お金、セックス、戦争、そしてカルマ『西洋の欲望 仏教の希望』
巨大な問題を扱っていながら、わたし個人の「つらさ」を見透かされているように感じる。さらに、自分の中の仏教的な見方に気づくというよりも、むしろ、今までの知的探索のアプローチと重なっていることを思い知らされた。
資本主義と格差社会の根源的な理由や、承認欲求・応答システムとしての性文化、持続可能な戦争のモチベーションなど、現代社会の問題を「仏教」というレンズを通して捉え直し、解きほぐす。「十分なお金を持つとはどういうことか?」「ブッダは遺伝子組換え食品を認めるか?」など具体的な問いを立て、「空」、「無我」、「縁起」、「カルマ」といった仏教思想の観点で斬る。すると、そこに潜む「dukkha(苦)」が露になる。
残念ながら、こうした諸問題を一気に解決する手はない。ただし、わたしがどんな姿勢で向き合えばいいかは、分かる。イデオロギーや文化により常識化されたアタマからいったん離れ、自分を攻撃せずにすますやり方を見いだす。いわば、自分で自分の首を締めていた手に気づく、というようなものか。ただしこの「苦」が曲者だ。ここに出てくる「苦」は、必ずしも「苦しい」ではないから。
むしろ「つらい」の方がしっくりくる(翻訳者の配慮からか、本書では「dukkha」のまま用いられている)。斬口から見える「dukkha」を重ね合わせると、一人称的な「苦しい」反応というよりも、「思い通りにいかない」→「つらい」ことを指しているように見える。何かに執着したり当然視していることが、思った通りにならない場合、その予想と現実の差から"つらさ"を感じる。
たとえば「お金」、好むと好まざるとに関わらず、わたしは資本主義の世界に生きている。お金さえあれば、欲しいモノが買えるしサービスを受けることができる。保険という形で「安心」や、代行により「時間」さえ買うことができる。わたしの欲望のシンボル、「すなわち凍って固まった欲望」がお金なのだ。
そして、わたしは「十分なお金」が無いと嘆くが、「十分なお金」とは何だろうか? と問うてくる。もちろん答えをもらわなくても、わかる。「わたしの欲望を満たすために十分なお金」なんてものはない。これが可視化されるとき、わたしは"つらさ"を感じる(妬みに化けたり強迫観念に至ったりもする)。これが「dukkha」なのだろう。
同時に、著者は資本主義に目を向ける。前近代の富の再分配としての「お金」の役割は、価値の「交換」「保存」「尺度」と三つある。だが資本主義は、「お金」について新たな役割を生み出したのだという。それは「投資」。お金からお金を作る仕組みであり、利潤を投資して成長を監視する基盤でもある。投資した人はより多くのリターンを期待し、社会には連続成長を是とするプレッシャーが働くことになる。現在は決して「十分」ではないが、未来は良くなる、もしくは良くなる「はず」だという未来志向を集団的に保っているのが、資本主義(思考)なのだ。そこでは、いつまで経っても「十分なお金」を持つことはない。
この問題に対し、「無我(anatta)」の教えから、お金との関係を断つ方法を提案してくれる。とはいっても、「お金」なしに生きていくことは不可能なので、「お金に対して抱いている幻想」との関係を断つやり方と言ったほうが適切かも。
問題は、自我の欠如にあるという。何かがおかしい、つらいと感じ、自身の「穴」を意識する。それを埋めることで、リアルな存在を取り戻せると信じて、埋めるための行為に心を奪われてしまうことが問題なのだ。「お金」それ自体がダメということではなく、「お金」でその穴を埋められると思い込むのがダメなのだ。社会の約束事でしかない紙や金属、ディスプレイの文字列に、現実の証(リアリティー・シンボル)を求めていることに、"つらさ"が生じる原因がある。「お金」に対する幻想によって、自分から罠に掛かっているようなものだという。
では、どうすればいいのか? 「お金」とはモノではなくプロセス(過程)だと考えろという。「お金」は本当は、自分のものでも人のものでもないエネルギーのようなものとして理解せよと説く。「お金なんてない」と考えろとまでは言ってない。
般若心経の説くように、すべての形は「空」だが、形から離れて「空」は存在しない。「お金」への先入観とは、それ自体には意味が無いものに対する思い込みのことである。それは、かたどられた形から離れられず、心から有り難いとは思えなくさせるものなのだ。
そして、「お金」が「空」だと理解しているならば、シンボルとしてのお金の範囲で扱うことができると説く。反対に、リアルな存在を感じるために「お金」を使う人々は、空白の小切手(決して現金にならない約束手形)を掴んだ自我の感覚に振り回されて人生を終えると警告する。
ここからもう一歩進め、そいういう「わたし」も「空」である話まで行くのだが、まずは「お金」への幻想に気づくところまで理解を深める。この資本主義(思想)の中で、シンボルに洗脳されている「わたし」に気づくのが、最初のステップなのだろう。
上述は「お金」についての神話を解いたものだが、「戦争」「セックス」にまつわる現代的なテーマに斬り込んでゆく。そのアプローチも、「時間に仕掛けられた罠」や「性器がわたしたちを利用するトリック」といった、刺激的な問いかけと応答により続けてゆく。面白いのは、こうした問答を追いかけていると、認識論や言語学で深めてきたわたしの認識と重なってくるところ。ニーチェやヴィトゲンシュタインの思考と、それより千八百年前にナーガールジュナが明らかにした中観が、重なりあってゆく論証なんて読んでて非常に興奮する。さらに、メタファーを通した人間の認識の仕様を示したジョージ・レイコフ『レトリックと人生』や、意識とは抽象的な用語で幻想に過ぎないという疑惑を突きつけるダニエル・デネット『思考の技法』の解も、ナーガールジュナの論証に示されているような気がする。哲学的アプローチとは別に、一足飛びに、いわばチート的に正解を示してくれているのでは……と期待してしまう。
認知科学、認識論、実存哲学から「わたし」に迫るだけでなく、ナーガールジュナからのアプローチを試みる。中村元『龍樹』あたりから攻めてみよう。
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