読書の世界の広げかた
同じ本を読んでも、こうも違うのか!!
驚き慌てて読み戻り、互いの違いを話すうち、別の視線で眺めてた。読書が「ここでないどこか」の疑似体験なら、読書会は「誰かにとってのどこか」を重ね合わせたものになる。
アイヴァス『黄金時代』の読書会に参加したのだが、すごい経験をした。十数人が集まって一冊を語り合うと、十人十読になる(10*10よりむしろ10^10)。同時に、「わたしの読み」に固執する愚を思い知る。たまに見かける、裁定者みたいに振舞う「プロ書評家」の唯我読尊が、いかに貧しく寂しいかが、よく分かる。
なぜなら、自由だから。読みきった上で、「これは合わない」とか「ここは眠くなった」と言えるから。「つまらない」という感想でも、その理由を権威やレトリックで飾らなくていいから。「けれども私はそこが良かった」「いやそれならアレを読め」と交わせるくらい、互いの許容度が大きいんだ。海外文学好きって、他人に厳しい天狗たちというイメージがあったが、きれいに霧消しましたな。
「ガイブン読んでる私カッコイイ」なんてナルシスは皆無で、代わりに面白さに貪欲なバッカスばかり。面白い作品を求めるだけでなく、面白くなる“読み方”に貪欲なのだ。「自分の読み」はあるけれど、「他人の読み」とのシナジーを容れる器がちゃんとある。そんなわけで、『黄金時代』は、まさにうってつけの一冊なり。
というのも、[アイヴァス『黄金時代』はスゴ本]で述べたとおり、これはファンタジーな紀行文の表面に、古今東西の物語を重ね書き、哲学のアレゴリーを格納しているから。いかようにも“読める”のだ。
そして、脱線と変形と挿話をマトリョーシカのようにさせず(わざと)崩して畳み込んでいる様は、まとまりのなさとしてポンと放り出される。この『黄金時代』そのものが、作品に出てくる奇妙な「本」のメタファーなんだという指摘を受けて、あっと驚いた。言われてみれば、確かにそうだ。他にも、アンドレ・ブルトンの自動記述をメタで演出した心地悪さとか、コルタサル『石蹴り遊び』を思い出したとか、まさに「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」状態でしたな。
そうやって、お互いの“読み”を重ねていく行為が楽しい。読書は個人的な営みなのに、シンクロニシティを感じる瞬間が楽しいのだ。カルヴィーノ『見えない都市』やダニエレブスキー『紙葉の家』を想起したのはわたしだけじゃなかったことを確認してホッとする。これが面白かったら、残雪『最後の恋人』を読むべしというアドバイスは貴重なり。
ああでもない、こうでもないとやっていくうちに、「ひょっとして、これは[○○○]そのもののパロディなのでは?」という意見が出てくる(リンク先に答えがあるけど、一読してからの方が絶対楽しめる)。ええっと調べると、なるほど出るわ出るわ隠喩や指差し、ほのめかしが。訳者ノートのネタバレ集を覗いても、これはない。だが、あらゆる証拠が散りばめられている。
これは、「わたしの読み」に拘っていたら、一生かけてもたどり着けない喜び。デュオニッソスの読書なり。[uporeke.com]さん、ありがとうございます。

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