« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »

『心はすべて数学である』はスゴ本

心はすべて数学である 心を数学で解く。または数学に現れる心の動きを明かすスゴ本。著者が見えている場所を想像して興奮し、著者が見落としている領域が分かって武者震いする。

 「心とは何か」について、カオス理論の第一人者である津田一郎氏と、かなり近いところにいることが分かった。漠然と思い描いていたことが、わたしとは違う方法論で明示されており、何度もエウレカとつぶやかされる。心は閉じた数式で書けるものではなく、ゲーデルの不完全性定理やカントル集合など、不可能問題や無限の概念を作っていくプロセスを応用しながら接近していくアプローチが有効だという。

 心は単独で形成されるものではなく、他者や環境とのコミュニケーションによって発達する。「私の心」と「他者の心」という区別は一種の幻想で、相互に影響しあっている以上、離散的なものにならざるを得ないという。

 それでも、何らかの共通的な普遍項があるように見える。その共通項を、「抽象的で普遍的な心」と見なし、それが個々の脳を通して表現されたものが、個々の心だと仮定する。そして、「抽象化された普遍的な心」こそ、数学者が求めているもので、数学という学問体系そのものではないかという考えを示す。この部分は、わたしが数学をやり直す動機に直結する。

 すなわち、「人が認識できる(説明できる)抽象性の極限が仮にあるとするなら、その境界線は数学が描くことになる」である。紫外線は見えないが、実験や機材を通して認識することはできる。植物の成長、超巨星デネブ、超弦理論のモデルも然り。抽象度を上げた場合の、機材やモデルに相当するものが、数学だ。従って、世界を認識する言葉やモデルで埋め尽くされた全部と、数学が描いた抽象的な限界線が、ヒトの心が届く範囲になる。従って、著者の主張の半分「数学は心だ」は、その通りだ。

 しかし、残り半分の「心は(すべて)数学だ」は、わたしの見解と異なる。わたしの中では、まだ決着がついていない。著者は「数学は情緒である」岡潔の言葉を引きながら、数学が形式論理ではなく感性によって成り立っていることを示す。これにより、

 心は数学を包含する (心 ⊇ 数学)

 これは納得できる。だが、「数学は心を包含する」もしくは「心は数学と一致する」というならば、違うのではないか。著者はヒトの作り出す美や建築物に、幾何学や代数、解析学が含まれていることを示し、心の動きに数学があると主張する。そこを否定するつもりはないが、数学では示せない心があることを見落としている。

 たとえば、ゼロで割ることについて。数学の世界において、ゼロ除算は禁止されている。ゼロ割は、未定義、ナンセンス、infinityなど、数学の世界の外側にある。ただし、なぜナンセンスなのかは「心」で想像できる。

 4個のリンゴを4人で分けたら、1人1個
 4個のリンゴを2人で分けたら、1人2個
 4個のリンゴを1人で分けたら、1人4個

では、0人で分けたら「分ける人が誰も居ないなら、分けられない」になる。式を立てた上で、その無意味さについて心を働かせることができる。ゼロ割は例外やエラーを引き起こすため、プログラミングの世界では受け取った引数をチェックするのが常識だ。ゼロ割は、数学の世界の外側にあるが、そこを想像することはできる。

 さらに、「いまの数学では」という但し書きがつく。ある数aについて、現在は「a/0」は数学的に意味を持たないが、将来なにか興味深い結果を導き出すことになるかもしれない。

 これは、複素数の概念が好例だ。二乗してマイナスになる虚数を初めて知ったとき、パズルとして面白いかもしれないが何の意味があるのだろうと疑問に思った。後に、数学の世界に限らず、物理学、工学、電磁気学で無くてはならないものと知って驚いた。虚数が生まれたのが500年前なら、あと500年で「a/0」がそうならないとも限らない。

 このように、数学は、数学の中で定義できることを扱う思考体系だから、そこに表象されるものが「心」だというのはできる。だが、心の全てが数学であるというには、別のアプローチが必要だろう。そのやり方として、数学が定義できる限界を、心の抽象度の限界と近似すると仮定して、数学の形から心の形をあぶりだす。ヴィトゲンシュタインに倣うなら、「語りえぬもの」の境界線を、言葉ならぬ数学に引いてもらうわけだ。(まだ読めていない)以下のわたしの課題図書に、そのヒントがあると睨んでいる。これらは、『心はすべて数学である』の著者や読者にも有用かもしれない。

 『数学を哲学する』(スチュワート・シャピロ著)筑摩書房
 『数学の認知科学』(ジョージ・レイコフ著)丸善出版

 まだある。「数学は心である」仮説に則って、著者は心と脳の問題を数学的に解こうとする。海馬におけるエピソード記憶の伝達の仕組みを、カオス的に説明するところはゾクゾクするほど面白い。

 しかし、なぜ「脳」なのだろうか。ヒトは脳だけで考えているのだろうか、心は脳にしかないのだろうか。もっと生理的な、情緒に近いところは、腸や皮膚にあるのではないか。科学的な裏づけとしては、神経細胞の数やホルモン分泌、セロトニンの生産といった断片的なものしか知らない。だが、わたしの経験として、心は身体全体から影響を受けていると感じる。心の動きに対し、脳に限らず、もっと身体性に近いところから説明しうるのではないかと考える。

 著者は、自分の専門であるカオス理論を元に、さまざまな道具立てから心の問題に近づこうとする。そのアプローチが興味深ければ深いほど、そこにないルート―――進化や発生の仕組み、エピジェネティクスも含めた遺伝子の働きや、そこに対する化学物質や重力の影響(つまり心は物質が定義する!?)、意識のハードプロブレム問題からのアプローチ―――が浮かび上がってくる。これらを咀嚼して、「わたしとは何か」に接近したい。本書のおかげで、知的好奇心がブーストした。これは、死ぬまで夢中になって遊べる知の世界なり。

 そういう、化学反応を引き起こすスゴ本。

| | コメント (10) | トラックバック (1)

人生の役に立って欲しくない『毒の科学』

 「部屋とワイシャツと私」の2番について、妻と語り合ったことがある。

 期待と不安が混じりあった新婚ほやほや感が、甘い思い出とシンクロしてええなぁ……と思っていたら、2番だった。オンナの勘は鋭いのよと前置きしてから、「あなた浮気したら、うちでの食事に気をつけて」と警告する。なぜなら、「私は知恵を絞って、毒入りスープで、いっしょに逝こう」だから。

 ほとんどの毒は臭いや味で気付くだろうし、微量で死に至らしめるようなものは、そもそも手に入らないだろう……と言ったら、「だから知恵を絞るんよ」と返された。妻曰く、ホームセンターで手に入るような化合物は、死ぬにはいいけどスープには適していないという。経口摂取ならキノコや魚類がいいそうな。く詳しいねと言ったらニッコリされた。

毒の科学 半信半疑で『毒の科学』を読んだら本当だった。もう一度言う、妻の毒の知識は本物だった。

 『毒の科学』は、人にとって「毒」とは何かという定義から始まり、人間の体のつくりから考える、毒の効き方を分析し、致死量の概念、最強の毒ランキングを「初心者」のわたしに易しく教えてくれる。そして、毒の由来(植物、キノコ類、動物、魚・貝類)といった分類で、それぞれの毒を持つ生物の外観、致死量、飲むとどうなるか? 助かる方法を淡々と伝えてくる。

 興味深いのは、名探偵コナンで乱用されている「青酸カリ」の毒性が想像よりも弱いこと。もちろん猛毒であることは間違いないのだが、タバコに含まれているニコチンの方が強いことを知って驚いた。なるほど、コルクボールに多量の針を刺し、タバコから煮出したニコチンを浸して、「触るだけで死ぬ」暗器が出てくる『○の○○』は本当だったんだね。青酸カリは工業用に用いられるため、(その筋の人にとっては)手に入りやすいので多用されるのかな……と邪推してみたり、面白い読み方ができる。

 恐ろしいのは、人が作り出した毒である。生物毒はそれぞれの目的があって「毒」となっているだけで、そこに善悪はない。だが、人が作り出した毒は、悪意の入った化学物質だ。相手にダメージを与え死に至らしめる、容赦の無さかげんに鳥肌が立つだろう。

 さらには、後半で紹介されている毒殺事件が凄まじい。最近なら、母親にタリウムを飲ませた女子高生の事件などが紹介されているが、1986年の沖縄トリカブト殺人事件はこれで初めて知った。それはこんな事件だ。

 沖縄を訪れていた女性観光客が、突然、苦しみ悶えて死亡。遺体は解剖されたが不審な点はなく、心不全として処置された。同行していた友人が納得せず、再検査を要求したところ、トリカブトの毒であるアコニチンとフグ毒であるテトロドトキシンが見つかった。

 どちらも神経毒で摂取すると十数分で異変が生じるが、犯人は両方の毒を一度に飲ませることで、毒どうしの潰しあいが行われ、勝ち残ったほうの毒が被害者に対して「毒」としてはたらいた。結果が出るまで最長2時間かかることになり、犯人はアリバイを作ることができる。

 逮捕されたのは犠牲者の夫で、2億円近い保険金をかけ、トリカブトやクサフグを大量に購入していたという。以前の2人の妻も突然死で、なにかの毒物による他殺を疑ってもよいようなものだと報告されている。まさに、事実は小説よりも、おぞましい。

図解毒の科学 あわせて読んだのが、『図解 毒の科学』だ。こちらはもっと専門寄りで、化学式や神経系の構造図がどんどん出てくる。

 毒は人間と出会うことによって毒となるのであり、人間と関わり合いがなければ、毒は単なる「もの」でしかない。つまり、毒の誕生には人間との関係(歴史や文化)が肝要となるという。この観点から、前半で毒と人の関わりの歴史を説き、後半で毒がどのように人体に効くかを説明する。

 特に、毒を神経伝達系のメカニズムから解説する件が詳しい。神経における情報の伝わり方には2種類あり、シナプスにおける伝達物質による伝達と、細胞内の電気的信号による伝道の2種類あるといい、運動神経系と自律神経系、さらに後者は交感神経系と副交感神経系とに分けて、それぞれの伝わり方の特徴を説明する。

 つまり毒とは、これらの神経系の働きを阻害するものであり、阻害の仕方も種々様々になる。単純に「神経をマヒさせる」でくくれないところが、毒の怖さであり、どの神経系を機能不全にするかは、そのまま毒の即効性になる。何が起きるかは想像したくないが、具体的に知ることができる。

 さらに、覚せい剤の合成ルートを化学式から解説する。麻黄→抽出精製→エフェドリン→化学変換→メタンフェタミンを作るルートと、生薬→気管支喘息の薬→ヒロポンを作るルートがあるという。麻黄は漢方薬「葛根湯」にも配合されているというから、やり方によっては葛根湯から覚せい剤を作ることもできるのだろうか? その答えは書いていないけれど、やってる人がいそうで怖い。そんなに「知恵を絞」らなくとも、高校化学の知識だけで、毒の構造から生成まで理解することができる。ベンゼン環アレルギーのわたしでもすんなりハマれたのが、さらに怖い。

 さまざまな毒に詳しくなれる2冊。非常に興味深いが、けっして役に立て欲しくない2冊でもある。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

脳の中に美を探す『脳は美をどう感じるか』

脳は美をどう感じるか 人はどのように「美」を感じるのか? 美学、脳科学、心理学の知見から、美の本質を探った一冊。

 著者のスタンスは明確だ。人が美しいと感じる対象はさまざまだが、美を感じているときの脳の働きには共通性があるはずだという。この仮説を検証するため、欲求と美の関係を分析し、美術作品を見ている際に起きている脳内反応の研究を紹介し、さらには視覚認識のメカニズムから画家たちの意図や手法をもとに、美をリバース・エンジニアリングする。こうした、「美と脳」のアプローチから得られる知見やトリビア、可能性がめっぽう面白い。

 たとえば、絵を見せて「美しい」「醜い」「どちらでもない」と判断してもらう際、脳内での反応を研究した成果が紹介されている。その結果、「美しい」と評価される絵を見るとき、報酬系の部分が活発に反応しているという。これは、前頭葉の下部にある眼窩前頭皮質で、欲求が満たされるときや、その満足への期待があるときに働く部分だ。つまり、美しさは、「欲しがる脳」で感じているといえる。

 あるいは、美学の文脈で、ラマチャンドランの「ピークシフト仮説」を紹介する。誇張された特徴により、より「らしく」感じられる人の視覚機能だ。これは、認知科学の研究で近年になって明らかにされてきたものだが、昔から芸術家たちは経験的に理解・応用していた。例としてモンドリアンの画面構成が挙げられている。その線分と色彩は、視覚脳の働きを最大化するような表現がなされているという指摘は、自分の目をもって納得することができる。アート/美術は視覚の神経科学的な法則に従うといい、「優れた芸術家は優れた神経科学者」と仮説づける。この発想がユニークだ。

 だが、その一方で、あえて「美」を定義づけていない。その結果、本書を散漫にも幅広にもしてしまっている。美の美的なところは、かならずしも描かれたモチーフの美しさにあるものではない。何が美しいのか、年齢、性別、パーソナリティ、文化的背景から個人的感情まで、千差万別だろう。アトリビュートやアレゴリーは、美を理解するための手がかりにもなるにもかかわらず、そいつを無視して完全に色彩や構成だけで語るには無理があろう。著者はそこを認めたうえで、そこから受け取る体験は共通性が認められるのではないかと踏みとどまる。

 つまり、その体験の仕方を分析したところに、美の共通概念を探す。howを突き詰めることで、共通的なwhatが見えてくるというアプローチから、美を微分する。「何が美か?」に答えようとする限り、古今東西の哲学者や美術家が束になっても終わらない議論に陥る。だが、「美を感じるとき、何が起きているのか」をボトムアップで分析するなら、集合知としての「美」があぶりだされてくるという発想なのだ。

 この研究はまだまだこれからだけど、実は、わたしの中で一つの「結論」がついている。

 それは、「美とは、パターン認識における調和とズレ加減が"わたし"と合っていること」だ。これは音楽から学んだ。音楽の快や美について研究した『音楽の科学』『響きの科楽』によると、耳に入ってくる情報は選択的に減衰されて処理されている。そして、耳に入ってくる情報(=聞こえ)から次の音律やリズムパターンを予測し、予測と「聞こえ」が調和していれば、快や美を感じる(ただし、ずっと"正解"ばかりだと飽きるので、一定のズレも必要となる)。耳に入ってくる情報の処理パターンは、"わたし"の経験によって学習づけられている。音楽がどう聞こえるかは、聞こえた音そのものだけによって決まるのではなく、その人が何を聴いてきたか、ひいてはどういう音楽が聞こえると予測するかによって、「聞こえ」が変わってくる。

 ヒトの感覚の本質は、「外界から情報を得る」だ。視覚であれ聴覚であれ、情報処理の過程で、予測と実際の調和やズレを絶えずフィードバックしながら高度に発達させてきた。本来ならば、外敵から身を守り、未来の危険を予測し、子孫を残すための聴覚情報・視覚情報の処理プロセスだったが、人類にとってサバイバルな時期を越えても、このプロセスは生き残った。

 その経験の最適化が、いま聴いている・観ている"わたし"に美を感じさせる。あまりにも予測を裏切られる旋律ではなく、あまりにも予定調和な構成でない、「いい感じで経験を裏切り、更新する」ちょうどいい最適化こそが、美しい音楽であり、美しい絵画になる。音楽は、経験によって最適化された「聞こえ」の快であるように、美術は「見え」の快なのだ。

 巻末の参考資料も充実しており、読みたい本がまた増える。知的探究心を刺激するだけでなく、わたしの知見と化学反応を起こす一冊。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

それが好きなら、これはどう?『きっとあなたは、あの本が好き。』

きっとあなたは、あの本が好き。 小説好きなら必読の、連想でつながるブックガイド。

 「なにか面白い小説を教えて」という質問が悩ましい。「どんなのが好き? ジャンルや時代、国内外でリクエストある?」と尋ねると、「なんでもいいから面白いやつ」と返ってくる。面倒くさいから、ナントカ賞とかベストセラーから選べと言うと、そうじゃない、微妙に肌が合わないのだと難しいことを言ってくる。そんなときのマジックワードがこれだ。

 誰か気になる作家いる?

 「なにか面白い小説を教えて」という質問を"わざわざ"してくる人は、それまでの読書経験から小説の面白さは知っている。そして、お気に入りの作品や気になる作家がいる一方で、話題性だけで選んで時間とお金をムダにした経験も持っている。だからこそ、気になる作家から連想される作品を紹介するやり方が効く。

 わたしが好きな作家を好きなあなたが好きだとお薦めしてくる作品は、かなりの確率で鉄板だ。本書は、都甲幸治を中心に、作家、翻訳家、書評家が集まって、オススメ本を紹介しあうという、ある意味プロの鉄板が堪能できる。ただし、「鉄板≠定番」でないのが妙味なところ。未読本なら「こんな本があるのか!?」と嬉しい悲鳴を上げるとともに、既読本だと「こんな『読み』ができるのか!?」と驚くはず。

 たとえば、村上春樹が気になる人にオススメしてくる理由が良い。彼の作品には、世界と自分のズレというか、現実を自分のものとして把握できない恐れのようなものが根底にあるという。そして、現実から隔離されたような感覚を描くことに成功したのが村上春樹だという認識で、彼に先行した作家として古井由吉『杳子』を挙げてくる。そして、脳内のリアリティと論理で動いていくという共通点から、「村上春樹より怖い世界」という謳い文句でカズオ・イシグロ『充たされざるもの』をお薦めしてくる。

 さらに、その背景には「政治の季節が終わった後、いかに美しく生きるか」というテーマがあると分析して、このテーマがアジアで共有されていると指摘する。その流れで、ポスト天安門小説であるイー・ユン・リー『独りでいるより優しくて』を推してくる。確かに、イデオロギーが引っ込んで、匂いというか「やれやれ感」は似ているかも。

 あるいは、ルイス・キャロルが気になる人に、ナボコフ『ロリータ』を推してくる。少女に、男のロマンティシズムの投影しようとした試みとしてなら似通うが、非エロvsドエロなところは真逆なり。ちゃんとそこは汲み取っていて、『ロリータ』が好きな人は『不思議の国のアリス』は微妙かもしれないと釘を刺す。

 こんな感じで、大島弓子『バナナブレッドのプディング』から、ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』、谷崎潤一郎『痴人の愛』から、三島由紀夫『美徳のよろめき』が飛び出てくる。たとえ既読本でも、なぜそれなのかを聞いていくうちに再読したくなる仕掛け。「気になる作家」の隠れたテーマを読み解いて、そこからつなげる発想が面白いのだ。

 ……と、誉めて終われば良いのだが、どうしてもダメな一節がある。「伊坂幸太郎が気になる人」の章で、『ファイト・クラブ』の重大なネタバレがされているのだ。お薦めを紹介する本なのに、完全ネタバレをしているのが外道すぎ。

 もちろん、鼎談の最中は(相手に確認してから)触れるのはかまわない。だが、そのまとめをする際、編集者はその箇所を伏字にするかぼかすのが常道だ。ネタバレしている人、それを聞いている人には罪はない。何も考えずに編集に携わった人・チェックした人の咎である。本書が、何のための本であるかを、ちょっとでも分かっているなら、こんな酷いことはできないだろうに。もし『ファイト・クラブ』が未読なら、p.210を読まないように(そして一刻も早く、『ファイト・クラブ』を読んでくれ)。

 このダメな一点を除けば、素晴らしいブックガイド。あなたが気になる作家は必ずいる。その作家から、思いもよらない作品がどんどん飛び出してくる(あるいは、既読作品の新しい「読み」に出会える)。そういう出会いと驚きに満ちた、まさに「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」一冊。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

民主主義から金主主義へ『時間かせぎの資本主義』

時間かせぎの資本主義 うすうす感じていたものの、変化のキャパが大きいため、うまく言語化できないものがある。思潮のうねりとか、階層構造の変化、価値観の相対化がそうだ。何か象徴的な出来事が起きたとしても、それが「象徴的だった」ことに気づくのは、ずっと後になってから。だが、本書のおかげで、ずっと後になる前に、歴史の中での「今」が見える。

 著者はドイツの経済学者ヴォルフガング・シュトレーク。経済危機への対策とは、「時間を買う」ことで先送りにする貨幣のマジックにすぎないことと、それにより資本主義が民主主義を侵食していくプロセスが、徹底的に描かれる。時間かせぎのマジックの、いわば種明かしをしているのだが、どの手法もニュースや解説書では見聞していた。ただ、そのときは破綻回避のための「打ち手」として受け取っていたが、長い目で見ると、やってることは確かに「先送り」にすぎない。そう見える、相対的な場所をも本書は提供してくれる。

 ざっくり言うと、1970年代の高度成長期の終わりから2008年にかけて、三つの「先送り」がなされてきたという。一つ目は、インフレ・マジック。財政の手綱を緩め、輪転機をフル稼働させることによって成し遂げられた。これは、労働側と資本側との間における分配を巡る紛争を、いわば実体のない貨幣を投入することによって緩和したようなものだという。インフレは貨幣価値を下げ、(資本側にとっては)実質賃金を抑える一方、(労働側にとっては)名目賃金が上がり、分配されるパイが大きくなったかのような錯覚を与えるからだ。

 二つ目は国債発行マジック。本来なら、まず市民が稼ぎ、国家がそれに課税して初めて実在化するはずの金融資源を元にするのが筋だろう。だが、未来の税収を担保に前借りをする国債のおかげで、(そのときするべきだった)課税を回避できただけでなく、富裕層に対する大胆な減税までを実施する余裕まで出てきたという。

 そして三つ目は、国家債務の家計債務への付け替え。ローン審査を緩和し、債務者が自分でリスクを負うように制度を整備することで、低所得者に公営住宅を提供する義務から逃れ、税を節約する手法だ。労働者の未来の購買力を担保に、金融機関から金を引き出し、そのリスクを個人にとらせることによって危機を先延ばししたという。右肩上がりする住宅価格を前提とし、上がる「はず」の担保価値を元にローンを組みなおす、「借金を未来に先送りするビジネス」が公然と行われた。

 それぞれの崩壊、ショック、破綻の傷跡は生々しく、いまだ出血し続けているものもある。だが本書は、こうした新自由主義の流れが、民主主義を毀損していることを問題視する。GDP比で表すほどの巨額債務が恒常的となった国家に対し、唯一の主権者だった「国民」の他に、第二の選挙民として登場した、「ステークホルダー」がそれだ。債務国家の政府は、選挙において国民の投票動向を気にするのと同様に、次回の国債入札での金融市場の動向を気にかけるようになる。

 この動機付けは、コーポレート・ガバナンス市場における経営者と近似する。つまりこうだ。経営成績が悪く、利益を生まない(期待できない)場合、株式を売却する株主が増え、株価が下落する。すると、新株発行や借り入れによる資金調達が困難になり、経営が悪化し(以後ループ)。こうしたプレッシャーは、経営者に対し、株主利益を第一義に考えるように仕向ける。即ち、経営を合理化し、利潤と株価を上げ、得られた余剰金は従業員に分配する代わりに株主に配当するようになる。

 これと同じインセンティブが、債務国家に働くようになる。行政をスリム化して社会保障をカットし、国債価値の維持と利払いの確保に財源を充てるようにする。なぜなら、今日の債務国家は、第一の国民である選挙民の声だけでなく、第二の国民となったステークホルダーのプレッシャーがあるからだ。しかも、風評に左右されがちな第一の国民と異なり、第二の国民は日々刻々、長期金利という数字の形で見ることができる。リストラを断行する経営が評価されるように、年金カットを強行する政治が、文字通り"高く買われる"ようになる。

 ではどうすれば良いか? 著者はユーロ圏に着目し、経済力の異なる主権国家が共通通貨圏に加盟している非合理性を批判する。そして、処方箋として、自国通貨の切り下げという主権国家独自の金融政策を提言する。だが、ここまで強大になった金主主義の世界で、国民国家の主権強化や旧通貨への回帰を主張するのは、ほぼ非現実的な話に見える。危機から逃れることはできない。いつまで先送りできるのかが問題であり、いつまで民主主義の看板を掲げていられるのかが問題なのだ。

 資本主義は民主主義を殺す。そのプロセスを見る一冊。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

女、夜、死という三つの切り口を通して、広告で社会を語る『女と夜と死の広告学』

女と夜と死の広告学 女、夜、死という三つの切り口を通して、広告のありようを探った一冊。

 欲求を煽るのが広告なら、その変遷は欲望の歴史になる。反対に、広告が象徴するものを振り返ることで、それについて人々がどんな考えを抱いてきたかの変化を垣間見ることができる。わたし自身が気づかなかった観念の変化を「広告」の鏡で知らされるような、なかなか楽しい体験をした。

 本書は、広告を使って時代の見取り図を描こうと試みる。広告は、どこにでも転がっていながら、人々や企業の欲望や時代の無意識が混ざり合って詰め込まれているという。「これを買う人・使う人は、こんな人」という形で、広告が示す多様な自己像は、買う買わないに関係なく、それに触れる人々のパーソナライゼーションに影響を与える。これを読みほどくことで、無意識の自己像があぶりだされてくる。

 特に面白いのが、アイデンティティを巡るせめぎあいが、熾烈であらざるを得ない性だという「女」に焦点を当てた分析だ。「奥さん」「妻」「母」「彼女」「女」「女性」などの言葉で象徴される女性のありようの変容を、広告に登場する女性たちから浮彫りにする。

  「遊んでいるお母さんが好きですか
   働いているお母さんが好きですか」
    サントリー、1985

  「女性の美しさは、都市の一部です」
    資生堂、1981

 この40年で見た場合、時代を経るにつれ、「奥さん」の登場回数が減少する一方で、「女」ないし「女性」という一般化された言葉の出現率が著しく伸びているという。著者はそこに、女性のアイデンティティについてフェミニズムが与えた影響を見いだす。

  「ファッションが女の生き方なら、下着は女性自身です」
    ワコール、1978

  「死ぬまで女でいたいのです」
    パルコ、1976

  「自分に正直になればなるほど、女は評判が悪くなるのです」
    ラングラージャパン、1977

 さらに著者は、女の身体性を、真正面から肯定する言葉や、感情管理を拒否したときに生じる不都合を告発するコピーを引きながら、1970-80年代は、消費者市場を巡る言説そのものがフェミニズムを推進している実験場だったと指摘する。女の「女らしさ」の一部は、広告によって育ったと考えると興味深い。

 このアプローチを「死」にあてはめた分析も面白い。広告という、どちらかといえば現世に肯定的であるはずの場所に、死がどのように入ってきたかを、「死を巡る概念の変化」にからめて探る。

 つまりこうだ、共同体のしきたりによって対処される死から、本人や遺族の意向により扱われる死への変化が底流にあるという。個人化された死は、人々のライフスタイルについて語るとき、自然と視野に入ってくるという。強い訴求力を持つ「死」は、この変化によって広告の主題になるのは、当然の成り行きなのかもしれぬ。

 たとえば、タブーを消費する広告として一世を風靡したのが、1991年のベネトンの広告キャンペーンだ。死に行くエイズ患者、人骨を持つアフリカの兵士、血まみれのシャツとズボンなど、報道写真を使ったシリーズは、覚えている方も多いだろう。ざっと見てもこんなにある。

  手錠でつながれた白人と黒人の手 1989
  黒人女性の乳を飲む白人の赤ん坊 1989
  様々な色のコンドーム 1991
  難民の群れ 1992
  石油流出で油にまみれた鳥 1992
  死刑台の電気椅子 1992
  ボスニアで殺された男の血まみれのシャツとズボン 1994

 フランスの広告審査機構は、このキャンペーンに対し反発し、「広告は人間の苦痛、無秩序、いいかえるなら死を見せてはならない」と満場一致のもとで禁止勧告を行ったという。これは、タブーを逆手にとった広告の勝利だろう。

 また、社会性の教育の役を果たす広告の事例も興味深い。避妊だけでなく性病予防としてのコンドームの重要性が浸透したことには、オカモトが一役買っていることがよくわかる。

「コンドームがなければ、愛し合うことが、傷つけあうことにもなる。愛があれば死んでもいいなんて、コンドームをつけてから言ってください」
オカモト、2003

 また、(最近は見なくなったので傾向は分からないが)一昔前は、衝突実験による実験人形の擬似的な死をセンセーショナルに描くCMが流行ったことを覚えている。50km/hで走行するクルマが衝突したときの車内の様子を映すことで、死をシミュレートしてみせる。

「本当に子どもを愛しているのなら、クルマの中では子どもを抱かないのが愛情です」
日本損害保険協会、1998

 広告によって、自分のアイデンティティを輪郭を形成していく構図は、過去を振り返ることによって、はっきりと見えてくる、面白い試み。

 広告を語ると同時に、広告で考える一冊。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »