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『市民のための世界史』はスゴ本

市民のための世界史 知りたいことをネットで質問するのに、うまい方法がある。

 初心者は、「○○について教えてください」と尋ねる。すると、Wikipediaのコピペを掴まされた挙句、「ちなみに旦那の年収は一千万円です」と聞かされるハメになる。上手な人は「教えてください」なんて下手に出ない。では、どうするか? 知りたいことについて分かってる限り、ドヤ顔で語り出すのだ。すると、その道の通たちが、寄ってたかって指摘してくれる。このブログで有難いのは、そうした専門家からツッコミをいただけるところ。

 今回は、宮崎市定『アジア史外観』のレビューの反応から、『市民のための世界史』という素晴らしい本をご紹介いただいた(稲田さん、ありがとうございます)。これは、タイトルさえ知っていれば検索できるが、どういう目的で、何を条件にすればヒットするかは、絶対に分からない。「わたしが知らないスゴ本」は、読んだ誰かに教えてもらう外はない。「世界の歴史(≠物語)について一定の共通解となる知識を、大づかみで一冊で身につけたい」という人にうってつけ。

 もともと、大東亜共栄圏の教科書にするために編纂された『アジア史概説』は、企図されたプロパガンダも含めて読む必要がある。わたしは、この危うさを「面白さ」と読み換えて無邪気に評価したのだが、まさにそこを指摘された。痛い、痛すぎる。

 もちろん、あらゆるイデオロギーや時代性から自由な歴史の叙述は不可能だ。完全に客観的な歴史叙述なんてありえない。だが、だからといって歴史は「なんでもあり」ではない。記録者や研究者が、それぞれの立場で歴史(という名の物語)を勝手に創造するものではない。歴史が、強者や声の大きい人のためだけのものであるならば、常に書き換えの誘惑に満ちている。

 わたしが陥っていたのはまさにそこで、「歴史とは面白いもの」という動機に沿って、さまざまな歴史物語を読み散らかしていくうちに、「面白くなければ歴史じゃない」という視線で選別をしていたのだ。これは、司馬遼太郎や塩野七生を読んだだけで歴史が分かった気になるようなもの。司馬史観といえば聞こえがいいが、そこにあるものはページ・ターナーにするための“演出”だ。[塩野七生『ローマ人の物語』を歴史の専門家はどう評価しているのか?]に対する、プロの結論がよく分かる。あれは小説だから、エンタメとして消費される分には結構だが、これを歴史書として読むのはNGだ。これを、徹底して分からせてくれた。

 『市民のための世界史』によると、歴史とは、記録でも記憶でもない。すなわち、専門家によって研究された歴史の叙述は、単なる「事実の記録」ではないし、「社会の記憶」の集積とも一致しない。取捨選択された史料的根拠と、それを支えるロジックが、専門家同士で批判的に検証され、共通的な理解となったものが、「歴史」になる。もちろん思想や解釈により割れることもあるが、それは決して「勝者の指示」や「多数(を装った派閥)の声」で決定されはしない(影響されることはあるが……)。エビデンスがあり、ロジカルで、妥当な理解が定説とされ、教科書にも書かれる。国民洗脳のためのイデオロギーに満ちたプロパガンダだったり、売らんがなのエンターテイメントに彩られた物語ではないのだ。

 それなら世界史の教科書を読めばいいじゃない、という声がある。わたしも最初はそう思った。だが、大人になってやり直したことがある人なら知っているはず、世界史の教科書を開くと眠くなるのだ。その理由も、本書はカウンターの形で教えてくれた。秘密はこうだ、世界史の教科書は、固有名詞や専門用語や年号が多すぎる。これは、テストのため、ひいては受験のために、そうなっているのだろう。固有名詞は眠くなる、調べるうちに流れを見失う。わたしは用語を覚えたいわけではなく、世界史をやり直したいのだ。

 なぜ世界史をやり直すのか? それは、時代ごとの世界の構図や見取り図を知りたいから。細かいことは置いといて、時勢の大きな流れを、ざっくりとでいいから理解したいのだ。現在は過去の蓄積の上にある。歴史を知らなければ、今の世界がなぜこうなっているのかは理解できないし、未来を考えることもできない。「できない」というのは語弊があるから、こう言おう。イデオロギーの刷り込みが、プロパガンダの形を取らずに現われたとき、すぐにそれと分かるためのベースラインが欲しいのだ。

 たとえば、ギリシャのデフォルト危機の原因は、EU加盟時の粉飾決算ぐらいまでしか遡及できなかった。あるいは怠惰な国民性といったステレオタイプを思いつくぐらい。「なぜそうなのか」をそれ以上考えることはなかった。

 だが、本書のおかげで、第二次大戦後の米ソの冷戦によるパワーゲームという視点を手に入れることができた。つまりこうだ。当時の欧州で経済危機が起きたのは、共産主義勢力の拡大が一因だと米国は考えた。そして、ギリシャとトルコの共産主義化を阻止する目的で、対ソ封じ込め政策を開始した。具体的には、欧州の経済復興を図るマーシャル・プランを発表し、4年間で50億ドルを超える巨額の財政援助を提供したのだ。

 ここから、援助を当然視するギリシャの財政構造という斬り口が見える。今どき共産主義は流行らないが、ロシア陣営に組み込まれるのは地政学的に「問題あり」と米国はみなすだろう。かつて冗談で「地中海に軍港を提供するとギリシャが言い出したら、米独は軟化するかも」なんて言ったことがあるが、あながち荒唐無稽ではないのかも。

 あるいは、気候変動の社会的影響は、もっと大きく見積もる必要があると同時に、マスメディアからの刷り込み「温暖化=悪」という見方は一方的であることに気づいた。紀元後1世紀末から13世紀にかけて、北半球で温暖化が進んでいたが、そのおかげで農耕地域の拡大が進み、欧州地域は受益者だった。これが14世紀に入るころ寒冷化が始まり、19世紀まで小氷河期が続いたという。長雨、低温、日照不足により飢饉や伝染病が流行し、政情不安や戦争を引き起こすことになる。これに加え、モンゴル帝国の交通整備により、人と物のネットワークが活発化していたことが、伝染病や社会不安の広まりの前提条件として加えられている。

 つまり、地球規模の気象変動に人類が適応しきれない状況が、戦争や飢饉といった形で現われていたのだ。歴史をイベントの羅列として覚えようとすると、そのとき人類が置かれていた状況を丸ごと見落とすことになる。そうしないためにも、複数の視座を準備したい。巻末には、視点を増やすための有益な本が紹介されている。気象変動が歴史に与えた影響を解説した『歴史を変えた気候大変動』や、遊牧民の視点から世界史を捉え直した『遊牧民から見た世界史』が本書で高く評価されているため、この二冊を基点に視野を拡張してみよう。

 『市民のための世界史』は、大学教養の「そんなに歴史が好きでもない」学生を想定して作られているため、実はそれほど厚くない(A5版で300ページ)。サクッと読めて何度でも振り返ることができるから、類書と比較しながらシントピカルに読める。これは重要。なぜなら、わたしは「大きな本」を好むから。ハードカバーで、分厚くて、分冊で、いわゆる大著に取り組みたがるから。「大きな本」は、読んだこと自体で大きな達成感が得られてしまうため、批判的に見るのは難しい(読んだ時間と書籍代がサンクコストになってしまうからね)。

 そして、大著を売るためのマーケティングの結果、分かりやすく飛びつきやすい「答え」を無批判に信じ込みやすくなる。様々な分野の知識人が、実証部分は他人の成果を利用しながら、自分の思想を論じる。それはとても興味深く、心躍る読書体験なのだが、そうした「誰かの」グローバル・ヒストリーを鵜呑みにするのは危うい。

 最近なら、[おめでたいアメリカ人『暴力の人類史』]がある。著者S.ピンカーは「人類史レベルで暴力は減少している」ことを証明しようとしているのだが、統計情報の恣意的な読み取りに引っかかった。ベタ誉めのネット評判を見る限り、サンクコストのバイアスから自由な人は少ないようだ。念のため言っておくが、これは読み物としては一級品で、とてつもなく面白いことは保証する。だが、史料の読み取りも含めて、真贋は歴史のプロフェッショナルの意見を待ちたい。

 エンタメとしての歴史物語や、イデオロギー全開の史論に惑溺するのは楽しい。だが、知的虚栄心に目を眩まされ、大著だから鵜呑むようにはなりたくない。本書は、そのための大きな構造を示してくれる。世界の見通しを良くするため、歴史のベースラインをアップデートしよう。

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