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『グールド魚類画帖』はスゴ本

グールド魚類画帖 傑作という確信が高まるにつれ、頁を繰る手は緩やかに、残りを惜しみ惜しみ噛むように読む。先を知りたいもどかしさと、終わらせたくないムズ痒さに挟まれながら、読み返したり読み進めたりをくり返す。そんな幸せな一週間を味わった。

 同時に、物語に喰われる快感に呑みこまれる。はじめは巧みな語りに引き込まれ、次に溶けゆく話者を見失い、さいごは目の前の本が消え、自分が読んできたものは一体なんだったのか? と取り残される。わたしが世界になったあと、世界ごと消え去る感覚。

 これは感情移入ではない。19世紀、タスマニアに流刑になった死刑囚の運命だから。猥雑で、シニカルで、残酷な語り口は、けして同情も承認も誘っていないし、シンクロの余地もない。野蛮で下品でグロテスクな描写にたじたじとなるが、妙に思索的でときに本質を掴みとった省察に、つきはなされるようにも感じる。

 人臭くて生々しい顔をした魚の絵とともに、その魚にからむエピソードが、セピアや擦れた黒インクで記される。この「演出」が、ニクいのだ。というのも、描き手・語り手であるグールドは獄中で、書くことが禁じられているから。ウニを砕いて唾を混ぜて顔料にしたり、イカスミや自分の血や排泄物をインク代わりにすることで、「手記」を綴る(エンデ『はてしない物語』の現実世界とファンタージエンの書き分けみたいだな、と油断しているとガツンと犯られるぜ)。この「手記」がどういう代物かは、ずっと後の時代の読み手から、こう知らされる。

その混沌を要約するなら、決してはじまらず、決して終わらない物語を読んでいるような感じだった。変幻する景色を映し出す、魅惑的な万華鏡をのぞいているような感じ―――風変わりで、ときにもどかしく、ときにうっとりするような体験だが、良質の本がそうであるべきように、単純明快なものではまったくない。

 まさにその通り。決して尽きず、終わることを物語は拒否する。というのも、本を開くたび、記憶のない事柄が出てきたり、以前読んだときに見落としていた注釈に出会ったり、くっついていた頁を引き剥がすと、全く別の観点をもたらすエピソードが描かれているからだ。

黄金時代 ここは、ミハル・アイヴァス『黄金時代』に出てくる奇妙な「本」を思い出す[レビュー]。ある島にある一冊しかない本で、その島に他の本はないため、単に「本」と呼ばれている。島民のあいだで回し読みされ、読み手が書き手になり物語を重ね書いたり、自らの着想や注釈を加えたり、気に入らなければ破いたりする。余白が無くなると、手元の紙、布、皮に書き、貼り付ける。手から手へ渡るたび、本は膨らんだり萎んだりする。物理的な挿入・更新・削除が繰り返される、いわば代謝する「本」なのだ。この「本」を、特定の言語文化における記憶や知識のメタファーとしても面白いし、もっと拡張して人類のそれにしてしまってもいい。

 他にも、これまで読んできた/観てきたさまざまな記憶が響きはじめる。たとえば、コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』の途方もない絶望や、コッポラ『地獄の黙示録』の王になろうとした男、ガルシア=マルケス『百年の孤独』の、めくるめく収束するイメージが明滅する。読むたびに開くたびに、美しいおぞましい切ない思い出が、刺激され開発され掘削される。本を開く人によって(あるいはページを開く度に)、それぞれの(さまざまな)フィクションの記憶が甦る。

 ひょっとすると著者は、これらを知らないかもしれない。だが、言葉が続く限り、人から人へ伝えられる「お話」が、改変され追随され再編されていくうち、ここに重なっていたとしても不思議ではない。『グールド魚類画帖』は、そんな再読性、代謝性を持っている。

 これはuporekeさんの[2015年のベスト ]のおかげ、ありがとうございます。知ってはいたけれど「ジェットコースター小説」と言われたら手にしないわけにはいけませんな。早い段階で傑作だと分かったので、ブレーキかけまくりだったけど。

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