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びっくりするほどディストピア!『暴走する正義』

暴走する正義 行過ぎた管理社会を風刺する短篇集なのに、ちょい昔のSFなのに、「いま」「ここ」感に溢れている。SFとは、空想科学を用いたルポルタージュなのかもしれぬ。

 筒井康隆や小松左京、星新一や半村良など、すこし昔の巨匠たちの想像力は、当時の現実の裏返しというよりも、むしろ現代をそのまま幻視する。時代性やエログロ描写を突き抜けて、なつかしい未来を懐古するかのような気分になる。管理社会批判一色に染まってところも皮肉が利いてる。たいした抵抗もせず、軋轢もない、日常の延長上にあるディストピアは、オーウェルやハクスリーのような分かりやすさを求める人には不満があるかも。

 たとえば、小松左京「戦争はなかった」のラストがいい。最初はいかにも短篇小説らしいオチを求めていたのだが、宙吊りになる感覚に、思わず「えっ」と声に出していた。これ、ストレートに読んで、風刺として受けとめても愉しいけれど、タイトルを捻って「戦争はなかった?」とすると、もっと面白い。「あの戦争」に意味を求めたがる風潮を見事に揶揄ってる。

 タイトルだけは知っていた、式貴士「カンタン刑」もいい。普通に死刑にしてもらう方が情状酌量になるくらいの、おぞましい刑罰なのだが、文字と想像力だけでここまで気分を悪くさせてくれるのは秀逸なり。肝胆を寒からしめるという意味の「カンタン」なのだが、ダブル・トリプルミーニングが含まされており、それが明らかにされるたびに恐怖が加速する仕掛けとなっている。これ、今なら実現可能だし、「人道的」な刑罰と紹介されそうだと考えると、笑っていいやら恐れていいやら。

 多数決の名のもとに「正義」が襲いかかる、安部公房「闖入者」は黒く笑える。これ、典型的な左派をカリカチュアライズしているにもかかわらず、「正義」の名のもとにやってることは与党と一緒なので、どっちの肩を持とうが落とそうが楽しめる。まっすぐに読んじゃうよりも、掛けられている揶揄の矛先をあれこれ巡らして読むことをお薦めする。

 時代を超えても変わらない射程距離に、SFの底力を感じる一冊。

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スゴ本オフ「音楽」まとめ

 好きな本を持ちよって、まったり熱く語り合うオフ会、それがスゴ本オフ。

 本を通じて人を知り、人を通じて本に会うことで、読みたい本が何倍にも増えていく。ある意味危険な読書会なのだが、本だけでなく映画やゲーム、音楽、演劇、TV番組、展覧会、フェス、イベントまで広がってゆく。わたしの知らない凄いものを教えてもらえる嬉しい場なり。今回は「音楽」がテーマ。いつもより少人数で、いつも以上にのんべんだらりと楽しく語らうひとときでしたな。当日のtweet実況は、「パクリ経済」「つながりの進化生物学」から「さくら学院・歌の考古学」まで:音楽のスゴ本オフを見てほしい。

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 これはエモい! 感動したのが、あまのさんオススメのiOSのアプリ"PlayGround"。びゅーんで、みょにょーんで、シャラッパな気分になれる。一言なら「音にさわる」タンジブル・インタフェースであり、リズムを弄り、メロディを捻り、ハーモニーを玩ぶことが、指先一つでできる。どんな動きでもそれらしいテクノミュージックになり、直感的にエンドレスで遊べる。SEGA「Rez」をやったときのような感動や、もっと昔の、初めてハーモニカに触れたとき、音が出るのが嬉しくてずっと遊んでいた原体験に近い。脳汁あふれる気持ちいいアプリなのだが、Android版はないみたい。

 熱くて濃くて、お金のにおいが一杯するのが、最近のアイドル。やすゆきさんがBABYMETAL、zubapitaさんがさくら学院について熱くロジカルに語ってくれたのだが、これがものすごく面白い&タメになる。出来上がった偶像の歌や踊りやゴシップを「消費する」のが昔のファンなら、今はそうした偶像に至るまでの努力と根性と友情のプロセスを「応援する」産業ができている。特に、さくら学院は、学校を模したアイドルユニットというよりも、むしろアイドルを模した学校の一つのあり方なのかも……と思えてくる。

 「アイドルを売り出すプロセス」そのものを売る構図は、それをゲーム化したアイドルマスターに重なる。応援やグッズを買う行為がそのまま「育成」につながるシステムは、採算が取れるのだろうかと心配するが、今のところ無用らしい。ときメモGirl's Sideやキンプリに倣って、「男の子のアイドル育成ビジネス」を提案するも、難しいらしい。

music これは読みたい! と思ったのが、古川日出男『MUSIC』。音楽がテーマの本ではなく、読むことが音楽になる小説とのこと。読んでみると音楽としか思えない体験が得られる。やたら手数が多いジャズドラマーのような文体で、意味なんて超越した言葉が飛び交うシーンもあり、物語的構図を念頭に先を予測すると、約束事がどんどん外されてスウィングされまくる。それらがビートになり、リズムになってゆくという不思議な小説で、小説というよりも、むしろアトラクションだと思ったほうがいいとのこと。

告白 これ、テンポのいい河内弁にノせられながら読むロックともいえる町田康『告白』を思い出す[レビュー]。じゃかじゃか転がる話を面白がっていくうちに、やめられなくなる。句読点で刻まれたリズムに中毒になり、朦朧としてくる。そして、これがどこに向かっているのかが薄々わかるようになるにつれ、その真っ黒なラストが恐ろしくてたまらないのだが、その正気と狂気の境目がいっさい無いところが限りなく恐ろしい。キ○ガイシミュレーターとはよく言ったものよ。

パクリ経済 わたしが紹介したのは、カル・ラウスティアラ『パクリ経済』の「カバーミュージック」の件。『パクリ経済』は、コピーがイノベーションを起こす事例とメカニズムをまとめた好著なのだが、特に音楽のコピーというテーマが熱い&多くの気づきが得られた。すなわち、音楽のコピー・再生には厳しい制限があるが、一定額を支払えば、自由に原曲を「カバー」できる「強制許諾」という抜け道だ。

 この抜け道は、100年前の巨大企業、「エオリアン」社の暗躍のおかげ。エオリアンは、ロールをセットするだけで、ピアノを自動演奏する「プレイヤーピアノ」の製造販売会社で、当時の音楽業界を支配していた。エオリアンは、ロビー活動を行い、著作権法を変え、あらゆる音楽について「強制許諾」が可能になるようにした。結果、カバーミュージックは音楽文化を豊かにしたことになる。

 100年後の現在、同じ状況が起きようとしている。初音ミクのようなボーカロイドだ。著作権的には「楽器」と同じような位置づけとなるボカロだが、そこに読み込ませる楽曲ファイルはプレイヤーピアノのロールのようなものになるのでは? 仮にこれが認められれば、「ミクの声」である必然性がなくなり、原曲そっくりにミクが歌うのは法的に許されてしまうという状況が生まれる。セカオワのボーカルの「声」がライブラリ化[VOCALOID4 Library Fukase]されているのを見ると、かなり近い将来、「あらゆる音楽はカバーになる」のではないだろうか。

  • Orange Garden Pop/YUI
  • Rattle and Hum / U2
  • kiramekiの雫/さくら学院
  • PlayGround / iOS
  • 『パクリ経済』カル・ラウスティアラ(みすず書房)
  • 『ワンダー』R・J・パラシオ
  • 『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』小澤竹俊
  • 『サウンド・オブ・ミュージック』マリア・フォン・トラップ(文溪堂)
  • 『ある小さなスズメの記録』クレア・キップス(文春文庫)
  • 『つながりの進化生物学』岡ノ谷一夫(朝日出版社)
  • 『ミツバ学園中等部 入学案内』ふかわりょう(扶桑社)
  • 『レクイエムの名手』菊地成孔(亜紀書房)
  • 『壁抜け男の謎』有栖川有栖(角川書店)
  • 『純情ババァになりました』加賀まりこ(講談社文庫)
  • 『MUSIC』古川日出男(新潮社)
  • 『音楽』三島由紀夫(新潮文庫)
  • 『本当はこんな歌』町山智浩(アスキーメディアワークス)
  • 『Music Kids Book #2』著者チームキッズトーン(エムオン・エンタテインメント)
  • 『機関車トーマス』
  • 『音楽嗜好症』オリヴァー・サックス(早川書房)

 次回のテーマは、「こわいもの」。もちろん、ホラー・怪談ものを紹介してもいいけれど、人によって怖いものは様々かと。たとえば、「上司が怖い」「結婚が怖い」「月曜日が怖い」「蓮コラが怖い」「高いところが怖い」などがあるだろう。そうした、「あなたの怖い」にまつわる作品があるだろうか? 幽霊からまんじゅう怖いまで、いろいろな「怖い」を持ちよってみよう。

 紹介するものは、本や映画、音楽、ゲームなんでもありだけど、そこから「この一行/一節/ワンシーンにぞくっとした」一文を紙に書いて張り出してもらうので、腕によりをかけて選んでおいてほしい。

 最新情報は[facebookスゴ本オフ]に上がるので、チェックしてね。

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サラリーマンの父より息子への6冊の本

甘城ブリリアントパーク すべては『甘城ブリリアントパーク』が始まりだった。

 経営難の遊園地を立て直す、天才イケメン高校生の物語なのだが、これに父子でハマった。夢を売る遊園地でありながら、資金繰りやら人材確保に奔走する泥臭い姿に共感したのだ。ブラック&お下劣ユーモアに笑い、喪失と再生のクライマックスに涙した後、息子はすっくと立ち上がり、こういった。

 「コンサルタントに、俺はなる!」

 ええと、これはフィクションであって実在の人物・団体とは関係ないよ? たとえ経営スキルが高くても、美少女が銃つきつけてスカウトしに来たり、生尻ラッキースケベなんて美味しい目はないよ? それにコンサルタントなんて経営層ウケはいいけど、嘘つきで憎まれ役のいかがわしい商売だよ、とーちゃんやったことあるから→[コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。』]

 父の説得むなしく、息子の決意は固い。仕方ない、まずは学校の勉強を頑張ろう、基本だからねと促すと、ガンガン勉強するようになった。すごい。『けいおん!』でギター始めた人がいる。『響け!ユーフォニアム』でユーフォ買った人がいる。『花咲くいろは』や『SHIROBAKO』で就職先を決めた人もいる。アニメは多くの人生を変えてきた。子が望むのなら、親としては後押しせざるを得ない。それに、コンサルタントは極道だけど、その技術やノウハウは、どこへ行っても有用だからね。

 というわけで5冊選んだ。学校のカリキュラムに入ってなさそうな、しかし重要なジャンルだ。学校であまりやらないが、学校出てから、必ず、どこでも役に立つ「マネー」「ロジック」「レトリック」の3つだ。

■マネー

 「マネー」は義務教育に組み込むべきなのに、なぜかなってない。税金と利子の計算から始まって、売上と収益、原価計算、複式簿記、財政状況につながる。個人、法人、国家を把握するスケールとして使える。だから、その入口として、簿記を学ぶことが重要だ。だが、簿記を知らない人にこの重要性を伝えるのは難しい。財務諸表は就職先や取引先を知るのに不可欠なものだが、就活や営業を知らない人にはピンとこない。

女騎士、経理になる そんなわが子にドンピシャだったのが、『女騎士、経理になる』。剣と魔法のファンタジーに、消費税やら売掛金といった簿記・会計の概念を投入したのがこれ。原作はRootport氏のtweetで、"そっちの世界"を知っている人から見たミスマッチ加減が笑いどころになっている。魔王が国税庁に頭が上がらなかったり、勇者の報酬に源泉徴収がかかったりする世界はシュールでリアルだ。だがこれを、経理を知らない人に渡すと、学ぶ動機になるばかりか、なぜ経理が必要なのかが分かってくる。魔族だろうと人だろうと、お金とモノが循環する限り、どこの世界でも一緒。BS、PLの積み棒グラフがよく分からんと言ってくる息子に簿記の参考書を渡したら、さっそく勉強をしはじめた。「かわいい」は正義であり動機にもなる。

狼と香辛料 さらに、簿記・会計からスコープを広げて、経済の基礎知識を学ばせたいのが親心。もちろん政経の授業もあるだろうが、(おそらく)選択科目だろう。それよりも、生きた(≒生々しい)経済を学ぶきっかけとして、『狼と香辛料』をお薦めする。中世ヨーロッパ風の世界でのファンタジーなのだが、商取引や貨幣経済がテーマになっている異色作だ。狼が化けた美少女・ホロが可愛い、ホロが可愛いと読んでいくうちに、為替レートの概念や手形の割引率の考え方が分かるようになっている。

■ロジック

 「ロジカルシンキング」、これも重要極まりないにもかかわらず、体系的に教えられる機会は、ほとんど無いように見える。既に知っている目で見直すと、国語の教科書やプリントに確かにある。要するに、「分かりやすく噛み砕く技術」であり、「目標と現状の差を課題化するノウハウ」「さまざまな思考のフレームワークに当てはめて考える方法」なのだが、カリキュラムの要所要所に散りばめられるように混ぜてある。

 この思考道具は、グラフの見方・描き方とか箇条書きの方法といった基本的なもので、あらゆるカリキュラムは「全員がそれを知っている」前提で組み立てられるべきものだ。だから単元として切り出し、一貫した形で伝える必要がある。今の教育制度の中で漏れているわけではない。ただ、バラバラに飛び散っているため、「道具」として認識されにくいだけなのだ。

マッキンゼー式ロジカルシンキング 『マンガでわかる マッキンゼー式ロジカルシンキング』は、タイトルどおり入りやすく読了しやすい。一気に読めるということは、一度に全体がつかめるということ。マトリクス、ロジックツリー、フレームワークなど、それだけで一冊になっているビジネス書のエッセンスがネタになっている。類書は沢山あるけれど、そこはナラティブのチカラ、ダメ社員の成長物語として読むことで、絶対忘れないものになる。本質をずばりと短く示した後、「なぜそうなのか」を丁寧に説くつくりとなっている。

 たとえば、「ロジカルシンキングとは、相手に『なるほどね』と言わせることだ」と言い切った後、上司や同僚に「なるほどな」と言わせるまでの、A4メモ書きやゼロ秒思考の試行錯誤が物語になっている。もちろん本書だけでは畳の上の水練だが、次に進むためにどの手法に手を伸ばせばいいかは分かる。最初の良い一歩が踏み出せる。

知的複眼思考法 そして、次の一歩なら『知的複眼思考法』一択だ。これは、わたしが若い頃に読みたかった一冊。これを学生の頃に読んでいるのといないのとでは、その後の人生が変わってしまうかもしれぬ。「自分の頭で考える」ことを謳う人が多いが、その「考え」も借り物にすぎぬ。海外のフレームワークやキーワードに色つけて膨らませているだけで、「"自分の頭で考えろ"という宣伝文句」で売っているだけ。

 では、そうした流行に踊らされるカモリーマンを脱して、どうしたらその「考え」に至ることができるか? その軌跡を一緒に辿るしかない。優れたロジックツリーの裏側にある何十枚もの「デッサン」の線を見ることで、次の「自分の」問題にあてはめるとき、どう振舞えばよいかが分かる。すなわち、問題をできあいのフレームに押し込むのではなく、問いの立て方そのものも含めて考え直すことができる。

 たとえば、2×2マトリクスはよく使われるが、「緊急度」「重要度」の他に何がある? ありがちな本だと、とってつけたような軸しか書いていない。だが、「評価軸を何にするか」によって、問題がまるで変わってしまうにもかかわらず、「評価軸をどのように決めるか」について書いていない。もちろん正解なんてないが、ここはいったん「現象→課題→打ち手」と分析を進める。すると、その「課題」や「打ち手」に着目したときの対するメリット/デメリットが出てくるはず。そのメリ・デリこそが、評価軸の候補になる。つまり、分析そのものをフィードバックすることで、自分の問題向けにカスタマイズできる。これをやらずに、できあいの思考方法をいくらコピっても、「自分の頭で考える」ことにならない。本書に「正解」はないが、そこへ近づく方法が書いてある。

■レトリック

 いわゆる「返し」の上手い/ヘタがある。ああいえばこういう人、いるでしょ。言い返されたその時は、思わず言葉を飲み込んでしまっても、後に考え直すとぜんぜん話は済んでいない、なんてことがある。議論の主導権、質問の誘導、論点ずらしなど、様々なテクニックがある。ネットでは可視化されやすいが、口頭で即興でできる人がいる。これは、頭の回転の速さだと諦めていたが、トレーニングすることも可能だ。古代ローマでは修辞学というカリキュラムがあったが、これもなぜか学校教育から抜け落ちているように見える。

詭弁倫理学 この口技・論理で相手をやりこめる方法をカタログ的に集めたものが、『詭弁論理学』だ。一つ覚えで主張を繰り返す小児強弁型から始まり、相手=悪、だから、自分=正しいとする二分法、論点のすりかえ→藁人形テクニック、ドミノ理論(風が吹けば桶屋)と、誰でも一度は聞いたことがある詭弁術が紹介されている。強弁が強盗なら詭弁は詐欺だという指摘が面白い。重要なのは、どんどんこれを使えとそそのかしているわけではない。議論を貶める連中が使うテクニックを予め抑えておこうというわけだ。

議論の技術 では、議論を潰しにかかる連中をどのようにかわし、逃がさなようにすればよいか? 『議論の技術』一択だ。分かりやすく相手に伝える技術から、論点を深める質問の技術、さらに間違った議論に惑わされない方法などが、丁寧に書いてある。類書と一線を画するのは、マシンガントークや詭弁術を駆使してくるルールブレイカーを黙らせ、さらにトドメを指す方法までも解説してある。沈黙スルーしてくる奴には、「それは了承と受け取るがよいか?」と追い撃ちをかけたり、立証責任を相手に押し付ける反則スレスレの技、クローズドクエスチョンで囲い込む応答例などは、暗記レベルだろう。

 レトリックというと、「言い逃れ」「言い包め」というニュアンスが混じるため、学校教育では避けているのかもしれない。だが、「論旨を明確に」「正々堂々と」「話せば分かる」というのは嘘だ。現実は、「オマエの言うことは正しいかもしれないが、だからといって返事がイエスになるとは限らない」である。そうした胸先三寸に、どうやって迫るかがレトリックの真髄だ。これは、社会に出てからだと遅すぎる(というか、ものすごく苦労する)。悪用するかどうかは別として、こういうやり方があり、使ってくる奴がいるということを予習しておくのは、かなり重要だ。特に、「コンサルタント」の立場になるならね。

 駆け足で紹介したが、この「マネー」「ロジック」「レトリック」は、学校でみっちりやっておくべきだろう。というのも、いい大人になって、ニセ科学や儲け話やヨタ政治に騙されるような連中が少なからずいる。それは、このリテラシーが圧倒的に残念だから。そんなカモにならないために、逆に利用して優れたコンサルタント(誉めていない)になるために、順番にお薦めしていこう。

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人生は予習だ『医者とホンネでつきあって、明るく最期を迎える方法』

医者とホンネで がんを宣告されたとき、やってはいけない最たるものは、「検索」だろう。

 不安な気持ちで薬剤や療法を検索すると、高確率で「特効」に行き当たる。「医師に殺される」「医者にかかわるな」という煽り文句で副作用をあげつらわれると、不安が不審に変わる。そして、揺らいだ心に寄り添うように、「がんが消える」と謳われると、疑う動機が小さくなる。

 厄介なのは、「がんが消える」と謳っている人が、れっきとした医師だということだ。「医者の言うことだから」「100%治ると断言しているから」と思考停止になり、信じてしまうかもしれない。こういう、リテラシーが残念な人は、世の中に数多くいる。おかげで患者を食いものにして肥え太る者がいる。そんな連中は、バカは死ななきゃ治らない『「ニセ医学」に騙されないために』で予習した。

 だが、もし自分が大きな病気になったとき、バカにならない自信はない。なぜなら「安心」が人質にされているから。そして、わたしだけでなく、家族の「安心」も人質だから。だからこそ、これで予習する。わたしは、未だ宣告されていないものの、統計的に見る限り、がんで死ぬ可能性が高い。もしそうなったら、病気と治療については標準医療を信頼し、それでも(必ず)出てくる心配は、緩和ケアに頼ろう。著者のまっすぐな気持ちが、そんな気にさせてくれる。

 『医者とホンネでつきあって、明るく最期を迎える方法』のメッセージは、シンプルだ。命を脅かすほどの重い病に侵されても、医療を上手に利用することで、ほとんどの人は大往生できる。だから、大いに頼れ。そして、緩和ケアにまつわる様々な誤解―――終末期だけでなく、あらゆる段階の医療だとか、多くの場合、健康保険が使えるとか、苦痛だけでなく精神的な不安も取り除く医療だとか―――を、やさしく説明する。

 おそらく、そういう人をたくさん見てきたからだろう、こんな言葉が飛び出てくる。

「自分にとって得か損か」の判断基準で生きてきて人は、病気になると、「自分が損をした」気分になってしまうようです

 そして、治ることにこだわりすぎるあまり、「治らない」と分かったとき、敗北者のような気分になってしまう人がいるという。命に終わりが来るのは当然のことなのに、それを「負け」と判定してしまうと、全ての人間が最終的には敗北者になってしまう―――人生を負け戦にさせないために、うまく折り合いをつけようと提案する。

 たしかにそうだ、もともと人生は期限付きだったし、その期限が明示的になったにすぎぬ。ならばそこに至るまで、なるべく好きなように生きたいもの。その手立てのうち、エビデンスに則ったコースが標準医療なら、喜んで利用させてもらおう。その際、「検索」もちょっとはするかもしれない。が、それは担当スタッフの説明を理解し、互いの信頼を深めるため。残りのリソースを医療への憎悪やニセ医学へのお布施につぎ込まないようにしよう。

 いざというとき、あわてないための一冊。

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老人は 死んでください 国のため 『大滅亡(ダイ・オフ)』

Daioff ある議員によると、21世紀は「灰色の世界」だという。働かない老人がいつまでも生きていて、それに税金を使わなければならないから。

「乳牛は乳が出なくなったら屠殺場へ送る。豚は八カ月たったら殺す。人間も、働けなくなったら死んでいただくと大蔵省は大変助かる。経済的に言えば一番効率がいい」
[第104回国会 大蔵委員会 第7号]より

 生産性原理主義を忠実に推し進めるとこうなる。タイトルの川柳は、そうした風潮を揶揄したものらしい[街の灯]より。一定年齢に達したら、年金をはじめ国家の保障を打ち切る、『定年退食』や、ついでに食糧問題も解決してしまう『ソイレント・グリーン』『ゆめいろハンバーグ』のディストピアが浮かぶ。だが、田中光二『大滅亡』は、もっと巧妙だ。ハクスリー『すばらしい新世界』の枠組みを使いながら、いかにも日本らしいジメッとした陰謀を描き出す。

 そこでは、極少子・超高齢化で滅びゆく日本の、最後のあがきとでもいうべき姿がある。異常気象による作物の不作、地球規模の赤潮による海産物の激減といった環境悪化に加えて、複合汚染による奇形児の激増、ガン・老人病の増加により人口衰退に拍車がかかる。大部分が代用食・配給制となり、食べる喜びはない。コンピュータ・エラーによる大規模な事故・爆発が続発し、末世観を助長する。人々はドラッグを求め、ゆっくりトリップしながら死ねる安楽死事業に、国が秘かに補助金を出す。

 主人公は渋谷に本拠を構える巨大放送事業体のTVディレクターだ。現代の楢山節考ともいえる安楽死運動に斬り込んでいくうち、巨大な陰謀に巻き込まれていく。ブラック・エンジェルズをホーフツとさせる展開はさておき、「灰色の世界」の世相感が絶妙だ。多数の死者が出た事故のニュースが「口減らしになる」と受け取られたり、優生学的等級+知能指数による子どもの「まびき」がされていたり、びっくりするほどディストピア! になっている。「働けなくなったら死んでください、費用対効果が見込めない人は生まれてこなくていいです」そういう時代が来るよ―――と警鐘を鳴らす。

 ずいぶん薄情な世界だが、世に出たのは1974年である。今は昔、1990年を予想した近未来SFだ。また、「働けなくなったら死んでいただくと助かる」発言は1986年である。むかしの人は、薄情者だったのだろうか? それとも、わたしが知らないだけなのだろうか。生産性原理主義者は見かけるけれど、そこまで非常識ではないのかも


まだ。

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