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科学哲学の教科書『表現と介入』

 たとえば超ひも理論について、分かってるふりをすることはできる。入門書やらWikipediaをナナメに読んで、知ったかぶるのも可能だ。だが、どうしてもできない。既存の物理学で説明できない問題を解決するためにひねり出された仮説にすぎないから。入門書を一冊読んだだけで「10次元空間でのDブレーンがね……」と賢しらに語る奴には、おまえ見たのかよ! と突っ込みたくなる。

 見たこともないくせに、信じられるか?

 この問いを発した瞬間、自己矛盾に陥っていることに気づく。なぜなら、わたしは、電子の存在を信じているから。Dブレーンも電子も、どちらも見たことがない。理解を助けるモデル図は何度も目にはするが、「これがそうだ」と指差されたものはない。にもかかわらず、電子が「ある」ことは信じられる。見たこともないくせに、なぜ?

 この、科学にとって「ある」とは何かを突き詰めたのが本書だ。著者はイアン・ハッキング。タイトルの「表現」とは理論のことで、「介入」とは実験の謂いだ。実証主義やプラグマティズム、クーンやファイヤーベント、ラカトシュなど、科学哲学史を総ざらえしながら斬り込んでゆく。科学とは、世界を解釈・利用するための道具にすぎないのか、あるいは「科学的真理」なる絶対知みたいなものがあり、そこへ向かってゆく過程なのかが議論される。科学的発見のトピックを深堀りしていくうちに、哲学の底にぶち当たっていたり、当時の哲学の主流が科学理論を後押ししているのが面白い。

 たとえば、顕微鏡について。顕微鏡で見ているものは、本当に「ある」のか。直接見ることであれば、モノに当たって反射・散乱された光が目に入ってくることで説明できる。だが、顕微鏡を通した場合、標本の実在性は「見る」ことで信じられるか。光学的に拡大しただけだから原理は同じだと言い張るのであれば、光の代わりに電子線をあてる電子顕微鏡や、光よりも屈折率の大きい音を用いた音波顕微鏡ならどうなる? デジタル化によりノイズが除去され、消失した情報を再構成された画像が示す対象は、「見ている」から「ある」と言えるのか。

 著者によると、一般的な「見え」とは異なるが、対象の実在性を信じることができる。その確信のもととなっているものは、対象が操作できるかによるという。単に受動的に眺めることではなく、対象に物理的に介入した結果、直接的な相互作用が生じるときに「ある」ことを納得する。著者は顕微鏡を通じて細胞壁にミクロ注入する実験を引きながら、「見る」という観念をリベラルに拡張する。

 わたしの疑問「見たことのない電子の実在性」についても、明快に示す。電子をめぐる様々な理論やモデル、形式化、方法論が存在するが、必ずしもそれらを束ねる統一的な理論(=表現)が必須であるわけではない。だが、電子の実在性に対する最良の証拠は、電子を測定すること、あるいは他の方法で電子を利用できる(=介入)ことにあるという。たとえば、電子顕微鏡やスパッタリングなどで、「電子を当て」て対象を観測したり膜を形成することこそが、電子が「ある」ことの証明になるのだ。

 わたしは逆に考えてた。マイナスの電荷を持つ、これこれこういう性質の「何か」が観察されていて、長々と説明するのが大変だから、「電子」という名前でモデリングしたのが最初にあったと考えていた。

 だが、これは教科書で学んだからそういえる。ミリカンは電荷を測定し、ローレンツは軌道を説明し、シュレディンガーは位置を導出したが、本書によると、それぞれ電子について互いに異なる共約不可能な理論を持っていた。語られているものの同一性が、「電子」という指示対象によって固定されていたのだ(ヴィトゲンシュタインの注意書き「意味を問うな、用法を問え」がここでも閃くのが面白い)。電子は理論化の過程だけを経て実在するのではなく、電子を用いた工学技術による「世界への介入」によって実在性を獲得する。科学の本質は、世界を理解することではなく、世界を変えることだというメッセージが伝わってくる。

 科学哲学の教科書ともいうべき一冊。

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男子は女子に絶対勝てない『からかい上手の高木さん』

 辛いことも、恥ずかしいことも、過ぎてしまえばいい思い出になるというが、あれは嘘だ。未熟ゆえの失敗、若いからと言い訳できない態度、許されない/許せない言葉など、重石をつけて封印してある。今でも触れるだけで血を流す思い出は、アニメや小説で育てた偽の記憶で上書きする。

 これが、何かのはずみでうっかり思い出してしまうと、大変なことになる。恥ずかしさと甘酸っぱさにもみくちゃにされ、いたたまれなくなる。後悔に殺されるとはこういうこと。

からかい上手の高木さん 『からかい上手の高木さん』は不意打ちだった。タイトル通り、好きな子にちょっかいを出すというラブコミなのだが、これが無限にニヤニヤできる。高木さんの「からかい」の手管が絶妙で、隣の席の「からかわれ」るほうの西片くんは掌のナントカ状態となっている。

 「放課後ふたりで腕ずもう」とか「体操服を交換する」、「缶ジュースまわし飲み」「なんでもないことを手紙で伝えてくる(しかもハートのシールの封をして)」など、悶絶必至のエピソードでもってニヤつかせる。ふつうの思春期男子ならハートを撃ち抜かれるイタズラでも、そこは作者の妙、いい感じで西片くんがニブい。「ひょっとしてボクのこと好きなんじゃ……いやいや、違ってたらどうしよう」とためらう自信のなさに、若さと懐かしさを感じる。

 そんなイタズラの中で、「授業中、居眠りしている隙に本を並べてブービートラップを仕掛ける」という話がある。他愛ないやつだが、これと同じことされたのを思い出す。本編はホンワカ・ドキドキの展開だが、わたしの場合は違ってた。寝起きで機嫌が悪かったのと気恥ずかしさのあまり、本気で怒ってしまったのだ(以後、仕掛けた女子を避けるようになった)。

 あの子は実は……だったのか、と思うと、返す返すも口惜しい、もったいない、過去のわたしを殴りたい。高木さんの小悪魔っぷりもさることながら、西片くんの「からかわれ上手」のおかげで、実は危うい二人の関係のバランスが取れているのだと思う。

チェーホフ短編集 そういう、あったかもしれない未来と重ねつつ、ドキドキをシンクロさせる。そういえばこの感覚、チェーホフの短編にあったな。『いたずら』というタイトルで、そり遊びする少年と少女を描いた掌編なり。立場が『高木さん』とは逆転しており、少年から少女へ、「いたずら」が仕掛けられる。

 それは、滑走する風の音にまぎれて愛の言葉をささやくといういたずら。上手に少年にあしらわれつつ、幻聴なのか願望なのか確かめるため、少女は何度もそりを滑らせる―――このシーンが甘酸っぱさを刺激する。ユーモアとペーソスの両方に心を揺らされ、解説で暴かれる「そり」のエロチックな隠喩に愕然とさせられる。

 『高木さん』の二人が中学生か高校生で"青春"のニュアンスが違ってくるだろうなぁと勘ぐるのだが、会話や雰囲気は中学生なのに、教科書は「数IA」と高校生になっている。他にも、西片くんの内心がサトラレ状態なのは、フキダシがモノローグになってるだけで、実は口に出しているんじゃないかとか、「照れたら負け」とはいうものの、恋心をさらりと伝える高木さんに、ちゃんとテレマーク(///)が入ってるじゃないかなど、再読するほどニヤつきが止まらない。

 封印したはずの地雷を踏み抜くか、誰もいない壁に向かってドンするか、選べるかどうかは分からない。だが、読んだら身悶え保証する、良いか悪いか別として。

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『なぜエラーが医療事故を減らすのか』はスゴ本

 「バグを排除しようと圧力をかけると、バグが報告されないプロジェクトになる」

 この寸言は、よく忘れられる。シックス・シグマや日経ナントカに染まった管理者が、バグを目の敵にし、バグゼロの号令をかける。不具合が表面化すると、たまたまそこに詳しいだけの担当を犯人扱いし、なぜなぜ分析を強要し、ccメールや全体会議で晒し者にする。

 なぜなぜ分析とは、「なぜそれが起きたのか?」「その原因の原因は?」と、原因を幾重にも掘り下げる手法のこと。5段階も遡及すると、たいてい「私の不注意でした」となり、対策は「意識を入れ替える」という小学校の学級目標になる。反面、もっと深刻な「仕様変更が電話口で伝えられていた」とか「アジャイルの名のもとにテストが省略されていた」などは放置される(なぜなら、「人」を原因にしたいから)。

 こんな冗談みたいな施策を続けていくと、スケープゴートになった人はどんどん心をすり減らし、不具合の初期症状は「知りません」の壁に囲われ、詳しい人から順番にプロジェクトからいなくなる。かくしてバグは報告されなくなる、システムが崩壊するまで。

 いっぽう、人の命が懸かっている医療現場では、冗談では済まされない。ミスを排除するための基準が幾重にも設けられ、システム的にも人的にも厳しい安全管理・衛生管理がなされている。しかし、それでも事故は起こる。手術部位の左右取り違えや、併用禁忌の薬剤の投与、経口投与すべきものを皮下注射するなど、「あってはならない」ことが起こる。

 そしてひとたび、重大な障害が残ったり、患者が死亡した場合、大事件として扱われる。直接関わった医療者は参考人として事情聴取を受けるが、マスコミからは犯罪者として祭り上げられる。遺族は賠償訴訟を起こし、病院側との対決姿勢を鮮明にする。現場に居た人たちは殻に閉じこもり、「なぜそうなったのか」は不鮮明なまま。マスコミは「犯人」にフラッシュを浴びせ、うつむく横顔をクローズ・アップする。

 医療の専門家でもないわたしでも分かる。「原因」は、そこで頭を下げている人だけでないことを。もちろんその人にも過失はあっただろう。だが、そこに至るまでに様々なすり抜けがあり、不幸な偶然が重なったがためであって、その人に全責任を負わせて糾弾することが間違っていることを、知っている。

 そして、マスコミがこうした「犯人探し→吊るし上げ」の姿勢を強調すればするほど、スケープゴートになった人はどんどん心をすり減らし、真の原因究明は「知りません」の壁に囲われ、詳しい人から順番に現場からいなくなることは、どこかで見た構図になる。明らかに間違ったことをしているのに、何もできないもどかしさ。そもそも、何をすればいいのか、具体的に示せない。そこに明快な解を示してくれたのが、本書になる。

 著者はフランス人。医療安全の第一人者にして現役の臨床医でもある。原書のタイトルはもっとシンプルに、「エラー称賛」である。本書の主張は明確だ。複雑な人体と複合的な医療システムにとってエラーは必然であり、不可欠でもあるのだから、エラーを受け入れ、称賛せよという。そして、エラーを前提とし、これを報告・学習する文化を広げろという主張だ。そのための具体的な方法や事例が、現場から為政者レベルで書いてある。また、後半の訳者による「解題」には、日本での取り組みも併せて紹介されている。

 どんなに研究が進み、医療技術が高度になったとしても、相手は人の身体である。人が設計図を引いたエンジンや原子炉と異なり、人体は機械ではない。絶え間なく代謝し続ける複雑な生体だ。さらに、本書によると、医師は、7,200種類の医療行為、5,000種類の医薬品、50,000種類の医療機器および器具を用い、生体組織検査やX線撮影を依頼し、患者を入院させ、看護師、理学療法士、歯科医師などの協力を求める。数百の疾患に対し、選択の組合わせは無数にあるといっていい。よって、医療技術を用いて人体に何らかの介入をした場合、どのような反応がおこるか厳密に予測することはできない。ただ経験と実験の積み重ねにより、医療の不確実性を克服しようとしているのが現状なのだ。

 そして、人は誰でも間違える。絶対に間違えないのであれば、それは人ではない。1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300のヒヤリ・ハットが存在する。そうしたインシデントの連鎖を止めるため、さまざまなマニュアルやチェックリストが整備されている。成人向けと小児向けの薬剤を同じ棚に置かないとか、「入力の"打つ"と注射の"打つ"」を明確化・復唱するといった会話のプロトコルを定めておくとか、多すぎる薬量がオーダーされた場合にはシステムが警告するなど、有形無形のさまざまな関所が設けられている。

 本書では、こうした関所のことを、並べたスイス・チーズで視覚的にモデル化する。一つ一つのスイス・チーズは穴だらけだが、これを並べることにより、エラーという矢の通り道を塞ぐ。幾つもの穴をすり抜け、刺さったチーズが「ヒヤリ・ハット」になる。一つ一つの確認行為は関所として機能しているはずなのだが、完璧ではない。病気が、環境や遺伝要因の複合的な要素によって起きるように、エラーの原因は一つとは限らない。刺さった最後のチーズは確かに目立つかも知れない。だが、そこへ至る一連の流れを見なおし、各ステップでの不具合を見つけ出し、システム全体としての改善を図ることが必要になる。

 この考えに基づけば、不幸にして最後のチーズとなった医療者を責めるのは意味がないことも明白である。事故の当事者は、たくさんあったはずの防御装置の欠陥を明るみに出した者にすぎないのだから。ヒューマンエラーは原因ではなく、むしろ結果なのだという。

 また、起きてしまった事故に対し、司法からのアプローチの限界を指摘する。司法の介入は必ずしも真実の追究につながるとは限らず、むしろ妨げる結果に終わることも少なくないという。なぜなら、裁判では勝ち負けが焦点となるから。裁判では、責任者すなわち犯人がいる前提で行われ、だからこそ損害賠償が可能になるのだと考える。自己防衛のため自己に不利な発言はしなくともよいという状況下では、全ての情報が明らかにされることは期待できないから。

 複雑なシステムの安全性を高めるには、当事者に自己保身の殻から出て、原因究明に参加してもらうことが必要だ。特に、本人がどのような認識だったかが肝となる。当事者の認識は、客観的事実ではない(感覚は人を欺く)。システムの危険性を回避するためには、当事者の目に映っていた状況を把握する必要がある。その際、過失は過失として、偶然によるエラーはエラーとして、分けて考えなければならない。さもないと、何を語ったところで「罪状」扱いされることを恐れる当事者は、最低限のことにしか口を開かなくなるだろうから。

 2002年にフランスで施行されたクシュネル法は、この医療の不確実性というコンセプトに基づいている。同法により、意図せざるエラーと、裁判で追求される過失を切り分けて考えるようになり、何よりも素早く実施されなければならない被害者の補償と救済が、事故直後に行われるようになったという。

 医療の不確実性に起因するヒューマンエラーは原因ではなく結果として捉え、エラーを前提としたシステムづくりを目指す。この営みは日本でも行われている。日本医療安全調査機構といい、診療行為に関連した死亡事故について、専門家が中立的な立場で原因を究明し、患者の遺族に説明、さらに再発防止のための提言を行うというモデル事業である。完全に匿名化し、懲罰的な扱いはしないことで、「犯人」探しの法廷論争から一線を画しており、2005年から2014年まで200件あまりの死亡事例を扱っている。

 また、医療現場で起るヒヤリ・ハット事例の原因分析として、日本医療機能評価機構がある。そこでは、「誰」に焦点を当てているのではなく、「どのように」起きてしまったのかが徹底的に調べ上げられている。そして、同様の事象が起るのを防ぐために必要な手立てが提言されている。複合的システムの安全性を維持するために不可欠な、「報告する文化」および「学習する文化」というコンセプトが、リンク先では具体的な形として見ることができる。

 ただ、これらがどのように生かされているかは、分からない。いずれも医療の質と安全性の向上のためお役立てくださいとあるだけで、注意喚起以上のフィードバックはないようだ。わたしが調べ切れていないだけで、医療の現場では、たとえば研修カリキュラムへの導入といった形で行われているのかもしれない。

 冒頭の寸言は、本書の提言でこう書き換えられる───「エラーを称賛することで、エラーから学習するシステムになる」。そしてこれは医療に限らず、安全性が求められるあらゆる分野に適用可能な姿勢だろう。

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『こころ』を読んだら、これを読め

01

 好きな本を持ちよって、まったり熱く語り合うスゴ本オフ。

 毎度まいど、収獲量が桁違いのブックハンティングで、やはり今回も凄かった。お題は夏目漱石の『こころ』。初の課題図書なのだが、これ読んで感想を言うありきたりな読書会ではない。『こころ』を読んだ人にオススメする作品を紹介するというメタ的な読書会なのだ。

02

 あまりにも有名な『こころ』を、いかに教科書的でない読み解きをするか? ここが肝でスリリングなところ。みなさまの発想力と独創性により、意外だけど納得できる本が集まった。わたしもアクロバティックな読みを目指したつもりだけれど、予想のナナメ上を飛翔する想像力にやられましたな。集まった作品の書影は[リブライズ]に、tweetはTogetterまとめ[『こころ』はミステリだった? ハードボイルド? 恋愛小説? スゴ本オフ「漱石の『こころ』の次にオススメする本」]にまとめてありますぞ。

03

 まず、『こころ』をミステリとして読むやりかた。なぜ先生は死ななければならなかったのか? 語り手である「私」はどうなるのか? など、描かれなかった欠片を補う、謎解き『こころ』。なかでも『「こころ」で読みなおす漱石文学』は白眉で、解答の見事さもさることながら、再読へと誘う仕掛けがいい。また、『漱石の実験』は凄い。「なぜずっと後になって先生は死んだのか」に着目して、超絶かつ納得の"真犯人"をあぶりだす。こういう書き方そのものがネタバレなのだが、そこへ持っていく技量は文学者ならでは。

 そして、ハードボイルドとして『こころ』が読めるというアイディアに驚く。主人公が、ある男と出会うところから物語が始まる。その男の生き様に共感し、交流を深めるのだが、暗い影が付きまとっており、それは過去の恋愛と嘘と死のもつれから始まっていた―――という共通点から、チャンドラー『ロング・グッドバイ』が出てくる。さらに、『グレート・ギャッツビー』-『羊をめぐる冒険』とつなげていくと、いかにも『こころ』の人物が言いそうなセリフが頻出していることに気づく。信条を貫こうとするキャラクターを、感情を省き、簡潔な言動で描くところは、確かに同じ匂いがする。

 三角関係、自己欺瞞、こじらせ男子からボーイズ・ラブまで、様々な"読み"のうち、一番びっくりしたのは、「先生=女」説。序盤の鎌倉の海岸のエピソードで先生を女だと思い込み、立ちションの件で間違いに気づいた話が面白い。先生の性差のイメージが中途半端というか、トランスジェンダーな感じを受けたという。自分の中の性差を試されるような読書体験は、100年も読み継がれてきたからできたようなもの。

 この、先生の性差の曖昧さから、ペドロ・アルモドバル『トーク・トゥ・ハー』が出てくる発想が素晴らしい。愛する女が昏睡状態になってしまったため、必死に看病を続けるふたりの男の物語だ。相手の意思に関係なく一方的に与えることができるのは、「愛」の喜びなのか? これ観たあとに『こころ』を読むと、また違った感情が抱けそう。

 エピソードやキャラクターのイメージ連想により、『こころ』をいくらでもずらし、重ね、拡張できるのが愉しい。そして、連想先の作品からフィードバックすると、『こころ』がまた別モノとして新鮮に読めるのが嬉しい。恋愛小説としてとらえて『源氏物語』を推したり、善人が悪事をなし悪人が善を施す「人のゆらぎ」から『鬼平犯科帳』が出てきたり、遺書による告白オチから『ジーキル博士とハイド氏』が、親族に騙されるエピソードから『ハムレット』が飛び出してくる。いったん出てくると、さもありなんという風に見えてくる。読書の自由を満喫するラインナップとですな。「死んでいった人たちの記憶を引きずりながら生きている人たちに向けた物語として、『こころ』と供に『海街diary』(ただし映画版)がお薦めされる。映画版はスルーしていたが、なるほど『こころ』とあわせることもできるのか。

 コミック版『こころ』もある。省略しがちな表情がダイレクトに描かれているので、入りやすい一方で解釈が染まりやすいので要注意。入門者向けの「まんがで読破」シリーズや、大胆に現代風に解釈したオマージュもある。平成の時代で、「明治の精神」なんてないのに、先生はなぜ死ぬのか? と考えながら読むと、ラストであっと驚くだろう(『漱石の実験』に似ている)。さらに、『再話された「こころ」』を読むと、高橋留美子『めぞん一刻』は、『こころ』のパロディではないか? と思えてくる。八神いぶき編だけでなく、『めぞん』全体の構成で、『こころ』を念頭においていたのかも……と考えると、両方とも再読したくなる。読書は、どこまでも自由だ。

 いわゆる読書家というか、小説を読み慣れている人ほど、『こころ』を失敗作だと腐す。物語のほつれがあったり、未回収の伏線が放っておかれたりで、知名度のわりに小説としての出来は決してよくない。わざわざ読まなくてもいいんだよ、とまで言う人もいる。

 だが、もったいない。100年間、これだけ沢山の人に読み継がれているのだから、通り一遍の教科書的な読みではなく、違う世界、異なる価値観に接続して、離れた舞台で再演させることができるはず。『こころ』を下地に、もっと"読み"を広げることで、読んだ人の感情を普遍化することができる。そんな可能性を確かめるオフ会でしたな。

04

 次回のテーマは、「対決(VERSUS)」。競争、勝負、因縁、対抗、タイマンでも団体でも、博打でもバトルでも、そこへ至る葛藤でも、そこから生まれた悲劇でも、何でもアリ。「対決」という言葉でピンときた作品のうち、一番お薦めできる作品を持ってきて、まったりアツく語り合いましょう。いつも通り、本に限らず、マンガもゲームも音楽も映画もなんでもござれ。途中参加/退場・見学オンリー大歓迎ですぞ。

■ミステリ/ハードボイルドとして読む 『こころ』
『ロング・グッドバイ』レイモンド・チャンドラー/村上春樹(早川書房)
『容疑者Xの献身』東野圭吾
『ロシア紅茶の謎』有栖川有栖(講談社文庫)
『ジーキル博士とハイド氏』スティーヴンスン(光文社古典新訳文庫)
『「こころ」で読みなおす漱石文学』の石原千秋

■こじらせ男子の告白
『人間失格』太宰治(新潮文庫)
『センセイの鞄』川上弘美(文春文庫)
『山月記』中島敦(新潮文庫)
『漱石の実験』松元寛(朝文社)

■心のよすがとしての 『こころ』
『夏目漱石「こころ」2013年4月(100分 de 名著) 』姜尚中(NHK出版)
『心』姜尚中(集英社文庫)
『心の力』姜尚中(集英社新書)
『話虫干』小路幸也(ちくま文庫)
『ブッダのことば』中村元・翻訳(岩波文庫)
『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元・翻訳(岩波文庫)

■恋愛小説として読む 『こころ』
『赤と黒』スタンダール(新潮文庫)
『サロメ』ワイルド/平野啓一郎(光文社古典新訳文庫)
『海辺の恋と日本人 ひと夏の物語と近代』瀬崎圭二(青弓社)
『源氏物語』紫式部
『友情』武者小路実篤(新潮文庫)
『愛するということ』小池真理子
『トーク・トゥ・ハー』ペドロ・アルモドバル(ヴィレッジブックス)
『蹴りたい背中』綿矢りさ(河出文庫)
『うみべの女の子』浅野いにお(太田出版)

■死者と向き合う
『海街diary』吉田秋生/是枝裕和監督(小学館)
『哀原』古井由吉(文藝春秋)
『阿寒に果つ』渡辺淳一(扶桑社文庫)
『草の花』福永武彦(新潮文庫)
『風雪のビヴァーク』松濤 明(ヤマケイ文庫)

■コミックという方法
『こころ』夏目漱石×榎本ナリコ(小学館)
『再話された「こころ」』宮川健朗(翰林書房)
『文豪ストレイドッグス』春河35(角川書店)
『さよなら絶望先生』久米田康治(講談社)
『カフカの「城」他三篇』森泉岳土(河出書房新社)
『まんがで読破 こころ』(イースト・プレス)
『ファミリー!』渡辺多恵子(小学館)

■想像力は創造力
『婦人画報2015年7月号』(110年前の創刊当時の複刻版)
『ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯』サム・ペキンパー監督(ワーナー)
『ジャズ大名』筒井康隆(新潮社 『エロチック街道』所収)
『硝子戸の中』夏目漱石(岩波文庫)
『夏目漱石、読んじゃえば?』奥泉光(河出書房新社)
『自分の感受性ぐらい自分で守れ ばかものよ』茨木のり子(小学館)
『不良少年とキリスト』坂口安吾(講談社文芸文庫)
『WONDER』R.J.パラシオ著。中井はるの訳(ほるぷ出版)
『鬼平犯科帳』池波正太郎(文春文庫)
『新訳ハムレット』シェイクスピア 河合祥一郎/訳(角川文庫)
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹(文藝春秋)
『倒錯の森』J.D.サリンジャー(荒地出版社)
『高慢と偏見』オースティン(ちくま文庫)
『悲しみよこんにちは』フランソワーズ・サガン(新潮文庫)
『若きウェルテルの悩み』ゲーテ(新潮文庫)
『ツァラトゥストラはこう言った』ニーチェ(岩波文庫)

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善悪二元論という嘘『ジーキル博士とハイド氏』

ジーキル博士とハイド氏 人間は習慣の動物だから、長く被っているペルソナを人格だと思いこむ。たとえフリでも、続けるうちにキャラとなる。いわば、被り物がホンモノになるのだ。なにかのはずみで、ひょっこり隠れている方が顔をだすとき、「あれは"私"じゃない」と叫びたくなる。

 わたしの場合は酒だ。最近はめっきりだが、酒に完全に呑まれたとき、残忍で猥雑で暴力的な「わたし」が現われる。酒が人をダメにするんじゃなくって、もともとダメなことを教えてくれるのが、酒なのだ。

 だから、『ジーキル博士とハイド氏』を再読したとき、このあまりにも有名な作品を、ずっと勘違いしていたことに気づいた。これは、人の裡に潜む、善と悪の二面性を描いた作品ではない。「ジーキル=善、ハイド=悪」という二重人格がキレイにまとまっているが故に、薬による人格変換の構図として読んでしまったのだ。それは、メルモちゃんのキャンデーのように変化させるのではなく、モーフィアスが渡したカプセルのように本質を暴くものなのだ。

 名士として知られるジーキルこそが「悪」だろう。名誉ある人格者だと自認し、ハイド(hide)という隠れ蓑を被り、無味乾燥に倦んだ人生を、極悪徳に染め上げる。著者であるスティーヴンソンは巧妙に筆を省いてはいるものの、サディスティックで背徳的な悪事を、商売女に行っていたことが覗われる。どんなにおぞましい快楽行為でも、やったのは"私"じゃないのだから、悪いのは私じゃない、という思考こそが「悪」そのもの。

 むしろ悪のペルソナであるハイドこそが小心者だ。少女を踏みつけたことを咎められ、公にするぞという脅しにあっさり屈し、金で手を打とうとする。ついカッとなって振るった暴力の結末に怯え、逃げ出そうとする。薄弱で臆病な面を「悪」の人格とみなすことで、最後の最後になってまで、自分を高潔なものと見てもらいたいとする浅ましさ。ジーキルが発明したのは、「ハイドになれる薬」ではなく「ジーキルの仮面を外す薬」だったのだ。

 もともとは、漱石『こころ』を読んだ人にお勧めする作品として手にした『ジーキル博士とハイド氏』。とっかかりの共通点は、どちらも語り手に宛てた手紙の一文になる。

親愛なるアタスン。これがきみの手に落ちるころ、わたしは姿を消しているだろう。わたしの本能と、名づけようのない立場に置かれたわたしの目下の状況は、終末が確実であること、そのおとずれのはやいことを告げる。
スティーヴンソン『ジーキル博士とハイド氏』
この手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。
夏目漱石『こころ』

 漱石はスティーヴンソンを高く評価していたと聞くが、この死者の告白という手紙形式による結末は、ここから得ていたものと考える。同時に、長い長い手紙を使って、"私"の悪ではない証を立てようとする姿勢は、相通じるものがある。6/14(日)のスゴ本オフ「漱石『こころ』の次のオススメ」でこれを語ってみよう。

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美は、見る人のなかにある『美しい幾何学』

 これを紹介するのは、とても簡単で、すごく難しい。

 というのも、簡単なのは、これは「見る数学」だから。ただ眺めているだけで、その美しさが伝わってくるから。教科書ならモノクロで印刷される定理や図形を、鮮やかなモダンアートにして魅せてくれるから。オイラー線やサイクロイド、シュタイナーの円鎖など、単体でも美しいフォルムをカラフルにリデザインしており、ページを繰るだけで楽しくなる。ひまわりやオウムガイの螺旋に見られる、形のなす必然に心が奪われるだろう(たとえフィボナッチ数の話を知っていたとしても)。

 同時にこれは、「知る数学」でもある。だから、伝えるのは難しい。直感だけで受け取った美には、そのパターンを支えるシンプルな定理が存在し、かつそれは、なるべくしてそうなっていることに気づかされる。この必然性を知るためには、やはり定理を解き、式を理解する必要がでてくる。編集方針なのだろう、数式を控えめに、なるべく「見て分かる」ようにしている。この、簡潔だけど丁寧に解説する知的態度を伝えるのが難しい。

 さらに、中学で習った三平方の定理のすぐ脇に、奥深い無限の世界が口を開けていることも、見える化されている。もちろん無限は描き尽くせない。だが、どっちへ進むとそうなるかは、描ける。有理数とイコールで結ばれた(完結した)世界から、いきなり果てのない深淵の扉が開くのは、実はとっても怖いことなんだと、あらためて教えられる。アルキメデス学派がタブー扱いするのも分かる。量を測るための数学が、量をなくしてしまうことになるから。頭で分かってはいても、見えるようにするとゾッとなる。

 たとえば、表紙のシェルピンスキーの三角形だ。こんなプロセスで出来上がる、フラクタルな無限である。

 1. 正三角形を描く
 2. 正三角形の各辺の中点を結んだ正三角形を描く
 3. 中央の正三角形を取り除く
 4. 上記2.と3.を繰り返す

 最初の三角形の面積を1とすると、次の3つの三角形のそれぞれでは、面積が1/4で、全部を合わせた面積は、3*(1/4)=3/4になる。次のステップで9個の黒い三角形の面積は1/16で、総面積は9*(1/16)=(3/4)^2となる。これを続けていくと、残った部分の面積は、数列1,3/4,(3/4)^2,(3/4)^3...となり、公比3/4の等比数列となる。

 公比は1未満のため、数列の項は、n→∞のときに0に限りなく近づく。そのため、最終的には元の三角形は、各段階で黒い領域の1/4だけを取り除いたにもかかわらず、消えてしまうことになる。表紙のシェルピンスキーの三角形は、わずか6ステップしか踏んでいないのに、既に完璧な"篩"になっている。面積という、見える有限の「量」が無限のステップの中で消えてしまう不思議。

 その一方で、三角形の周長は、一辺1とすると、3,9/2,27/4,81/8...となる。これは公比3/2の等比数列で、公比は1より大きいので、より多くの三角形を取り除くにつれて、項は際限なく大きくなり、周長は無限に大きくなってゆく……面積がゼロに限りなく近づく一方、無限の長さをもっている! ありふれた三角形から、この世のものではない無限を導き出し、それを見せてくれる。プロセスとして無限の扱い方は知ってはいるが、実感となると慄く(いまだに、アレフとかいう一つの記号で無限を表すことに違和感がある。いまだに、永遠に数え上げるプロセスを、あたかも数え終わったかのように記号で扱い、等号で結ぶことに違和感がある)。

数学で生命の謎を解く 「見る数学」に無限の深淵を見せる一方で、数学の美を絶対視していないところもいい。たとえば、このテの話にありがちな、「なんでもかんでも黄金比」に堕していないところ。黄金比の素晴らしさに"洗脳"されて、全ての中に探そうとする態度を戒める。自然界の生物から始まって、パルテノン神殿などの建築物、ダ・ヴィンチのスケッチ、果てはクレジットカードの縦横まで、なんでも黄金比で解決しようと/取捨選択しようとする人がいる。イアン・スチュアートの名著『数学で生命の謎を解く』[レビュー]によると、これは都市伝説になる。統計手法を望むデータ周りに集中させることで、強引に当てはめることが可能になるという。現代の数秘術だね。

数学は美しいか シンプルなかたちの中に、奥深い原理を知る。パターン・数・形と遊びながら原理を知ることで、自分のなかで美が再構成されるのが分かる。美しいものは、見える人のなかにあることが分かるのだ。以前、「数学は美しいか」という特集した雑誌を手にしたことがある。『美しい幾何学』は、この挑戦的なタイトルへの一つの見事な応答だろう。

 数学は美しい、だがその美は、見る人のなかにある。

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医学は科学じゃないんだよ『医学と仮説』

医学と仮説 おもしろい。ツッコミどころはあるが、究極原因にこだわる科学と、因果と相関に注目する医学の違いか。

 タバコと肺がん、O-157や水俣病の事例を元に、医学的根拠とな何かを考えさせる一冊。同時に、パンデミックSFによくある、「パニックを避けるという口実で、責任のがれのため公表を伏せる政府」の構造的欠陥が放置されていることも、よく分かる。フィクションではない、かつて起きたことで、これからも大いにありうる未来が見える。

 著者が攻撃するのは、要素還元主義だ。いわゆる、「分ければ分かる」というやつ。原因物質を究明し、人体へ影響するメカニズムが解明できる/すべしという立場に、真っ向から勝負する。そして、要素還元主義はしばしば、科学の名において悪用されていると説く。

 たとえば、タバコと肺がんの関係。因果関係についてはアメリカ政府の報告書"Smoking and Health (1964)"で証明されているにもかかわらず、タバコ会社は「メカニズムがまだ証明されていない」という理由で認めてこなかった。タバコにある特定物質が、どのように肺がんを引き起こしているのか解明されない限り、因果関係は認められないという確信犯的な悪用事例だという。

 あるいは、要素還元主義にこだわらなければ、水俣病はこれほど悲惨な事態には陥らなかったという。水俣湾の魚介類が原因であることは当初から分かっていたにもかかわらず、規制が遅れたことが被害を拡大したのだ。食品衛生法に基づき、保健所長の判断で禁止すればよかたものを、厚生省に問い合わせる。

 その回答が奮っている。すなわち、原因不明の疾患を発症するから摂食させるなと指導する一方で、全ての魚介類が有毒化している明らかな根拠が認められないので、食品衛生法を適用できないというのだ。「全ての魚介類が有毒化している明らかな根拠」、つまり要素還元主義的な汚染物質の存在証明を想定しているため、対策が後手に回る。

 当時の政府の無能を嘲笑うことはできない。今でも起こりうる人災だ。仮に、ある疾患が多発した場合、すぐさま調査することは、現行の法律ではできないという。

 食品衛生法
 薬事法
 労働安全衛生法
 感染症の予防および感染症の患者に対する医療に関する法律
 地域保健法
 毒物および劇物取締法

など、疾患の多発にへの調査に触れた法律や条文はあるが、上記の法律のうち、どれに該当するのかが事前に分からないと適用できない、という問題が残る。つまり、アウトブレイクが実際に起きた場合、「原因は分からないが、とりあえず調査する、必要に応じ強制力を発動する」といった初動に該当する根拠となる法律が、どこにもないのだ。

 かくして「パニックを避けるため、公表を伏せる」とか、「上は知らなかったことにして、現場に責任を押し付ける」といった、三流パニック映画にありがちな下地ができあがる。くりかえす、これはフィクションではないんだ。劇的で分かりやすい、ヒ素ミルクや水銀汚染ではなく、長期にわたる放射線障害といった形でお目に掛かるだろう。その時の逃げ口上は今から当てられる。「直接的な因果関係となる汚染物質を検出することができなかった」とか、「原告が被爆するメカニズムが明らかになっていない」だね。

 要素還元主義の科学へのボヤキとして「医学は科学じゃないんだよ」の一言が著者に刺さっているのはよく分かる。だが、観察と調査による経験則を至上として、やみくもに実験を批判するのはどうかと。著者自身が戒める「相関関係と因果関係のとりちがい」を解消するために、実験による論理的な因果関係の証明がある。「統計学は科学の文法」という重要性は認めるが、そもそも統計データを得る際のバイアスを除くための論理的な裏付け───すなわち、著者の嫌がる要素還元的な説明───は避けて通れないはず。

 「科学的とは何か」を事例でもって考える、格闘するにうってつけの一冊。

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