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科学哲学の教科書『表現と介入』

 たとえば超ひも理論について、分かってるふりをすることはできる。入門書やらWikipediaをナナメに読んで、知ったかぶるのも可能だ。だが、どうしてもできない。既存の物理学で説明できない問題を解決するためにひねり出された仮説にすぎないから。入門書を一冊読んだだけで「10次元空間でのDブレーンがね……」と賢しらに語る奴には、おまえ見たのかよ! と突っ込みたくなる。

 見たこともないくせに、信じられるか?

 この問いを発した瞬間、自己矛盾に陥っていることに気づく。なぜなら、わたしは、電子の存在を信じているから。Dブレーンも電子も、どちらも見たことがない。理解を助けるモデル図は何度も目にはするが、「これがそうだ」と指差されたものはない。にもかかわらず、電子が「ある」ことは信じられる。見たこともないくせに、なぜ?

 この、科学にとって「ある」とは何かを突き詰めたのが本書だ。著者はイアン・ハッキング。タイトルの「表現」とは理論のことで、「介入」とは実験の謂いだ。実証主義やプラグマティズム、クーンやファイヤーベント、ラカトシュなど、科学哲学史を総ざらえしながら斬り込んでゆく。科学とは、世界を解釈・利用するための道具にすぎないのか、あるいは「科学的真理」なる絶対知みたいなものがあり、そこへ向かってゆく過程なのかが議論される。科学的発見のトピックを深堀りしていくうちに、哲学の底にぶち当たっていたり、当時の哲学の主流が科学理論を後押ししているのが面白い。

 たとえば、顕微鏡について。顕微鏡で見ているものは、本当に「ある」のか。直接見ることであれば、モノに当たって反射・散乱された光が目に入ってくることで説明できる。だが、顕微鏡を通した場合、標本の実在性は「見る」ことで信じられるか。光学的に拡大しただけだから原理は同じだと言い張るのであれば、光の代わりに電子線をあてる電子顕微鏡や、光よりも屈折率の大きい音を用いた音波顕微鏡ならどうなる? デジタル化によりノイズが除去され、消失した情報を再構成された画像が示す対象は、「見ている」から「ある」と言えるのか。

 著者によると、一般的な「見え」とは異なるが、対象の実在性を信じることができる。その確信のもととなっているものは、対象が操作できるかによるという。単に受動的に眺めることではなく、対象に物理的に介入した結果、直接的な相互作用が生じるときに「ある」ことを納得する。著者は顕微鏡を通じて細胞壁にミクロ注入する実験を引きながら、「見る」という観念をリベラルに拡張する。

 わたしの疑問「見たことのない電子の実在性」についても、明快に示す。電子をめぐる様々な理論やモデル、形式化、方法論が存在するが、必ずしもそれらを束ねる統一的な理論(=表現)が必須であるわけではない。だが、電子の実在性に対する最良の証拠は、電子を測定すること、あるいは他の方法で電子を利用できる(=介入)ことにあるという。たとえば、電子顕微鏡やスパッタリングなどで、「電子を当て」て対象を観測したり膜を形成することこそが、電子が「ある」ことの証明になるのだ。

 わたしは逆に考えてた。マイナスの電荷を持つ、これこれこういう性質の「何か」が観察されていて、長々と説明するのが大変だから、「電子」という名前でモデリングしたのが最初にあったと考えていた。

 だが、これは教科書で学んだからそういえる。ミリカンは電荷を測定し、ローレンツは軌道を説明し、シュレディンガーは位置を導出したが、本書によると、それぞれ電子について互いに異なる共約不可能な理論を持っていた。語られているものの同一性が、「電子」という指示対象によって固定されていたのだ(ヴィトゲンシュタインの注意書き「意味を問うな、用法を問え」がここでも閃くのが面白い)。電子は理論化の過程だけを経て実在するのではなく、電子を用いた工学技術による「世界への介入」によって実在性を獲得する。科学の本質は、世界を理解することではなく、世界を変えることだというメッセージが伝わってくる。

 科学哲学の教科書ともいうべき一冊。

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