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夏目漱石『こころ』の次に読むべき一冊

 とある女子高生が、国語の授業をきっかけに『こころ』を読んだとする。拒絶から同化まで、彼女の反応は想像にお任せするとして、次にお薦めする一冊は何だろう?

 ……というテーマが、次回のスゴ本オフ。「スゴ本オフ」とは、本を持ち寄ってお薦めしあうオフ会なのだが、詳しいことはfacebook[スゴ本オフ]をご覧くだされ。もちろん、お薦めする作品は、本に限らない。映画、音楽、コミック、ゲーム何でもござれ。

 現国(なのか最早?)のお伴として、読書感想文の定番として、『こころ』は有名になりすぎた作品だ。いまだに「Kが自殺した本当の理由」とか「実は先生は死んでない」「あんなの、そもそも恋じゃない」といった挑戦的なネタが定期的に上がってくるのはその証左。映画や漫画で扱われたことで、未読でもなんとなく知っているという方も多いのではないだろうか。おかげで、ストーリーを語ってもネタバレ扱いされない、珍しい小説でもある。

 文学的にしゃぶり尽くされた感があるが、それでも似たような批評を再生産する人々に幸あれ。文学として失敗作だと見下すことで、自分の見識を高く売りつける人に幸あれ。「ほんまに『こころ』は名作か」「『こころ』なんて読まなくてもいい」なんて反語的な燃料を投下することで、真の価値を知るのは俺だというルサンチマンに幸あれ。こうした遊びができるのは、文学ネタとしては現役だから。作品そのものよりも、それを読んでいる(知っている)前提で語れるって、より深く広く豊かな土壌があるようなもの。

 ここでは、『こころ』の次に読むものとして、何が面白いかを考えてみた。「面白い」とは、自分が面白がれるところと、再読を促す動機付けがあることがポイントになる。ひとりよがりの都合のいいテクスト論に誘導するのもアリだが、そこから、いかに知らない所、興味深い場所に跳躍できるかが重要になる。そのたたき台になればいいかと。オマージュからインスパイア、リスペクト、サンプリング、なんでもござれ。

「こころ」で読みなおす漱石文学 次に読むべき一冊を選ぶなら、『「こころ」で読みなおす漱石文学』がお薦め。驚くなかれ、この一冊で、ただの文学小説が、まるで極上のミステリのように読めてしまう。愛と偽善、裏切りと葛藤といった教科書的な解釈から離れ、一見すると読み落としてしまいそうな“ほころび”に着目し、そこから点と線をつないでゆく。「作者が間違えた」と思考停止するのは、もったいない。解釈の可能性を信じることで、凄いところまで連れて行かれる。

  1. 先生から青年への手紙の数が合わない(上9章と上22章が矛盾)
  2. 先生は静をKの墓参りに連れて行ったことがあるのか、ないのか(上6章と下51章が矛盾)
  3. 静は何を知っていたのか:「みんなは云えないのよ。みんな云うと叱られるから。叱られないところだけよ」(上19章)

 綱渡りのようなアクロバティックな読みから、自分が読んだはずの小説が、全く違った容貌を得て浮上する様はスリリングだ(「青年は、いま、どこにいるのか?」への答えは思わず叫んだ)。そして、かならず『こころ』を、二度読み・三度読みするだろう。著者・石原千秋が自称するように、これは「小説の可能性を限界まで引き出すテストパイロット」のような読みになる。

夏目漱石「こころ」をどう読むか ひとつの解釈しか許さないなら、それは小説にとっての死を意味する。豊かな解釈は、そのまま喜びの多様性につながる。これをカタログのように楽しめるのが、『夏目漱石「こころ」をどう読むか』になる。「先生」「私」、「K」といった、固有名詞を排したつくりになっているので、「そこに何を読み取るのか」を裏返すと、「そう読んだ人となり」が炙り出しになる。これが面白い。

 論者はそれぞれ、実存で解いたり、ヘーゲルに絡めたり、パラノイアというキーワードを押しつけたり、トロフィーワイフからジコチュー説まで、さまざまな読み方がある。それはそれぞれ興味深い「読み」なのだが、ひっくり返すと、論者自身の信念だったり妄想になる。フッサール勉強したんだねーとか、漱石にかこつけたミソジニーですねとか、読み手の「読み」から逆分析する、意地悪いこともできる。

 ネットで見かけるBL解釈もまとまっている。「先生」と「私」の出会いは、海水浴場での一目惚れだし、最初は冷淡でも最後は心臓を割って血を浴びせようとする先生はツンデレかつヤンデレだし、そもそもこの“手記”を書いている青年は、出来事の全てを正直に暴露する義理なんてないんだし……などと、いくらでも、いかようにも読めてしまう。

ゲイ短編小説集 たとえば、オスカー・ワイルド『ゲイ短編小説集』の解説を読むと、「最終的にはすべての文学が同性愛文学であること、あるいは同性愛を意識して書かれていることを証明する」とある。『幸福な王子』のキリスト教的兄弟愛を同性愛に読み換えて再読すると、ひょっとして漱石はワイルドを読んでいたのかも……と想起されて、さらに愉しい。優れたハンマーを持つと全ての問題が釘に見えるように、同性愛という補助線を引くことで、それにしか見えなくなってしまう。文学を、同性愛として読み直す試みを経てから、『こころ』において語られなかったことは何だろうと考え始めると、果てしなく楽しめる。

アルジャーノンに花束を いったん解釈から離れて、もっと感覚的なところで響くなら、『こころ』の読後感は、ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』とそっくりだ。「経過報告」という一種の書簡形式だけでなく、あの、ラスト一行を目にしたときの放り出されたような喪失感がそっくりなのだ。テーマもストーリーも全く違うのに、その一行を伝えた感情に、うっかりシンクロすると、涙が止まらなくなるのも一緒なのだ。『こころ』の先生の遺書に追伸があったなら、それは、きっと「ついでがあったら、どうか、Kに花束を」で終わっていたのではないだろうか。

 もう一つ、これは実験になる。おそらく前例がほとんどないアイディアだと思うが、「信頼できない語り手」を青年に適用してみるのだ。もちろん、この手法は使い古されたやり方だし、『こころ』の「私」や「先生」に対してやった人もいるだろう。だが、『こころ』の上「先生と私」、中「両親と私」を、一種の注釈としてみなし、下「先生と遺書」に現実味を与えるための物騙りとして読み直すのだ。

 つまり、最初に「遺書」が存在し、なんとかしてその「遺書」の正当な持ち主となりたい「私」が、自分の正当性を証明するために、現実と虚実をまぜたストーリーを考えたのだ、という読み方。もちろん全てが嘘ではないものの、手記に書かれなかった先生との関係や、「遺書」から省かれたエピソードを膨らませることはできないだろうか。

青白い炎 かなり無理があるのは承知だが、助走として、ナボコフ『青白い炎』を読んでみよう。これは極めて実験的な異色作で、学術書の体裁をしてはいるものの、れっきとした"小説"である。999行から成る長篇詩に、前書きと膨大な註釈、そして索引で構成された"小説"だ。どの書き手をどのレベルまで信頼できるか? を常に突きつけられる面白い読書になりそうだ。ナボコフに溺れてみせることで、『こころ』を解体できるかどうか、遊んでみよう。

 あなたのお薦めはありますか? これはというのがあれば、ここのコメント欄や、「はてな人力検索」にて回答募集しております→[夏目漱石『こころ』を読んだ人にお薦めする作品を教えて下さい]

 「Yahoo! 知恵袋」でも質問してみた、はてな民の鋭く深い回答に匹敵するような返答がくるかどうか、期待半分不安半分→[夏目漱石『こころ』を読んだ人にお薦めする作品を教えて下さい]

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コメント

いつも興味深く拝読しています。

姫野カオルコ著「ツ、イ、ラ、ク」はいかがでしょうか。

恋は罪悪。恋は他者を踏みつけて奪うもの。
先生はKを踏みつけて御嬢さんを手に入れた。
「ツ、イ、ラ、ク」の主人公格の男女は、本来なら社会的に道徳的にデキてはいけない立場で、言ってしまえばルールを遵守している他者を踏みつけにして二人はデキた。
タチが悪いのはこの二人が確信犯であること(使い方に誤りあり)。『こころ』の先生とは対照的に全く悪びれていない。だのに、最後には……

恋をした自分と、好きだった人を思い出さずにはいられなくなる一冊です。
だから、女子高生というよりも、もう少し薹が立った方向けかもしれません。
『こころ』を読み、恋というか人と人との関係に後ろ向きなった気持ちを、「やっぱり恋は良い」と多少持ち上げられます。
スピンオフの「桃」もおすすめです。

なお、こちらで紹介されていた『「こころ」で読みなおす漱石文学』を第四章まで読みましたが、背筋がぞわぞわする感触を味わいました。ご紹介ありがとうございます。

投稿: sakamizu | 2015.05.17 14:47

>>sakamizu さん

お薦めありがとうございます、直球ラブストーリーは盲点でした。手に取ってみます。
小説に扱われる恋は、ルールを遵守していたり、社会的・道徳的に許容されたりするもの「ではない」と思います……なぜなら、そのほうが面白いから。道ならぬ恋を情熱的に描ききったのであれば、島本理生『ナラタージュ』なんていいなぁ(特に男性にとって)と都合良く思います。

ただ、『こころ』の先生は、本当に恋をしていたのでしょうか? 先生は「恋」だと口ではいうものの、肉の匂いもない崇拝的なものは、恋といえるのでしょうか? なんて考えながら、直球ラブストーリーと重ねて読むと、一層おもしろいかもしれません。

投稿: Dain | 2015.05.17 17:50

度々、失礼いたします。
そうですね、先生のそれが恋であったかは、『「こころ」で読みなおす漱石文学』を読み、大変疑わしくなりました。先生は青年に何を託したのか……考えるとまあ空恐ろしい。
『こころ』と『ツ、イ、ラ、ク』は「肉の匂いもない崇拝的もの」と「肉欲(あるいは好奇心)から始まったもの」というふうに読み比べても面白いかもしれません。
時に、今回のテーマとは関係ありませんが、ナラタージュをお読みであれば、『恋愛小説ふいんき語り』をおすすめします。どちらかといえば、多少、意地悪い意味で。

投稿: sakamizu | 2015.05.17 18:28

>>sakamizuさん

コメントありがとうございます、先生が心臓を開いて浴びせたものが何だったか……これだけで面白いブックトークになりそうです。先生が何を託したのか、精確に記さなかった漱石の勝利でしょう。
『ふいんき語り』は、あちこちでお薦めされているので、そのうち手を出すつもりです、ありがとうございます。

投稿: Dain | 2015.05.20 22:32

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