現実の処方箋としての物語『アルブキウス』
だから、つぎはぎしたり、つじつま合わせの必要なんてない。嘘と嘘への欲望を、そのまま代弁してくれるだけでいい。小説とも随想ともつかぬ本書では、古代ローマの残酷でエロティックな物語と、それを紡ぎだす作家アルブキウスの奇妙な人生を重ねながら、物語と作家がお互いを必要としたことを炙り出してくれる。
こんな風に始まる。わたしは、このイントロで夢中になった。
現在がほとんど喜びを与えてくれず、これからやってこようとしている月日には繰り返ししか望めないとき、人は過去へ押し入ることで日々の単調をまぎらわす。死者たちの股が開かれ、その腹(二千年の昔の古くて柔らかい腹だ)が触れ合い、折り重なる。
面白いことに、本書の語り手であるパスカル・キニャールが、自らを隠そうとしない。か細く小さいプロットを並べ、それを書いたアルブキウス自身の現実との葛藤を掲げてみせる。キニャールがあちこち顔を出し、ときに生々しく、ときに悪趣味に、即興も挟みながら騙りかけることで、二千年前の作家が傍らにいるように思えてくる。昔も今も、人は、同じことで苦悩して、同じ理由で死ぬ。
と同時に、同一のプロットが様々なバージョンを保っていることを知る。古代ローマではプロットは共有され、さまざまな語り手がいたという。同じ筋立てから、いかに魅力的なストーリーに仕立てられるか、説得性ある修辞技法を駆使できるか、作家どうしが競い合っていた。そんな中、上手に物騙る人たちが集まって、「作家」という存在ができあがっていたんじゃないかと想像させられる。
つまり、「ホメロス」や「シェイクスピア」というのは一種のブランドで、実在する人物がいたかもしれないが、その一人がすべてを担っていたわけではないのでは……と思えてくる。それは、おもしろい物語を約束するブランドで、いわば、品質を保証する一種のレーベルのようなもの。アルブキウスver. の寓話は、そうしたブランドに取り込まれる直前の純粋物語である一方で、アルブキウスの人生を写す鏡のようにも振舞う。
病と老い、貧しさと不安など、人生の不条理を受け入れるための物語を紡ぎながら、同時に自分が抱える問題も溶かし込もうとする。人生は混沌であり、人は自分が何を言っているのか、何をしているのか分からない。だから、現実を飲み込むために運命という因果を、自分がやっていることを納得するための説明を、物語に託す。物語の役割とは、現実の処方箋なのかもしれぬ。
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