するのではなく、環境(市場)も併せて分析する必要があるかと。たとえば、同時期の大ベストセラーなのにカノンとして扱われなかったシュウエル『黒馬物語』やハガード『洞窟の女王』の理由を、形式的な視点から比較してみると面白いかも。

 また、ウォーラーステインの世界システム理論をモデルに、中心から半周辺、周辺へと文学の形式が伝播していく様を論じている。それぞれの境界でプロットは中心(=西欧)、素材は周辺(=それ以外)の作品が生まれ、その構造的不和(生焼けの小説)が新しいダイナミズムをもたらすと主張する。西欧中心主義が鼻につくが、市場の圧力は消費だけでなく生産も形作り、小説の形式自体を変えてしまうという指摘は正しい。翻訳小説のプロットをモデリングして、形態学的視点から外国文学の影響を分析すると面白そうだ。

 さらに、ネットワーク理論をシェイクスピアの作品に援用し、登場人物のネットワーク図から『ハムレット』をクラスター化する試みをする。キャラクター相関図は見慣れているが、「どこまで外したら"ハムレット"でなくなるか?」という仮説であれこれ人物を消していくのはスリリングだった。これは『ハムレット』を精読し、ハムレットの中にいると決して見えない「読書」だろう。

 進化論や世界システム理論、パラダイムシフトといった「モデル」を文学に適用する試みは、とても刺激的だ。著者はテキストからの「距離」を強調するが、これは、『読んでいない本について堂々と語る方法』と同じだ。本を読むとは、そこに現れるテクストを理解/追体験するのみならず、その本について語れることも求められる。

 普通の文学者なら、一定量のカノンをそれこそ彫るように読んだ上で、「その本」がカノンの配置図の中で相対的にどの位置づけになるかを語る。だが、一筋縄でいかない文学者なら、「その本」の配置図を、進化論や世界システム理論など、別のモデルに置き換えてしまう。置き換えたモデルの中で「その本」について語れるのなら、もはや「その本」を読んでいる必要などない。むしろ新たなモデルの位置づけを惑わせないために、テクストそのものは邪魔になってしまうかもしれぬ。もちろんこれは、極端な話だが、そいつを大真面目にやってしまったのが、『遠読』なのだ。

 本を読まずに文学する遊び方が詰まった一冊。

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『野性の知能』はスゴ本

 大失敗したことがある。それは、ドーキンス『利己的な遺伝子』の「利己的」を誤解していたことだ。

 タイトルから「利己的な遺伝子がいて、そいつが生物の行動を決定する」と思い込んでいたが、これは誤りだ。この本でドーキンスが言いたかったのは、生物の行動様式を説明する際、遺伝子の自己複製というレベルからだと整合的に理解できるということ。「利己的な遺伝子」は説明のために擬人化されたメタファーにすぎない。分かりやすくするための擬人化の罠の顛末は[分かりやすさという罠『利己的な遺伝子』]で曝露しているので、教訓とされたし。

 『野性の知能』は、擬人化の罠に囚われていないか問いかける。動物を観察する際、ヒトに似た属性の有無を探し、ヒトの基準で動物の行動を評価する。何かヒトに似た行動を取ったとしても、その行動を生んだ根源的なメカニズムまでがヒトと同じとは限らない。それぞれ異なる身体と神経系をもち、それぞれ異なる生息環境で生きているため、同じ行動原理であると考えるほうに無理がある。擬人化に偏って仮説を構築しようとすると、検証できる範囲が限定されてしまう。この擬人化のバイアスから離れると、動物はコストパフォーマンスの最も良い形で世界を「知覚」していることが分かる。

 たとえば、クモやコオロギの一見「賢い」迂回行動や求愛行動が、いかにシンプルなルールに則っているかが明らかにされる。さらに、お片づけロボットやルンバの行動原理を解説し、部屋の間取りや形状がプログラムされることなしに「認知」できてしまう理由を解き明かす。傍から見ていると、あたかも「認知」「記憶」「判断」した上で行動しているかのように思えるのだが、それはヒトの大きな脳に囚われているから。大きな脳のない動物やシンプルなロボットでも、身体と環境に「認知」「記憶」「判断」を肩代わりさせることで、(ヒトの目から見て知的な)活動が可能となっているという。

 認知プロセスを脳だけではなく、生体と環境全体まで含めて考えることで、認知科学に対するわたしの視界が一気に広がる。「培養水槽の中の脳」のメタファーに囚われ、皮膚の内側と外側にあるものを隔てる恣意的な境界を抜け出ると、驚くほど見晴らしがよくなる。

 目から鱗だったのが、「顔」の判断だ。ヒトの脳には、顔や顔に似た形状の処理に高度に特化した領域があり、紡錘状回顔領域(FFA:fusiform face area)と呼ばれることは聞きかじっていた。人の顔を識別する能力が優れていたり、雲や壁紙が人の顔に見えてしまうのは、この領域のおかげだと考えていた。

 しかし、本書によると、この領域は顔認識に特化しているわけではないという研究もある。この領域は、ヒトの種ではなく、個体レベルでの認識をする必要がある刺激に対して特化するという。たとえば、車種や鳥の種類を識別する専門家は、ヒトの顔だけでなく車や鳥を見ても、この領域が賦活する。つまり、この領域は「融通の利く紡錘状回」であって、「顔」はたまたま、ヒトが個体レベルで特徴を見わける必要のある、一般的な刺激にすぎぬという見解である。

 そして、新生児にとって顔や顔に似た形状に対し、特別な関心を向ける研究が紹介される。進化の観点から言うなら、高度に特化した顔認識メカニズムを備えた脳を、生まれるまでに発達させておくなどムダでしかない(ただでさえ大きな頭は出生の妨げとなる)。基本的な顔認識メカニズムに留めておいて、後の仕上げは環境の中にある顔に任せてしまうほうが、費用対効果が高い。赤ん坊にとって、顔に絶えずしっかりと曝されているということは、常に見守られているということだから、必ず報われる。赤ん坊がヒトの顔を見つめるというのは、期待-報酬行動であると同時に、環境に肩代わりさせた「顔」という情報から顔認識メカニズムを形成させる認知活動でもある。「顔」は特別であって特別でない存在なのだ。

 顔認識メカニズムの他に、知覚と理解とは、メタファーと経験のフィードバックループで構築されたパターンを通じて世界を追認識する行為だと喝破したG.レイコフの事例が紹介される。私たちが用いるメタファーは自分の身体動作に根ざしているという研究は[レトリックと人生]で興味深いと思っていたが、人間が有する最も抽象的な概念的知識、すなわち数学の知識さえ、突き詰めれば環境への身体の対処の仕方に基づいている、とまでいう研究者が紹介される(もちろんレイコフ『数学の認知科学』なり!)。すごいなり。これがもし本当なら、これまでヒトが持ちえた膨大な知識は、ヒトならではの身体の構造に左右されることになる。これは真の意味で客観的な真実と言えるのか!?と哲学的な問題に突入する。この人間主義の視点は[科学するブッダ]で大興奮したテーマなり。

 ユクスキュルの環世界、ギブスンのアフォーダンスから始まって、こんな深いところまで行けるのが楽しい。ヴィトゲンシュタインはかつて、「人は眼鏡越しに見えるものと眼鏡そのものを同時に見ることはできないと指摘したそうな。それと同じ、神経系と身体は世界に組み込まれている一要素であって、どんな生物であれ、世界をあるがままに「見る」ことはできない。ただ、それぞれに固有なやり方で経験するだけなのだ。

 世界に「存在する」には様々な方法がある。自分の身体ひっくるめて、世界を拡張する一冊。

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