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コピーが経済を回す『パクリ経済』

パクリ経済 結論を一言にすると、「イミテーションはイノベーションを加速する」

 模倣が創造を促すといえばその通りだろう。だが、世間一般の通念は違う。音楽や映像、書籍や製薬などの業界を見る限り、著作権や特許権でコピー禁止の「常識」が形作られている。クリエイターの努力が簡単にコピーしていいのなら、誰もわざわざ新しいものを創ろうとしなくなり、最終的にはその産業が壊滅してしまうという懸念が背景にある。

 本書はこの「常識」に異議申し立てをするものだ。ファッション、アメフト、料理、金融、音楽といった分野に目を向け、コピーがイノベーションを促進しているだけでなく、成長の鍵となっている証拠を次々と指摘する。この事例が面白い。単なる反証ではなく、それぞれの歴史的経緯を踏まえながら、どのように折り合いをつけてきたかを解き明かす。

 たとえばファッション。メジャーブランドが新作を発表すると、すぐさま模造品が出回るが、そうしたコピーが、ファッション・サイクルを加速し、デザイナーに新たなイノベーションを強いる動機付けとなる。料理やコメディは、支持者の「評判」がコミュニティ内で一定の強制力になり、法律ではサポートしきれない網の目の役割を果たしている。それと同時に、オリジネーターたちの切磋琢磨のモチベーションにもなるという仕掛けだ。

 そして、最終章ではパクリ経済の最古参かつ最先端の「音楽」に焦点を当て、それまでに得られた知見を総動員して、音楽産業に取り入れられる戦略を検討する。いくつか既に導入されている施策もあるが、その成功事例として本書を振り返ることもできる。鍵となるコンセプトをいくつか記しておくので、具体例は本書で確かめて欲しい。これは、音楽産業に限らず、破壊的イノベーションが現在進行で遂行されいてる書籍業界にも適用できる。

  1. 著作権侵害のパラドクス
  2. 製品ではなく、体験やパフォーマンスを提供する(原価2ドルのドリンクを15ドルで買っているのではなく、金を払ってバーの椅子を借りているのだ)
  3. ソーシャル・ネットワークとしての音楽(≒音楽とはコミュニティである)
  4. オープンソース方式(Encarta と Wikipedia)
  5. 先行者利益とライフサイクル
  6. コピーはブランドの宣伝になる(なぜなら、消費者たちの行動に基づいているから

 漫然と読んでいるならば、これらグッドプラクティスの事例集にすぎぬ。だが、いったん著者の仕掛けに乗るならば、これらのアイディアを「コピー」することができる。というのも、本書そのものが自分のコピーを誘っているからだ。つまり、読み手の経験とここに出てくる「パクリ」を合体させて、さらなるイノベーションを引き出すことができる。

 たとえば、音楽のカバーについて。録音された音楽のコピーには厳しい制限がかかるが、音楽作品そのものについては、別のルールがある。もちろん、原作元には一定額の支払いが必要だが、曲をカバーし、解釈・改変するのに許諾はいらない。理由はこうだ。100年前に大流行した、プレイヤーピアノ(ピアノ自動演奏装置)を売るために、あらゆる音楽作曲が「強制許諾」になるよう義務づけられたからだ。プレイヤーピアノは消えたが、この例外は残ったというわけ。

 著者は、プレイヤーピアノの大手エオリアン社の暗躍を紹介し、「グロリア」をカバーしたブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・ボウイ、AC/DCの例を引きながら、改変が米国の音楽文化を豊かにしていったという。本書はここで終わっているが、そこからボーカロイド「初音ミク」を連想する。

 つまり、「彼女」を一種の楽器だと考えるなら、(キャラクターライセンスという問題は残るものの)現代のプレイヤーピアノだといえる。ちょい舌足らずな高音域は、彼女特有の声質として耳に残るが、これはいくらでも可変だろう。だが、他の唄を異なる声質で"再現"するならば、(そして録音の再生でないならば)カバーソングとして認められるのだろうか? おそらく認められるだろう。

 そして、死者たちの声で現代の音楽が"再生"される時代がやってくる。ナット・キング・コールの声質で、「君のひとみは10000ボルト」が聞けたり、松山千春の唄をデヴィッド・ボウイが"歌う"ことが可能になる。なにをもって「コピー」とみなすかで、いくらでも妄想を拡大縮小することができる。これが本書の醍醐味なり。

 著者の姿勢が面白いのは、パクリ(原題でknockoff)の射程感覚なのだ。もともと、模造品、まがい物といった意味合いなのだが、コピーの度合いが様々であるにもかかわらず、厳密な定義をせず、同じ土俵で扱おうとする。最初は目くじら立てて読んでいたが、途中で読み方を変えた。これは、コピーについてのわたしの常識を揺らめかせる作戦なのだと。デジタルの完全コピーから始まって、

  • サンプリング(引用)
  • カバー(代行)
  • リメイク(改訂)
  • リファクタリング(改変)
  • インスパイア(触発)
  • オマージュ(尊敬)
  • トリビュート(賞賛)

 剽窃から賞賛まで、これだけ沢山の言葉があるということは、それだけ様々な「コピー」のやり方がある。知的活動全体からすると、こうした「コピー」がグラデーションを成し、モザイク状で存在しているのが実情だろう。そして、それぞれの段階で「コピー」をクリアするための手立ては異なってくる。また、どこまでがグレーで、どこからが違反なのか、歴史性や地域性によっても異なってくる。その場その時に応じて、落としどころを見つけ、利益確保と創造性の余地の両方を残していくことが、現実的な解なのだろう。単純に、コピーを善悪いずれかに倒せないのだ。

 この、落としどころを見つける模索こそが、その分野を発展させる原動力となっている。アイディアに「正解」はない。だが、その時点での流行、モード、チャンピオン、ベストセラーに乗っかって、そこから逸脱しすぎないようにズラしたり、カウンターを狙ったり、ドラスティックな(でも外さないように計算された)見せ方を工夫する、絶え間ない改善行為こそが、イノベーションなのだろう。

アルブキウス 「コピー」に対する固定概念からフリーになると、古代ローマの作家・アルブキウスが引き出されてきた。そこでは、「作家」というとオリジナルの物語を書く人ではなかったという。プロットは共有され、様々な語り手が自由に作品をつくりあげていた。同じ筋立てから、いかに魅力的なストーリーが仕立てられるか、どれだけ説得力のある修辞技法が扱われているか、競い合っていたという。

 そうした中で、上手に物騙る人が集まって、とあるひとつの名前で発表していたのではないか、と想像する。つまり、「ホメロス」や「シェイクスピア」というのは一種のブランドで、実在する人物がいたかもしれないが、その一人がすべてを担っていたわけではないのでは……と思えてくる。それは、おもしろい物語を約束するパッケージであり、品質を保証する一種のレーベルのようなもの(なんなら、「モーツァルト」も「レンブラント」を足してもいい)。著作権という縛りがなくても───むしろそんな独占権などないオープンな土壌のほうが───より優れた作品が集まりやすいのかもしれない。

 イミテーションは、イノベーションの、インセンティブとなる。そう確信させる一冊。

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このホラーが怖い! 第1位『奥の部屋』

 ランキング形式のブックガイド「このミステリーがすごい!」や「このマンガがすごい!」のうち、「このホラーが怖い!」がある。そこでベストワンになったのがこれ。ただし、リンク先の解説にもあるように、99年版の一作しか刊行されていない。

 とはいうものの、モダンホラーの王スティーヴン・キング『グリーンマイル』や、エログロバイオレンスの覇者リチャード・レイモン『殺戮の〈野獣館〉』を押さえての堂々一位なり(日本だと貴志祐介『黒い家』が一位)。

 面白いことに、これらのホラーと比べ、エイクマンの『奥の部屋』は、怖さの方向性がまるで違う。強烈なキャラクターや残虐な描写で、読者を震え上がらせることを目的としていない。むしろ、何が起きたのかをはっきりさせず、読み手の心に問う余白を充分に残している。怖いというより不穏な、いつまでも後を引く短篇集だ。

 間違い電話で交わした口約束に囚われて、見ず知らずの女からの電話を待ち続ける狂気や、旅の途中で迷い込んだ古い屋敷は、幼い頃に買ってもらった人形の家にそっくりだったという奇妙なエピソードなど、「怖いもの」はバーンと出てこない。なので、"分かりやすい怖さ"を求めて読むと、肩透かしを食らうだろう。ホーソーンとか百閒の類やね。

 その代わり、見ず知らずの電話の主が、なぜ主人公を知っているのだろう(そしてそのことに彼は気づかないのはなぜ?)とか、初めて訪れるのに「人形の家」だと直感的に見抜いたのはなぜだろう? と考えると、試されているようで嫌な気分になる。小説を読むという「約束事」「常識」から徐々に剥がされているようで、不安になる。わざと語られていないことや読み手をミスリードさせようとする、物語の歪みがまことに上手い。

 なかでも、『スタア来臨』は白眉だ。主人公の視点から見ると、ただの変な話でしかない。(説明という名の)オチが無いなんて感想を持つ人もいるだろう。そういう意味で、人を選ぶ。だが、登場人物の誰を「本当」にするかで、まるで違う話に化ける。鍵は、ぽつりとヒロインがもらす、冗談とも本気とも分からないこの一言。

ミス・ロウクビーは続けた。「個性なんてただの言葉に過ぎない……私は誰の個性にもなれる。すべての人の。自分の個性をなくして以来、私は歳をとらなくなった」

 状況やキャラクターから、自虐的な暗喩として読める。だが、いったん彼女のことを信じるなら物語は禍々しさを増してゆき、もう一人、途中で不在になる人物に焦点をあてるなら、最も嫌な話になる。それぞれの視線に切り替えながら、とっかえひっかえ3通りに読んだ。そういう、「なにか」を読者に想像させる余白というか歪みを残している。それを埋めながら、創造しながら読むことが、そのまま奇妙な体験となっている。

 怪奇なものが出てきて、説明されたり退治されるホラーがある。怪奇なものが出てきて、説明されないまま終わるホラーがある。本書は、それに輪をかけて、説明してほしくない、できれば見なかったことにしておきたい、そんな不吉な物語たち。

 冬こそホラー、「語り手がどうしても見たくなかったもの」を想像してゾクゾクさ倍増しで愉しんでほしい。

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ホラーで人間を理解する『恐怖の哲学』

 一流の哲学者が本気で遊ぶと、ここまで面白いのか!

 科学と哲学の二刀流で、ホラーから人間を探索する試み。最初は哲学的アプローチだったのが、次第に科学からの知見を取り込み、最終的に両者が手を携えて、「人はここまで分かっている」ことと、「ここからもっと(科学も哲学も)人間の深いところまで行ける」ことを指し示す。その知的探索がめちゃくちゃ面白い。

 ざっくばらんな語り口で、「なぜホラーが怖いのか」から始まって、怖いのにホラーにハマるメカニズムを解析し、最終的にその恐怖を"怖さ"たらしめている深いところまで降りてゆく。そこには、意識は科学で説明可能か? というとんでもなくハードな問題が待ち構えており、ラストは哲学的ゾンビとの対決になる。結末は、映画に出てくるリビング・デッドのようにはいかないが、ある意味『ゾンゲリア』のラストのようで皮肉が利いている(著者はホラー好きなくせに怖がり&痛がりなので、ダブルで効く『ゾンゲリア』は観てないはず)。

 そもそも、ホラーはなぜ怖いのか? ともすると水掛け論のオタク談義に陥るのを、ガチで哲学する。「ホラーとは?」「怖いって何?」「怖さを"感じる"仕組みとは?」など、定義から入ってくる。ただし、教科書的なものではなく極めて実践的で、ざっと定義して分析し、必要に応じて手直しする。画家のデッサンを早回しで見ているようで、心地いい&気づくところ大なり。中でも、「恐怖とは何か」すなわち恐怖の本質の議論が面白かった。

 もちろん、「恐怖」は生物学的適応という考え方から説明がつく。猛獣を怖がらなかったらぼくら生き残っていないからね。だが著者は、そこからアクセルを踏む。なぜ恐怖が「怖い」必要があるのだろうと考えるのだ。恐怖の、あの怖い"感じ"に着目する。ドキドキするとか、ゾクゾクするとか、すぅっと血の気が引くとか、あの"感じ"を持っている必要はあるのだろうか? 怖いという"感じ"を抜きで、「恐怖→逃げろ」システムを持っていればいいのでは? と問いかける。

 これも、闘うか逃げるかするために心拍数を増大させ、アドレナリンを分泌させている副作用だという説明ができる。著者はそこも踏まえつつ、さらに加速させる。猛獣という具体的な恐怖の対象がなくても、人間はもっと抽象的なインプットからあの"感じ"を感じられる存在であることを解き明かす。心を行動に還元しようぜ(還元主義)、刺激と行動だけで充分説明できる(処理モード理論)、そして身体化された評価理論などをめぐりながら、人が恐怖を恐怖する仕組みを説明する。

 なぜ、わざわざホラーにハマるのか? これは結論が分かっているのに、わざと遠回りしているような議論でムズ痒かった。恐怖はエンドルフィンという名の脳内麻薬を放出を促し、鎮静作用とともに快感をもたらす。また、大脳辺縁系の扁桃体は、恐怖だけでなく快楽の座でもあるため、この座への刺激が快と誤訳(?)されることもあるだろう。だが、この結論に一足飛びに行く前に、いわゆる「謎の提示と解決」の物語論に回り道する。

 いっぽうで、「なぜ嘘だと分かっているのに、ホラーは怖いのか」は目鱗だった。ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』[レビュー]で読んだ認知科学からのアプローチだろうなぁと予想してて、(その予想はおおむね合っているのだが)そこへ前段でさばいた恐怖の表象論をつなげてくる。恐怖というシステムは、表象(知覚によって得られた心象)の入力から始まる。はじめは蛇や炎など実在する表象だったものが、進化の過程でさまざまなものが表象としてアドオンされ、知覚表象以外も受け付けるようになったという。「嘘なのに怖さは本物」の理屈は、ここにある。えらく寄り道していたな、と思っていたが、実はこれは伏線だったのだと気づくと痺れる。

 このように、ホラーをダシに寄り道しながら思考モデルを組み立てる。恐怖の本質と人工の恐怖の違いから、怖いという「感じ」そのものにアプローチする。ラストの哲学的ゾンビと対決は見ものだ。哲学的ゾンビとは、私たちと機能的には等価だが、意識を欠いた存在として登場する。私たちとそっくりの行動をとるが、そこに意識はないという思考実験の産物だ。ケガをしたら血が出て痛がってはいるものの、そこに痛いという「感じ」はない。著者はそれまでの思考を武器に、いったんはゾンビを退けるのだが……結末はご自身で確かめてほしい(あるいは、『ゾンゲリア』を観るのも良いだろう、「眼球に針」のシーンが痛いけど)。

 本書に感謝したいのは、意識の表象理論について、わたしの理解を助けてくれたこと。『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』[レビュー]でハマったのだが、わたしが陥っていた一種の「思考の沼」から抜け出せたことがありがたい。これは、意識は科学で説明可能できるのかという、とんでもなくハードな問題に取り組んだ試みだ。この本では、王道から獣道まで紆余曲折を経て、意識の表象理論というモデルに至る。そこでは、意識経験を一種の表象とみなし、世界を(その生物にとって)どのように役立てるかに分節化された知覚表象システム論が展開される。

 たしかにこれは、認知科学、神経生理学、哲学からのさまざまな批判に(今のところ)最も耐えうる意識のモデルなのだが、「こうでしか考えられない」というものでしかない。つまり、科学と哲学で分かるギリギリの範囲がこうなのであって、本当にそうなのか臨床的に確かめたわけではないのだ。意識を説明できる限界は、(意識を持つ)人の理解の中でしかなく、世界は分かるようにしかできていないことを再び思い知らされる。

 だが、『恐怖の哲学』の説明で、このぐるぐる巡りから脱出できた。意識のハードプロブレムについての暫定的回答として、プリンツのAIR理論が紹介される。このモデルが正しいかどうかは、現時点では解明されていない。このモデルは、いわばH2Oみたいなものと考えればよいという。水に「H2O」と書いてあるわけではない。ただ、水のふるまいを最もうまく説明するのに、このモデルは役に立つ。だからこれを使っていこうというスタンスだ。同様に、意識についてのさまざまな疑問を、仮説検証「できる」モデルとして使っていく。なんでもクオリアで済ませるより、よほどいい。

 ホラーをダシに恐怖を哲学すると、人という存在がよく見えてくる。見えにくいところは、アプローチと検証方法まで分かってくる。恐怖「の」哲学というよりは、恐怖「で」哲学する一冊。

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水は金のある方に流れる『神の水』

神の水 これはSFなのか? 舞台や小道具が近未来なだけで、中身は骨太ハードボイルド、枯渇しつつある「水」を巡る、暴力と格差の物語だ。

 俗に言う「頁を繰る手が止まらない」やつ。環境破壊が着々と進む近未来のアメリカを舞台に、奪うもの、守るもの、目撃するもののそれぞれの運命が「水」に翻弄される様は、寝るタイミングを逸する。

 しかも、最初は異なる立場だったものが、「水」を中心に縒り合わされてゆく構成は、お見事というほかない。持てるものはシェルタリングされた都市に逃げ込み、貧者は国内で難民化する社会。もともと半砂漠地帯だった中西部は深刻な水不足に陥り、水利権をめぐり州どうしが対立・衝突する状況になっている。

 「調べて結論を出すべきことがらだったのに、信じるかどうかという問題におとしめてしまった」のように、いま読者が目にする警告が、過去形にして自嘲的にくり返されている。さらに、ドルより人民元が幅を利かせていたり、崩壊ポルノやグロ画像でページビューをかせぐ「ジャーナリスト」がピューリッツァーを狙う社会は、近未来というより近接未来やね。いまとシームレスにつながっているので、どこを読んでも既視感ありまくり。

 とてもユニークなのは、この作品の真の主役は、舞台となっているフェニックス市そのものであること。アリゾナ州最大の都市であり、20世紀初頭のニューディール政策により発達し、半導体産業や観光業で盛んな街だ。砂漠の上につくられた人工都市で、GoogleMapで分かるように、細い水路がまるで点滴のように刺さっている。温暖化による水不足で、遅かれ早かれ遺棄されることは分かっているのに、しがみつく人は、自分の小便を飲む。ビジネスチャンスを見出す人は、資本を募り補助金を投入し、砂漠に湯水を注ぎ込む。そこに渦巻く陰謀や二転三転する運命は、あくまで人のもの。金のため、生き延びるため、人は右往左往しているだけで、そのあいだにも、ゆっくり世界は壊れていく。

 この徒労感を示す、フェニックス市を模した表紙が非常に象徴的だ。ひび割れた土塊をよく見ると、まるで分断された街に見える。不死鳥と名づけられた街は、アメリカ合衆国の近接未来そのものに見える。

砂漠のキャデラック 『神の水』の中で象徴的に紹介され、かなり重要な役割をはたしているライスナー『砂漠のキャデラック』を読むと、アメリカの水資源開発が、いかに歪な構造をしているかが、よく分かる。

 アメリカ西部では、雨のことを「神の水」と呼ぶ。ほとんど降らない貴重なものだから。なかでも年間降水量が200ミリ未満の地域───フェニックス、エルパソ、リノは、そもそも人が住むところではない。にもかかわらず、ダムで水を集め、貯水し、コンクリートの水路で数百キロのかなたまで送ることで、街が成り立っているという。文字通り、砂漠に水を撒くようなことをしているのはなぜか?

 『砂漠のキャデラック』では、キリスト教的理想が根底に在るという。西部開拓時代から、人が住みつけば、雨がとたんに増える。雨は、「鋤に続く」と考えられていた。ところが、これが途方もない間違いであったことが分かると、灌漑事業がほとんど狂信的なまでに遂行された。そして巨大なダムが経済的合理性や必要性を無視して次々と建設されたという。都市の成長のために水が必要で、水を集めるために事業が興され、人と金が集まってくる。そこに雇用が生まれ、商工業が発達し、都市の成長を促す。この水と金のライフサイクルにより発達したのが、フェニックス市である。「西部では、水は低きから高きに流れる」という。これは、「水は、金のあるほうへ流れる」という意味だ。したがって、金の続く限り『神の水』で描かれる地獄は続いてゆく(しかも地続きだ!)。

「水」戦争の世紀 『神の水』では陰謀の一端を担っていたカリフォルニア州の事情は、輪をかけて深刻だ。バーロウ『「水」戦争の世紀』によると、北米最大の帯水層であるオガララ帯水層は、補充できる水量の14倍の速度で失われ、既に半分以上の水がなくなっているという。

 集約的な農業や半導体産業のため、カリフォルニアは大量の水を必要としている。だが、本来の場所でそれだけの量を得られないため、州は何十億ドルも使って、水源から何百キロも離れた場所まで分水し、「盗んだ」水で緑化されているという。カリフォルニアの農家は、補助金のおかげで実際にかかった灌漑費用の20%以下しか払っておらず、綿花を育て続けている。半乾燥気候では、小麦や大豆のほうが圧倒的に少ない水で済むにもかかわらず、政府は綿花の生産に補助金を出し続けているのが現状だという。生産性を考慮する際、いったんできあがった灌漑設備の減価償却費は積んでいるかもしれないが、年々希少になってゆく水そのものの価値は含まれていない。結果、茹で蛙のレトリックがそのままあてはまる。

 『「水」戦争の世紀』では、このレトリックが州、都市、国家にまで拡張されると、端的に紛争という結果につながることを示す。ナイル川をはさんで対立するエジプトとエチオピア、ガンジス川の取水問題でいざこざを起こすインドとバングラデシュ、シンガポールに対する水の供給を停止すると威嚇するマレーシアなど、枚挙にいとまがない。国境となる川はどこまで分水するかの火種となり、国境をまたぐ川の上流と下流は、そのまま生殺与奪の力関係になる。上流にダムを作られたり、分水されて水量が減ったりすると、それはそのまま両国の緊張を高めることになる。メコン川の上流に大型ダムを次々と建設する中国と、その下流域の国々との関係が典型だ。

 『神の水』は、SF作家であるパオロ・バチガルピが書いた未来である。だが、どうしてもフィクションに見えない。ガジェットが少し未来なだけで、むしろそこに描かれた世界は既視感にあふれている。

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『世界システム論講義』はスゴ本

世界システム論講義 「なぜ世界がこうなっているのか?」への、説得力ある議論が展開される。薄いのに濃いスゴ本。

 世界史やっててゾクゾクするのは、うすうす感じていたアイディアが、明確な議論として成立しており、さらにそこから歴史を再物語る観点を引き出したとき。「こんなことを考えるの私ぐらいだろう」と思って黙ってた仮説が、実は支配的な歴史観をひっくり返す鍵であることを知った瞬間、知的興奮はMAXになる。

 たとえば、「先進国(developed)」と「途上国(developing)」という語に、ずっと違和感があった。「後進国」は差別的だからやめましょうという圧力よりも、この用語そのものが孕む欺瞞を感じていた。

 なぜなら、この語の背景として、近代化・工業化が進むというプロセスがあるから。なんなら、進化のメタファーを使ってもいい。産業構造が一次から高次に転換するとか、封建社会から資本主義社会に"進化"するといった欧米の経済社会を先頭とする暗黙のレースが隠れているから。その前提で、「発展した国」と「発展しつつある国」という分けがある。

 しかし、経済産業はそのような線形に進むものだろうか? 途上国と呼ばれる国は、何らかの努力やチャンスで、先進国へと「進む」ものなのだろうか? 「欧米の経済的成功」を踏襲することが「発展」なのだろうか? バナナや砂糖キビの生産性を上げることで、いずれ工業化するのか? 搾取と従属関係の上手い言い換えじゃないのか? と考えていた。

 結論を先に言うと、わたしの直感は正解だった。世界システム論という観点から近代史を描き直した本書によると、先進国への供給源として途上国は猛烈に「低開発化」された周辺国という位置づけになる。

 世界システム論では、近代からの世界を、一つのまとまったシステム(構造体)として捉える。そこでは、世界的な分業体制がなされており、それぞれの生産物を大規模に交換することで、はじめて世界経済全体が成り立つような、有機的な統合体である。いわゆる南北問題は、「北」の諸国が工業化される過程そのものにおいて、「南」はその食料・原材料の生産地として「開発」される。経済や社会がモノカルチャーにバンドルされてしまうわけだ。

 著者は、名著『砂糖の世界史』を書いた川北稔氏。『世界システム論講義』では、カリブ海の砂糖革命を紹介しながら、三角貿易に象徴される「奴隷・砂糖貿易」複合こそが、アメリカ開発のテコであったと述べる。そこでは、少数の白人支配で膨大な黒人奴隷を使役し、社会のすべての仕組みが、砂糖の効率的生産のために奉仕させられるようになっていたという。食料すら自給されず、社会資本への投資はない。道路や鉄道が整備されたとしても、それはすべて砂糖の効率的な運搬のために作られたに過ぎない。

 そして、そこで生まれたプランターたちの購買力が、イギリス製品の大量輸入を可能にしたという。ヨーロッパ大陸には売れない「雑工業製品」を植民地にさばいていき、アメリカやカリブ海におけるプランターの生活を「イギリス化」する役割を果たしたという。こうした奴隷貿易・奴隷プランテーションの拡大を背景に、イギリスの商業革命が成し遂げられたというのだ。「紅茶に砂糖を入れて飲む」という英国様式が繰り返し揶揄されているが、非常に象徴的だ。

 世界システムは、こうした地域間分業を通じて、西ヨーロッパ=「中核」では国家機構を強化しつつ、「周辺」では、国家を溶融させる効果を持ったという。国家機構が弱められ、その正体がはっきりしなくなり、ついには植民地化されてしまう。アステカやインカの帝国は消滅し、ポーランドにしても、分割によって消滅し、労働力や資源を供給する「周辺」となるのだ。

 では、なぜヨーロッパを中核とする世界システムになったのか? この疑問への応答が物凄く面白い。発明や技術開発か? 火薬や羅針盤や印刷技術は、中国が発明したものだ。大航海か? 規模といい先行性といい、明のほうが先に展開していた(鄭和の大航海)。他にも、生産力や商業といった視点からヨーロッパとアジアを比較し、ことごとく欧州の優位性を否定する。

 だが、ヨーロッパのシステムと中華システムには、決定的な違いが一つあったという。すなわち、欧州は政治的統合のない経済システムである一方、中華は(明であれ清であれ)ユーラシア東部一帯をまとめて支配する「帝国」だった。帝国は帝国内部で武力を独占し、武器の浸透や発展を阻止する傾向が強い。これに対し、国民国家の寄せ集めであったヨーロッパでは、各国は「競って」武器や経済の開発をすすめた。このことが、16世紀における東西の武力の圧倒的な差となって現れたというのだ。

 そしてこの違いが、大航海に熱中するヨーロッパと、「海禁」という鎖国政策に転じていく中華の差になっていく。K.ポメランツは、『大分岐』において、東西の明暗を分けたのは、「アメリカ」という巨大な資源供給地を、ヨーロッパが得たことだとしている。わたしは単に、太平洋と大西洋という距離の違いをぼんやり考えていただけだが、海外雄飛する「動機」があったわけね。

 また、社会問題の処理場としての「アメリカ」が面白い。イギリス近代史を帝国ないし世界システムとのかかわりの歴史だとみなすと、アメリカは労働問題、犯罪問題、人口問題の処理場としての歴史になる。信仰の自由を求めてアメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズは、WASPがでっちあげた「建国神話」にすぎないと喝破する。

 実際、植民地時代にアメリカに渡ったイギリス(ヨーロッパ)人の2/3は、期限付きの白人債務奴隷である「年季奉公人」だったという。食い詰めた者か、事実上の流刑人か、貧民税で育てられ売り飛ばされた孤児がほとんどだったらしい。アメリカ合衆国のような立派な国が、そんな下層民によってつくられたはずがないという強烈な愛国主義が、歴史の評価を歪めたのだと容赦なく切り捨てる。当時の世界システムからすると、アメリカは供給地であり「処理場」だったという指摘は鋭い。

 世界史を学べば学ぶほど、イギリスはゲスな国家だという認識が強くなる。だが、イギリスという「国」ではなく、ヨーロッパを中心とした経済のバケモノ(著者は成長パラノイアと呼ぶ)がその正体であることが分かってきた。

 この観点から、帝国主義を、地球上の残された「周辺化」可能な地域をめぐる、中核諸国の争奪戦であったと評価する。したがって、地球全体が、ほぼこの近代世界システムに吸収され、「周辺化」できる場所がなくなったとき、つまり「世界」(ワールド)は、「地球」(グローブ)と同じ意味になったとき、大戦にならざるをえなかったという。著者は冒頭で、日本や中国、韓国、マレーシアなどが追及している経済開発は、近代ヨーロッパ型の後追いでしかなく、アジア独自の価値観はどこにも見当たらないという。だとするなら、「中核化」と「周辺化」の争いがどんな問題に突き当たるかは自明だろう。

 歴史に学ぶなら、こういう本から学びたい。

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『時間SFの文法』決定論/時間線の分岐/因果ループ


 面白くて危険な書。

 「時間SF」とは、特殊な時間世界を設定した上で、時間旅行のような特殊な経験を描いた作品を指す。タイムトラベルとかループものといえばピンとくるだろう。

 著者は、古今東西の小説、映画、アニメにおける時間SFを読み解きながら、基本的なアイディアや物語パターンを整理する。その上で、現代の時代感覚と照応するアイロニーやニヒリズムをあぶりだす。様々な定義や区分けを行っているが、代表的なものを書き出してみた。

  1. タイム・トラヴェル型(意図した時間に計画的にジャンプ)
  2. タイム・スリップ型(否応なしに強いられた時間移動)
  3. シャッフル型(ジャンプ先がランダム)
  4. 歴史改変型
  5. 歴史不変型
  6. 並行世界型
  7. 生き直しパターン
  8. 再生パターン
  9. 反復世界型
  10. 逆行もの(時を遡上する)
  11. 異時間通信もの(メッセージが時を超える)
  12. 偶然世界型(些事の積み上げの中に分水嶺が潜む)
  13. 改良偽装型
  14. 自己増殖型
  15. 時の果てを望む(時間の外へ)

 ハインライン『夏への扉』や小松左京『果てしなき流れの果てに』、桜坂洋『All You Need Is Kill』やグリムウッド『リプレイ』など200作品を俎上にのせ、時間SFの広さと深さを探究する。物語のパターンを俯瞰していくと、作品ごとに時間の捉え方が違う。そこでは、物語が時間というものをどのように理解しているのかも併せて考察する必要が出てくる。面白いのは、そこで展開される批評だ。タイム・パラドックスと決定論世界を論じ、時間SFに隠されているニヒリズムを指摘し、物語論としての読み直すアプローチを示す。

 だが、かなりの作品のオチやトリックを盛大にネタバレしている。分析の性格上、ストーリーの根幹にどうしても触れざるを得ないため、ラストのどんでん返しまで明かされる。たとえば、R.F.ヤング『たんぽぽ娘』のエッセンスが4行にまとめられており、不覚にも涙してしまったが、これは実際に読んで味わいたかった。

 いっぽう、読んだ記憶はあるのだけれどタイトルが思い出せなかった傑作にいくつも再会できた。時の流れを数万分の一にする機械に閉じ込められた男と、彼に会いに来る彼女との悲恋や、些細なことで喧嘩別れして、そのまま死んでしまった愛妻に会うために時の門をくぐる夫の話など、懐かしすぎる。

 残念なのは、時間SFに突きつけられた問題に気づいていない(目を背けている?)ところ。タイムトラベルはテレポーテーションでもある。時間移動は、空間移動も一緒に考える必要があるにもかかわらず、あくまで「時間」だけしかスコープに入っていない。

 つまりこうだ。地球はおよそ時速1600kmで回転している。仮にタイムマシンで一時間前に戻るならば、出発地点と同じ場所に出現するためには、同時に1600km移動しなければならない。そして、地球は太陽の周りをおよそ時速1万6624kmで回っている。したがって、一時間前に戻るならば、同時に1万8224km移動しなければならない。

 まだある。太陽も時速8万6400kmで銀河を移動していたり、銀河もアンドロメダに向かって時速24万kmで移動していたり、さらに我々の宇宙がある場所自体が、乙女座グループの方に時速160万kmで移動したり、さらにさらに、乙女座グループも含めたグレートアトラクターと呼ばれる道の空間に、時速214万7200kmで移動している。

 そもそも「時間」なんて出来事を便利に伝えるための方便にすぎない。だいたい「一日」なんて、それこそ毎日変わる適当なもの。人は現在・過去・未来と分けて認識し、文法構造もこの区分に基づいている。人生とはすなわち今であり、今だけでしかないとするならば、時間とはすなわち、命を微分したものになる。

 だが物理学からすると幻想にすぎないらしい[時は流れない/日経サイエンス)]。そうだな、時が流れるのではなく、わたしが古びていくだけなのだ。サイエンス・フィクションとサイエンス・ノンフィクションの間に立つと、わたしの認識がよく見える。

 ひょっとすると、時間Science Fictionは、科学の装いをしたFantasyなのかもしれない。人が、時間というものをどのように理解している(理解したいと考えている)のかを映し出す鏡として、時間SFがあると考えると面白い。運命は変えられるのか、上書きされるのか、やり直しはできるのか、決定されているのか? 次の時間SFを読むときに、そこで扱われる「時間」の概念と、わたしの認識のズレを楽しもう。

 時間SFのガイドブックであり、百科事典でもある一冊。

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