新しい目を得る『美術の物語』
世界で最も読まれている美術の本。
原始の洞窟壁画からモダンアートまで、西洋のみならず東洋も視野に入れ、美術の全体を紹介する。本書ほど広く長く読まれている美術書は珍しい。「入門書」と銘打ってはいるものの、これはバイブル級のスゴ本なり。
おかげで、興味と好奇心に導かれるままツマミ食いしてきた作品群が、社会や伝統のつながりの中で捉えられるようになった。同時に、「私に合わない」と一瞥で斬ってきたことがいかに誤っており、そこに世界を理解する手段が眠っていることに気づかされる。さらに、美術品の善し悪し云々ではなく、人類が世界をどのように「見て」きたのかというテーマにまで拡張しうる、まさに珠玉の一冊なり。
まず、明快かつ達意の文に引きよせられる。このテの本にありがちな、固有名詞と年代と様式の羅列は、著者自身により封印されている。代わりに、「その時代や社会において、作品がどのような位置を占めていたか」に焦点が合わせられている。今でこそ美術館や博物館に陳列されいている作品は、儀式を執り行うための呪術具であったり、文字の読めない人々に教義を説く舞台装置だったり、視覚効果の実験場として扱われていた。
そうした文脈から切り離されたところで美術を語ることはできないという。つまり、それぞれの要請に対して、画家や彫刻家たちが、置かれている状況や前提、制度、そして流行に則ってきた応答こそが、美術の物語たりえるというのだ。
これこそが美術だというものが存在するわけではない。作る人たちが存在するだけだ。男女を問わず、彼らは形と色を扱うすばらしい才能に恵まれていて、「これで決まり」と言えるところまでバランスを追求する。
そして、エジプト美術から実験芸術まで、色と形のバランスの試行錯誤が一気通貫で展開されるのだが、これがめっぽう面白い。というのも、これは克服と喪失の歴史だからだ。単純に「見ているものを見たまま描く」ことに収斂するならば簡単だが、そうは問屋が卸さない。この問題を追及するとき、必ずぶつかる壁があるからだ。三次元の空間をいかに二次元で表現するか、「光」をどう表現するか、静止したメディアの中で、いかに動きを生み出していくか、細部の明瞭さと再現性のトレードオフ、そして、「ちょうどいい構成」とは何かという最重要課題がある。さまざまな時代の芸術家たちがこの課題に取り組み、成果を挙げ、ときには危機に陥りながらも技術をつないできた。
たとえば、「見たままを描く」問題について。古代エジプトの画家は、「見たまま」ではなく、「知っている」ことを基準に描いた。つまり、人体を表現するとき、その特徴が最も良く出ている角度からのパーツを組み合わせたのだ。顔は横顔だが目は正面から、手足は横からだが、胴体は正面図といった描き方は、古代エジプト美術の様式としてルール化された。絵を描くことに慣れていない人や子どもが、この描き方をする。
絵に短縮法を入れたのは、ギリシャ人だという。手前のものは大きく、奥のものは小さく描くことで、「見えている」ことを表わそうとした。ルネサンス期においても、遠近法や解剖学の知見により、「世界はこう見えるはず」という前提に則って描かれてきた。
しかし、世界は本当に「見えるように」描かれてきただろうか。美しい肉体美を生き生きとした形で「リアルに」表現した作品であるならば、それは、「見えるように」ではなく「見たいように」描かれた理想像にすぎない。また、毛の一本一本や各部分の輪郭を精密に描いたとしても、それは拡大された世界であって、決して見る人(≠描く人)が見る像ではない。本書では、ダ・ヴィンチとミケランジェロ、ラファエロとティツィアーノ、コレッジョとジョルジョーネ、デューラーとホルバインといった巨匠たちの作品を一つ一つ挙げながら、こうした問題がどのように取り組まれていったかを詳しくたどる。
いちばん驚いたのが、レオナルドのあの有名な『モナ・リザ』だ。これは、見る人に想像の余地を「わざと」残している作品だという。人間の目の仕組みを知り尽くしているからこそあんな風に描いているというのだ。人は「そこにある」ことが分かっている物については、適切なヒントを与えることで、目が勝手に形を作り上げてくれる。輪郭線をくっきりさせず、形が陰の中に消えて、形と形が溶け合うように、柔らかい色彩でぼかして描く。この仕掛けを教わった後、図版と向き合うと、まるで初めてかのように見え、動いていないのに残像を見るような思いがする。この喜びは、新しい目をもらったようなもの。
それでもしかし、とまだ続く。ロマネスクからロココまで、さまざまな様式や手法どおりに世界は「見えている」のか、と逆照射する人が出てくる。茶色の縦線は木、緑の点は葉っぱ、肌の色あい、水、空、光……自然の事物にはそれぞれ決まった色と形があり、その色と形で描いたときに、対象を見分けることができる───この信念に疑問を投げかけ、乗り越えるために傑作をものにした人がいる。マネとその後継者が色の表現にもたらした革命は、ギリシャ人が形にもたらした革命に匹敵するという。
つまり、人が世界を「見て」いるとき、対象それぞれが固有の色や形をもってそこにあるのを見ているのではなく、視覚を通じて受けた色彩の混合体を感じていることを発見したというのだ。そしてその発見を絵というメディアにするとき、犠牲になったのは「正確さ」だという。
セザンヌは、色彩によって立体感を出すという課題に没頭していた。色の明るさを殺さずに奥行きを感じさせ、奥行きを殺さずに整然とした構成にするために労苦を重ねた結果、多少輪郭がいびつでもよしとした。ゴッホは、写実を至上としなかった。本物そっくりに描いてある絵を指して、「立体メガネ」で見ているようだと言ったという。彼は、絵によって心の動きを表わしたかったという。感情を伝えるためなら、形を誇張し、歪曲することさえあったというのだ。
著者は、ピカソになり代わって言う。「目に見える通りに物を描く」などということを、われわれはとっくにあきらめている。そんなことは所詮かなわぬ夢だったのだと。描かれた直後から、いや描いている途中から、モティーフはどんどん変化してゆく。はかない何かを模写するのではなく(カメラが一番得意だ)、なにかを構成することこそが、真の目的だと。あるモティーフ、たとえばヴァイオリンを思うとき、人はヴァイオリンの様々な側面を同時に思い浮かべることができる。手で触れられそうなくらいクッキリ見えているところ、ぼやけているところ、そうした寄せ集めこそが「ヴァイオリン」のイメージなのだと。
本書を読むまで、わたしには、ピカソのヴァイオリンが理解できなかった。これをヴァイオリンの絵として見ろというには無理があると思っていた。が、これはゲームなのだという。つまり、カンヴァスに描かれた平面的な断片を組み合わせて、立体を思い浮かべるという、高度なゲームなのだと。二次元で三次元を表現するという、絵画にとって避けられないパラドクスに対し、これを逆手に取って新しい効果を出そうとする試みが、キュビズムになる。見るとは何か? から出発し、これほど明快なキュビズムの説明は受けたことがない。分からないから、と忌避していた自分が恥ずかしい。
このように、「見たままを描く」テーマで駆け足で眺めたが、ほんの一端だ。ラファエロの構図の完璧さや、フェルメールの質感が、なぜ世紀を超えた傑作たりうるかなど、歴史の中に位置づけて説明されると腑に落ちる。いわゆる名画を単品でああだこうだと眺めてきたなら、絶対に見えない場所に連れて行ってくれる。
制作を支える技術から、それを成り立たせる社会情勢まで視座に入れているため、ずっと抱いていたさまざまな疑問に答えてくれているのも嬉しい。たとえば、偶像崇拝を禁じたキリスト教で、なぜ聖画があるのか? という長年の謎には、図像擁護派の巧妙な主張を示してくれる。
「慈悲深き神は、人の子イエスの姿をとってわれわれ人間の前にあらわれる決心をされたのですから、同じように、図沿うとしてご自分の姿を示すことを拒否されるわけがない。異教徒とちがって、われわれは、図像そのものを崇拝するのではない。図像を通して、図像の向こうの神や聖人たちを崇拝するのです」
宗教画は、読み書きができない信徒たちにとって、教えを広めるのに役立つ。すなわち、文字が読める人に対して文がしてくれることを、文字の読めない人に対しては絵がしてくれるというのだ。もちろん容認されるモチーフや構図に制限がついてまわるが、その範囲でなら作り手たちの創造性に任されていたという。
読んでいくうちに、過去の記憶がどんどん呼び起こされていくのも面白い。出だしのラスコー壁画の件は中学の国語のテストで、レンブランドの生々しい自画像の件はZ会の英語の長文問題で、そして教会建築のアーチ断面におけるヴォールト構造の記述はケン・フォレットの『大聖堂』で、読んだことがある。本書は美術の権威として、さまざまな種本となっているのだ。本書は、これからわたしが見る/見なおす美への新しい視点のみならず、かつて通り過ぎるだけで見落としていた美について、新しい光をもたらしてくれる。
もっと早く出会っていればよかった。一生つきあっていける、宝のような一冊。
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