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『絶深海のソラリス』がスゴい

絶深海のソラリス 前半ライト、後半ヘビー、ラスト絶望。帯の「絶望率100%」は伊達じゃない。瞬きどころか、呼吸を忘れて読み耽る。ちがうだろそうじゃないだろ、やめろやめてくれと叫びながら、それでも頁は止まらない。わたしの願いを蹂躙し、物語は容赦なく進む。

 ラノベを読むのは、なかった過去やありたい日常を、妄想で塗りつぶすため。だから、指導教官の主人公が、いろいろ問題を抱える訓練生とイチャコラする前半に、ほのぼのする。表紙の女の子は幼なじみで、犬みたいにすりすりしてくる(いい匂いがする)。それとは別に、キャラ紹介で真っ先に出てくる、クロエという女の子が可愛い。ツンデレエリート+隠れマゾで、嗜虐心と悪戯心の両方を快く刺激してくれる。ロリ巨乳、無表情美少女、セクシー先輩を翻弄し翻弄される、典型的なラノベを満喫できる。

 しかし、わたしはまちがっていた。予備知識ゼロ、高い評判だけで読み始めたのが、過ちだった。

 近未来の日本が舞台で、「水使い」という異能バトルなので、魔法科高校の先生みたいなハーレムラノベを想像していた。その期待は、あざといまでの軽妙な会話と、定番の学園モノのフォーマットに則って、正しく加熱されてゆく。

 おかしくなるのは中盤にさしかかってから。いや、口絵の禍々しさとか、表紙の不安感から、なんとなく予想はしていた。「深海パニック」という紹介文に、『Ever17』とか『翠星のガルガンティア』みたいな展開を予測していた―――

ロマン が、裏切られる。そこからは、何度も何度もエグられる。絶望が畳みかけてくる。もう引き返せないところになってハッと気づく。キャラ造形や能力の演出が、徹底的に計算されつくしていることに。なんのために? 絶望率100%を目指すためでしょうが。結果的に書き手の大成功で、口をぱくぱくさせながらあえぎながら読み進む。こんなのありか―――ってね。似たインプレッションを受けた作品は、『ひぐらしのなく頃に』、『ダンガンロンパ』(文字反転)、そしてウラジミール・ソローキン『ロマン』を掲げよう。これは、ゆるゆる甘々の前半と緊張感MAXの後半が、のんのん日常と生地獄そのものが、地続きで隣り合わせである妙を楽しむ作品なのかもしれない。ソローキンを出したのは、警告の意味だ(海外文学クラスタなら分かるはず)。

絶深海のソラリス2 そして2巻。続けられるのか!? と恐る恐る手にしたら、これが素晴らしい。ソラリスといえばスタニスワフ・レムだが、あの「海」をこういうふうに昇華しているのか、と驚く。さらに、もう二度と読むまい、と決心した1巻目を猛烈に読ませたくなる仕掛けがあり、半ベソかきながら再読する。文学は、様々な媒体を呑み込んで成熟してきたが、アニメやゲームから、すごい構成をもらえた。文学にとっては破壊かもしれないが、ラノベにとっては創造なのだ。だから、ラノベ読みはソローキンを、ガイブン読みには本書をオススメしたい。

 「面白いか、面白くないか」であったら、面白いと断言する……ただし、悪い意味でね。

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ひきこもりの末路か、毒親の報いか『「子供を殺してください」という親たち』

「子供を殺してください」という親たち 550円、150g の文庫のくせに、読んでいくうち、だんだん重くなる。そしてどんどん怖くなる、そこらのホラーを蹴散らす黒さに囚われる。

 「子供を殺してください」とお願いする親は60~70代で、子は30~40代になる。比較的裕福な家庭が多く、そうでなくても生活に困らない収入(不動産、年金、遺産)はある。親は資産家だったり経営者だったり、国家公務員や大手企業に勤めている、いわゆる「勝ち組」。子どもは「勉強はできる子」で、高学歴な場合が多い。

 人間関係のトラブルがきっかけで会社・学校を辞め、後は転々とし、ひきこもる。アルコール、薬物、ギャンブル、ネットに耽り、家庭内暴君の如く振る舞う。深夜の奇声、近所での奇行、たまらず止めに入る親、部屋からは異臭がするが入れない。統合失調症、強迫性障害、パニック障害、どこで間違えたのか。病院やカウンセリング、警察の助けを求めると逆恨みされる。「俺がこんなんになったのは、オマエのせいだ」と刃物を持ちだす。親は、気力・体力・財力を使い果たし、疲労困憊となる。

 読み進むうち、どんどん苦しくなる。昔々、『母原病』がベストセラーだった頃を覚えているので、親の責任にしたい、という目線を止めることができない。「親の育て方が悪い」=「私には関係ない」にしたいのだが、思い当たる節々多々。いわゆる、「うちの子に限って」というパターンで、他人事とは思えぬ。

 著者はこうした親からの依頼を受け、精神障害者の人を医療機関へつなぐ「精神障害者移送サービス」を営む。そこで引き受ける「崩壊した家族」が生々しい。こういうサービスを利用する母集団だから選択バイアスがかかっているかもしれない(お金がない類似例はとっくに警察沙汰→刑務所)。それでも、身に詰まされる。

 なんというか、液晶に映るドラマでというよりも、いまここの延長上に確かにある「かもしれない」未来として感じとれる。なぜなら、わたしは知っている、「子どもは、親の言うことを聞くのは下手だが、親のすることを真似るのは上手」だから。子どもの行動を見て「嫌」なところは、わたしのコピーなのだから。著者はもっと刺さる言い方をする。

しかしそれもすべて、子供が両親から受け継いだものなのだと、私は思う。人が嫌がることを執拗にやる、無言の圧力をかける、言葉尻を捉える、嫌味を言う……親が「教育」や「躾」という名のもとにしてきたことを、なぞっているに過ぎない。

 そう、世間体を気にして「形だけ」の相談でエビデンスを残し、後は隠蔽したがる親、「私のせいじゃない」裏付けを求めてインターネットを漁り、納得できる診断名を付けてくれるドクターショッピングを繰返す親、「嘘ばかりつくのです」と子どもを非難しつつ嘘ばかりつく親、いずれもわたしになり得るから。

 どうすればいいのか? 著者自身の言葉で、その対策が聞ける。8/31(月)八重洲ブックセンターで、[説得のプロ 押川剛 トークイベント]があるので、聞きに行くつもり。

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この「対決」の本がスゴい

 好きな本を持ちよって、まったり熱く語り合うスゴ本オフ。

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『雪風』気になるよね

 いろいろ読書会に顔出しているが、これほど放漫(豊満|飽満)な読書会はない。というのも、始まる前からカンパイして、パーティーが始まっているから(昼のビールは甘い)。にもかかわらず、本そっちのけで飲み会にならないのは、参加される皆様のおかげ。ありがとうございます。

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さらにチーズケーキとチョコケーキ追加

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梨と葡萄、おいしゅうございました

 今回のテーマは「対決(VERSUS)」、神と悪魔、怪獣大決戦といった定番から、主人公が背負う物語そのものとの相克を描いたメタな奴まで、色とりどりの作品が集まってくる。イモータル・ジョーのマネジメント能力、先見性、そして哀しい運命についての熱い語りや、古今東西の物語にある「最強の敵は自分」パターンの意外な例など、大漁祭の読書会でしたな。このエントリでは写真中心にお伝えしよう、少しでも現場の熱が伝われば望外かと。twitter実況は
[男と女、善と悪など王道対決から自分との対決など、あらゆる対決を語ったスゴ本オフ「VS」]からどうぞ。

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「対決」といったらウサギとカメでしょう

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『ちはやふる』と『デビルマン』が並ぶなんて!

 なお、次回のテーマは「HAPPY!」なり。読めばたちまち、ほっこり、幸せ、元気になれる作品か、「幸せとは何か?」を考えさせられるものか、はたまた主人公はハッピーだけど狂気に陥っているダークなやつか、解釈は自由で無数にある。あなたがそこに「HAPPY!」を見る作品を、小説・ルポ・マンガ・論文・映画・ゲーム・音楽、なんでもOK、メディアを限らず、ご紹介くださいませ。時期は(たぶん)10月、詳細は[Facebookスゴ本オフ]をご覧くださいませ。

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レアな「キュンタ」しおり

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「対決」という軸だと、ラインナップに納得がいく

 『ゲド戦記』や『フランケンシュタイン』の紹介を聞きながら腑に落ちたのは「自分との対決」という構造。そもそも「対決」が成立するためには、同じ次元にいる必要がある。価値観の相違や利害の対立が成り立つのは、同じプラットフォームの上でありながら、それでも違いがあるからこそ。絶望的に違う相手とは、そもそも対決自体がありえない。非対称な蹂躙、屠殺、空爆の話になる。

 この、「同じだけど違う」もののうち、最も強敵かつ昔ながらの存在は、「自分自身」になる。かつて自分が生み出した影に追われ、追い、対峙する話。自己を最もよく知る理解者であるからこそ、憎しみもひとしおで、憎悪も超えた同化愛にまで発展しうる。

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人生はつくづく対決なり(ラスボスは自分)

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『シグルイ』と『フランケンシュタイン』と『パタリロ』の妙

 映画やドラマ、フィクションを横断して、いわゆる「エンタメ」分野が多かったのは、対決構図は物語の駆動力(ないし吸引力)にしやすいからだと推察する。逃げる・追う、戦う、競うなど、ストーリーを転がしやすくしてくれる(同時に受け手は、この文法に従って没入しやすくなる)。ただし、あまりにもパターン化されてくると、悪役の「悪」性が薄まってくる。これを回避するため、ヒーローが戦っている相手は、悪役ではなく、なにか別の存在とすり替わる。『バットマン・ダークナイト』や『ブラック・スワン』になると、主人公の行動から「何と対決するのか」を考えさせられるようになるのかも。

 たとえば、『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』のイモータル・ジョーは、映画の文法に従えば悪役だったが、本当に「悪」だったのか? という議論に惹きこまれる。荒廃した文明の中、水耕栽培の農場を維持し、遺すべき存在を「選別」し、軍勢をまとめあげ敵を排除し、自然の猛威に備える。わたしの知る限り、あれだけのリーダーシップを発揮できる力と技と知を備えた人物は、ラオウしかいない。

 と同時に「なぜマックス役にトム・ハーディが抜擢されたのか」のプレゼンが面白い。トム・ハーディが演じた『ウォリアー』、『インセプション』、『ダークナイト・ライジング』などを横断しながら、一つのキャラクター像を浮かび上がらせる。どの役でも彼は闘う存在だったが、その大義は偉大なものではなかった。

 つまり、闘う理由が重要なのではなく、つねに闘うことでしか生きる意味を見いだせない魂を持っている―――だからこそ、「マックス」に起用されたというのだ。そしてあの優顔、もし彼がムキムキマッチョマンだったなら、フィリオサと対決していた、あるいはフィリオサと共に生きる道を選んでいた―――という指摘に納得する。

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黒い山は映画のパンフなんだ

 わたしが紹介した切り口は、「女vs男」。結果は分かりきっているのだが、あえて挑戦してみる。まずは、からかい上手の女の子に翻弄され、手のひらの孫悟空になってる男の子を描いたラブコメ『からかい上手の高木さん』[レビュー]を紹介する。「ジュースの回し飲みで間接キス」とか「体操服を交換する」といった悶絶必至のシチュエーションに、読めば必ずニヤニヤする。照れたら負け、男子は女子に絶対勝てないのだ。もう一つは、別の意味で悶絶必至の『春琴抄』、「恋は盲目」という諺を、「愛は盲目」のレベルで貫いた名著なり。惚れたら負け、男は女に絶対勝てないのだ。

 紹介された作品は下記の通り。あなたの「推し」はあるだろうか?

■未知との対決:SF・ホラー
『盤上の夜』宮内悠介(東京創元社)
『戦闘妖精雪風<改>』神林長平(ハヤカワ文庫)
『グッドラック 戦闘妖精雪』神林長平(ハヤカワ文庫)
『フラグメント超進化生物の島』ウォーレン・フェイ(早川書房)
『悪魔のハンマー』ニーヴン&パーネル(ハヤカワ文庫)
『ポストマン』デイヴィッド・ブリン(ハヤカワ文庫)
『天冥の標』小川一水(ハヤカワ文庫)
『雀蜂』貴志祐介(角川ホラー文庫)
『フランケンシュタイン』シェリー(光文社古典新訳文庫)
『サマー・ウォーズ』岩井恭平(角川文庫)

■勝負事の定番:ミステリ・エンタメ・ドラマ
『女王陛下のユリシーズ号』アリステア・マクリーン(ハヤカワ文庫)
『ナバロンの要塞』アリステア・マクリーン(ハヤカワ文庫)
『高慢と偏見とゾンビ』セス・グレアム=スミス(二見文庫)
『ファイト・クラブ』チャック・パラニューク(ハヤカワ文庫)
『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』ジョン・ル・カレ(ハヤカワ文庫)
『ケインとアベル』ジェフリー・アーチャー(新潮文庫)
『ラブ・ストーリーを読む老人』ルイス・セプルベダ(新潮社)
『項羽と劉邦』司馬遼太郎(新潮文庫)
『デセプション・ポイント』ダン・ブラウン(角川文庫)
『花物語』西尾維新(講談社)
『図書館戦争』有川浩(角川文庫)
『「ABC」殺人事件』有栖川有栖、恩田陸、加納朋子、貫井徳郎、法月綸太郎(講談社文庫)
『となり町戦争』三崎亜記(集英社文庫)
『ダイナー』平沼夢明(ポプラ社)
『ゲド戦記 影との戦い』アーシュラ・K.ル=グウィン(岩波書店)
『ふたつの島』イエルク・シュタイナー(ほるぷ出版)
『Wonder』R.Jパラシオ著(ほるぷ出版)

■静かに深く対峙する:文学クラスタ
『若冲』澤田瞳子(文藝春秋)
『恋の華・白蓮事件』永畑道子(藤原書店)
『薄桜記』五味康祐(新潮文庫)
『夏の沈黙』ルネ・ナイト(東京創元社)
『本当の戦争の話をしよう』ティム・オブライエン(文春文庫)
『短くて恐ろしいフィルの時代』ジョージ・ソーンダーズ(角川書店)
『春琴抄』谷崎潤一郎(新潮文庫)
『道草』夏目漱石(青空文庫)
『ストーナー』ジョン・ウィリアムズ(作品社)

■ガチのバトル場:コミック
『ちはやふる』末次由紀(講談社)
『からかい上手の高木さん』山本崇一朗(小学館)
『FLIP-FLAP』とよ田みのる(講談社)
『シグルイ』山口貴由(秋田書店)
『月下の棋士』能條純一(小学館)
『パタリロ』魔夜峰央(白泉社)
『超人ロック 光の剣・アウタープラネット』聖悠紀
『超人ロック 炎の虎・魔女の世紀』聖悠紀

■人生とは闘いか:ノンフィクション
『わたしはマララ』マララ・ユスフザイ(学研マーケティング)
『棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか』棚橋弘至
『映画の見方がわかる本 「2001年宇宙の旅」から「未知との遭遇」まで』町山智浩(洋泉社)
『ユングのサウンドトラック 菊地成孔の映画と映画音楽の本』菊地成孔(イースト・プレス)
『敗れざる者たち』沢木耕太郎(文春文庫)
『名画の謎 対決篇』中野京子(文藝春秋)
『グーグル、アップルに負けない著作権法』角川歴彦(角川書店)
『西原理恵子の人生画力対決』<2>西原理恵子他(小学館)
『アルピニズムと死』山野井泰史(ヤマケイ新書)
『なぜ君は絶望と闘えたのか』門田隆将(新潮文庫)
『カキフライが無いなら来なかった』せきしろ×又吉直樹(幻冬舎)

■ヴィジュアル化された対決:写真集・展覧会
『キズアト』石内都(日本文教出版)
『tokyo bay blues』石内都(蒼穹社)
『機動戦士ガンダム展 THE ART OF GUNDAM』創通・サンライズ(~9/27@六本木ヒルズ)

■何と対決するかが裏テーマ:映画・海外ドラマ
『進撃の巨人(実写版)』樋口真嗣監督
『ミッション:インポッシブル』ブライアン・デ・パルマ監督
『バットマン・ダークナイト』クリストファー・ノーラン監督
『インセプション』クリストファー・ノーラン監督
『ブラック・スワン』ダーレン・アロノフスキー監督
『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』ジョージ・ミラー監督
『ウォリアー』ギャビン・オコナー監督
『ライトスタッフ』フィリップ・カウフマン監督
『宇宙へ。挑戦者たちの栄光と挫折』リチャード・デイル監督
『マリー・アントワネット』ソフィア・コッポラ監督
『ブロンソン』ニコラス・ウィンディング・レフン監督
『セッション』デミアン・チャゼル監督
『バードマン』アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督
『13ラブ30 サーティンラブサーティ』ゲイリー・ウィニック監督
『ホームランド』ハワード・ゴードン制作
『Don't Stop Believin'』Journey(DVD)
『ゴジラ FINAL WARS』北村龍平監督
『日本の一番長い日』岡本喜八監督


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新しい目を得る『美術の物語』

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 世界で最も読まれている美術の本。

 原始の洞窟壁画からモダンアートまで、西洋のみならず東洋も視野に入れ、美術の全体を紹介する。本書ほど広く長く読まれている美術書は珍しい。「入門書」と銘打ってはいるものの、これはバイブル級のスゴ本なり。

 おかげで、興味と好奇心に導かれるままツマミ食いしてきた作品群が、社会や伝統のつながりの中で捉えられるようになった。同時に、「私に合わない」と一瞥で斬ってきたことがいかに誤っており、そこに世界を理解する手段が眠っていることに気づかされる。さらに、美術品の善し悪し云々ではなく、人類が世界をどのように「見て」きたのかというテーマにまで拡張しうる、まさに珠玉の一冊なり。

 まず、明快かつ達意の文に引きよせられる。このテの本にありがちな、固有名詞と年代と様式の羅列は、著者自身により封印されている。代わりに、「その時代や社会において、作品がどのような位置を占めていたか」に焦点が合わせられている。今でこそ美術館や博物館に陳列されいている作品は、儀式を執り行うための呪術具であったり、文字の読めない人々に教義を説く舞台装置だったり、視覚効果の実験場として扱われていた。

 そうした文脈から切り離されたところで美術を語ることはできないという。つまり、それぞれの要請に対して、画家や彫刻家たちが、置かれている状況や前提、制度、そして流行に則ってきた応答こそが、美術の物語たりえるというのだ。

これこそが美術だというものが存在するわけではない。作る人たちが存在するだけだ。男女を問わず、彼らは形と色を扱うすばらしい才能に恵まれていて、「これで決まり」と言えるところまでバランスを追求する。

 そして、エジプト美術から実験芸術まで、色と形のバランスの試行錯誤が一気通貫で展開されるのだが、これがめっぽう面白い。というのも、これは克服と喪失の歴史だからだ。単純に「見ているものを見たまま描く」ことに収斂するならば簡単だが、そうは問屋が卸さない。この問題を追及するとき、必ずぶつかる壁があるからだ。三次元の空間をいかに二次元で表現するか、「光」をどう表現するか、静止したメディアの中で、いかに動きを生み出していくか、細部の明瞭さと再現性のトレードオフ、そして、「ちょうどいい構成」とは何かという最重要課題がある。さまざまな時代の芸術家たちがこの課題に取り組み、成果を挙げ、ときには危機に陥りながらも技術をつないできた。

 たとえば、「見たままを描く」問題について。古代エジプトの画家は、「見たまま」ではなく、「知っている」ことを基準に描いた。つまり、人体を表現するとき、その特徴が最も良く出ている角度からのパーツを組み合わせたのだ。顔は横顔だが目は正面から、手足は横からだが、胴体は正面図といった描き方は、古代エジプト美術の様式としてルール化された。絵を描くことに慣れていない人や子どもが、この描き方をする。

 絵に短縮法を入れたのは、ギリシャ人だという。手前のものは大きく、奥のものは小さく描くことで、「見えている」ことを表わそうとした。ルネサンス期においても、遠近法や解剖学の知見により、「世界はこう見えるはず」という前提に則って描かれてきた。

 しかし、世界は本当に「見えるように」描かれてきただろうか。美しい肉体美を生き生きとした形で「リアルに」表現した作品であるならば、それは、「見えるように」ではなく「見たいように」描かれた理想像にすぎない。また、毛の一本一本や各部分の輪郭を精密に描いたとしても、それは拡大された世界であって、決して見る人(≠描く人)が見る像ではない。本書では、ダ・ヴィンチとミケランジェロ、ラファエロとティツィアーノ、コレッジョとジョルジョーネ、デューラーとホルバインといった巨匠たちの作品を一つ一つ挙げながら、こうした問題がどのように取り組まれていったかを詳しくたどる。

 いちばん驚いたのが、レオナルドのあの有名な『モナ・リザ』だ。これは、見る人に想像の余地を「わざと」残している作品だという。人間の目の仕組みを知り尽くしているからこそあんな風に描いているというのだ。人は「そこにある」ことが分かっている物については、適切なヒントを与えることで、目が勝手に形を作り上げてくれる。輪郭線をくっきりさせず、形が陰の中に消えて、形と形が溶け合うように、柔らかい色彩でぼかして描く。この仕掛けを教わった後、図版と向き合うと、まるで初めてかのように見え、動いていないのに残像を見るような思いがする。この喜びは、新しい目をもらったようなもの。

 それでもしかし、とまだ続く。ロマネスクからロココまで、さまざまな様式や手法どおりに世界は「見えている」のか、と逆照射する人が出てくる。茶色の縦線は木、緑の点は葉っぱ、肌の色あい、水、空、光……自然の事物にはそれぞれ決まった色と形があり、その色と形で描いたときに、対象を見分けることができる───この信念に疑問を投げかけ、乗り越えるために傑作をものにした人がいる。マネとその後継者が色の表現にもたらした革命は、ギリシャ人が形にもたらした革命に匹敵するという。

 つまり、人が世界を「見て」いるとき、対象それぞれが固有の色や形をもってそこにあるのを見ているのではなく、視覚を通じて受けた色彩の混合体を感じていることを発見したというのだ。そしてその発見を絵というメディアにするとき、犠牲になったのは「正確さ」だという。

 セザンヌは、色彩によって立体感を出すという課題に没頭していた。色の明るさを殺さずに奥行きを感じさせ、奥行きを殺さずに整然とした構成にするために労苦を重ねた結果、多少輪郭がいびつでもよしとした。ゴッホは、写実を至上としなかった。本物そっくりに描いてある絵を指して、「立体メガネ」で見ているようだと言ったという。彼は、絵によって心の動きを表わしたかったという。感情を伝えるためなら、形を誇張し、歪曲することさえあったというのだ。

 著者は、ピカソになり代わって言う。「目に見える通りに物を描く」などということを、われわれはとっくにあきらめている。そんなことは所詮かなわぬ夢だったのだと。描かれた直後から、いや描いている途中から、モティーフはどんどん変化してゆく。はかない何かを模写するのではなく(カメラが一番得意だ)、なにかを構成することこそが、真の目的だと。あるモティーフ、たとえばヴァイオリンを思うとき、人はヴァイオリンの様々な側面を同時に思い浮かべることができる。手で触れられそうなくらいクッキリ見えているところ、ぼやけているところ、そうした寄せ集めこそが「ヴァイオリン」のイメージなのだと。

 本書を読むまで、わたしには、ピカソのヴァイオリンが理解できなかった。これをヴァイオリンの絵として見ろというには無理があると思っていた。が、これはゲームなのだという。つまり、カンヴァスに描かれた平面的な断片を組み合わせて、立体を思い浮かべるという、高度なゲームなのだと。二次元で三次元を表現するという、絵画にとって避けられないパラドクスに対し、これを逆手に取って新しい効果を出そうとする試みが、キュビズムになる。見るとは何か? から出発し、これほど明快なキュビズムの説明は受けたことがない。分からないから、と忌避していた自分が恥ずかしい。

 このように、「見たままを描く」テーマで駆け足で眺めたが、ほんの一端だ。ラファエロの構図の完璧さや、フェルメールの質感が、なぜ世紀を超えた傑作たりうるかなど、歴史の中に位置づけて説明されると腑に落ちる。いわゆる名画を単品でああだこうだと眺めてきたなら、絶対に見えない場所に連れて行ってくれる。

 制作を支える技術から、それを成り立たせる社会情勢まで視座に入れているため、ずっと抱いていたさまざまな疑問に答えてくれているのも嬉しい。たとえば、偶像崇拝を禁じたキリスト教で、なぜ聖画があるのか? という長年の謎には、図像擁護派の巧妙な主張を示してくれる。

「慈悲深き神は、人の子イエスの姿をとってわれわれ人間の前にあらわれる決心をされたのですから、同じように、図沿うとしてご自分の姿を示すことを拒否されるわけがない。異教徒とちがって、われわれは、図像そのものを崇拝するのではない。図像を通して、図像の向こうの神や聖人たちを崇拝するのです」

 宗教画は、読み書きができない信徒たちにとって、教えを広めるのに役立つ。すなわち、文字が読める人に対して文がしてくれることを、文字の読めない人に対しては絵がしてくれるというのだ。もちろん容認されるモチーフや構図に制限がついてまわるが、その範囲でなら作り手たちの創造性に任されていたという。

 読んでいくうちに、過去の記憶がどんどん呼び起こされていくのも面白い。出だしのラスコー壁画の件は中学の国語のテストで、レンブランドの生々しい自画像の件はZ会の英語の長文問題で、そして教会建築のアーチ断面におけるヴォールト構造の記述はケン・フォレットの『大聖堂』で、読んだことがある。本書は美術の権威として、さまざまな種本となっているのだ。本書は、これからわたしが見る/見なおす美への新しい視点のみならず、かつて通り過ぎるだけで見落としていた美について、新しい光をもたらしてくれる。

 もっと早く出会っていればよかった。一生つきあっていける、宝のような一冊。

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一度しかない人生を、一度きりにさせないために、文学はある『ストーナー』

ストーナー 「後悔しない人生を」なんてスローガンみたいなもの。どう生きたって悔いるもの。何を選択したところで、「ああすればよかった」と振り返る。むしろ、そもそも選択肢なんてあったこと自体に、後から気づいて臍を噛む。

 わたしが文学を読む理由はそこにある。文学は、人生のエミュレーターである。美しいものからおぞましいものまで、言葉にできないものを言葉を通じて知ることが、文学をすることだ。なかった成功を追体験し、ありうる失敗をシミュレートする。そこに描かれる個人的な体験に普遍性を見いだし、わたしの価値観と交錯させる。そうすることで、「ああすればよかった」は「これでいいのだ」に代わるかもしれないし、ゲームのように選択肢が「見える」ようになるかもしれない。選択までの葛藤込みで、生きることを堪能できる(何度でも)。文学は、一生を二生にも三生にもしてくれる。

 『ストーナー』の人生もそこに加わる。ひとりの男が大学教師の道を選び、そこで生きていく物語が、端正な語り口で淡々と描かれる。不器用で平凡ではあるけれど、ひたむきで真摯に仕事に取り組む姿は、誰かにとっての「ありえたはずの人生」か、「ありえなかった生活」とシンクロするかもしれない。

 波乱万丈とは言い難いが、生きていく上で誰にでも生じる、出会いや別れ、死、裏切りに見舞われる。普通の人生で(おそらく)最もやっかいな、人間関係の軋轢に、一番多くの時間と労力を吸い取られ、悩まされる。そんな運命を受け入れ、やれることを精一杯やり、「なにか」を成し遂げようとする。悲しみに満ちた中でも、ささやかな喜びを見いだし、それを大切に守り通そうとする。

 100年前の米国を舞台に、50年前に書かれた作品であるにもかかわらず、なんと身に覚えがあることよ。『ストーナー』という他人の人生のつもりで読んだら、そこにつぶさに自分のことが書いてあったように感じる。彼に迫る悲しみが、わがことのように痛いのは、かつてわたしが味わった悲痛であり、これからわたしが受け止める苦悩であるから。

高潔にして、一点の曇りもない純粋な生き方を夢見ていたが、得られたのは妥協と雑多な些事に煩わされる日常だけだった。知恵を授かりながら、長い年月の果てに、それはすっかり涸れてしまった。ほかには? とストーナーは自問した。ほかに何があった?
自分は何を期待していたのだろう?

 ストーナーがこう自問するときに、わたしが流した涙は、彼のためというよりも、同じ問いをきっとするであろう、そういう人生を歩むであろうわたし自身に向けたもの。緻密で静謐な文学『ストーナー』は、そのまま彼の人生のようだ。『ストーナー』を潜り抜けることで、人生とは通り過ぎるものだということが、よく分かる。通り過ぎるあいだに、やれることを、せいいっぱい、やろう。

 一度しかない人生を、一度きりにさせないようにするために、文学はある。『ストーナー』を読むと、きっと納得するだろう。

追記:そのうち電子書籍になるかもしれないが、これはぜひ「モノとしての本」でどうぞ。理由は、エンデの『はてしない物語』の電子書籍版や分冊版が「ありえない」のと一緒。読み終えた方は、カバーを外したあと、ラストシーンを再読してほしい。『ストーナー』は、そのまま彼の人生なのだ。

追記2:これをお薦めするだけではなく、プレゼントしてくれた[誰が得するんだよこの書評]のdaen0_0さん、ありがとうございます。そして、daen0_0さんにこれをプレゼントした[基本読書]の冬木糸一さん、ありがとうございます。

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決して人前では読まないでください『ワンダー Wonder』

 まちがえた、読むんじゃなかった電車の中、ずっと涙が止まらない。

wonder わたしは、ときどき、失敗する。『シュタインズ・ゲート』といい、『さよならを待つふたりのために』といい、琴線ふるわせ涙腺ゆるめる傑作を、車内で読むという間違いだ。朝のラッシュで泣きじゃくるオッサンは、相当キモくて通報レベルだと自分でも思う。

 後から振り返ると、『Wonder ワンダー』の帯の惹句の「きっと、ふるえる」を甘く見てた。ええもう、たっぷり震えましたとも。理由は、緊張だったり恐怖だったり、怒りや悲しみもある。この主人公に移入するのは、かなり難しいが、彼や周りの人たちの感情はすぐに、まっすぐに伝わってくる。なかでも、いちばんわたしを震わせたのは、感動、それも「わたしの心の中にあるやさしさ」を見つけた感動なり。

 ふつう、「やさしさ」は目に見えない。誰かを思いやる言葉や行動に、わたしが感じるもの。しかし、この本を読みながら、登場人物のやさしさに撃たれるだけでなく、いっしょになって相手を思いやっている自分自身を見いだす。主人公にだけでない。彼の顔を見て驚いてしまったことを恥じる人にも、寄り添いたくなる。読み終えたとき、「正しくあるよりも、親切であれ」というメッセージが、そのまま自分の願いとして腑に落ちてくる。くたびれたオッサンになった自分の中に、こんなに素直に願える部分があることに気づいて、驚く。

 予備知識は、「顔に障碍を持った、ふつうの男の子の話」だけ。娘にせがまれ買ったのだが、一日で読み終えた彼女は、その本について一言も話さなくなった(あれほど騒いでたのに)。どうしたのかと尋ねると、答えるのは難しいという。一気に読むほど夢中になったし、本当に胸が痛くなったのは驚いた。けれども、これを読んで思ったことは文にできない。「かわいそう」といった一つの言葉にならない。だから、お父さん自分で読んで―――と煽られ読んだのだが、娘が正しかった。

 いそいで付け加えるが、これは決して「かわいそう」がメインテーマではない。読み始めてすぐにピンとくる『エレファント・マン』は、作中での扱われ方から、「ピンとくる」こと自体が間違いだったことだと思い知らされる。「障碍を持った主人公」が「がんばる」ことで「運命を切り拓く」ことを単線的に描いた「お涙頂戴話」ではないのだ。むしろ、彼を取り巻く人々が、そんなまなざしに抗うお話なのだ。

 語り手が章ごとに分かれていることが特徴的だ。黒澤映画『羅生門』や、最近ならコミック『喰う寝るふたり 住むふたり』の、複数の一人称を重ねる物語を思いだす。同じ一連の出来事が、姉の視点、友人の視線から次々と語られることで、「表面上に起きたこと」と「その言動を支えていた感情」が暴かれるように描かれる。この、ちょっとしたミステリ仕掛けは、登場人物の「やさしさ」を、最初は読み手だけに、次は主人公に伝えてゆく。やさしさが伝わるときに、こころは振動することが、よく分かる。

 登場人物の、誰に寄り添ってもいいのだが、親でもあるわたしは、やはり両親の目で見ようとする。ずっと家の中で守ってきたのだが、どんどん子どもは大きくなる。親はいずれ死ぬのだから、いつまでも守ってやるわけにはゆかぬ。子どもに世間という現実と向き合わせるには、どうすればよいか? それがいかに残酷なことであろうとも、現実なのだから。ここまで育ててきた子どもと、自分を信じて、踏み出そう―――

 この決意、相当のものだが、書き手はかなり抑制して描いている。そして、抑えているからこそ、宇宙飛行士のヘルメットのエピソードには泣かされた。このヘルメットの行方が分かったとき、親の葛藤が振動の形で伝わってきて、立ってるのがやっとなほどになる。

ぼくは小さなころ、どこへ行くにも、宇宙飛行士のヘルメットをかぶっていた。公園へ行くときも、スーパーへ行くときも、ママといっしょにヴィアを学校へ迎えにいくときも。真夏でも、顔中汗だらけのままかぶっていた。二年間ぐらいかぶっていたと思うんだけど、目の手術のあと、かぶるのをいったんやめなきゃならなかった。
そのあと、ヘルメットが見つからなくなった。ママはあちこち探してくれた。そして、たぶん、おばあちゃんちの屋根裏にでもあるんだろうと考えて、探す予定でいてくれたんだけど、もうそのころには、ヘルメットをかぶらないことにぼくは慣れてしまっていた。

 読んだら、きっと、もっとやさしくなれる。泣いてもいいけど、泣くための物語ではないことを、お忘れなく。そして、人前では読まないことも、お忘れなきよう。


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90億人が食べていくために『食』

食 「食」の入門書にして総合書、これを最初に読みたかった。

 著者はジョン・クレブス、動物行動学の世界的権威であるとともに、英国食品基準庁の初代長官を務め、オックスフォード大学の学長でもある。すごい経歴は、読めばすぐ納得できる。いわゆる教養のある人なのだ。「教養のある」とは、難しいことを分かりやすく、分かりやすいことを深く、深いことを面白く書ける人のこと。

 本書は、「食」について、サイエンス、歴史、文化、環境の視点から多角的に、かつコンパクトに描き出す(これ重要)。具体的には、ヒトの進化を基礎にした食の歴史、味覚の成り立ちから食文化、発がん性物質やBSEといった食に潜むリスクとメリット、そして栄養学の歴史と現代社会の食問題を、新書200ページにまとめている。

 このテーマは、いくらでも難しく厚くできるのに、簡潔・明快にしているのが凄い。これは、教養のある人が書いた、1冊で知るための本なのだ。だから逆に、この1冊を基点にして、紹介されている文献に手を伸ばすのが順当なのかも。

火の賜物 たとえば、ランガム『火の賜物』[レビュー]を援用して、ヒトは料理で進化したことが語られる。食物を小さく切って、火を通すことにより、柔らかく、食べやすくなる。つまり、消化プロセスの外部化である料理のおかげで、消化吸収するエネルギーや時間が効率化され、余剰分をコミュニケーションに費やすことができた。体のサイズに比べて小さい歯や顎、コンパクトな消化器官、生理機能、生態、結婚という慣習は、料理によって条件づけられてきたというのだ。

銃・病原菌・鉄 あるいは、ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』[レビュー]を用いて、ヒトと家畜・穀物の歴史を振り返る。地球上には多種多様の動植物がいるが、食用に供されている種類は限られている。栽培・繁殖に向いている種を選別し、品種改良を続けてきた歴史と重ねると、ヒトにとって有益な種を広めやすい横長の陸塊であることが、文明の進展に有利であったことが分かる(同緯度の地域が広い=似た気候・環境だから遊牧・移植しやすい)。

食品偽装の歴史 添加物や混ぜ物についての解説は、ウィルソン『食品偽装の歴史』[レビュー]につながる。混ぜ物や偽装、遺伝子操作の問題など、食の闇を暴き立てたルポルタージュで、食の黒歴史なだけでなく、様々な読み方ができて面白い。食品偽装の歴史は、騙す方と騙されまいとする方のイタチゴッコの歴史でもあり、風味と見栄えを良くするための技術改良・流通改革の発達史でもあり、食品パッケージングとブランドの変遷から、文化とグローバリゼーションの摩擦の歴史とも読める。

食の500年史 巻末の推奨文献に、ピルチャー『食の500年史』[レビュー]が挙げられていたのが嬉しい。民族、文化、政治、経済、環境といった要素が絡み合う食の歴史を、グローバリゼーションという観点から読み解いた好著なり。帝国主義の欧州列強が、自らの支配を正当化するため、栄養学を持ち出して父権主義的に肉食のメリットを強調する件も面白いし、イタリアのパスタや日本の寿司といった「国民料理」は、人為的なネーションビルディングの一手段に過ぎないという指摘も鋭い。

ナショナル・ジオグラフィック2015年05月号 サブタイトルでもある「90億人の食」については、ナショナル・ジオグラフィック2015年5月号の特集と重なる。世界の人口は、2050年までに90億人に達すると言われている。そして、人々の生活が豊かになるにつれ、肉や卵、乳製品の需要が伸びることが想定される。人口増と食生活の変化という要因から、世界の作物の生産量を大幅に(およそ2倍に)増やす必要があるという。

 どうすれば、地球環境に負荷をかけずに食料を確保することができるのか? 本書およびナショジオでは、バイオテクノロジーや緑の革命、食生活の見直し、食品廃棄物の減量などが提言されている。私見では海洋牧場など魚介類へのシフトに期待しているが、本書によると楽観はできなさそう。

 食の歴史から現代事情、そして食の未来まで、これ1冊で眺めることができる。「食」について、分かりやすく、深く、面白く、そして早く知りたいのであれば、まずこれをどうぞ。

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