60分で常識が変わる『料理と科学のおいしい出会い』
切って、火を通して、味つけして、おしまい。あとは素材と種類のバリエーションで、料理とはそんなものだと思ってた。
しかし、本気で「おいしい」を求めると、土や水からの話になるし、分子や組成レベルまで分け入った、味わいの認知科学・生理学の研究になる。そこはもはや、経験や伝統を超えた科学の領域で、台所はラボラトリーになり、調理技術はは化学や物理に還元される。
本書では、「分子調理」をメインに、科学の視点から「おいしさ」の本質に迫る。「分子調理」とは、物理・化学・生物、そして工学の知識を調理プロセスに取り込み、新しい料理を創造する試みだ。「新しいご馳走の発見は、人類の幸福にとって新しい天体の発見以上のものだ」と言った美食家がいたが、これは新たな星雲の発見以上になるかもしれぬ。
たとえば、食材の「相」を変えるという発想が紹介される。氷・水・水蒸気に代表される、固体・液体・気体の相のことだ。通常なら、加熱などにより相転移する前に、化学反応によって違う分子になることが多い。だが、食材の分子そのままに、相だけを変化させる試みがある。スパークリングワインをゲル化してジュレとして提供したり、コーヒーやチョコレートの成分が、"吸って"楽しむエアゾルで提供される「食」がある。エスプーマ(espuma)という技術も面白い。亜酸化窒素を使って素材を泡立たせる技術で、グリーンピースやハーブを「泡」にして料理に用いることができる。
食品成分を「つなぎあわせる」酵素の話も興味深い。酵素といえば、油脂やタンパク質を分解するものと思っていたが、逆の働きをするものもある。特に、トランスグルタミナーゼが凄い。タンパク質を共有結合させる酵素で、最近の麺の「プリッ」とした食感や、ソーセージの「バキッ」とした弾力性はこのおかげ。もっとすごいのは、バラバラの肉片にこの酵素をまぶして一晩ラップに包んでおくと、あら不思議、翌朝には立派なステーキ肉になるという。さらに、「麺の再発明」とも言われるエビが99%入ったパスタが驚異的なり。酵素のおかげでいわゆる「つなぎ」が不要になるから、こんな魔法のような食品物性が可能になるわけね。
調理技術の進展もすごい。「水で焼く」ヘルシオに驚いた人は、「空気で焼く」高圧調理機が出てきたら腰ぬかすだろう。7千気圧のプレスをかけて、食品を構成する分子を密の状態に押し込むことで、食材の色・香り・栄養素をそのままに「圧を通す」調理を聞かされると、科学なのか錬金術なのか区別がつかなくなる。「調理とは火を通すもの」という固定観念を破壊されたのは、「アンチ鉄板焼(anti-griddle)」だ。マイナス35度に冷やされた鉄板で、中身トロトロ外側カリカリに仕上げられたチョコレートやホイップクリームは、食わずに死ねるかレベルらしい。
分子調理だけではない。舌から脳までフル活用する、味わいの認知科学も面白い。「おいしい」とはつまり、味と匂いに還元できると考えていたが、これはわたしの偏見だということが分かった。もちろん、味覚の原理から始まって、香りが味わいに果たす役割も解説される。だが、この辺りの件は『お皿の上の生物学』で教わったことがほとんどだった。本書ではそこからさらに進めて、テクスチャーの重要性を説く。
テクスチャーとは、料理を食べたとき、口のなかで感じられる物理的感覚(mouthfeel)と食べ物が持っている物理的な性質(physical property)を合わせたもので、まとめるならば、「食感+物性」になる。甘味、塩味、酸味、苦味、うま味といった舌や鼻で感じる「化学的な」おいしさを風味とするならば、硬柔・温冷なめらかさ、のどごし歯触り舌ざわりといった唇、口腔内、喉頭、歯などで感じる「物理的な」おいしさが、テクスチャーになる。味や匂いがテクスチャーを変えることは少ないが、テクスチャーが風味を変えることはあるという。これは、食品中の味やにおいの拡散速度が変わるからになる。
たとえば、小豆からつくられる固体の「あん」の糖度は60%と高いが、液体のおしるこだと甘すぎるため、30%に低く抑えられている。甘味・うま味の受容体の感度は、体温付近が最も高い一方で、塩味や酸味の受容体は温度変化を受けにくい性質がある。その結果、温かい味噌汁で感じるうま味が、冷めると感じにくくなり、塩味に際立つというのだ。口に入れたときの温度を考慮して五味の強弱をつけたいもの。
また、日本人は世界に類を見ないテクスチャー好きらしい。ごはんの硬さや粘り気の薀蓄から始まり、うどんやそば、ところてんの「のどごし」を愛する文化がある。英語は "crispy" なのに、カリカリ、パリパリ、歯ざわりがいい、ポリポリ、サクサクなど、テクスチャーを表わす言葉が実に多様であることを指摘する。食べたときの感覚もひっくるめて「口福」はできているんだね。
次の料理からは、テクスチャーを念頭に「おいしい」を求めてみよう。たとえば、おひたし・サラダ系は塩味薄め・うま味多めで、温かい料理は逆にするといった味付けの微調整をしてみよう。あるいは、ソテーひとつとっても、どこまで火を通すかは、どんな食感になるか予測しながら水分の飛ばし具合を変えてみよう。
わたしの固定観念を揺るがす、面白いアイディアもある。「料理の公式」という概念で、どんな素材に対しても、物理化学的な特徴だけを考え、あらゆる料理を二つの要素式に還元させる。分子ガストロノミーの生みの親、エルヴェ・ティスが提唱したもので、「この食材にはこの料理」という経験・伝統の縛りから逃れることができるというのだ。
1.食材の状態
気体(gas)
液体(water)
油脂(oil)
固体(solid)
2.分子活動の状態
分散(/)
並存(+)
包含(⋃)
重層(σ)
これらの要素を組み合わせることで、あらゆる食材や料理の成り立ちを説明する。たとえば、泡立てる前の生クリームは、「水の中に油脂が散らばっている」状態であるため、式に表すとこうなる。
o/w (油脂 分散 水)
生クリームを泡立てるという調理は、油脂に空気を含ませるから、油脂に空気を加え、その空気を含んだ油脂が水の中に散らばっている状態なので、こうなる。
(o+g)/w (油脂 並存 空気 分散 水)
そして、油脂をチーズに置き換えるなら、ホイップチーズが作れるし、トマトをジュースにしてオイルを加えるなら、ホイップトマトも夢ではない。このように、式を改変したり素材を入れ替えることで、新たな料理の開発へ応用できる。料理の体系化により、意外な共通点や改良の過程が見えてくるのは、『料理の四面体』でガツンと学んだのだが、上記の式はその発展になる。レシピ本やサイトに頼りっきりにならず、そこからアレンジ・オリジナルへ展開できる肝は、ここにあるのだろう。
食べ合わせならぬ「香り合わせ」というアイディアも面白い。余計なものを省き、素材を優先させる日本料理は「引き算の料理」、多彩な食材からソースをつくるフランス料理は「足し算の料理」と言われる。だがここで、フードペアリング仮説を唱える。なんでも食材を合わせればいいというのではなく、組合わせが大事で、そのベースとなるのが香りだという。一皿の料理内で好まれる香りの数には制限があり、共通する香りを持つ食材どうしを合わせることで統一感がでて、深みのある料理ができる(だろう)という仮説だ。
本書ではフードペアリングの専門サイトを紹介する。香りの種類や特徴をデータベースにした[foodpairing.com]では、香り合わせのよい食材を、ペアリングツリーの形で見える化しており、直感的に分かるようになっている。たとえば、チョコレートとブルーチーズは、73種類の香気成分を共通で持っていることが分かっている。だから、両者を合わせることは無謀なチャレンジに見えるかも知れないが、実際に食べてみるとおいしいらしい。食べ合わせならぬ香り合わせ、ちょっと試してみよう。
料理の常識が、科学で更新されてゆくさまが面白い。「おいしい」を最適化した「超料理」を、ご堪能あれ。

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