書評のお手本『塩一トンの読書』
それは、本についての評判と、実際に本から汲み上げた経験を混同しがちなところ。情報と経験は違う。にもかかわらず、本そのものを読む経験よりも、本についての情報を手に入れることを優先してないか、と問うてくる。ある本「についての」知識を、いつのまにか「じっさいに読んだ」経験にすりかえてやしないか、と訊いてくる。
自分で読まずに、誰かの評を呑むだけで、わかった気分になってないか。筋だけで「読んだ」ことにしてやしないか。「なにが」書いてあるかだけでなく、「どのように」書いてあるかも含めて、読書の愉しみとなる。漱石の猫の例が秀逸だ。
『吾輩は猫である』を、すじだけで語ってしまったら、作者がじっさいに力をいれたところ、きれいに無視するのだから、ずいぶん貧弱な愉しみしか味わえないだろう
激しく同意。語りと叙述の技巧や、カメラアングルと節の構成の妙、「なんでこの猫は知っているんだ」という謎解きまで、読んでいる最中に湧き上がる愉しみは、ストーリーに還元されない。わたしの場合、教科書でも読むような初読では分からなかった。中学生の、「お話を知るための読書」では無理だ。著者によると、人生経験を積み、小説作法やレトリックといった、「読むための技術」を身につけたことで、『猫』は新しい襞を開いてくれたのだという。これが、タイトルに通じる。
ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ
もちろんこれは、ものの喩え。望ましい一日の塩分摂取量(10g)からすると、1トンを半分に分けてざっと計算しても136年を越える。一トンの塩をいっしょに舐めるというのは、うれしいことや、かなしいことを、いっしょに経験するという意味だという。気が遠くなるほど長いことつきあっても、人はなかなか理解しつくせないもの。
だが、根気よく長いことつきあっているうちに、何かの拍子に、見えない「襞」を開いてくれる。古典には、そういう襞が無数に隠されていて、読み返すたびに、それまで見えなかった襞がふいに見えてくるという。しかも、一トンの塩とおなじで、その襞は、相手を理解したいと思いつづける人間にだけ、ほんの少しずつ、開かれるというのだ。
そういう襞を、わたしに分かる言葉にして、次々と詳らかにしてくれる。それぞれの批評が絶妙で、選ばれていて、素晴らしく、読みたい本が次々と積みあがってゆく。
たとえば、ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』を評して、「たよりない、いとおしい、たましい」の内面の遍歴という。これに、孤独に生き、傷つき、ぼろぼろになり、虚空をまさぐって歩く『黒の過程』のゼノンの孤独な遍歴と対比させる。もうセットで読むしかないじゃないか。読むという経験を重い体験にしたというしたたかな作品『アルブキウス』は、存在すら知らなかった。「創作、あるいは虚構、究極的には文学といったものの根源にある、ひそやかな毒を発散するところに私は惹かれる」と絶賛するフェルナンド・ペソアは、この件を眼にした瞬間、速攻で探して読んだ(ペソアbotは知ってたが、元ネタ『不穏の書、断章』は素晴らしい)。
特に、『細雪』の読みが凄い。わたしの場合、旨い酒でも呑むかのように、するすると酔ってしまったが、谷崎潤一郎が隠した二重構造を冷静に、立体的に解き明かす。雪子と妙子、ふたりの姉妹の対照的な人物のストーリーを並行/交差させるにあたって、日本的な「ものがたり」と西洋的な「プロット」が折りたたんであるという。日常的なこまごまとした出来事を繰り返す「雪子」のモードと、ドラマティックな男遍歴の浮き沈みがある「妙子」の章、それぞれの構成と小説作法をないまぜにして物語を進行させている点に、谷崎の非凡な構築の才能を見いだす。いかにわたしが、「ストーリー」しか見ていなかったか痛く感じる(そして再読したくなる)。
古典を、その情報だけで読んだことにしてた自分が恥ずかしい。未読の本は手にしたくなり、既読の本は再読したくなる、そういう、誘惑と批判に満ちた先達の一冊。スゴ本ですぞ。
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