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この本がスゴい!2015

 「いつか読む」は一生読まない、いつ読むの?

 人生は短いのに、読みたい本が多すぎる。残り全部を注いでも、いまのリストは読みきれぬ。己の変化を確かめる、再読リストも増えている。今際に後悔しないため「読んでから死ね」が優先なのに、積まれるスピードさらに上。本を通じて出会った人から教わった本がまたスゴい。オフ会は危険な場、積読山がマシマシだ。それでも読むしかない、それも今しかない。

 「この本がスゴい!2015」は、この「今」を積み上げた一年間からピックアップしたもの。ネットや読書会を通じてお薦めされた作品もあれば、書店や図書館で「呼ばれた」本もある。非常に愉しいのは、リアルで話し込んでいると、記憶の底からリレースイッチのようにタイトルが"発火"してゆくところ。完全に忘れてた、思いもよらない作品につながってゆく様は鳥肌もの。

 世界は対話で拡張する。わたしが知らないスゴ本を"発火"させる、あなたが凄いのだ。このブログをやっていなかったら、このエントリを読んでいるあなたに出会わなかったなら、読まないどころか、見ることも、存在すら気づかないまま通り過ぎていった本ばかり。どんなに感謝しても感謝し足りない。

 このリストが、ささやかでもいいから、あなたのお役に立ちますように。そして、「それが良いならこれはどう?」なんてオススメしていただけると、中の人はたいへん喜びます。このブログも11年目、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいた」ことを証明するラインナップをどうぞ。

フィクション
『この美術部には問題がある!』

いみぎむる
電撃コミックスNEXT

 今年一番のコミック。かわいくて、甘酸っぱくなる青春×日常×ラブコメディ。

 ラブコメ読むのは、なかった青春を上書きするため。劣等感と自己嫌悪だらけの思春期から、長い年月が過ぎたけれど、未だに悶える夜がある(思い出は思い出したときだけ存在するから、劣化するより増加する)。だから、記憶は塗り直して上書き保存する。「飲みかけジュースの缶接キスの応酬」や、「勉強合宿で彼女のベッドに寝かせてもらう」「スカートなのに肩車!」など、こんな中高時代が送りたかった……とないものねだり妄想しまくりの甘酸い快いひとときを味わえる。

 絵の可愛さもさることながら、コマまわし台詞まわしが抜群に上手い。扉絵が実はオチだったり、長~い伏線が埋め込まれていたりと、再読・再々読の仕掛けが楽しい。「間」のとりかたは『よつばと!』、キャラづかいは『WORKING!!』、構図のつくりかたは京アニを彷彿とさせてくれて、これまた超好み。伊波まひるのボコデレ、小鳥遊六花の照れかくし、綾瀬風香のマジボケがお好きな方は、読まないと損しますぜ。3話まで無料のお試し版は、「Comic Walker : この美術部には問題がある!」からどうぞ(第3話のあるシーンでココロ持っていかれましたな)。読めば分かる、読んで悶えろ。

『戦争と平和』

レフ・トルストイ
岩波文庫
[レビュー]

 小説の最高傑作。読んだら人生が捗るぞ。絵にも描けない面白さ、とくとご堪能あれ。

 3回電車を乗り過ごし、2晩徹夜し、1回会社を休んで読み耽った。夢中小説であり徹夜小説でありスゴ本。深読み・裏読みを誘う伏線が張られていたり、限りなくスプラッタ&ホラーな瞬間もある。先を知りたくなさに、ページめくるのをためらう時もあった。誰だよ、崇高なブンガクに奉っているのは。これには、小説を読むうえで、ありとあらゆる歓喜と恐怖と興奮が、たっぷりと詰まっている。

 ナポレオン戦争をテーマに、人類の運動としての歴史を、そこに生きる人々の自由意思の総和であると見なし、「戦争」と「幸せ」を紙上でシミュレートしたのが本書になる。誰も戦争など望んではいない。にもかかわらず、自由と平和を求めて、互いに殺しあうこの矛盾が、徹底的に暴かれる。苛烈で容赦のない戦闘シーン、多重かつ対照的な物語構造、500人を超える登場人物を自由に出し入れする群像劇と、どれをとっても桁違いに凄い。ボリュームの大きさに臆するなかれ、メインキャラクターは3人、ピエール、アンドレイ、ナターシャだけ押さえれば大丈夫なようにできている。未読の人は幸せもの、夢中になって読み漬れ、読まずに死んだらもったいない

『絶深海のソラリス』

らきるち
メディアファクトリー文庫
[レビュー]

 前半ライト、後半ヘビー、ラスト絶望。帯の「絶望率100%」は伊達じゃない。

 ラノベを読むのは、なかった過去やありたい日常を、妄想で塗りつぶすため。ツンデレ隠れマゾ、ロリ幼なじみ、セクシー先輩というキャラ配置から、魔法科高校みたいな近未来SF学園ハーレム系と思って読んでいた(たしかに前半は、お約束のフォーマットに正しく則っていた)。

 おかしくなるのは中盤から。予感していた禍々しさが現実味を帯びてくると、目を疑う。まばたきどころか、呼吸を忘れて読むそして叫ぶ、ちがうそうじゃない、やめろやめてくれとくりかえす、それでも頁は止まらない。わたしの願いを蹂躙し、物語は容赦なく進む。キャラの魅力や設定は、すべてこの絶望を演出するため。物語に、徹底的に打ちのめされる読書になる。もしも興味があるのなら、ネットのネタバレ遮断して、予備知識ゼロで読めそして沈め。

『不穏の書、断章』

フェルナンド・ペソア
平凡社ライブラリー
[レビュー]

「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけで十分でないことの告白である」

 どこを開けても刺さる。わたしの一番ダメなところに潜り込んでくる。「わたし」なんて実は何もなく、代わりに無数のなにか(誰かの言葉だったり感覚の記憶の残滓)のざわめきに満ちた、単なる思念のたまり場に過ぎない。しかし、生きてるフリが上手になればなるほど、フリが本当になる。仮面がひっつく、というやつ。オトナになる、というやつ。本書はそいつを、剥がす、溶かす、解体する。

「ひとはほんとうに誰かを愛することはけっしてない。唯一愛するのはその誰かに関して作り上げる観念だけだ。愛しているのは、自分がでっちあげた観念であり、結局のところ、それは自分自身なのである」

 性愛は他人の身体を使った自慰行為だから、厳密に愛の実践者を定義するならば、童貞・処女のオナニストだ。中二病的に思考を疾走させようとするわたしを留めるのも本書である。一気に読むと悪酔いするから、[フェルナンド・ペソアbot]で慣らし運転するのも吉かも。

『ハケンアニメ!』

辻村深月
マガジンハウス
[レビュー]

 アニメに限らず、あらゆる仕事は、愛と技術と〆切でできている。アニメ業界を描いた小説なのに、自分の仕事の悩みを打ち明けられているようで、身に詰まされる。

 怖いもの見たさにちょうどいい。ぎりぎりの人・金・時間を廻しつつ、思惑とクオリティが錯綜し、理不尽な要求からメンバを護るいっぽうで、仲間の信頼が試される。迫る〆切、突然の変更要求、主役級の失踪―――どこかのシステム開発プロジェクトに重なって、お腹が痛くなってくる。

 本書がユニークなのは、三人の女性視点からの連作短編として構成されているところ。制作、監督、作画のそれぞれの立場を担う女性が、それぞれの短編の主人公となって、現場と私生活を実況していく。章ごとにキャラクターは、主役が脇役になり、端役がキーパーソンとして入れ替わり登場する。この「人のつながり」が良い仕事につながるという、伏線であり導線になっている。テーマを物語の構成に語らせるところは上手いな。

 制約ぎりぎりで踏ん張って、きちんとしたクオリティに仕上げるのは、もうプライドや愛といった泥臭い言葉でしか表せない。結果、愛だけじゃどうしようもないお金や時間の問題に追い立てられることになる。そのドタバタ具合が身にしみて、踏ん張る背中がかっこいい。『SHIROBAKO』にハマった人に特にオススメ。これはmanameが[私のお気に入りの本2014]で徹夜本と推していたので手にしたもの。ありがとうmaname、そして結婚おめでとう! 結婚のアマチュアは[この2冊]でシミュレートしてくださいまし。

『黄金時代』

ミハル・アイヴァス
河出書房新社
[レビュー] [読書会での発見]

 「世界は一冊の書物に至るために作られている」とマラルメは喝破した。だが、その「本」は絶えず更新され、挿入され、削除されている。なぜなら、「本」について口を開いた瞬間、読者は語り手すなわち作者となるから。

 本書を、虚構の島の奇妙な日常を紹介する旅行記として読んでもいいし、その島にただ一つだけある、始まりも終わりもない増殖する「本」に畳み込まれた物語に呑み込まれても面白い。ボルヘスやナボコフや千夜一夜を想起して、ニヤリとほくそ笑んだりゴクリと唾を飲み込んだりもする。あちこちに隠してある、プラトンやフーコーやレイコフたちの哲学のアナロジーを解くのも、めっぽう楽しい。物語単品でも、物語の重ね書きとしても、物語る行為のパロディとしても愉しめる。

 もっと凄いのは、uporekeさん主催の読書会に参加したところ、「同じ一冊でも、こうも違うのか!」という驚きと喜びが得られたこと。まさに蒙を啓く体験を体感した。「面白い」も「つまらない」も遠慮隔てなくやりとりして、わたしが読み逃した気づかなかった描写やフレーズがどんどん指摘され、慌てて読み戻り、互いの違いを話すうち、別の視線で眺めるようになる。読書会の様子は、第40回読書部活動 ミハル・アイヴァス『黄金時代』 をどうぞ。こういう、課題本を決めてする読書会もいいね。いわゆる「ガイブン好き」は、上から目線のナルシストという偏見を持ってたけれど、完全にわたしが間違ってた。uporekeさん、素晴らしい本と読書会をありがとうございます。

『ワンダー Wonder』

R.J.パラシオ
ほるぷ出版
[レビュー]

 「正しくあるよりも、親切であれ」というメッセージが、そのまま自分の願いとして腑に落ちてくる。くたびれたオッサンになった自分の中に、こんなに素直に願える部分があることに気づいて、驚く。

 「顔に障碍を持った、ふつうの男の子の話」という予備知識だけで手にしたのだが、たっぷりと震わされた。緊張だったり恐怖だったり、怒りや悲しみもある。この主人公に移入するのは、かなり難しいが、彼や周りの人たちの感情はすぐに、まっすぐに伝わってくる。なかでも、いちばんわたしを震わせたのは、感動、それも「わたしの心の中にあるやさしさ」を見つけた感動だ。

 ふつう「やさしさ」とは目に見えないもの。誰かの言葉や行動にやさしさを感じ取るものなの。だがこの本では、はっきりと触れることができる。「やさしさ」の形が分かるのだ。泣いてもいいけれど、泣くための物語ではないことを、お忘れなく。そして、これ電車など人前で読まないようにすることも、お忘れなきよう。これは、ちかさんとわたしの娘にお薦めされて読んだ。ちかさん、わたしが知らない素晴らしい本を、いつも教えていただき、ありがとうございます。

『高慢と偏見』
ジェイン・オースティン
ちくま文庫
[レビュー]

 人はプライドの奴隷であることが、よく分かる傑作。さながら馬鹿の見本市である本書では、超々々めんどくさい男、嫌味と自慢のマウンティング大会、度し難いツンデレ、殺意を伴う自己中など、人の愚かしさをこれでもかと見せてくれる。カリカチュアライズされたキャラ小説として読んでも一級品だろう。

 しかし、中盤あたりで裏返る。どんどん明かされる"意外な真相"は、実は意外でもなんでもなく、ただの偏見がなせる業だったりする。同時に、馬鹿をバカにしていた人も、愛すべき愚か者であることが見えてくる。人は誰も笑いの網から逃れられない。ヒロインのエリザベスの独白「私が盲目になったのは恋のためではなく、虚栄心のためなのだ」が刺さる刺さる。人はプライドだけでなく、偏見の奴隷でもあるのだ。

 男女のすれ違いから生まれるおかしみと情熱を、小気味よく捌いて心地よく魅せてくれるうちに、気づいたら終わっていた。これは、おぎじゅん、ちかさんをはじめ沢山の人にお薦めされて手にしたもの、ありがとうございます。読まなければ一生「堅苦しい古典文学」と放置していただろうなぁ。お堅い表題はタイトル詐欺、読まずに死んだらもったいない。

『ファイト・クラブ』

チャック・パラニューク
ハヤカワ文庫
[レビュー]

 男は黙って読め(命令形)。人生の持ち時間がゼロになる前に読め。

  幼い頃は「良い子」そして「良い生徒」さらに「良い大人」「良き夫」「良いパパ」になるべく生きてきたわたしとは一体何なのか? そういう心に刺さる。生きてる実感が湧かないなら、自分が何なのか見失ったら、そしてあなたが男なら、強力に切実にこれを薦める。長いこと絶版状態だったのだが、ようやく新版が出た(ハヤカワ偉い!)。やっと安心して言える、読め、とね。

 この主人公「ぼく」がそうだ。生きている気がせず、不眠症の頭を抱え、ずっと宙吊り状態の人生に嫌気がさしている。そんなぼくと出会ったタイラーはこう言う、「おれを力いっぱい殴ってくれ」。そしてファイト・クラブで殴り合うことで、命の痛みを確かめる───あらすじ的にはこれで充分、あとは調べずに読みなさい。ネットにはネタバレがあふれかえっているからね。

ファイト・クラブ 伊藤計劃が映画についてネタバレギリギリで語っている[ファイト・クラブ(1999)]。オールタイム・ベストがこれだと断言している。タイラーをトリックスターと評するのはまったくもってその通りなのだが、「不在の中心」と名付けたのは天才だと思う。激しく頷いたところを抜き出してみよう。

あくまで映画評なのでご注意を。

今、ぼくがこの社会に生きているという逃げようのない事実を扱う映画。肉体を持つ一顧の人間として「今ここ」に生きることの意味を問う映画<
ですが……この、「ファイト・クラブ」に関しては「好きな部分」「面白くない部分」という評価は出来ないのです。全肯定か、全否定のどちらかしかありません。
この映画が好きか嫌いか、となると話は別。そのことはその人間の生き方に大きく関わってくるのです。

『アルブキウス』

パスカル・キニャール
青土社
[レビュー]

 現実の処方箋としての物語り。

 受け入れがたい現実との折り合いをつけるために、人は物語を必要とする。物語りは物騙りであるからこそ、固有名詞を剥ぎ、バッファーを設けることができる。受け手が飲みこめるよう現実を変形させる、安全装置となっている。

 だから、つぎはぎしたり、つじつま合わせの必要なんてない。嘘と嘘への欲望を、そのまま代弁してくれるだけでいい。小説とも随想ともつかぬ本書では、古代ローマの残酷でエロティックな物語と、それを紡ぎだす作家アルブキウスの奇妙な人生を重ねながら、物語と作家がお互いを必要としたことを炙り出してくれる。

 面白いことに、本書の語り手であるキニャールが、自らを隠そうとしない。か細く小さいプロットを並べ、それを書いたアルブキウス自身の現実との葛藤を掲げてみせる。キニャールがあちこち顔を出し、ときに生々しく、ときに悪趣味に、即興も挟みながら騙りかけることで、二千年前の作家が傍らにいるように思えてくる。昔も今も、人は、同じことで苦悩して、同じ理由で死ぬ。そこに慰めを見いだすか、ささやかな喜びを感じるか。生きるためには嘘が要る、そんなあたりまえのことを気づかせてくれる一冊。これは、『塩一トンの読書』で教えてもらったもの、著者・須賀敦子氏に感謝。

『からかい上手の高木さん』

山本 崇一朗
ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル
[レビュー]

 男子は女子に絶対に勝てない、そんなあたりまえのことを思い知らせてくれる。

 タイトル通り、好きな子にちょっかいを出すというラブコミなのだが、無限にニヤニヤできる。高木さんの「からかい」の手管が絶妙で、隣の席の「からかわれ」るほうの西片くんは掌のナントカ状態となっている。「放課後ふたりで腕ずもう」とか「体操服を交換する」、「缶ジュースまわし飲み」「なんでもないことを手紙で伝えてくる(しかもハートのシールの封をして)」など、悶絶必至のエピソードでもってニヤつかせる。

 ふつうの思春期男子ならハートを撃ち抜かれるイタズラでも、そこは作者の妙、いい感じで西片くんがニブい。「ひょっとしてボクのこと好きなんじゃ……いやいや、違ってたらどうしよう」とためらう自信のなさに、若さと懐かしさを感じる。

 封印したはずの地雷を踏み抜くか、誰もいない壁に向かってドンするか、選べるかどうかは分からない。だが、読んだら身悶え保証する、良いか悪いか別として。

ノンフィクション

『人体 600万年史』
ダニエル・E・リーバーマン
早川書房
[レビュー]

 進化の観点から「人体」をリバースエンジアリングしたのが本書だ。

 非常に面白いのは、「人の身体はなぜこのようになっているのか」というアプローチから迫ってゆくうち、「人は何のために生きるのか?」への回答がなされていること。人類の祖先との身体構造の違い―――長い脚、高い鼻、大きな頭といったパーツから始まって、なぜ食べ物を喉に詰まらせるのか? こんなに太りやすいのはなぜか? なぜ身体の具合が悪くなるのか(そもそもなぜ病気は「ある」のか)……を、「わたしたちの身体は何に適応しているのか」に収束するよう巻き取ってゆく。

 衝撃を受けた答えの一つは、「わたしたちの身体は、"走ること"に適応している」だ。直立二足歩行を始めとし、身体構造や代謝機構を紐解きながら、人は歩くことのみならず走ることに適応したと解説する。さらに、人類進化の系統と照らし合わせながら、発話の解剖学的構造を解き明かす。確かに口腔の構造は誤飲による窒息の危険性はあるものの、それを補って有り余る「より明確にしゃべる」ことに適応できたという。つまり、「わたしたちの身体は、"コミュニケートする"ことに適応している」のだ。

 いっぽうで、農業革命や産業革命を通じて、人体を取り巻く環境は激変している。遺伝子や身体構造はほとんど変わっていないにもかかわらず、食べるものから体温調節方法まで、ライフスタイルのあらゆる点で、徹底的に変化している。この、適応のスピードと環境のミスマッチこそが、文明病と呼ばれるさまざまな病気を引き起こしているという指摘は鋭い。

 「人体」を進化・健康・疫病という観点で捉え直すと、生物学、医学、考古学、人類史を横断的に見ることになる。かつて読んできたものと呼応し、ここから読んでいきたい書籍を呼び寄せる。以下を束ねるようなハブ的役割を果たしているのが、本書になる。

 E.O.ウィルソン『人類はどこから来てどこへ行くのか』は、進化の観点から人間の本性を定義しようと試みる。即ち、人間の本性とは、種に共通する遺伝的規則性(=後成規則)だという。遺伝的進化と文化的進化の相互作用によって遂げた、世界を認識し表現するための偏向であり、無意識にとりうる選択肢や反応だという。「人とは何か」を進化で説明しようとする試みは、目的論の陥穽に留意しつつ深読みしたい。
[レビュー]

 太田博樹/長谷川眞理子『ヒトは病気とともに進化した』は、「なぜ病気があるのか?」という出発点から、進化医学の最新の知見を集めたものだ。ゲノム情報から疾患原因を見つける手法を紹介したり、疾患の進化的モデルとその意義を深掘りする。本来なら避けたい病気の症状が、実は適応的な意味を持っていることに気づかされる。例えば統合失調症は、実は人の脳機能を上昇させることへの副作用であるという見方は目鱗だった。
[レビュー]

 ランドルフ・ネシー『病気はなぜ、あるのか』は、進化生物学で得られた知見を医学に応用したパイオニア的名著。今まで常識だった対処法が非常識に見えてくる、発想の逆転が面白い。感染症による発熱は、ウィルスに高体温で対抗する防御反応という発想や、結核患者の血液中の鉄分レベルが下がるのは細菌にとって必要な資源をとらせまいとする戦略だという指摘は、そのまま治療方針の転換に至っている。かつては「とにかく解熱」「鉄分を与える」ことで重篤化していたが、今では逆だ。なんでも適応で説明できるとするのは危ういが、進化の目線で病気が「残っている」理由を探すアプローチは有効だろう。
[レビュー]

『食 90億人が食べていくために』

ジョン・クレブス
丸善出版サイエンス・パレット
[レビュー]

 「食」の入門書にして総合書、色々手を出してきたが、まずこの一冊から読みたかった

 食にまつわる歴史や科学の発展から、生物学的見地からの味覚の考察、食の安全と環境問題、そして90億人が食べていくための肥満や食糧問題を、新書一冊にぎっしりと手際よくまとめられている。このテーマはミクロにもマクロにも、人文寄りにも科学的にもいくらでも語れるため、膨大なものになりやすい。だが本書は、さまざまな文献を次々と援用することで、大づかみに素早く知ることができる。

 たとえば、「ヒトは料理で進化した」と主張するランガム『火の賜物』を援用しながら、相対的に小さい歯や顎、コンパクトな消化器官、生理機能を解説する。これは、料理に適応した結果だという。食物を小さく切って、火を通すことにより、柔らかく、食べやすくなる。つまり、消化プロセスの外部化である料理のおかげで、消化吸収するエネルギーや時間が効率化され、余剰分をコミュニケーションに費やすことができたというのだ。
[レビュー]

 添加物や混ぜ物についての解説は、ウィルソン『食品偽装の歴史』につながる。混ぜ物や偽装、遺伝子操作の問題など、食の闇を暴き立てたルポルタージュで、食の黒歴史なだけでなく、様々な読み方ができて面白い。食品偽装の歴史は、騙す方と騙されまいとする方のイタチゴッコの歴史でもあり、風味と見栄えを良くするための技術改良・流通改革の発達史でもあり、食品パッケージングとブランドの変遷から、文化とグローバリゼーションの摩擦の歴史とも読める。
[レビュー]

『不健康は悪なのか』

ジョナサン・M・メツル
みすず書房
[レビュー]

 「健康」というレトリックに隠れた、健康をモラル化する社会を疑う。

 「健康」は、一見、誰も反発したり疑義を唱えられない中立的な善のように見える。誰だって病や苦痛を避けたいもの。健康であるに越したことはない。もちろんその通りだ。本書は、医療に反対しているわけでもないし、病を賛美しているわけでもない。

 しかし、誰も反対しないからこそ、この言葉を使えば、先入観を押し付けることができる。無条件に美徳だと認められるからこそ、製品を売るために用いられても、そのレトリックに気づきにくい。本書では、健康という言葉の背後にあるモラル的な風潮をあぶりだす。健康に関する「物語」を疑えと焚きつける。

 たとえば、おっぱいではなく人工栄養を与えている母親に、「母乳のほうが健康にいい」と訴える全米授乳キャンペーンがある。CMのメッセージの裏側に、「おまえは悪い母親だ」という意図が潜んでいるという。あるいは、新しい治療薬を売るためにまず病気を売るやり口が紹介される。バイアグラを売るためにED(勃起不全)を、アデロールを売るためにADHD(多動性障害)をプロモートするのだ。

 本書では、医療、倫理、フェミニズム、哲学、法学など、さまざまな立場からの切り口で、健康をめぐる嘘と神話が暴き出されてゆく。本書を通して常識を疑うことで、「健康」というマジックワードから自由になれるだろう。同時に「あなたのため」を思っている隣人が、企業が、国家が、ほんとは何のために「健康」を押しつけてくるのかを知ることになるだろう。

『「子供を殺してください」という親たち』

押川剛
新潮文庫
[レビュー]

 「子供を殺してください」という切実な願いには、ひきこもりの末路と、毒親の報いが集約されている

 そんなお願いをする親は60~70代で、子は30~40代になる。比較的裕福な家庭が多く、そうでなくても生活に困らない収入(不動産、年金、遺産)はある。親は資産家だったり経営者だったり、国家公務員や大手企業に勤めている、いわゆる「勝ち組」。子どもは「勉強はできる子」で、高学歴な場合が多い。

 それが、人間関係のトラブルがきっかけで会社・学校を辞め、転々とし、ひきこもる。アルコール、薬物、ギャンブル、ネットに耽り、家庭内暴君の如く振る舞う。深夜の奇声、近所での奇行、たまらず止めに入る親、部屋からは異臭がするが入れない。統合失調症、強迫性障害、パニック障害、どこで間違えたのか。病院やカウンセリング、警察の助けを求めると逆恨みされる。「俺がこんなんになったのは、オマエのせいだ」と刃物を持ちだす。親は、気力・体力・財力を使い果たし、疲労困憊となる。

 著者はこうした親からの依頼を受け、精神障害者の人を医療機関へつなぐ「精神障害者移送サービス」を営む。ともすると命にかかわるギリギリの仕事に頭が下がる。著者が向き合う「崩壊した家庭」の生々しさに苦々しくなり、これを「親の育て方が悪い」=「私には関係ない」ことにしたくなる。正常化バイアスはうまく働かず、思い当たる節々多々。いわゆる、「うちの子に限って」だね。

『なぜエラーが医療事故を減らすのか』

ローラン・ドゴース
NTT出版
[レビュー] [シンポジウムまとめ]

 「失敗を排除するため圧力をかけると、失敗が報告されない組織になる」この危険性は、失敗が大惨事になった場合に曝露される。

 今年は排ガスや杭にライトが当たったが、医療事故は常に起きている。問題はエラーの犯人探しをして糾弾すれば良いという話ではなく、エラーを起こさない/起きにくい組織にすることにある。医療の不確実性に起因するヒューマンエラーは原因ではなく結果として捉え、エラーを前提としたシステムづくりを目指せと説いたのが本書だ。

 原書のタイトルはもっとシンプルに、「エラー称賛」である。本書の主張は明確だ。複雑な人体と複合的な医療システムにとってエラーは必然であり、不可欠でもあるのだから、エラーを受け入れ、称賛せよという。そして、エラーを前提とし、これを報告・学習する文化を広げろという主張だ。そのための具体的な方法や事例が、現場から為政者レベルで書いてある。

 本書を受け、10/19にシンポジウム「日仏科学医療対話」が開かれた。これに参加して、著者ローラン・ドゴース本人のお話をうかがうことができた。興味深いことに、いわゆる「失敗学」が提唱するオープンなヒヤリハットをいくら集めても、「みんな知ってる典型例」の羅列となるだけだという。失敗についてはむしろローカル(局所的)に集めるのが重要で、これは病院ごと組織ごとに異なる。

 そして、再発防止のため本当に自由に話してもらうためには、局在性(≒密室)が必要になる。飛行機事故調査における「パイロットと管制官だけ」のように、「医師と看護師だけ」での院内レビューが重要だという。レビュー結果を報告する段階で遺族が同席するのはいい。だが、遺族が原因究明の場に入ると、病院側は真実よりも自己正当化を優先するから。つまり、保障の場と報告の場を分けろという発想だ。これは「レジリエンス」というキーワードで、今後も追いかけていきたいテーマになる。

『はじめよう!要件定義』

羽生章洋
技術評論社
[レビュー]

 「後で泣かないために、現場でわたしができること」が書いてある。「何を実現するか」を合意していくやりとりが要件定義であり、これがおざなり/なおざりにされているため様々な悲劇と喜劇と惨劇が起きている。

 この最重要の仕事について、これ以上噛み砕けないほど噛み砕いて書いてある。要件定義とは何かから始まって、基本的な流れ、定義すべき内訳、ゴールからの逆算の仕方など、助走から離陸まで、「やるべきこと」と「なぜそれをするのか(しないとどうなるのか)」に絞ってまとめられている。

 刺さったのは、「要件定義と業務設計を分割せよ」の件。「せっかくだからソフトウェアを活かした業務にしたい。そのためにソフトウェア側の要件がハッキリしないと行動シナリオ(業務設計)が書けない」と言ってくる客だ。結果、「ソフトウェアの要件定義」という作業と、「行動シナリオの検討と設計(=業務設計)」という作業が入り混じってしまい、作業が異様に複雑になる。「要件定義には業務知識が不可欠だ」とか本質からズレた議論が白熱し、白熱するわりに不毛な展開になる。

 これは、発注元がよく使う逃げ口上だ。自分がやってこなかった宿題を受注側に押し付ける常套句なのだが、これで何人が泣いたことやら。分割統治は必須やね。本書では、この土俵に乗らないために、要件定義「の前に」行動シナリオを書くことを推奨する。類書によくある、「要求を仕様化する手法」は、いわゆる書き方論が多いが、本書は「そのための肝が何であり、具体的に何を"する"のか、どういう罠があるのか」と行動とリスクにフォーカスが当たっている。

『思考の技法』

ダニエル・C・デネット
青土社
[レビュー]

 哲学するための装備を整え、著者自身の戦歴を踏まえながら自分のモノにする一冊。カタログ的なツール集というよりも、もっと大掛かりで強力な、知の増幅装置に近いイメージ。

 「意味」「進化」「意識」「自由意志」といった、手ごわいテーマに対し、手ぶらで対峙しないための装備と考えればいい。オッカムの「かみそり」ではなく「オッカムのほうき」、藁人形論法ではなく「グールドの二段階藁人形」など、一般の思考道具よりも威力のある、77もの装備が手に入る。

 なかでも、道具というより装置レベルのものを、デネットは「直観ポンプ」と呼んでいる。一種の思考実験で、「そうであるとしか考えられない」本質を直接、そのまま汲みだすためのツールだ(だから"ポンプ"なのだろう)。ユニークなのは、思考実験の前提や環境パラメータを色々変えて試行錯誤することで、そこから引き出される直観がどのように変わるのかを吟味しているところ。これにより説得力を増したり、逆に、直観を疑わしくさせているポイントに焦点を合わせることができる。本書では、サール「中国語の部屋」や、ジャクソン「色彩学者メアリー」の直観ポンプが、徹底的に批判されている。

 上手いと唸らされたのは、前半の思考の道具立てが、後半の哲学談義への戦略的地ならし&展開準備になっているところ。もしこうした道具や直観ポンプの比喩によって議論が済んでいなければ、同じような質疑応答を繰り返すハメになり、ただでさえ分厚なのが(700頁超)もっと巨大になっていただろう。道具と実践の両方がいっぺんにまかなえる、強力な一冊。

『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』

鈴木貴之
勁草書房
[レビュー]

 意識は科学で説明可能か? このとんでもなくハードな問題に突入する。ギリギリ捻られる読書体験を請け合う。著者は現役の哲学者、意識という現象を自然科学的な枠組みのもとで理解するという問題(意識のハード・プロブレム)に、真っ向から取り組んでいる。「物理主義」や「クオリア」、「哲学的ゾンビ」「意識の表象理論」を駆使して、科学・哲学の両方に跨がる難問に挑戦する。

 著者のスタンスは、「玉砕上等!」明快で潔い。古今東西の優秀な科学者や哲学者たちが、様々な説明を試みてきたこの問題が、すんなり解けるとは思っていない。行きつ戻りつ、ああでもない、こうでもないと考え抜くのだが、ダメならダメで、あっさり次へ行く。たとえある立場からの説明に失敗したとしても、その試みは無意味ではないとする。「そっちの道は袋小路だ」と示せたから。これまで、いかに不毛な蒸し返しをしてきたのか、見て取ることができる。

 しかし、本書の中盤で、デッドエンドに至る。意識を科学的に理解しようという試みも、それを否定しようという試みも、どちらもうまくいかなくなる。ここからの脱出が凄い。「われわれはそもそも何を経験しているのか」という問いかけから、意識の表象理論へ踏み込む。意識経験を一種の表象(世界がどのようであるかを表わす働き)とみなし、世界を(その生物にとって)どのように役立てるかに分節化された知覚表象システム論を展開する。著者は一切手を抜かないので、がっぷり四つ、全力で臨みたい。

『そうだったのか現代思想』

小阪修平
講談社+α文庫
[レビュー]

 最高の入門書が一冊で読める。「私とは誰か(何か)?」という問題に、ずっと取り組んでいる。存在論と認識論から始まって、認知科学や科学哲学、数学から仏教まで、道草が愉しすぎて終わる気がしない。わたしの時間が終わるまで、知りたいことを知り尽くしたい。

 その手引きとなる一冊がこれだ。網羅性はないし単純化バイアスが掛かっているが、現代思想のエッセンスを凝縮し、ひたすら噛み砕くのが良い。要所要所で出てくる概念図がこれまた分かりやすく、院生や教師のタネ本というのは本当だろう。今までバラバラに読みかじり・聞きかじってきた概念が、つながりを持って理解することができる。

 現代思想の水源をニーチェに求め、ヨーロッパが持っていた自信の喪失から始まった運動だと定義する。「哲学=真理」というちゃぶ台を破壊したニーチェから、構造を発見したレヴィ=ストロース、デリダの脱構築、知と主体を変換したフーコーまで、絶対的な知の破壊から、相対主義を超えたところまで、一気に駆け抜ける。古代・近代哲学を乗り越えるための現代思想という姿勢だから、ソクラテスやデカルト、ヘーゲルへの後方射撃がどんどん出てくる。自分で乗り越えた悩みもあれば、いま格闘している命題のアンチョコも見つかる。

 面白いのは、思想から科学に向かっているところ。「近代科学でわかるというのは、あらかじめわかりにくいものを度外視して、近代科学のやりかたで、わかるものだけをわかるとかんがえたやりかたなんですね」という指摘は鋭い。「世界の認識の仕方≠世界そのもの」であることを、哲学と科学を経て再把握するに至る。ネット知ってるフリもできるけど、分かりたいヒト向けの一冊。

『市民のための世界史』

桃木至朗ほか
大阪大学出版会
[レビュー]

 スゴ本ブログやっててよかったと思える一冊。自力で探し当てることは不可能な一冊を教えてもらった(DG-Lawさん、ありがとうございます)。

 本は、タイトルやキーワードが分かりさえすれば見つけられる。だが、どういう知が必要か分かっていなければ、絶対に探し当てることはできない。つまり、わたしの知と興味に合わせた一冊は、「それを読んでいるあなた」に教えてもらうしか他はない。歴史関係は読み漁っていたが、知らず知らずに独善に陥っていた。そういう独善や過ちにも気づくことができたので、収穫は大きい。

 わたしの過ちは、「歴史とは面白いもの」という認識が、「面白くなければ歴史じゃない」というねじれにハマってしまったところ。プロパガンダや物語性に満ちた「歴史物語」を読み漁っていくうちに、この危うい誤りに踏み込んでいた。司馬遼太郎や塩野七生を読んだだけで歴史を語るようなもの。司馬史観といえば聞こえがいいが、そこにあるものはページ・ターナーにするための“演出”だし、塩野七生はエンタメとして消費する分には結構だが、これを歴史書として読むのはNGだ

 『市民のための世界史』は、大学教養の「そんなに歴史が好きでもない」学生を想定して作られているため、実はそれほど厚くない(A5版で300ページ)。サクッと読めて何度でも振り返ることができるから、類書と比較しながらシントピカルに読める。さらに、歴史に基づいた面白さに触れてもらうための仕掛けが随所にある。人名や年号は極力減らし、因果関係や背景がわかる説明を配置し、要所要所で読者への問いかけを忘れない。投げかけられた疑問をキーに、能動的に歴史に取り組むことができるのだ(もちろん本書だけでは片付かないから、推薦リストを手に読み広げてゆく)。

 世界の歴史(≠物語)について一定の共通解となる知識を、大づかみで身につけたい人に、うってつけの一冊。

『美しい幾何学』

Eli Maorほか
丸善出版
[レビュー]

 数学は美しい、だがその美は、見る人のなかにある。

 これを紹介するのは、とても簡単で、すごく難しい。というのも、簡単なのは、これは「見る数学」だから。ただ眺めているだけで、その美しさが伝わってくるから。教科書ならモノクロで印刷される定理や図形を、鮮やかなモダンアートにして魅せてくれるから。オイラー線やサイクロイド、シュタイナーの円鎖など、単体でも美しいフォルムをカラフルにリデザインしており、ページを繰るだけで楽しくなる。ひまわりやオウムガイの螺旋に見られる、形のなす必然に心が奪われるだろう(たとえフィボナッチ数の話を知っていたとしても)。

 同時にこれは、「知る数学」でもある。だから、伝えるのは難しい。直感だけで受け取った美には、そのパターンを支えるシンプルな定理が存在し、かつそれは、なるべくしてそうなっていることに気づかされる。この必然性を知るためには、やはり定理を解き、式を理解する必要がでてくる。編集方針なのだろう、数式を控えめに、なるべく「見て分かる」ようにしている。この、簡潔だけど丁寧に解説する知的態度を伝えるのが難しい。

 シンプルなかたちの中に、奥深い原理を知る。パターン・数・形と遊びながら原理を知ることで、自分のなかで美が再構成されるのが分かる。美しいものは、見える人のなかにあることが分かる一冊。

『続・百年の愚行』
小崎哲哉ほか
Think the Earth
[レビュー]

 無知ほど完全な幸福はないことを思い知らされる。『百年の愚行』は、人類が20世紀に犯してきた愚行を、100枚の写真で見える化したもの。奇形化した魚、エイズの子、鮮やかなガス室、貧困の究極形、人類が成してきた悪行とツケ100年分は、絶句するほかない。

 その続編が出た。これは、人類の狂気を見える化したもの。まだ21世紀のはじめなのに、911と311に挟まれてはみ出てきた、おぞましい恥部が写っている。戦争、弾圧、差別、暴力、貧困、環境破壊と核という切り口で、映像として残る人間の愚かさを、思う存分目に焼きつける。どんなに言葉を尽くしても、圧倒的な狂気の前に、声を失うだろう。

 最初の『百年の愚行』と比較すると、センセーショナルなどぎつさが、抑え気味になっている。新疆ウイグル自治区での弾圧は、もっと血みどろor火まみれな映像があるが、煽らないよう避けられている。代わりに、「シンジャンのパレスチナ化」という寄稿で、当局の迫害は「飲鴆止渇(毒酒を飲んで渇きをいやす)」であり、近い将来に支払われる代償が高くつくことを警告する。

 本書で炙り出されるのは、徹底した他者への想像力の欠如だ。名前があり、家族がいて、人生があることを知らない/想像できないから、平気で殺すことができる。空間的に離れた場所や、時間的に遠い未来の世代を想像できないから、平然と奪うことができる。自らが殺し、奪い、焼いていることを“知らない”ままでいられるのは、幸福だ。だが本書は、強制的に見せつける。直視をためらう瞬間も、目を背けたくなる場面も、記憶から暴きたて、思い出させてくれる。この狂気が、よく見えるように。

2015ベスト

『ストーナー』

ジョン・ウィリアムズ
作品社
[レビュー]

 今年のベスト・フィクション。一度しかない人生を、一度きりにさせないために、文学はある。読んでよかった、出会えてよかったと、心から言える一冊。

 文学は、人生のエミュレーターである。美しいものからおぞましいものまで、言葉にできないものを言葉を通じて知ることが、文学をすることだ。なかった成功を追体験し、ありうる失敗をシミュレートする。そこに描かれる個人的な体験に普遍性を見いだし、わたしの価値観と交錯させる。そうすることで、「ああすればよかった」は「これでいいのだ」に代わるかもしれないし、ゲームのように選択肢が「見える」ようになるかもしれない。選択までの葛藤込みで、生きることを堪能できる(何度でも)。文学は、一生を二生にも三生にもしてくれる。

 『ストーナー』の人生もそこに加わる。ひとりの男が大学教師の道を選び、そこで生きていく物語が、端正な語り口で淡々と描かれる。不器用で平凡ではあるけれど、ひたむきで真摯に仕事に取り組む姿は、誰かにとっての「ありえたはずの人生」か、「ありえなかった生活」とシンクロするかもしれない。

 波乱万丈とは言い難いが、生きていく上で誰にでも生じる、出会いや別れ、死、裏切りに見舞われる。普通の人生で(おそらく)最もやっかいな、人間関係の軋轢に、一番多くの時間と労力を吸い取られ、悩まされる。そんな運命を受け入れ、やれることを精一杯やり、「なにか」を成し遂げようとする。悲しみに満ちた中でも、ささやかな喜びを見いだし、それを大切に守り通そうとする。

 100年前の米国を舞台に、50年前に書かれた作品であるにもかかわらず、なんと身に覚えがあることよ。『ストーナー』という他人の人生のつもりで読んだら、そこにつぶさに自分のことが書いてあったように感じる。彼に迫る悲しみが、わがことのように痛いのは、かつてわたしが味わった悲痛であり、これからわたしが受け止める苦悩であるから。

 これは、「誰が得するんだよこの書評」「基本読書」でのレビューを読み、中の人から直接お薦めされたため、出会うことができたもの(それまでは、名作と知ってはいたもの懐手状態でしたな)。冬木糸一さん、daen0_0さん、ありがとうございます。

『美術の物語』

エルンスト・H・ゴンブリッチ
ファイドン
[レビュー]

 今年のベスト・ノンフィクション、世界で最も読まれている美術の本。

 原始の洞窟壁画からモダンアートまで、西洋のみならず東洋も視野に入れ、美術の全体を紹介する。本書ほど広く長く読まれている美術書は珍しい。「入門書」と銘打ってはいるものの、これはバイブル級のスゴ本なり。

 おかげで、興味と好奇心に導かれるままツマミ食いしてきた作品群が、社会や伝統のつながりの中で捉えられるようになった。同時に、「私に合わない」と一瞥で斬ってきたことがいかに誤っており、そこに世界を理解する手段が眠っていることに気づかされる。さらに、美術品の善し悪し云々ではなく、人類が世界をどのように「見て」きたのかというテーマにまで拡張しうる、まさに珠玉の一冊なり。

 まず、明快かつ達意の文に引きよせられる。このテの本にありがちな、固有名詞と年代と様式の羅列は、著者自身により封印されている。代わりに、「その時代や社会において、作品がどのような位置を占めていたか」に焦点が合わせられている。今でこそ美術館や博物館に陳列されいている作品は、儀式を執り行うための呪術具であったり、文字の読めない人々に教義を説く舞台装置だったり、視覚効果の実験場として扱われていた。

 そうした文脈から切り離されたところで美術を語ることはできないという。つまり、それぞれの要請に対して、画家や彫刻家たちが、置かれている状況や前提、制度、そして流行に則ってきた応答こそが、美術の物語たりえるというのだ。

 読んでいくうちに、過去の記憶がどんどん呼び起こされていくのも面白い。出だしのラスコー壁画の件は中学の国語のテストで、レンブランドの生々しい自画像の件はZ会の英語の長文問題で、そして教会建築のアーチ断面におけるヴォールト構造の記述はケン・フォレットの『大聖堂』で、読んだことがある。本書は美術の権威として、さまざまな種本となっているのだ。本書は、これからわたしが見る/見なおす美への新しい視点のみならず、かつて通り過ぎるだけで見落としていた美について、新しい光をもたらしてくれる。

 もっと早く出会っていればよかった。一生つきあっていける、宝のような一冊。

スゴ本2016
 このブログを始めて11年になる。昔日の狭さと浅さを比べるとお恥ずかしいかぎりなのだが晒しておく。ヘタなうちから人目に晒して揉まれることの大切さは、700年前に兼好法師が言い切っており、このブログ自体がその証明になっている(これな→[徒然草 第百五十段])。このブログは、わたし自身の成長ログでもあるのだ。

この本がスゴい!2014
この本がスゴい!2013
この本がスゴい!2012
この本がスゴい!2011
この本がスゴい!2010
この本がスゴい!2009
この本がスゴい!2008
この本がスゴい!2007
この本がスゴい!2006
この本がスゴい!2005
この本がスゴい!2004

 2016年は何を読むか? ベイトソンやレイコフや吉田武、カネッティやゼーハルトや残雪など、「読まずに死ねるか」を優先すべきなのは分かっている。だが、新奇で紹介しやすい新刊につい目が引かれる。自分を一変させ、認識を啓くような読書を実践するのなら、これはぜひとも避けねばならぬ。新しい本を新しいという理由だけで追いかけてるうちに人生が尽きる、そんなことにならぬよう戒めよう。新しい本は旧い本に引きつけて、相互作用の影響を測りながら読もう(そういう読みを広げる・深める「新しい本」を優先的に読もう)。

 やりなおし数学は『数学ガール』でコッソリ勉強しつつ、子どもにはドヤ顔で薦めてやろう(数論はもっと潜ってみよう)。物理学は高校からやりなおそう。認知科学と言語学と仏教(龍樹の思想)を重ねて読みたい。日本を蝕む老害をテーマに、わたしの行く末をトレースしながら笑える作品を探そう。料理と食の科学は「発酵」という切り口で面白い本が沢山ある。なによりマンガとラノベが読めていない、いいのがありすぎるからソムリエが必要だ(kaienさん……)。進化医学という知見から、いい論文が沢山みつかりそう。科学哲学の積読山が極めて魅力的である(これな→[科学哲学を専門的に学びたい高校生・大学生のために])。翻訳ミステリ読書会で徹夜本を仕入れよう(強烈にお薦めしてもらったディーヴァー『ウォッチメイカー』読まねば……)。

 そう小説! ドストもコルタサルもゴーリキーもマルケスもレムも中島敦も古井由吉も多和田葉子も山尾悠子もぜんぜん足りてない。ジーン・ウルフ『ウィザード・ナイト』、アン・レッキー『叛逆航路』、『Fallout 4』、『gravity daze』など、絶対に面白いことが分かっている作品がどしどし出る(最後の2つは本じゃないけどw)。山形浩生さんがまた面白い本を翻訳しているのが気になって仕方がない。スゴ本オフの回数を増やしたいし、テーマ本を決めた読書会も開きたい。横浜読書会やHonzイベント、ビブリオバトルに参加したい。噂に聞く猫町倶楽部が気になる(どれくらい出会い系なのか知りたい)。

 そして、リアルであれネットであれ、「その本が良いならこれなんてどう?」と薦めてくれる人を大切にしよう。「その本」を知った上で、「この本」を推しているのなら、それはまさに、わたしが知らないスゴ本を読んでいる「あなた」なのだから。

 「いつか読む」は一生読まない。いつ読むの? いましかない!

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