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『市民のための世界史』はスゴ本

市民のための世界史 知りたいことをネットで質問するのに、うまい方法がある。

 初心者は、「○○について教えてください」と尋ねる。すると、Wikipediaのコピペを掴まされた挙句、「ちなみに旦那の年収は一千万円です」と聞かされるハメになる。上手な人は「教えてください」なんて下手に出ない。では、どうするか? 知りたいことについて分かってる限り、ドヤ顔で語り出すのだ。すると、その道の通たちが、寄ってたかって指摘してくれる。このブログで有難いのは、そうした専門家からツッコミをいただけるところ。

 今回は、宮崎市定『アジア史外観』のレビューの反応から、『市民のための世界史』という素晴らしい本をご紹介いただいた(稲田さん、ありがとうございます)。これは、タイトルさえ知っていれば検索できるが、どういう目的で、何を条件にすればヒットするかは、絶対に分からない。「わたしが知らないスゴ本」は、読んだ誰かに教えてもらう外はない。「世界の歴史(≠物語)について一定の共通解となる知識を、大づかみで一冊で身につけたい」という人にうってつけ。

 もともと、大東亜共栄圏の教科書にするために編纂された『アジア史概説』は、企図されたプロパガンダも含めて読む必要がある。わたしは、この危うさを「面白さ」と読み換えて無邪気に評価したのだが、まさにそこを指摘された。痛い、痛すぎる。

 もちろん、あらゆるイデオロギーや時代性から自由な歴史の叙述は不可能だ。完全に客観的な歴史叙述なんてありえない。だが、だからといって歴史は「なんでもあり」ではない。記録者や研究者が、それぞれの立場で歴史(という名の物語)を勝手に創造するものではない。歴史が、強者や声の大きい人のためだけのものであるならば、常に書き換えの誘惑に満ちている。

 わたしが陥っていたのはまさにそこで、「歴史とは面白いもの」という動機に沿って、さまざまな歴史物語を読み散らかしていくうちに、「面白くなければ歴史じゃない」という視線で選別をしていたのだ。これは、司馬遼太郎や塩野七生を読んだだけで歴史が分かった気になるようなもの。司馬史観といえば聞こえがいいが、そこにあるものはページ・ターナーにするための“演出”だ。[塩野七生『ローマ人の物語』を歴史の専門家はどう評価しているのか?]に対する、プロの結論がよく分かる。あれは小説だから、エンタメとして消費される分には結構だが、これを歴史書として読むのはNGだ。これを、徹底して分からせてくれた。

 『市民のための世界史』によると、歴史とは、記録でも記憶でもない。すなわち、専門家によって研究された歴史の叙述は、単なる「事実の記録」ではないし、「社会の記憶」の集積とも一致しない。取捨選択された史料的根拠と、それを支えるロジックが、専門家同士で批判的に検証され、共通的な理解となったものが、「歴史」になる。もちろん思想や解釈により割れることもあるが、それは決して「勝者の指示」や「多数(を装った派閥)の声」で決定されはしない(影響されることはあるが……)。エビデンスがあり、ロジカルで、妥当な理解が定説とされ、教科書にも書かれる。国民洗脳のためのイデオロギーに満ちたプロパガンダだったり、売らんがなのエンターテイメントに彩られた物語ではないのだ。

 それなら世界史の教科書を読めばいいじゃない、という声がある。わたしも最初はそう思った。だが、大人になってやり直したことがある人なら知っているはず、世界史の教科書を開くと眠くなるのだ。その理由も、本書はカウンターの形で教えてくれた。秘密はこうだ、世界史の教科書は、固有名詞や専門用語や年号が多すぎる。これは、テストのため、ひいては受験のために、そうなっているのだろう。固有名詞は眠くなる、調べるうちに流れを見失う。わたしは用語を覚えたいわけではなく、世界史をやり直したいのだ。

 なぜ世界史をやり直すのか? それは、時代ごとの世界の構図や見取り図を知りたいから。細かいことは置いといて、時勢の大きな流れを、ざっくりとでいいから理解したいのだ。現在は過去の蓄積の上にある。歴史を知らなければ、今の世界がなぜこうなっているのかは理解できないし、未来を考えることもできない。「できない」というのは語弊があるから、こう言おう。イデオロギーの刷り込みが、プロパガンダの形を取らずに現われたとき、すぐにそれと分かるためのベースラインが欲しいのだ。

 たとえば、ギリシャのデフォルト危機の原因は、EU加盟時の粉飾決算ぐらいまでしか遡及できなかった。あるいは怠惰な国民性といったステレオタイプを思いつくぐらい。「なぜそうなのか」をそれ以上考えることはなかった。

 だが、本書のおかげで、第二次大戦後の米ソの冷戦によるパワーゲームという視点を手に入れることができた。つまりこうだ。当時の欧州で経済危機が起きたのは、共産主義勢力の拡大が一因だと米国は考えた。そして、ギリシャとトルコの共産主義化を阻止する目的で、対ソ封じ込め政策を開始した。具体的には、欧州の経済復興を図るマーシャル・プランを発表し、4年間で50億ドルを超える巨額の財政援助を提供したのだ。

 ここから、援助を当然視するギリシャの財政構造という斬り口が見える。今どき共産主義は流行らないが、ロシア陣営に組み込まれるのは地政学的に「問題あり」と米国はみなすだろう。かつて冗談で「地中海に軍港を提供するとギリシャが言い出したら、米独は軟化するかも」なんて言ったことがあるが、あながち荒唐無稽ではないのかも。

 あるいは、気候変動の社会的影響は、もっと大きく見積もる必要があると同時に、マスメディアからの刷り込み「温暖化=悪」という見方は一方的であることに気づいた。紀元後1世紀末から13世紀にかけて、北半球で温暖化が進んでいたが、そのおかげで農耕地域の拡大が進み、欧州地域は受益者だった。これが14世紀に入るころ寒冷化が始まり、19世紀まで小氷河期が続いたという。長雨、低温、日照不足により飢饉や伝染病が流行し、政情不安や戦争を引き起こすことになる。これに加え、モンゴル帝国の交通整備により、人と物のネットワークが活発化していたことが、伝染病や社会不安の広まりの前提条件として加えられている。

 つまり、地球規模の気象変動に人類が適応しきれない状況が、戦争や飢饉といった形で現われていたのだ。歴史をイベントの羅列として覚えようとすると、そのとき人類が置かれていた状況を丸ごと見落とすことになる。そうしないためにも、複数の視座を準備したい。巻末には、視点を増やすための有益な本が紹介されている。気象変動が歴史に与えた影響を解説した『歴史を変えた気候大変動』や、遊牧民の視点から世界史を捉え直した『遊牧民から見た世界史』が本書で高く評価されているため、この二冊を基点に視野を拡張してみよう。

 『市民のための世界史』は、大学教養の「そんなに歴史が好きでもない」学生を想定して作られているため、実はそれほど厚くない(A5版で300ページ)。サクッと読めて何度でも振り返ることができるから、類書と比較しながらシントピカルに読める。これは重要。なぜなら、わたしは「大きな本」を好むから。ハードカバーで、分厚くて、分冊で、いわゆる大著に取り組みたがるから。「大きな本」は、読んだこと自体で大きな達成感が得られてしまうため、批判的に見るのは難しい(読んだ時間と書籍代がサンクコストになってしまうからね)。

 そして、大著を売るためのマーケティングの結果、分かりやすく飛びつきやすい「答え」を無批判に信じ込みやすくなる。様々な分野の知識人が、実証部分は他人の成果を利用しながら、自分の思想を論じる。それはとても興味深く、心躍る読書体験なのだが、そうした「誰かの」グローバル・ヒストリーを鵜呑みにするのは危うい。

 最近なら、[おめでたいアメリカ人『暴力の人類史』]がある。著者S.ピンカーは「人類史レベルで暴力は減少している」ことを証明しようとしているのだが、統計情報の恣意的な読み取りに引っかかった。ベタ誉めのネット評判を見る限り、サンクコストのバイアスから自由な人は少ないようだ。念のため言っておくが、これは読み物としては一級品で、とてつもなく面白いことは保証する。だが、史料の読み取りも含めて、真贋は歴史のプロフェッショナルの意見を待ちたい。

 エンタメとしての歴史物語や、イデオロギー全開の史論に惑溺するのは楽しい。だが、知的虚栄心に目を眩まされ、大著だから鵜呑むようにはなりたくない。本書は、そのための大きな構造を示してくれる。世界の見通しを良くするため、歴史のベースラインをアップデートしよう。

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基本から詭弁まで『議論の技術』

 よい議論のためのルールとメソッドを、懇切丁寧に説いた好著。類書と一線を画しているのは、ルール破りや詭弁術の見抜き型・対策まで網羅しているところ。議論の技術とは、ルールブレイカーを追い詰める技術なのかもしれない。

 「よい議論」とは、主張のメリット・デメリットを掘り下げ、お互いにとって望ましい結論を導き出せる話し合いのこと。言いたいことをまくし立て、声の大きさやマウンティングで勝ち負けを決めるようでは失格だ。残念ながらそういう輩は会議室に跋扈しているものの、マシンガントークや詭弁使いにとどめを刺す方法も書いてあるのでご安心を。

 議論の技術は5つの基本技術から成り立つという。

  1. 伝達の技術 相手に分かりやすい話し方
  2. 傾聴の技術 議論の流れを正しく把握する
  3. 質問の技術 論点を深める効果的な聞き方
  4. 検証の技術 間違った意見に惑わされない方法
  5. 準備の技術 シナリオを作り予防線を張る

 ロードマップやラベリングにより、主張の見通しがよくなるとか、主張を聞いたら根拠を問い、根拠を聞いたらデータを問えなど、議論に限らず、プレゼンテーションでも気をつけたいポイントがコンパクトにまとめられている。

 面白いのは、飛ばし読みを前提にしているところ。概略→詳細で階層構成されており、章の冒頭を押さえるだけで、深く読み込むべきか、流し読みでよいかが見える。知識としてはあったものの、具体的な攻手を知らないが故に使えていなかったテクニックが「悪例」「好例」として紹介されているのが嬉しい。

 たとえば、「沈黙は了承である」というルール。自分が出した主張に反論せず、相手が別の主張を掲げてきた場合、すぐにそれに乗ってはいけない。まさに向こうの思うツボで、議論ルール破りの常道テクニックだから。沈黙はスルーも含む。スルーされたら「それは了承と受け取るがよいか?」と釘を刺す。本書では、コスト削減のため、中国にアウトソースしようという主張に、「反日感情などで中国のビジネスはリスクが高すぎる」と反対される会話が出てくる。この反対意見への反論は、「リスク対策は後で議論するとして、コスト削減という点については認識が同じと考えてよいか?」と念押しすることが正解だ。

 あるいは、言いだした側が証明する、立証責任のルール。議論が上手い人は、立証責任を負わせるのが上手な人だと言い切っても過言ではない。本書では、手を変え品を変え、相手に立証責任を押し付けるテクニックが散りばめられている。たとえ自分が言いだしっぺで、「○○すべき」と立証しなければならない場合でも、「あなたは反対なのですか? なぜ反対なのですか?」と質問することで、立証責任を相手に負わせることができる(ルール違反だけど)

 人というのは不思議なもので、「なぜですか?」と聞くと、反射的に答えてしまうもの。「その質問になぜ私が答えなければならないのか」と一拍おいて考える人は、あまりいない。会議で逃げるのが上手な人、相手を言いくるめるのが上手い人は、これをやっている。やられたときの正解は、「私はあなたの質問に答えました。だから、あなたは"なぜ賛成なのか"について理由を述べるか、私が述べた理由に反論してください。しないのであれば、私の理由に納得いただいているという認識でよろしいですか?」と切り返す。

 特にタメになるのは、議論から逃げる技術と追う技術だ。立証責任の押し付けに限らず、ルールや定石を逆手にとったり悪用することで、有利に進めようとする人がいる。口で仕事する人、たとえば政治家なんかがそうだ。上手く追い込めるか逃がしてしまうかは、質問の仕方に掛かっている。本書では、不適切な方法で集めたお金を政治献金として受け取っていたニュースの事例で紹介されている。

政治家の弁「どのように資金を集めていたのか全く知らなかった。知っていれば初めからもらわない。職務に関して頼まれ事は一切ない。きちんとした扱いの献金であり、返却することはない」

 これを追い込むには、どうすれば良いか? まずは、逃げられてしまう悪い質問の例を挙げる。

【Q】職務に関して、不適切な政治献金を、なぜ返却しないのか?
【A】手続きはきちんとしている。何か見返りを依頼されたわけでもない。問題ないから、返却しなくてもいい

 これは、「なぜ」というオープン・クエスチョンを使ってしまったため、相手の好きなように答えられてしまったアンチパターンだ。言い逃れさせないためには、クローズド・クエスチョンを使えという。こうだ。

【Q】不適切な方法だと知っていれば、初めからもらわないのですね
【A】はい(としか答えられない)

【Q】もらわないのは、資金集めの方法が不適切だからですね
【A】はい(としか答えられないし、他の理由もない)

【Q】資金集めの方法を事前に知っていようと、知ってなかろうと、不適切なお金は、不適切ですよね
【A】はい

【Q】つまり、事前に知っているかどうかは無関係なのに、その無関係なことを根拠に、汚いお金でも受け取るということですね
【A】......

 自分の望む方向に議論を誘導したい場合、クローズド・クエスチョンは非常に有効だ。だが、この手法は論理的な議論では使ってはいけないと釘を刺してくる。いわゆる、誤った二分法や藁人形攻撃といった詭弁が入り込んでくるから。上述でも、攻撃しやすいように、「不適切なお金」を「汚いお金」に言い換えている。

 後半の実践編になると、様々な議論の「逃げ方」と「追い方」が紹介される。不当予断の問い(もう奥さんを殴るのはやめたのかい?)への対処。論点ずらしに気づくためのテクニックと、ずれた論点の戻し方。データに暗示させて主張を明確化しない奴をどう捌くか。因果関係と相関関係の(意図的な)取り違えを取り締まるやり方。誤った二分法(増税か財政破綻か)の取り扱いなど等……ルール違反への対処法が山盛りとなっている。

 どのやりとりも、テレビのインタビューで、会議室で、まとめサイトで、きっと見たことがあるだろう。上手く言い包められたかのような違和感とモヤモヤ感が、これで拭ったようになるに違いない。そして、次にこの詭弁を朗ずる連中の尻尾をどうやって捕まえて、どのように屠ればよいかが分かるだろう。

 コンパクトながら、基本術から詭弁術まで取り揃った一冊。

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健康をモラル化する社会『不健康は悪なのか』

 「あなたのためだから」というCMを覚えているだろうか?

 食べようとするケーキを奪って「あなたのためだから」と言い放つ(終業ぎりぎりでドサッと仕事を渡すバージョンもある)。強く印象づける目的としては、このCMは大成功だ。心ざわつく嫌なメッセージとして、絶対忘れないから。人の為と書いて、いつわりと読む。これは、善意の皮を被せた、人をコントロールする言説だ。

 本書を読み進めているあいだ、何度もこの「あなたのためだから」が頭をよぎる。おっぱい育児を推進する全米授乳キャンペーンの話や、ヘルスケア用語に覆い隠された肥満嫌悪、「ポジティブであり続けること」を強要される癌患者、大人の事情により創出される精神疾患など、「健康」という言葉に隠されたイデオロギーが、グロテスクなまでに暴かれる。

 「健康」は、一見、誰も反発したり疑義を唱えられない中立的な善のように見える。誰だって病や苦痛を避けたいもの。健康であるに越したことはない。どれだけお金を積んだって、健康はお金では買えない。もちろんその通りだ。本書は、医療に反対しているわけでもないし、病を賛美しているわけでもない。

 しかし、誰も反対しないからこそ、この言葉を使えば、先入観を押し付けることができる。無条件に美徳だと認められるからこそ、製品を売るために用いられても、そのレトリックに気づきにくい。本書では、健康という言葉の背後にあるモラル的な風潮をあぶりだす。健康に関する「物語」を疑えと焚きつける。

 たとえば、おっぱいではなく人工栄養を与えている母親に、「母乳で育てるほうが健康にいいですよ」という人がいる。その「健康」という言葉の裏側に「おまえは悪い母親だ」という意図が潜んでいる。考えすぎだろ? という人には、全米授乳キャンペーン(National Breastfeeding Campaign:NBAC)のCMが突きつけられる。

 赤ちゃんが生まれる前に危険なことはしないのに、  生まれた後にするのはなぜですか

 これは、ロデオマシーンから転げ落ちる妊婦や、丸太転がし競争する妊婦を描いたもので、そのメッセージは明白だという。「粉ミルクは危険だ」「妊娠しても過酷な競技をする冷淡な女だけが、粉ミルクを赤ん坊にやれる」という意図を、健康というレトリックで伝えてくる。粉ミルクのリスクを歪め、おっぱいの育児にかかるコストを無視していることを批判する。そして、粉ミルクのコストを再評価し(これは知ってた)、母乳のリスクを洗い出す(これは気がつかなかった)。おっぱいか粉ミルクか選択できるはずなのに、「健康」を盾に母親を脅す、非倫理的な試みだという。

 あるいは、ビジネスと結びつくとき、健康レトリックは、非常に巧妙にふるまうことが曝露される。製薬業界の広報活動戦略や、強迫性障害の歴史をつぶさに追いかけることによって、健康マーケティングは「宣伝」ではなく「広報」活動であることが分かる。「治療を売るために病気を啓発する」やり方で、ドリルを売るな穴を売れというやつ。

 つまりこうだ、バイアグラを売るためにED(勃起不全)を、アデロールを売るためにADHD(多動性障害)を喧伝する。自社の薬や処置で治療できる病気を啓発することにより、治療法を売り出していく。病気を広く認知してもらう方法も巧妙だ。その病気の患者の権利擁護団体を利用して、権威付けを行う。学術誌そっくりのPR誌を作る。米ドラマ「ER緊急治療室」でアルツハイマー患者役を配役し、番組で治療薬を取り上げてもらうように取り計らう。

 私にしか治せない「問題」を売るマーケティングって、どこかで聞いたことがあると思いきや、バーニーズ『プロパガンダ』がしっかり引用されている。日々の買い物から投票行動まで、広告や宣伝活動のからくりを解説した名著で、「騙して賛同させる」ための全てのテクニックが網羅されているといっていい(レビュー:悪用厳禁!『プロパガンダ』)。これ読んだときは、カルト宗教を想起してたけれど、なるほど製薬会社や健康産業に使えば、さらに効果的に「見えない統治者」になれる。

 その例として、強迫性障害の神話が指摘されている。30年前までは、非常にまれか、存在すら認められていなかった「病気」が、どのように定義づけられ、拡大され、アル中や統合失調症と並んでメジャーになったかが、パキシルの売り上げと共に描かれている。さらに、売る側が根拠とする学術論文を渉猟し、この障害のグローバル性に疑義を投げかける。

 この、科学を装った医療の背信を告発したのが、ヒーリー『ファルマゲドン』。ファルマゲドン(pharmageddon)とは、医薬・製薬企業を意味するファーマ(pharma)と、世界終末戦争の意味であるアルマゲドン(harmageddon)を組み合わせた造語だ。臨床試験データの不正操作や医学論文のゴーストライティングの問題を徹底して追及し、産官学を巻き込んで拡大する薬物治療依存社会を暴きだしている。治療体系を覆す薬効を持ち、圧倒的な売上高を誇るブロックバスター薬をテーマに据え、薬を売るより病気を売れ、エビデンスを売れという「疾患啓発」マーケティングの手口を解きあかす。予防医療としてコレステロール低下薬を常用しているわたしは、さしずめ教育済ユーザーだろうが、その処方箋を書く医師こそが、ファルマゲドンにとっての優良顧客なのだ。

 「健康」は商品であり、疾病啓発のマーケティングが世界規模に拡大する様を描いたのが、ウォッターズ『クレイジー・ライク・アメリカ』である。うつ病、PTSD、拒食症など、米国で認められた疾患が、どのように「輸出」され、輸出先の国や文化固有の価値観をいかに歪めていったかがレポートされる。例えば、「うつは心の風邪です」という表現は、マーケティングの成果であり、同時に三つのメッセージを担っているという。(1)風邪と同じくらい深刻ではなく、(2)治療法は手軽で、(3)ありふれた病気である、という印象だ。これは、マクドナルドやディズニーのような、米国製の文化を売るための「健康物語」なのだ。

 「健康的な体形」は、それにそぐわない体形に烙印を押す。「健康的な生活」、「健康的な食事」、「健康的なセックス」など、この言葉に訴える際、ある種の価値判断が密やかに発動する。ダイエットやフィットネスといった言葉を援用することで、健康への欲望を作り出し、操作することが可能だ。その価値判断は、健康の名のもとに押しつけられるため、健康ファシズムと呼ばれている。まさに「あなたのためだから」健康暴力が許されるのだという主張だろう。

 『不健康は悪なのか』は、健康を巡る不健康な言説の論文集だ。医療、倫理、フェミニズム、哲学、法学など、さまざまな立場の著者たちが多方面からの切り口で、健康をめぐる嘘と神話が暴き出されてゆく。本書を通して常識を疑うことで、「健康」というマジックワードから自由になれるだろう。同時に「あなたのため」を思っている隣人が、企業が、国家が、ほんとは何のために「健康」を押しつけてくるのかを知ることになるだろう。

 健康というレトリックに隠れた、イデオロギーを疑え。

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『アジア史概説』はスゴ本

アジア史概説 「交通」から見たアジア史。

 文明の原動力を、陸塊の形態に還元したマクロ史観の大胆な試みとして、ジャレ・ド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』[レビュー]があるが、宮崎市定『アジア史概説』は、これを「交通」に還元して俯瞰する。西アジアのペルシア・イスラム文明、東アジアの漢文明、その間のインドのサンスクリット文明、そして東端の日本文明───各文明は互いに交通という紐帯によって緊密に結び付けられており、相互に啓発しあい、競争しあい、援助しあいながら発展してきたダイナミズムを、一気に、一冊で読み通すことができる。

 あたりまえなのだが、ざっくり歴史を古代/中世/近世と分けるとき、文明は軌を一つにして変遷しない。にもかかわらず、西洋史のスケールに囚われてしまい、アジアの各文明とのタイムラグを見落としてしまう(もちろん、ヨーロッパが最も「遅れて」いた)。現代を“支配”している欧米の価値観で振り返るとき、この最遅に合わせることで、文明の相互影響が矮小化されてしまうのだ。本書は、歴史の中心を西アジアに据え、そこを行き来する文化や技術、制度の波及を解説することにより、わたしが陥りがちなこの弊害を炙り出してくれる。

Photo つまりこうだ。数百年単位で、ヨーロッパ、西アジア、東アジアと巨視的に眺めたとき、それぞれの地域での発展には前後があり、時代差が認められる。もともと中世や近世といった区分そのものがヨーロッパ中心史観なので、これを基準にして実年代を他の地域にあてはめようとすると、そこでは既に一歩も二歩も進んだ段階に突入しているため、共通の時代色を見つけようとしても無理があるというのだ。この歴史発展の傾斜を可視化したものが、p.225のこの図になる。そして、この時代の傾斜を解消していくのが「交通」になる。

 たとえば、ゲルマン民族とスラヴ民族は、最も開明の遅れた民族で、その生活が世界水準に達したのは、ここ数百年来だったという。にもかかわらず、現在では最先端を争う文明の所有者になったのは、「交通」で説明できる。すなわち、世界交通の大道から外れている間は、最低限度の刺激をアジアの文明から受けていたが、その素質を発揮するには至らなかった。これが、ポルトガルの新航路の発見から始まる、交通線の変化により、イスラム領域の通過を最低にしつつ、東アジアと直結するようになった。ヨーロッパは、ここから巻き返しを図る(同時に、トルコ帝国の衰退はここから始まる)。交通の発達と文明の進展は鶏卵の関係かもしれないが、ヨーロッパの膨張と海上交通の変化は、たしかに軌を一にしているといえる。

 ある技術や文化に着目し、それが伝播していく様を追いかけているのが面白い。たとえば、中国を統一した始皇帝が地方を巡行し、文字や貨幣を一定にしたのだが、それ以前の中国ではほとんど見られなかった。だが、それより半世紀前、インドに統一をもたらしたアショカ大王は、諸国を巡っていたるところに碑銘を刻んだという。そしてさらに250年ほど前、ペルシアのダリウス大王も同様のことをしていた。「世を平らげた王はその威徳を民に知らせる」という価値観が、ペルシャ→インド→中国と伝わっていく様が面白い。司馬遼太郎『項羽と劉邦』で、威光を見せびらかしている始皇帝を見た項羽が「我取って代わるべし」と叫んだエピソードがあるが、本書をタネにしたのかも。

 あるいは、ユダヤ教の中から「悪魔」という存在を生みだしたのは、ペルシャ文明との接触によるという。バビロン幽囚中に二神教的影響をこうむり、エホバ崇拝のほかにはじめて悪魔という存在を考え、一神教の中に二元論的色彩を加味せざるを得なくなり、ひいてはキリスト教を発生させることになったという。また、ユダヤ教の偏狭性を乗り越える発想をキリスト教が得られた理由として、仏教思想の感化を指摘する。さらに聖トマスの四諦観は釈迦伝記の換骨奪胎とし、キリスト教の中に仏教思想を見いだすことで、思想は互いに伝播しあっていることを解き明かす。

 日本も例外ではない。孤立した歴史を育んできたのではなく、アジアとの交流・交渉を軸に捉えなおすことで、日本の動きがより見えてくる。倭寇なんて典型例で、これは明の鎖国主義の破綻から生じたものだと説く。日本と中国沿岸の民は、もともと自由貿易を行っていたが、明の海禁政策により、中国人に対して弾圧が加えられた。これに反発した中国人が、日本人を誘って沿海の都市を略奪し始めたのが、倭寇の真相だという。

 また、明治維新のダイナミズムを生み出した薩摩と長州は、他の地域と比べて明らかに文明度が進展していたが、その理由として朝鮮半島や明・清との密貿易にあったという指摘は鋭い。江戸幕府の鎖国令により貿易に制限が加えられるほど、密貿易による利益が増大し、薩長の国力が蓄積されていたのだ。

 世界史におけるイギリスやオランダの極道っぷりは、本書でも遺憾なく発揮されている。だが、ギリシア文化はアジア文化の一支流にすぎないとか、日本や中国における製紙・印刷技術に比べ、西欧では紙すら普及していない未開蒙昧だったなど、節々で反・西洋史観が滲み出る。植民地主義やパターナリズムを正当化する後付け臭がないのはいいことなんだけど、妙な違和感がある。

 それもそのはず、本書はもともと、1942年に『大東亜史概説』として企画されたものとのこと。いわゆる大東亜共栄圏の歴史として各国語に翻訳し、共栄圏の人々に読ませようという遠大な目的があったそうな。そのため「アジアの中心としての日本」という姿勢で書くように文部省から要請されたという。欧米ならいざしらず、そんな恥知らずな歴史は描けないので、源泉を西アジアとし、そこから伝播していくスタンスになったとのこと。歴史は勝者がつくるもの。言い換えるなら、この歴史が遺されている限り、日本は敗者ではないのかも……とも思いたくなる。

 時代の流れを縦軸に、文明の往還を横軸にすることで、アジア中心の世界史を立体視できる一冊。

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銃は世界を変えてきた『銃の科学』

銃の科学 実弾を撃ったことがある。ベレッタという拳銃だ。発射のたびに伝わってくる炎とインパクトと熱気から、銃を撃つとは要するにコントロールされた爆発なんだと実感した。この体感を、メカニズムと歴史から説明したのが本書になる。

 著者は元自衛官で、銃のエキスパートでもある。自身の経験を織り交ぜながら、銃の起源と歴史を紹介し、さまざまなタイプの銃の構造と目的の違いを明らかにし、弾薬、雷管、薬莢など弾丸の話、弾道学の基礎を説明する。いわば銃の入門書ともいうべき一冊で、同著者による『狙撃の科学』や『重火器の科学』そして『拳銃の科学』など、銃のシリーズにつながっている。

 いちばん興味深く読めたのは、銃の歴史がそのまま戦術の歴史になっているところ。火竜鎗やマドファといった原始的なものは、とにかく敵の方向に弾を飛ばせばいいというもので、狙って命中させられるような代物ではなかったらしい。銃身や撃鉄、弾込めの方式などの改良を重ねるうちに、今の「銃」に近くなっていくのだが、ブレイクスルーは「弾丸」にあることが分かる。

 それは、ミニエー弾というドングリ型の弾丸で、それまでの丸薬みたいなものと異なり、命中精度と射程がいきなり3倍に向上したという。秘密はドングリの底に開いたスカート状のくぼみにある。そこには木栓が刺さっており、発射の際、火薬のガス圧が木栓に伝わり、木栓が弾の底を押し広げることで、弾丸をライフルに密着させる。ガス漏れを防ぐことで、爆発のエネルギーが弾丸に集中し、回転力を上げる仕掛けだ。

 ナポレオンの時代では、太鼓に合わせて行進し、敵の前で密集隊形を組んでいたが、ミニエー弾により、これが一変する。そんなことしてたら格好の的だから。戦列を作って圧倒するのではなく、散開方式が中心になったのは、ミニエー弾による変化だろう。

 また、機関銃の発明が壕を掘っての接近戦を促し(第一次大戦)、その結果、飛距離よりも近接戦闘の使い勝手を優先して突撃銃が生み出される(第二次大戦)など、「必要は発明の母」を正確に実践してきたのが、銃の歴史になる。弓矢の時代では重力加速度や空気抵抗を考えなくてもよかったが、より良い銃を開発するために物理学や弾道学の研究が進んだともいえる。銃は、科学のある面を象徴した存在でもあるのだ。

 本書では、メカニズムを中心に語られているが、銃の技術史が影響を与えた物理学や戦争の歴史、さらには銃の構造から見た文化の違いといった視点も合わせて読むと、さらに面白いかも。

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読むフェミニズム『母性という神話』

母性という神話 ジェンダーについて話しているとき、最も残念なのは次の論法でくる女性だ。

1. 私は女である
2. 故に正しい
3. 従って議論は私が裁定する(できる)

 彼女に言わせると、「私の意見=女一般論」なので「ジェンダー論=女一般論が正義」⇒「ジェンダー論=私の意見が正義」という図式が成り立っている(女性複数の場合は、それぞれ全てが正しい)。すると男どもは黙ってひれ伏して謹聴するしかない。

 だが、次の瞬間に気づく、これは、まさに男どもが何百年もやってきたことを、そのまま逆にした構図だ。だから「女ゆえに私こそ正義」を吹聴する彼女ばかりを責めることはできない。せめてもう少しエビデンスベースで学べないかと思っていたら、良さそうなブックリストがあった。「フェミニストとしてすすめる、フェミニズムに関心を持つための本」というリストで、以下の通りにまとめてある。

 (1) 物語・ノンフィクション編
 (2) 理論・学術・専門書編
 (3) 批評編

 アトウッドやイプセンといった文学寄りには馴染みがあるものの、学術書や批評は、ほとんど知らない興味深いラインナップなり。「面白そう」と言ったら叱られそうだが、タイトルに最も惹かれた一冊がこ『母性という神話』だ。原題は"L'Amour En Plus"(後から付け加わった愛)で、日本語のお題はタイトル詐欺になっている。

 たとえば、辞書で「母性」を引くとこうある。

女性がもっているとされている、母親としての本能や性質。また、母親として子を生み育てる機能。
(大辞林 第三版)

 この「母性」と「本能」の緊密な結びつきに異議申し立てをしたのが、本書になる。「母性愛」とは本能ではなく、子どもとの触れ合いの中で育まれる愛情であり、これを「本能」とするのは、父権社会のイデオロギーであり、近代が生み出した神話に過ぎないことを証明している。

 著者は、17世紀から18世紀のフランスの都市部で、子どもを乳母に預けることが流行したことを引きながら、いかに母親は子どもに無関心だったかを述べる。そして、運よく幼児期を生き延びたとしても、寄宿学校や修道院へ厄介払いされていた実情を示す。もし母性本能が女にとって本質的で普遍性があるのなら、いかなる時代のどんな母親も、この愛を実現していたはずである。従って乳母の事例は、反証になるというのだ。

 この「母性本能」は何なのかというと、イデオロギーだという。ここは非常に誤解を招きやすい箇所で、事実、新版の序文で「母性愛は18世紀の発明だとはけっして書いていない」と断っている。母性愛はどの時代にも見られるが、他の感情と同様で、現れたり消えたりする不安定なものだという。しかし、「母性愛」が、女性の本性として扱われ、「母性愛=本能」という図式が常識として扱われていることが、間違っているというのだ。日本語タイトルは、『母性本能という神話』とすべきだろう。

 では、「母性愛=本能」という図式がどのように作られたか。著者は、ルソーやフロイトを用いて、女性を母親の役割に押し込める構図を描き出す。それは、こんな図式だ。女は母親に、それも「良い母親」になるために生まれてくるのである。いつも家の中にいて、子どもの栄養と衛生に気を配り、献身的で優しい母であるべき―――という構図だ。

 そして、これに違和感を抱いたり、逸脱しようものなら「病的」「異常」のレッテルを貼り付け、不安や罪悪感を煽り立てる。これは、現代にも連なっている。『ひよこクラブ』の相談室で、「どうしても子どもに愛情がもてない、私は異常なのだろうか」という悩みを見たことがあるが、その裏に「母性愛=本能」という神話が刷り込まれている。

 「子どもを産むこと」は確かに女にしかできないが、だからといって「子どもを愛すること」は女に押し付けるのは、確かにおかしい。「母性本能」は言葉としてあるけれど、「父性本能」は無い。この欺瞞に気づけただけでも、本書の意義は大きい。わたし自身、子どもに抱く愛情は、フルパワーで費やした育児の日々を通じて大きくなり、毎日の生活の中でアップデートされる感情だ。そういう意味で、この愛は、"L'Amour En Plus"(後から付け加わった愛)なのだろう。


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