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この短編集が好きだ

 短編の名手といえば……ポー、チェーホフ、ゴーゴリ、トルストイ、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、カーヴァー、O.ヘンリー、ダール、ボルヘス、モーム、カポーティ、ラヴクラフト、クリスティ、ブラッドベリ、スタージョン、阿刀田高、安岡章太郎、井伏鱒二、中島敦、村上春樹、梶井基次郎、宮沢賢治、筒井康隆、川端康成、森鴎外、芥川龍之介、大江健三郎、石川淳、車谷長吉、内田百閒、江戸川乱歩、泉鏡花、尾崎翠、横光利一、志賀直哉、太宰治、丸谷才一……思いつくまま並べてみたら、星新一が抜けていたw

 最近の好みは、カサーレス、コルタサル、山尾悠子、ジュンパ・ラヒリ、アリステア・マクラウド……と、これまたきりがない。このリストでは不十分だし、わたしが知らない素晴らしい短編は山ほどあるだろう。そんな予感を痛感させてくれた、素晴らしいオフ会でしたな。ご参加の皆さま、お薦めいただいた方々、ありがとうございます。

 読みたい本を持ちよって、まったりアツく語り合うオフ会、それがスゴ本オフ。今回のテーマは「短編集」、このフォーマットに合うのなら、恋愛からホラー、純文からSF、エッセイもアンソロジーも、なんでもあり。いつものスゴ本オフとは違った、バラエティ豊かなラインナップが集まった。

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 面白いなーと感じたのは、「これは定番だから誰か持ってきてるかも」というわりに、様々な「定番」があること。わたし自身、ボルヘスとカーヴァーは被るだろうなぁと思ってたら、ほとんど被らなかった(むしろ被ってもお気に入りが違ってて嬉しい収穫だった)。それだけ裾野が広く深度もあって、それぞれの「お気に入り」が宝石のように埋め込まれている証拠やね。一方で、筒井康隆や星新一を誰も持ってきてなくて笑った。

 皆さんのお薦めを聞きながら、既読のほかの作品を芋づる式に思い出したり、全く知らない(でもスゴ本の予感がギュンギュンする)傑作にわくわくしたり、たいへん忙しい時間でしたな。おかげで読みたいリスト・注文リストがまた長くなった。でも、短編集の良いところは、その短さ。長いの読むには、ちょっと構えて準備も必要だけど、短編集なら気軽に手が出る。いくつか拾って気に入れば全読してもいいし、合わなければ置いておけばいい。

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 一冊のうち、一編でも心を撃つ作品に出会えれば、お金も時間も充分にお釣りがくる。なぜその一作品に心震えたか? を考察することは、わたしの心の養脈を探り当てることになるから。

 当日のtwitter実況は、短編と言えば太宰治?いやいや、 血みどろ『ミッドナイト・ミートレイン』から、やなせたかしの『3分間劇場』、そして『名人伝』まで、短編集のスゴ本オフにある。ここでは、いくつかピックアップしてご紹介しよう。お気に入りを見つけるのもよし、「○○がないよ~」とご指摘いただくもよし。


 まず、定番ものから。村上春樹は長編が好きという人も多いが、短編の名手だという意見がちらほら。わたしもそう思うのだが、短編で物語をプロトタイプして、長編に膨らませているのを見ると、どうしても短編の手業の鮮やかさに目を奪われる。HAMAJIさんによると、なかでも『中国行きのスロウ・ボート』は、人生の通常運行の3 cmそばにぽっかりと魔界が口を開いている描写に心抉られるらしい。わたしは「村上春樹の短編が好きな人」向けに、『Carver's Dozen レイモンド・カ-ヴァー傑作選』『若い読者のための短編小説案内』を御案内。前者は彼が偏愛するカーヴァーの傑作12編で、噛むように読めるし、後者は村上春樹が短編をどのように読み/書いているかを種明かししている(だからといってマネはできないところがミソ)。

 中島敦のオススメも面白い。『名人伝』が紹介されるのだが、弓の達人に弟子入りした男を描いたもの。修行を積んで弓上手になるが、もっと上を目指そうとする。そして名人のところに行くと、なんとその老人は弓矢を持っていない。老人は「不射の射」を語り、弓矢なしで鳶を落とす。百発百中が千発千中になり、万発万中になるとき、結果が分かっている。絶対当たるなら、射る必要がないという境地に至る。そのとき、果たして弓矢を射るのか? という話になる。この辺りの機微、白髪三千丈だけれども武道をやっていると分からないでもない。師匠が本気で構えただけで「はい死んだ、俺死んだ」という気になるから。

 ところが話はここから横滑りする(これがスゴ本オフの面白いところ)。新手の痴漢の話になる。新種の痴漢は、「触らない」「嗅ぐだけ」だというらしい。身体に一切触れていないのに痴漢が成立するとは、達人なのかもしれぬ。される方はたまったものじゃないが、これが名人の域になると、相手すら不要になるかもしれぬ。

 短編と相性がいいのがホラー(だと思う)。アイディア一発、描きたいシーンがあって、そのまま試せるから。オフ会でにてチェーンメールのように回されている『ファニーゲームUSA』がやっぱり紹介され、これに乗じて人を選ばず胸糞悪くさせる傑作として『独白するユニバーサル横メルカトル』や『眼球奇譚』がオススメされる。特に前者は、読み終わると人として大事な何かを喪失した気になり、一気に読むと軽い鬱を起こす可能性があるという指摘は激しく同意する。わたしも読むスプラッターとして『ミッドナイト・ミートトレイン』をオススメしてきたぞ。

 白眉はヴァニラ画廊の『シリアルキラー展パンフレット』。エド・ゲイン、テッド・バンディ、ヘンリー・リー・ルーカスなど、世界各国の凶悪犯罪者たちの作品、セルフポートレイト、手紙のご紹介。パンフレットに書かれた各殺人犯のプロフィールが強烈でもはや短編小説だという指摘は、(読んでみたら)確かにそのとおり。

 心を温めるストーリーも短編向き(だと思う)。読んだ人はほぼ全員一致で浅田次郎を推している。ただどれにするかで意見が割れるが、あざとさというか「ほら、ここが泣き所だよ」という"意図"が透け見えているのが鼻につくのもあるとのこと。『姫椿』の「シエ」というのが傑作らしい。不遇から抜け出そうともがく人生の瞬間を切り取った美しい物語。

 また、『鉄道員(ぽっぽや)』に入っている表題作が有名だが、『ラブ・レター』を推す人多数。チンピラが売春婦の中国人を入国させるために籍を貸すのだけど、その女性が死んでしまい、手続きのため死んだ場所を訪れるという話なのだが、めちゃめちゃ泣けるらしい。ただし、「こんな"できた"女性は現実にいない」とのこと。あと、重松清『卒業』は必読らしいのでその場で注文する。これは、読もう。

 再読リスト、読みたいリストがまた増える。目にして初めて気付いたのだが、『人体模型の夜』の中島らも、『ロマネ・コンティ 一五三五年』の開高健は、確かに短編の名手だし、それぞれ珠玉の短編集なり。既読だが再読したくなった。ピランデッロに惹かれたので、『月を見つけたチャウラ』からつまみ読みしてみよう(もちろん浅田次郎を忘れずに)。

 スゴ本オフは、ベストテンや勝ち負けを決める場所ではないので投票などはしなかったけれども、わたしのベスト短編を挙げるなら、カーヴァー『ささやかだけど、役にたつこと』、チェーホフ『いたずら』、太宰治『満願』かな。そして、愉しみなことに、これは年とともに変わっていくだろうということ。自身の定点観測として、「お気に入りの短編」を定期的に振り返るのもいいかも(数年前は、ボルヘス『八岐の園』、車谷長吉『忌中』を何度も読んでた)。

 オススメ短編集があったら、ぜひ御教授くださいませ。

 次回のテーマは「本と音楽」。「この本を読むときはこの音楽をかけて」とか、逆に「この音楽を聴いているとこの本を思い出す/読みたくなる」など、本と音楽をセットで紹介していただきます。youtubeを流したりDVD/Blu-rayも大画面で再生できるので、あなたのお気に入りの book & music をオススメくださいませ(最新情報はfacebook「スゴ本オフ」をチェックしてね)。


短編集といえばこれ(かな)

  • 『ロマネ・コンティ 一五三五年』開高健(文春文庫)

  • 『斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇』太宰 治(文春文庫)

  • 『伝奇集』ボルヘス(岩波文庫)

  • 『夏服を着た女たち』アーウィン・ショー(講談社文庫)

  • 『中国行きのスロウ・ボート』村上春樹(中央公論新社)

  • 『ビギナーズ』レイモンド・カーヴァー(中央公論新社)


不穏な気分に浸る

  • 『独白するユニバーサル横メルカトル』平山夢明(光文社文庫)

  • 『ミッドナイト・ミートトレイン』クライヴ・バーカー(集英社文庫)

  • 『ファニーゲーム』ミヒャエル・ハネケ(映画)

  • 『ファニーゲームUSA』ミヒャエル・ハネケ(映画)

  • 『11の物語』パトリシア・ハイスミス(早川書房)

  • 『くじ』シャーリー・ジャクスン

  • 『眼球奇譚』綾辻行人(角川文庫)

  • 『シリアルキラー展パンフレット』


心を温める

  • 『Carver's Dozen レイモンド・カ-ヴァー傑作選』レイモンド・カ-ヴァー(文春文庫)

  • 『姫椿』浅田 次郎(文春文庫)

  • 『鉄道員(ぽっぽや)』浅田次郎(集英社文庫)

  • 『秒速5センチメートル』新海誠(角川文庫)

  • 『月を見つけたチャウラ―ピランデッロ短篇集』ピランデッロ(光文社古典新訳文庫)

  • 『卒業』重松清(新潮社)

  • 『突然ノックの音が』エトガル・ケレット(新潮社)

  • 『星月夜の夢がたり』光原 百合(文春文庫)

  • 『生きるための文学』有島武郎(プチグラパブリッシング)


眠れない夜のために

  • 『人体模型の夜』中島らも(集英社)

  • 『マジック・フォー・ビギナーズ』ケリー・リンク(早川書房)

  • 『ローラ』カポーティ(ちくま文庫)

  • 『十二本の毒矢』ジェフリー・アーチャー(講談社)

  • 『70年代日本SFベスト集成』筒井康隆編(ちくま文庫)

  • 『ハザール事典 女性版 (夢の狩人たちの物語) 』ミロラド・パヴィチ(東京創元社)

  • 『ここは退屈迎えに来て』山内マリコ(幻冬舎文庫)

  • 『悪魔の涎(よだれ)』コルタサル(岩波文庫)

  • 『極短小説』カリフォルニア州サン・ルイス・オビスポの週間新聞〈ニュータイムズ〉の読者達(新潮文庫)

  • 『経済小説名作選』城山三郎選、日本ペンクラブ編(ちくま文庫)

  • 『ノクターン集』ショパン

  • 『死神の精度』伊坂幸太郎(文藝春秋)

  • 『3分間劇場―やなせたかし幻想短篇小説集』やなせたかし(サンリオ)

  • 『あの素晴らしき七年』エトガル・ケレット(新潮社)

  • 『オリーヴ・キタリッジの生活』エリザベス・ストラウト(早川書房)

  • 『ニューヨークは闇に包まれて』アーウィン・ショー(大和書房)

  • 『泣く大人』江國 香織(角川文庫)

  • 『巡礼者たち』エリザベス・ギルバート(新潮文庫)

  • 『太陽の黄金の林檎』レイ・ブラッドベリ(早川書房)

  • 『月ぞ悪魔』香山滋(出版芸術社)

  • 『風流江戸雀』杉浦日向子(新潮文庫)

  • 『セント・メリーのリボン』稲見一良(光文社文庫)


ノンフィクション短編集(エッセイともいう)

  • 『堕落論』坂口安吾(集英社文庫)

  • 『人間臨終図鑑1~4』山田風太郎(徳間文庫)

  • 『考えるヒント』小林秀雄(文春文庫)

  • 『若い読者のための短編小説案内』村上春樹(文春文庫)


あわせて読みたい

  • 『エスター、幸せを運ぶブタ』スティーヴ・ジェンキンズ & デレク・ウォルター (飛鳥新社)

  • 『ワンダー Wonder』R・J・パラシオ(ほるぷ出版)

  • 『翻訳できない世界のことば』エラ・フランシス・サンダース(創元社)

  • 『機械』横山利一(河出文庫)

  • 『時間のかかる読書』宮沢章夫(河出文庫)

  • 『にわの小さななかまたち』アントゥーン・クリングス(岩波書店)

  • 『バスに乗って海に行こう』


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「嫁さんとセックスができなくて泣いた」わたしを変えた2冊

 「嫁さんとセックスができなくて泣いた 」を読んで泣いた。子どもができて夫婦生活が疎遠になって、「もうそういう目では見れない」と宣言される話。

 おまえは俺か。

 十年前、同じ涙を流したことがあった。他人事とは思えない。なので、試行錯誤の渦中でわたしが出会った2冊を紹介する。参考になるかどうか分からない。だが、わたしが変わるきっかけをくれたのは間違いない。どうか、同じ涙を流した目に触れますように。

 結論からいうと、本は役に立たない。メンタルなやつ、テクニカルなやつ、いろいろ読んだ。スキンシップはこうしろとかムードはこうやってとか、あまり参考にならない。

 しかし、そこに何を見つけてどう動くかが肝だ。「答えみたいなもの」なら本にもネットにもたくさんある。だが、そこから何を選んで実行することこそが、「答え」だ。そういう「もがき」の中で、自分に引っかかるものを探していたんだと思う。変わっていく関係のなか、どうありたいのだと。

 自分を救い出す片言は、『スローセックス実践入門』の中にあった。これだ→「いったん射精を忘れろ」。つまり、「目的=射精」をいったん念頭から外し、そのバイアスから生じる様々な「○○すべし」をやめろという。ひたすら尽くすことで、相手の快楽を引き出すことだけを考えろという姿勢だ。紹介される様々な性技は、巷に数多の類似本とほとんど変わらないものの、全ては彼女のためという筋が一本通っており、そこが頭一つ抜きん出ている。

 初めてベッドに誘ったときよりも難度が高くなっている。「誕生日プレゼントにディズニー宿泊ツアー」を用意したのは分かる。似たようなイベント系のお誘いはわたしもしたから、そして撃沈したから。

 だから、ハレではなく日常なし崩し方式にした。とはいっても、あくまで「射精を忘れろ」なので、妻の疲れを癒すのが目的で、マッサージに精を出した。我流だったのを体系立てて学び、専用のローションを使うようにした。教本はいろいろ試したが、『ふたりのLOVEマッサージ』が一番合っていた(お勧めあったら教えてほしい)。妻の体で、一番触ったのは足裏である。日常的に触っているのも足裏である。性的云々というより、ふれあう口実を探していたのだろう。

 くりかえす。本そのものは役に立たぬ。本はきっかけにすぎない。けれども、会話やふれあいの口実として、なによりも自分を変える言葉を探してもがく場所として使えばいい。わたしの場合は本だったが、カウンセリングもありかも。いま調べたら、マンガで分かる心療内科・精神科in渋谷 第54回「セックスレスの治療法」というのを見つけた。似たような方針なので驚いたが、これも「答えみたいなもの」であり、「答え」にするためにはアクションが必要なのだと思う。

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巨人の肩から眺める『現代思想史入門』

 ガルシア=マルケス『百年の孤独』で、数学だけに異様な興味を示す天才が出てくる。まともな教育を受けたこともなく、あらゆる文明から遠く離れた廃屋に一人で暮らし、すべての情熱を数学に注ぎ込み、一生をかけて二次方程式の解法を独力で見つけだす。

 男は天才だが、愚かなことだと思う。ただ一人の思考だけで、まったくのゼロから、二次方程式の解の公式を導くまで才能を持っているにもかかわらず、それだけで一生を費やしてしまったのだから。男は幸せだっただろうが、もし教育を受けていたならば、その思考はさらに先の、もっと別ところへ費やすことができただろうに。

 「こんなこと考えるのは私だけだ!」と叫びたくなるとき、このエピソードを思い出す。オリジナルなんて存在せず、要は順列組み合せ。デカルトやサルトルといった哲学者でさえも、完全に無から生み出したわけではなく、時代の空気に合わせ、過去の知的遺産をまとめたり噛み砕いた、知の結節点の"ラベル"にすぎない。すでに誰かが考え抜いており、その残響がめぐりめぐってわたしの脳に届いたにすぎない。

 たとえば、「物理学とは、(人に理解できる因果律にまで)世界を咀嚼するためのモデルとパラメータいじりにすぎず、世界"そのもの"ではない」とか、「人の有益性というものは、(目的が先にあって生み出される)モノと異なり、あとから決まってくるものであるべき」など考えたことがある。それぞれ、人間原理、物自体、実存主義という用語を知るまで、独りあれこれ考えたものだ。

 「~とは何か」という問い(=哲学すること)は、やめようと思ってもやめられない。世界を知りたい/自分を分かりたいという、根源的なレベルの欲望なのだ。『百年の孤独』の男はまさに才能の無駄遣いだったが、凡人のわたしには人生の無駄遣いになりかねない。そういうわたしにとって、この『現代思想史入門』は大変ありがたい。

 なぜなら、本書のおかげで、現代思想がどこまで考え抜かれていて、どういう限界にぶち当たっているか、見えるようになったから。どちらが獣道で、そのルートのどこから科学と整合性が取れなくなっているか、先人どうやって乗り越えようとしてきたのかが、巨人の肩からよく見えるから。ひょっとすると一生迷っていたかもしれない思索の隘路を、予め迂回するか、それとも覚悟と準備を完了させて突入するか、選ぶことができるから。

 本書は、現代思想の全体像を捉え直す目的で著された。現代の状況を読み解くため、ここ150年に渡るさまざまな原理や基準についての言説の変遷をさらえなおしている。進行中は曖昧で難解に思えたあの思想や哲学も、振り返ってみればまさに「後知恵」として総括される。難解だからこそ有り難がっていた滑稽さも併せて楽しめる。

 とてもユニークな点は、現代思想を「思想の地層」として斬ってみせているところ。「思想史」なんだから、普通なら時系列に、主要人物を並べてみせたり、時代と絡めて解説したりするだろう。ところが本書はそんなことしない。生命、精神、歴史、情報、暴力という5つの層で時間軸を横断してみせ、その斬り口から覗く思考のフレームワークを解説する。だから、この一冊を読むことで、現代思想を5周するわけだ。

 そして、注意深く避けている点は、対立を見いだす近代的発想だ。このテの話によくある、「近代vsポストモダン」や「自由vs逃走」など、時代や制度の同一性に基づき、対立を見いだすことそれ自体が近代的発想なのだと指摘する。だから時間軸を縦に区切って「ナントカ前」「ナントカ後」の構造ではなく、斜めの断面図(=価値観点)から上下の関係で示そうとする。

 そんな魅せ方で何周も現れてくるのが、フーコーの言説だ(これがめっぽう面白い)。たとえば生命政治の観点。ひとびとを「群れ」とみなし、その生活状態を集団的な現象として長期に最適化することを目指す政治だ(最大多数の最大幸福の実践編)。できるだけ多くの人が、ちょうどよい数だけ生まれてくるように管理する、持続可能な政治だ。優生学の影をまといつつ、現代の医療制度のなか、福利厚生政策の裏側、社会保障政策に透けて見える。民族や人種にしちゃうとバックドラフトを起こすので、「国民の生活を優先して」というお題目(=スローガン)で浸透する。

 「精神」の断面からフーコーを見ても面白い。何が正常で何が異常か、それがどんな病名と治療が必要かは、国家によって認知された医者だけによって判断される。(その中で普通に暮らしているわれわれにとっては)しごくあたりまえに見えるが、歴史的には珍しい発想であり、それが臨床医学(クリニック)と呼ばれるものだという。暴力を担保にして自由か隷属かを選ばせる近代的なやり方ではなく、「死に至る病」とか「不安の概念」を使って健康知を浸透させる。

 これは、健康をモラル化した社会に疑義を唱える『不健康は悪なのか』でフーコーの指摘が顕在化している。「健康」という言葉に隠されたイデオロギーが、授乳キャンペーンや製薬ビジネスを例に暴かれる。

 著者は、フーコーやサルトル、ドゥルーズ+ガタリに成りきって、思想史を幾度も斬りつける。その憑依っぷりはたいへん面白いのだが、ときどきそこから著者の本音が滑り出てくる。同じ時代を生きているのに、その"地"がわたしと大きく異なっていて、それがさらに面白くさせている。

 わたしからすると、哲学は物理学と同じで、道具にすぎない。(それが許される時代での)「正当性の基準」だったり「思考のフレームワーク」であって、時代や文化を貫く普遍的価値みたいなものでは(もはや)ない。著者は、『千のプラトー』以降、世間を震撼させるような思想が現れていない「宴のあと」状態なのを嘆いて、思想のすべてが行き詰まっている状態だとする。

 だが、わたしは同じ状況から、哲学という道具の「エビデンス」に価値基準が移っているだけにすぎないとみる。記された歴史によって価値が決定されるのなら、新たな言説がたとえ焼き直しであったとしても、話され・聞かれる価値があるのは、エビデンスがあるか否かに依る。いかなる主張だろうと、エビデンスがなければ、それは「あなたの感想ですよね?」になる。さもなくば、「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」だ。

 哲学者はどこにいるのか? 大学で哲学史を教授しているだけでなく、人工知能や認知心理学、進化医学、認知科学の一線で実践している。たとえば、ダニエル・デネット、AIと心の科学ので哲学を実践している。あるいは、鈴木貴之、脳と意識のハードプロブレムを、いかに認知科学的に解けるか取り組んでいる。本書の肩から眺めると、どのルートが考え抜かれているかがよく見える(まずはフーコーをちゃんと読む必要があることも……)。

 現代思想の肩に乗り、その意義を探りつつ全体を俯瞰する一冊。

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殺傷力の高いラブストーリー4選

 「ずっと前から好きでした」の殺傷力はなかなかのもの。

 幼なじみの男子への告白を、「予行練習」と誤魔化したことから始まるすれ違いを描いたボカロが原作で、マンガや小説になり、映画にもなっている。息子がくり返し聴いているので耳にタコができている。

 息子がハマっているノベライズ版『告白予行練習』を読んでみると、これがまた超絶×極甘仕立てとなっている。糖尿病になるくらい甘々で、耐性があればキュンキュンし通しだし、なければ悶死すること請合う。キラキラした甘酸っぱい青春模様は、別の星・別の生物を眺めているくらい非現実的だ(なんだよあの頭のお団子は!?)。同時代の頃は眩しすぎて目を背けていたのだが、なるほど高校恋愛はこういうのが理想なのか……と感慨深い。高校生のわたしなら、直視に耐えかね、瞬殺されていただろう。

 わたしが薦める作品を放り出し、自分で「好き」を探索する子を見ていると、ちょっと寂しい。期間も経験も物量も間口も深度も感度も精度も、わたしのほうが上だ(親の傲慢)。だから、わたしが薦める作品を読めば、余計な回り道をすることなく次々と傑作にめぐり合えるはずなのに(そうカスタマイズできるのに)。

 けれども、そんなわたしの手を振りほどき、アドバイスもお薦めも聞こうとしなくなって久しい。おそるおそる歩いていた公園が行きつけとなり、わたしを放り出してどんどん勝手に行ってしまうようになった時期を思い出す。それはもう10年以上も昔の話なのだが、息子の成長ぶりに目を見張る。いっぽう、自分の趣味を押し付けようとするわたしの身勝手さが目に余る。

 よかろう。大きなお世話を百も承知で、ここはひとつ、対抗作品を挙げてみよう。とーちゃんが選んだ、殺傷力の高いラブストーリーを受けてみろ。すべてを潜り抜け、それでも立っていられたら、とーちゃんを超えたことになる。獅子はわが子を千尋の谷に突き落として試すというが、ホントに死んでしまうかも級の、リア充御用達のやつ。

 注意しなければならないのは、これらはけして、「大人のラブストーリー」ではないこと。プロトコルまみれの大人の恋愛ではなく、疲れた大人を癒す(もしくは殺す)、プリティでピュアピュアなラブストーリーだ。


たまこラブストーリー

 「ずっと前から好きでした」の昇降口のシーンは、破壊力がある。告白を「練習だ」と言い張る夏樹のいじらしさは、(その後の展開とも相まって)ずっとそっと心にしまっておきたい美しさがある。これに対抗するのは、「たまこラブストーリー」の河原の告白シーンである。

 これだ。

 もち蔵視点のたまこがかわいすぎて直視がつらい。すっとカメラを引いて、飛び石の二人をロングショットで眺める視点がある。これがわたしだった。告白することも、されることも、そういう状況に近づくこともなく青春を終わらせると、残りの一生、それを探し回ることになる。

 ラノベやアニメは、失われた青春を求める代償だと自覚している。人は最後に思い出したものを過去として生きている。なかった青春を甘酸っぱい記憶で上書きすることで、せめて、最後は幸せな記憶にしようと求める。「たまこラブストーリー」はそんな記憶がたくさんある。商店街の路地、体育館の場面、教室の窓辺、そして新幹線のホーム。ラストの一瞬、(糸電話の中で響き渡る)たまこの声に持ってかれた。心ぜんぶ。初見の映画館、本当に真っ暗闇の中で聞いた「もち蔵、大好き!」に死んだ(以降、それが聞きたくってDVDが出るまで5回ほど通うことになる)。初見の感想は、[『たまこラブストーリー』で幸せな記憶を]に書いた。

 やわらかくって、あったかくって、ぷにぷにで、観た人を幸せにする、おもちみたいなラブストーリー。テレビシリーズを見てなくても問題ないので、ぜひ幸せになってほしい。


この恋と、その未来。

 幸せの次は、辛い恋にしよう。

 恋とは、求めるものを投影した相手に惚れてから幻滅するまでのわずかな期間のことを指すか、または一生醒めない夢を見続けること。従って、叶った恋は恋でなくなるから、ホントの恋は片想いになる。「この恋」を、ずっと大事にしていきたいのなら、決して明かしてはならないし、露ほども表にしてはならない。そのためには、嘘でもいいから彼女をつくり(そのコにとってはいい迷惑だ)、周囲を騙し、自分を偽る。恋の本質は、秘めた幻なのだ。

 表紙の人は、未来(みらい)といい、GID(性同一性障害)である。身体は女性なのに、心は男性という不安定な思春期を過ごし、「男」として全寮制の高校に入学する。そのルームメイトとなった四朗が主人公で、未来のことを好きになってしまう───というのが物語の骨格になる。最初は、戸惑いながらも男として、親友として接していく。しかし次第に、女の身体という秘密を隠す共犯者として、そして、いかにもラノベらしいフォーマットに則ったイベントを進めていくうち、だんだんと惹かれていく。

 この恋を明かしたならば、恋が終わる。そもそも、体は女で心が男に惹かれるこの気持ちは、恋なのか。この痛みと苦しみを味わおう。この苦痛はじわじわくるので瞬殺は少ないだろう。もっと長い感想は、[最高のライトノベル『この恋と、その未来。』───ただし完結するならば]


秒速5センチメートル

 ひとを好きになるとはどういうことかと、そのひとを好きになった気持ちはなにになるのかが、分かる(答:こころそのものになる)。

 3編にわたるオムニバス形式で、初恋が記憶から思い出となり、思い出から心そのものとなる様を、驚異的なまでの映像美で綴っている。ノスタルジックで淡く甘い展開を想像していたら、強い痛みに見舞われる。わたしの心が身体のどこにあってどのような姿をしているのか、痛みの輪郭で正確になぞることができる。

 感想は[『小説・秒速5センチメートル』の破壊力について]に書いたが、その反応はてなブックマークのコメントが面白い。いわば「人を選ぶ」作品のようで、刺さる人には致死的であり、刺さらない人には全くらしい。好みは人それぞれなのだが、刺さらなかった人は、何が刺さるのか教えてほしいもの。

 ぜひご教授いただきたいのは、これらを上回る殺傷力をもつ作品があるかどうか。もしご存知なら、教えていただきたい。食わず嫌いはしない。失われた青春を求めて、何度でも死ぬつもりだから。

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『小説・秒速5センチメートル』の破壊力について

 もし今まで観た中で最高のアニメを問われたら、ためらうことなく「秒速5センチメートル」を挙げる。

 3編にわたるオムニバス形式で、初恋が記憶から思い出となり、思い出から心そのものとなる様を、驚異的なまでの映像美で綴っている。

 ノスタルジックで淡く甘い展開を想像していたら、強い痛みに見舞われる。わたしの心が身体のどこにあってどのような姿をしているのか、痛みの輪郭で正確になぞることができる。予備知識ゼロで観てしまったので、徹底的に打ちのめされた。涙と鼻汁だけでなく、口の中が血の味がした(ずっと奥歯を噛みしめていたんだと思う)。初めて観終わったとき、それほど長い映画でもなかったのに(1時間とすこし)、疲労感で起き上がれなくなった(ずっと全身に力を込めていたんだと思う)。

 何度も観ているうちに、「それを観たときの出来事」が層のように積まれていく。どんな季節に、誰と/独りで、何を思い出しながら観たかが、痛みとともに遺されていく。あるときは彼の気持ちになり、またあるときは彼女に寄り添い、観たという記憶が思い出になる。「桜花抄」の焦燥感も、コスモナウトの広大さも、そして「秒速5センチメートル」の切なさも、ぜんぶ宝物だ。

 何度も観ているうちに、わたし自身の記憶と重なる。思春期のときに罹る「ここじゃない」感も覚えている。社会人になって心が少しずつ死んでいく感覚も知っている。だからこそ貴樹にシンクロしてしまい、そのキスが完璧であればあるほど、それに囚われてしまっていることにもどかしく、やるせない気持ちになる。その背中を見ている花苗が純粋でまっすぐで情熱的で、いじらしさを通り越して痛ましさまで感じてしまう。

 ああいうラストでなかったなら、もっと前向きなイメージを保てたはずなのに、あの手紙を渡せていたなら、もっと違った未来があったはずなのに、何度見てもストーリーは変わるはずもないのに、それでも強く願ってしまう、こうあってほしいと。そして観るたびに印象が変わる、あのラストの一瞬間、その人はあの人だったのだろうか(そんなわけない/ひょっとして……)、そして二人は視線を交わせたのだろうか(小田急の方が早い/微笑みが残されている)。

 そういうもやもやした思い出を引きずって、作品そのものにわたしが囚われて、貴樹みたいにいつまでもどこまでも未練たらたらに惑っている。そういう、呪いみたいな思い出を昇華してくれたのが、『小説・秒速5センチメートル』だ。映画と小説は相互補完的にできており、「秒速5センチ」にまつわるやりとりや、岩舟駅の駅員さんの優しい心遣い、ずぶ濡れになって露わになった身体の線だとか、ずっと謎だった「あの日、明里が家に帰らなくても親は心配しなかったのか?」が分かった。

 そして一番嬉しかったのは、あのラストシーン、わたしが陥っていた喪失感から救われたように思えたこと。ここは意図的に違えて書いているのだろう、どうにもならない現実と、どうしようもない思い出と、なんとか折り合いをつけて生きている貴樹が前へ進めるような、そんなラストだ。あのお互いの「渡せなかった手紙」に書かれていたことからも分かる、たとえ渡さなくても、気持ちはすでに伝わっていたことに。

 最後の数ページ、文字がにじんで桜吹雪に重なる。最初のシーンの駆けてゆく二人の後姿が見える。山崎まさよしの「One more time, One more chance」のサビがくり返し繰り返し響いてくる。映画によって厚く積もった思い出が、ゆっくり、じんわり溶けてゆく。呪いは解けた。もちろん痛みはある。もったいなくて、忘れたくない。この痛みもひっくるめて、わたしの心なのだ。

 もしあなたが、観ても読んでもいないなら幸せ者だ、明日の予定のない夜に観ればいい。もしあなたが、観たけど読んでいないなら、もっと幸せ者だ。明日の予定のない夜に読んで、そのあと映画を観ればいい。約束する、これ読んだら、もう一度、観たくなる。

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知の科学へようこそ『教養としての認知科学』

 知的システムと知能の性質を研究する認知科学の入門書。人はどのように世界を認識しているか? より知的な存在を作り出すことができるか? 「考える」とは何か? そのとき何が起きているのか? といった疑問を抱いている人にとって、格好の入り口となる一冊。

 なぜなら、この領域は下記のごとく広範囲で学際的だから。むしろ、「知の科学」はつかみどころがなさすぎて、いったん扱える範囲に切り分け、それぞれの専門分野から光を当てないと、攻略すら難しい。

 人工知能(ニューラルネット、コネクショニズム)★
 神経科学(認知神経科学、脳科学)
 哲学  (心の哲学、認識論)★
 心理学 (認知心理学、進化心理学、文化心理学)★
 言語学 (生成文法、認知言語学)
 人類学 (認知人類学、認知考古学)
 社会学 (エスノメソドロジー、ナラティブ分析)

 本書は、青学・東大の人気講義を書籍化したもので、「知の科学」を多角的に紹介している。もとは哲学の領域だった「表象」の概念から、記憶や思考のベーシックス、コンピュータと人の思考プロセスの類似と相違、身体化された知性などを、広く薄く分かりやすく解説する。おそらく教養課程の講義なので、枕詞「教養としての」がついているのだろうが、ずばり「認知科学入門」のほうが中身に合っている気が。

 「知の科学」が面白いのは、好きな領域から登り始めればいいところ。選んだ専門に没頭して直登するのもいいし、表象や情報フレームワークが張り巡らされているから、隣接する分野へトレッキングしてもいい。わたしは欲張りなので、特に興味のある★領域から並行して攻略している。ある分野に精通するようになってから、別の領域に足を踏み入れると、知のありようはがらりと変わって面白いし、登るのが困難なら別ルートで迂回してもいい。この組み合わせの妙が愉しい。

 たとえば、「4枚カード問題」という事例が示される。有名な問題なので、どこかで聞いたことがあるかもしれない。これは、人がいかに論理的に考えていないかを示す格好の教材である。

【問1】

4枚のカードがある。このカードの片面には数字が、もう片面には平仮名、あるいはカタカナが書かれている。さて、このカードは「片面が奇数ならば、その裏は平仮名」となるよう作られているという。本当にそうなっているかを調べるためには、どのカードを裏返してみる必要があるか。何枚裏返してもかまわないが、必要最低限の枚数にすること

      「3」
      「8」
      「う」
      「キ」

 答えは反転表示→「3」と「キ」。「3」はすぐに分かる。裏側がカタカナだったらルール違反になるから。「キ」を裏返す必要があるのは、もし奇数だったらルール違反になるから。最初のカードは閃くけれど、次のカードの正答率は低いよという話。「4枚カード問題」に限らず、フレーミング効果や確証バイアスの事例を挙げながら、人の思考には、合理性、論理性とはかけ離れたクセがあることが紹介されている。これだけだったら、面白いトリビアになるだけだ。

 しかし、ここからぐっと興味深くなる。「4枚カード問題」を変形した、この問題だとどうなるだろう。

【問2】

あなたは、ある国の空港で入国管理を行う立場にある。この国に入国するには、コレラの予防接種が必要となっている。今、目の前のカードには、「入国」か「一時立ち寄り」が記され、裏には予防接種のリストが記されているカードが4枚並んでいる。あなたがチェックしなければならないのはどのカードか?

      「赤痢、疫痢」
      「コレラ、赤痢」
      「一時立ち寄り」
      「入国」

 本質は問1と同じのため、答えは書かない。非常に興味深いことに、この問題の正答率が問1よりも高くなったという。なぜか? 偶奇やカナといった抽象的な問題ではなく、より具体的になったからか?

 チェンとホリオークの研究(Cheng&Holyoak:Pragmatic reasoning schemas,1985)によると、この問題が「許可」の文脈で提示されたからだという。「もし○○をするなら、××をしなければならない」という形(許可のスキーマ)で出題された場合、わたしたちの推論は、論理学的な正解と一致するらしい。つまり、わたしたちは、状況の意味に対応したスキーマに基づいて推論を行っているというのだ。しかも、限られた認知のリソースを案分して、ゆらぎと冗長性を保たせながら思考している姿は、進化心理学から斬り込むと、もっと面白くなるに違いない。

 章末で紹介されている書籍がまたいい。それぞれの領域の入門から初段くらいまで取り揃えている。各章を読みながら興味を惹いた本を順に追いかけていくだけで、知の科学を縦走できるだろう。

 間口広く、奥深い、知の科学へようこそ。

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村上春樹の読書案内&創作教室『若い読者のための短編小説案内』

若い読者のための短編小説案内 もはや「若い読者」ではないし、熱心な村上春樹の読者でもないが、この一冊から得るものは多かった。理由はみっつある。

 ひとつは、なぜ村上春樹が短編小説を書くのかを、確認できたこと。もうひとつは、小説を読む喜びの根っこがどこにあるのかを、再確認できたこと。そしてみっつめは、小説を書く秘訣のうち、最も重要なものが何であるかについて再確認できたこと。すべてここで明かすつもりだが、聞いてしまえばなんてことのない。だが、そこに至るまでの過程こそが、喜びであり肝なのだ。これ、「人はなぜフィクションを必要とするのか」にもつながる話。

 本書は、以下の作家から各一作品ずつ短編小説を挙げ、読み手と書き手の両方の視点から読み解いた読書案内。米国の大学での講義内容を元にしているため、しゃべり言葉になっており、とても読みやすい。また、あらすじを紹介しつつ進めているため、これらを読んでなくても問題なく楽しめる。(ただし、きっと読みたくなる)。

 吉行淳之介  『水の畔り』
 小島信夫   『馬』
 安岡章太郎  『ガラスの靴』
 庄野潤三   『静物』
 丸谷才一   『樹影譚』
 長谷川四郎  『阿久正の話』

 一作品につき一章を割り当て、自身の創作手法も織り交ぜながら、紹介と読解を深めてゆく。「長編小説を書くためのスプリングボードとしての短編小説」「フィクションとしての説得力をどうやって保たせるか」など、短編小説に限らず創作を志している方であれば、たくさんの気付きが得られるだろう。ここでは、「自分を回復させるために書く」件で最も響いた一文を引用する。

物語を書くことによって、心の特定の部分を集中的に癒すことができます。精神的な筋肉のツボのようなところを、ぎゅっと効果的に押さえることができます。それは短く深い夢を見ることに似ています。

 上述の6作品のうち、わたしは『樹影譚』しか読んでないが、かつて『笹まくら』で打ちのめされた「意識の流れをずらす+信頼できない語り手」手法が濃密に凝縮している……という印象だった。このぼんやりとした印象を、本書では「丸谷才一の変身術」として、明晰に徹底的に語りつくしており、二重に驚いた。手品のタネあかしだけでなく、その手品がどこからやってきたかまで曝露しているからだ。egoとselfのせめぎあいから、その作家の「作家性」にまで寄り添った"読み"は、わたしの"読み"とはまた違って、深くて濃くて面白い。

 村上は言う、本の読み方というのは、人の生き方と同じであると。ひとつとして同じ読み方は存在しない。読むことも、生きることも、孤独で厳しい作業かもしれないが、その違いを含めた上で、あるいはその違いを含めるがゆえに、まわりにいる人々のうちの何人かと、とても奥深く理解しあうことができると。「気に入った本について、思いを同じくする誰かと心ゆくまで語り合えることは、人生のもっとも大きな喜びのひとつである」。わたしたちは孤独な存在だけれど、小説という幻想を共有できる場所を持つことで、少しのあいだ慰められるのだろうか。

 いちばん激しくうなづいたのは、小説を書く上で最も重要なところ。わたしに最初に教えてくれたのは、開高健、そして夏目漱石とボルヘス。最近だったら、ロベルト・ボラーニョがその作品(『2666』な)でもって示してくれた、小説の極意。村上春樹は、わたしの知る限り最も簡潔に、この極意を伝えている。

おそらくそこがキモなのですね。語られなかったことによって何かが語られているという、ひとつの手応えのようなものがあります。優れた作家はいちばん大事なことは書かないのです。優れたパーカッショニストがいちばん大事な音は叩かないのと同じように。

 パーカッショニストに喩えるところがいかにもだが、言わんとすることは絶対に忘れない。小説という形で差し出されたとき、それは(どんなに取り繕ってみせても)一つの嘘なのだ。真実を、真実だからという理由でそのまま書いたとしても、それはリアリティを欠いた、ひどく薄っぺらなものになるだろう。では、小説家はどうするのか? その代わりに、ひとつの嘘をでっち上げる。その嘘おかげで、物語は質量と体温を持てるようになり、嘘の中のリアリティとして扱えるようになる。ラブレーが喝破した「三つの真実にまさる一つのきれいな嘘を!」を、村上は物語の力だという。

僕らはその小説を書き上げ、「これは現実じゃありません。でも現実じゃないという事実によって、それはより現実的であり、より切実なのです」と言うことができます。そしてそのような工程を通して初めて、それを受け取る側も(つまり読者も)、自分の抱えている現実の証言をそのファンタジーに付託することができるわけです。言い換えれば幻想を共有することができるのです。それが要するに物語の力だと僕は思っています。

 これは受け取る側(読者)にも言える。ファンタジーというに付託する方向とは逆に、「きれいな嘘」のおかげで現実との折り合いをつけるやり方だ。現実は巨きすぎで、辛辣で、ややもすると圧倒されて何も考えられなくなる。そうなる前に、現実のメタファーとして小説を楽しむことによって、現実をシミュレートする。「現実そのままを生きる」なんてそれこそ嘘で、なんらかの形に加工することで、"かなしみ"だとか"愛"といった認識に帰着させることができる。それに気付かせてくれるのが優れた小説であり、その手技を紹介してくれるのが、本書になる。

 最後に。本書の講義をする際、学生に要求したこと3つを紹介する。これは、村上自身が心がけているポイントでもある。簡単そうに見えるけれど、これは、かなり難しい。

  • 何度も何度もテキストを読み込むこと(細部まで暗記するまで)
  • テキストを好きになろうと精いっぱい努力すること(冷笑的にならないように努めること)
  • 読みながら頭に浮かんだ疑問点を、どんなに些細なこと、つまらないことでもいいから(むしろ些細なこと、つまらないことの方が望ましい)こまみにリストアップして、みんなの前でそれを口にするのを恥ずかしがらないこと

 よい短編で、よい人生を。

 そうそう、次回のスゴ本オフのテーマは「短編集」。いつもは、「SF」とか「食」といったジャンルテーマなので、出てくる作品も似通ってくる。しかし今回はフォーマット縛りなので、器に何が入っているかは、出てきてからのお楽しみ。純文、文芸、ミステリ、エンタメ、ロマンス、ホラー、SF、冒険、ファンタジー、ノンフィクションとなんでもありだし、言語圏、地域、年代、作家しばり、ショートショート、オムニバス、アンソロジー、詩集も句集も「短編集」になる。

 読まずに死んだらもったいない鉄板から、思いもよらない傑作まで、いい短編に出合えることを請合う。詳細はfacebookで。アカウント持ってない方は、twitter(@Dain_sugohon)に@してくださいまし。

 7/23(土)13:00-17:00
 渋谷某所
 途中入退場OK
 facebookスゴ本オフ「短編集」の会

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