女、夜、死という三つの切り口を通して、広告で社会を語る『女と夜と死の広告学』
女、夜、死という三つの切り口を通して、広告のありようを探った一冊。
欲求を煽るのが広告なら、その変遷は欲望の歴史になる。反対に、広告が象徴するものを振り返ることで、それについて人々がどんな考えを抱いてきたかの変化を垣間見ることができる。わたし自身が気づかなかった観念の変化を「広告」の鏡で知らされるような、なかなか楽しい体験をした。
本書は、広告を使って時代の見取り図を描こうと試みる。広告は、どこにでも転がっていながら、人々や企業の欲望や時代の無意識が混ざり合って詰め込まれているという。「これを買う人・使う人は、こんな人」という形で、広告が示す多様な自己像は、買う買わないに関係なく、それに触れる人々のパーソナライゼーションに影響を与える。これを読みほどくことで、無意識の自己像があぶりだされてくる。
特に面白いのが、アイデンティティを巡るせめぎあいが、熾烈であらざるを得ない性だという「女」に焦点を当てた分析だ。「奥さん」「妻」「母」「彼女」「女」「女性」などの言葉で象徴される女性のありようの変容を、広告に登場する女性たちから浮彫りにする。
「遊んでいるお母さんが好きですか
働いているお母さんが好きですか」
サントリー、1985
「女性の美しさは、都市の一部です」
資生堂、1981
この40年で見た場合、時代を経るにつれ、「奥さん」の登場回数が減少する一方で、「女」ないし「女性」という一般化された言葉の出現率が著しく伸びているという。著者はそこに、女性のアイデンティティについてフェミニズムが与えた影響を見いだす。
「ファッションが女の生き方なら、下着は女性自身です」
ワコール、1978
「死ぬまで女でいたいのです」
パルコ、1976
「自分に正直になればなるほど、女は評判が悪くなるのです」
ラングラージャパン、1977
さらに著者は、女の身体性を、真正面から肯定する言葉や、感情管理を拒否したときに生じる不都合を告発するコピーを引きながら、1970-80年代は、消費者市場を巡る言説そのものがフェミニズムを推進している実験場だったと指摘する。女の「女らしさ」の一部は、広告によって育ったと考えると興味深い。
このアプローチを「死」にあてはめた分析も面白い。広告という、どちらかといえば現世に肯定的であるはずの場所に、死がどのように入ってきたかを、「死を巡る概念の変化」にからめて探る。
つまりこうだ、共同体のしきたりによって対処される死から、本人や遺族の意向により扱われる死への変化が底流にあるという。個人化された死は、人々のライフスタイルについて語るとき、自然と視野に入ってくるという。強い訴求力を持つ「死」は、この変化によって広告の主題になるのは、当然の成り行きなのかもしれぬ。
たとえば、タブーを消費する広告として一世を風靡したのが、1991年のベネトンの広告キャンペーンだ。死に行くエイズ患者、人骨を持つアフリカの兵士、血まみれのシャツとズボンなど、報道写真を使ったシリーズは、覚えている方も多いだろう。ざっと見てもこんなにある。
手錠でつながれた白人と黒人の手 1989
黒人女性の乳を飲む白人の赤ん坊 1989
様々な色のコンドーム 1991
難民の群れ 1992
石油流出で油にまみれた鳥 1992
死刑台の電気椅子 1992
ボスニアで殺された男の血まみれのシャツとズボン 1994
フランスの広告審査機構は、このキャンペーンに対し反発し、「広告は人間の苦痛、無秩序、いいかえるなら死を見せてはならない」と満場一致のもとで禁止勧告を行ったという。これは、タブーを逆手にとった広告の勝利だろう。
また、社会性の教育の役を果たす広告の事例も興味深い。避妊だけでなく性病予防としてのコンドームの重要性が浸透したことには、オカモトが一役買っていることがよくわかる。
「コンドームがなければ、愛し合うことが、傷つけあうことにもなる。愛があれば死んでもいいなんて、コンドームをつけてから言ってください」
オカモト、2003
また、(最近は見なくなったので傾向は分からないが)一昔前は、衝突実験による実験人形の擬似的な死をセンセーショナルに描くCMが流行ったことを覚えている。50km/hで走行するクルマが衝突したときの車内の様子を映すことで、死をシミュレートしてみせる。
「本当に子どもを愛しているのなら、クルマの中では子どもを抱かないのが愛情です」
日本損害保険協会、1998
広告によって、自分のアイデンティティを輪郭を形成していく構図は、過去を振り返ることによって、はっきりと見えてくる、面白い試み。
広告を語ると同時に、広告で考える一冊。
| 固定リンク
コメント