『分析哲学講義』はスゴ本
「哲学が何の役に立つのか?」という疑問が愚問になる時がある。
それは、否が応でもせざるを得ない思考の格闘が、ずっと後になって哲学と呼ばれる活動であることを知ったとき。似たような思考の罠はハマった先達がたくさんいて、そこで足掻き、抜け出すために様々な議論の道具、視点、レトリック、そして観念そのものが成果としてあることが分かったときだ。
本書を読むと、自分で見つけて取り組んできた「問題」に、ちゃんと名前があり、応答(≠解答)があり、さらに批判と解釈が続いていることに気づく。このせざるを得ない問答に、たまたま哲学という名前がついているだけであって、役に立つ/立たない以前の話なんだ。もういい齢こいたオッサンなのに、この格闘は終わらない。なしですませられるなら羨ましいが、それは畜生にはニンゲンの悩みがなくていいね、というレベルだろう。考えることを、やめることはできない。
語りかける講義調で、ときには著者自身が(意図的に)惑いながら、分析哲学の概観を示してくれるのが嬉しい。「言葉はなぜ意味をもつのか」「今とは何か」といった素朴な問いからはじめ、クワインやウィトゲンシュタインの格闘を紹介しつつ、可能世界、心の哲学、時間と自由といったテーマを掘り下げる。
ただし、250頁の薄い新書にコンパクトにまとめるため、はしょっているところがある。議論を精密にするための概念の定義や、各論への反論・再反論といった目配りがない。なぜそう断言できるのかというと、素人のわたしでもツッコミ入れられるから。「心」や「時間」といった馴染み深い(反面たくさんの定義を抱え込んだ)言葉を未定義に分析していくのは無謀というか、ノーガード戦法とみた。
たとえば、「"今を観察する"という奇妙さ」から、時間の形而上学へと踏み込むあたり。マクタガードとダメットの「時間の非実在性」の議論がめちゃくちゃ面白いのだが、人の約束事でしかない時間に対し、さも厳密な定義があるかのように扱うのはミスリードだろう。だいたい「一日」なんて時計で測るか暦で見るかによってですら、大きく乖離しているのだから。暦とかキュビズム、レイコフのレトリックや文学でいう「意識の流れ」など、様々な角度から「今」の性質を剥ぎ取るほうが、よっぽど直観に近いところにたどり着けるはず。
そうはいうものの、そこまで目配りして書いたなら、このサイズに収まらないことは確かだ。本書は、読み手が引っかかったところを、自分で深堀りするための余白を充分に残したノートなのだ。
そして、一番嬉しかったのは、勇気をもらったところ。世間の常識が変なのか、自分が狂っているのかと格闘してきた疑問が、ずばり示されていたこと。わたしの言葉で表すなら、「なぜイコールは等しいのか?」だ。つまりこうだ。
a = b
この正しさが分からない。b は長い演算式で、計算するのにすごく時間がかかるとしよう。でも式として成立できるのはなぜかが、どうしても分からない。プログラミングで、
if(a==b) もしaとbが等しいのであれば
と書き換えると顕在化する。このif文が実行されるとき、「aとbの等しさ」は評価される。本当はaとbは等しいのに、bの演算が終わっていなければ、偽(またはエラー)となるだろう。この、「等しい」の正しさの中には、演算する時間が入っていない。プログラムではなく、数式として見直しても同じだ。先ほど、bの計算に時間がかかると言ったが、計算の答えが「すべての自然数の数」だったら? アレフ数といった概念をつくりだして式を閉じることは可能だが、計算を終わらせることにはならない。計算が終わっていないのに、なぜ「等しい」と言えるのか?
わたしの狂気は、本来であれば無時間であるはずの数式に、たまたま似ているからとコンピュータの世界の時間をあてはめているところにある。本書では、時間の矢における「今」を掘り下げることで、無時制的に理解されるべき科学の数式の中に、時間という直観が入り込んでいる危険性を明らかにしている。
哲学やってよかったと言えるのは、「変なのは自分だけじゃない」ことが分かったこと、上には上がいること、今の考えを極限まで進めると、どんな世界が見えるのか分かることだ。「なぜ"ある"のか」とか「私の痛みと君の"痛み"はどう違うのか」「"私"とは何か」「科学の"正しさ"とは何か」という疑問に応えようとすることで、世界はずいぶん見通しがよくなった。わたしが何に混乱し、何を取り違え、どういうドグマに陥っていたか見えるようになったから。
そして、次の方向性が見えるようになった。意味の両替、文脈原理、全体論、可能世界、心の哲学、時間論など、それぞれの講義に対応した参考文献が巻末にまとめられている。わたしの課題図書はこれ。
『言語はなぜ哲学の問題になるのか』イアン・ハッキング
『青色本』『哲学探究』ウィトゲンシュタイン
『MiND 心の哲学』ジョン・R. サール
『自由は進化する』ダニエル・デネット
わたしがしてきた寄り道、回り道、獣道まで教えてくれる、得がたい一冊。

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コメント
『MiND 心の哲学』は、チャーマーズじゃなくてサールですよ
投稿: S | 2016.01.12 16:11
>>Sさん
ご指摘ありがとうございます、修正しました。
投稿: Dain | 2016.01.12 22:18
初コメ、遅コメ失礼いたします。学部3年にいまして、ラッセルとヴィトゲンシュタインで英語を勉強した者です。分析哲学の基礎は、やはりホワイトヘッドとラッセルというのが定説ですが、このふたりとも、結局、人文知ないし文学の方向に向かったんですよね。ホワイトヘッドは『教育の目的』でラテン語実学論を唱え、ラッセルは『我が哲学的発展』という小説仕立ての哲学書で自分の思想をまとめ上げました。ヴィトゲンシュタインも、あと10年生きてれば、『言語ゲーム殺人事件』とか書いてたかもしれません。それ以後のものはいまのところ、沢田允茂しか追えていないのですが、沢田もライフサイエンス研究に向かったりしたので、分析哲学と文学は、殊の外親和性が高い気もします。
投稿: Darcy | 2023.08.23 16:19
>>Darcyさん
コメントありがとうございます。
『言語ゲーム殺人事件』が世に出ていたら、まちがいなく没頭していたでしょう(面白いに決まっている!)。
そして、分析哲学と文学がクロスオーバーしたところから、いま私がウンウン唸っているAIの「人間らしさ」の問題の糸口が見つかるような気がします。継続して読んでいかないとですね。
投稿: Dain | 2023.08.24 14:14