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駅を見る目が一変する『駅をデザインする』

駅をデザインする 出口は黄色、入口は緑、丸の内線は赤い○。何気なく目にしている駅案内をデザインしたのが、この著者だ。

 著者は、地下鉄の初乗り30円だった1972年から、駅の公共空間における問題解決のデザインを進めてきた。本書は、その豊富な事例とともに、彼自身の熱い思いを受け取るだろう。

 そのデザイン思想は、「サインとはメディアである」の一言にまとめられる。そして、このメディアを、「案内サイン」と「空間構成」の2つの方向性から説明する。すなわち、パブリックな空間における、提供者と利用者のコミュニケーションを図る際、「言葉」に相当するのが案内サインであり、「場面」に相当するのが空間構成だというのだ。

 「案内サイン」の事例は、営団地下鉄(今は東京メトロ)での改善になる。まず、多様な形式の案内表示を統一し、シンプルな記号体系にまとめる。その上で、乗車系・降車系のそれぞれの利用者動線に沿った組み合わせで提示する「サインシステム」を開発する。表紙のサインシステム・フローチャートが典型で、この流れに沿って動いていたことに今さら気づかされる。新宿ダンジョンや渋谷ラビリントスでは、何度も(今でも)助けられる。というか、これないと遭難する。

 そして、「空間構成」では、広々とした風景を作り出すことを優先課題とする。電車から降り立ったとき、駅構内に入ったときに、さえぎるものが無く、全体の様子が見て分かることが重要だという。著者が手がけた、千代田線国会議事堂前駅の建物のデザインが、その顕著な例だ。内部に仕切りを設けず、自然光が下層階まで差し込んでいく空間をつくることで、連続性のある内部空間を実現している。移動方向を指し示すサインは一切ないにもかかわらず、圧倒的な光の量が、そこが地上につながる経路だというメッセージを伝えている。

 パブリックな空間で人々の自然な流れを生み出すには、この空間構成が目的意識をもってデザインされ、統一的でシンプルな案内サインでコミュニケーションを図らねばならぬという。著者の実績と熱意は分かるが、そこから飛び出る日本ダメダメ論に首をかしげたくなる。

 たとえば、ロンドン地下鉄やワシントン駅を絶賛する一方で、日本の駅の水準が低いことを批判する。JR京都駅の空間整備は部分的で、奥行きが狭いから旅情を楽しめぬと嘆き、JR新宿駅を「わかりにくさ世界一」の無残な空間だと両断する。いち利用者のわたしからすると、あの立地、あの過密、あの迷宮がこの程度で済んでいると考える。

 新宿を例にとると、ホームごとに個別の屋根が架けられて全体の状況が見えにくいから、全体を高い屋根で覆って、JR田端駅のように作れと提案する。一日の降車数8万と200万を、同じ「山手線」で比較する発想が跳び抜けてて愉快だ。利便性は重要だが、新宿駅を「止めずに」作り直すことは、現実的でないほど困難だろう。新幹線品川駅の建設に6年もかかったわけや、新宿南口バスターミナルやJR横浜駅の工事がいつまでたっても終わらない理由と同じだ。

 エンジニアと外科医の小話を思い出す。「エンジニアはPCの修理をして、外科医は心臓の手術をする。似たようなことしてるのに、なぜ外科医の給料が良いのか?」という問いに、外科医は「電源を切らずにしているようなものだからね」と返す。できあがりだけを考えるデザイナーと、アプローチやマネジメントまで検討するアーキテクトの違いか。

 また、日本の駅名サインが生真面目に統一性を求めていることを硬直的だと批判する。パリやニューヨークの地下鉄は、自由な書体が使われているが、利用上、まったく不便は感じないという。ホント? どちらも行ったことないが、例示された画像を見る限り、他の看板や広告にまぎれ、「これが駅名である」と示されないと一瞥で判別できなかった。

 そして著者は、これを見習ってみなとみらい線の駅名フォントを不統一にしたんだと胸を張る。おまえか! と叫ぶ。初めて利用した際、駅ごとにデザインが異なり、えらく不便に感じた。黒字に白の文字や、その逆、書体もさまざまのため、駅名標を意識的に探す必要が出てくる。慣れれば風情があるだろうが、諦めた。みなとみらい線に限り、ドア上の電光掲示で確認することにしている。

 デザイン寄りの話には頷ける指摘もあるが、こと建築となると勇み足じみたものを感じる。デザイナーの限界が透けて見え、賛否の両側から考えさせられる。

 駅の見方を、一変させる一冊。

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文章読本の名著90冊から抽出した『究極の文章術』と、わたしが強力にお薦めする2冊

 上手になりたい全ての人に。

 文章術を紹介するエントリが定期的にもてはやされる。中身は似たり寄ったりなのに、なぜ? それは、文章「術」が好きだから。ほらあれだ、勉強「法」ばかりアレコレ試して計画するけど、勉強そのものはあんまり、というやつ。この本は、そんな人にピッタリで、かつトドメを刺す一冊になる。

 ご紹介の前に、わたしの方法をお伝えする。文章が上手になりたいのなら、次をひたすら繰り返すしかない(ソース俺、反論歓迎)。


1. 書け



2. 削れ




 これだけ。書き出しが決まらないとか、構成がまとまらないとか、悩みが尽きないのは分かる。でもこれしかないんだ。そして、1と2をやらないなら、文章読本を読んでも無駄。あれは、作家さんが小遣い稼ぎにらしいこと言ってるだけで、それだけでは参考にならぬ。1と2を繰り返していくことで、腑に落ちるんだよ。教則本だけで運転ができるかよ、泳げるのか? まず書け、そして削れ。

 もっとも、「文章読本を読むのが好き」という人もいる。さっき述べた、勉強「法」が好きな人だね。そういう「文章読本好き」のために、「文章読本」読本があるが、あれは他人のフンドシで出汁とった雑煮なのであって、そういう文の芸を楽しむもの。まちがってもそれで上手くなろうなどと期待しちゃいけない。

究極の文章術 『究極の文章術』の著者は、そういう芸人ではない。巷に数多にある文章読本から90冊を選び取り、そこから文章の書き方の定石を抽出する。見開き1頁で1冊を紹介する潔さは好感が持てるが、当然ながらまとめきれるわけない。バッサリ切り落とされて“ふいんき”しか残っていない。『理科系の作文技術』や『ロジカル・ライティング』が、たかだか1000字に凝縮できるはずもなく、むしろ、なぜこれをエッセンスと見なすのか? という著者の選択感覚が気になる。

 それでも、横断的に眺めることで、自分に向いているパターンを見つけることができる。一種のブックメニューとして読むのだ。なにを書くのか(発想術)、どう書くのか(構成・表現・説得術)まで、じつに様々なノウハウが、これでもかと集められている。谷崎潤一郎や山田ズーニーといった安心して読めるものから、素性不明のハウツー本まで、じつに沢山の文章「術」が要約されている。

 そのため、真逆の主張が面白い。梅棹忠夫が「KJ法で構成を考えよ」と語る一方、中谷彰宏は「構成なんて考えるな」と言い切る。「文章を貫く問い(=論点)を定めよ」という山田ズーニーと、「ともかく書き始めよ」という渡辺昇一。「冒頭にセリフをもってこい」というライターと「転より始めよ」というエッセイスト。「考えるスピードで書け」 vs 「誰に何を書くか絞り上げて燃料にしろ」など、どっちの言い分も、もっともらしい。ノウハウ化できる文章術は、ほぼ網羅されているから、ここからツマミ食いするといいし、そこから元の一冊に手を伸ばすのもありだ。

 だが、これ読んでやった気になっても、自分の文章は上達していない。もちろん、書いていないから。じゃぁどうする? そうだ、まず書け、そして削れ。

 その上で、わたしのオススメをご紹介。『理科系の作文技術』は基本として、「読めば読むほど上達する」チート的な2冊だ。


3. マネしろ




 上手な人の「型」というものがある。このストックが沢山あって、適切なタイミングに適度に使える人ほど、文章上手という。要するに、文章を書く上でのデザインパターンだ。

 もちろん、どこにもないオリジナルを編み出す型破りもいる。だが、守破離の「守」さえ守れない人は、"形無し"と呼ぶのがふさわしい。まずは「型」をひたすらマネしよう。一般に、沢山の文章を読んでそこから抽出するのが普通だが、もっと良いのがある。

 一冊なら、佐藤信夫『レトリック感覚』になる。レトリックとは、ずばり説得する技術であり、「型」のツールボックスだ。『究極の文章術』で紹介されている、あらゆるテクニカルな「型」の一切合財が入っている。『レトリック感覚』は、その使い方、勘所をレクチャーしてくれる。読めば読むほど上達し、困ったら辞書的に引くチートシートみたいに使うといい。

 もう一つは、野矢茂樹『論理トレーニング101題』だ。ひたすら実践あるのみ。どんなに解説書を読んでも、実技なしでは鍛えられない。論理を扱う様々な「型」が、問題→解答→解説形式で展開される。一問一問、順番に解いていくことで、着実に身につけることができる。出題レベルが高すぎるという苦情があるが、一度で諦めんな、繰り返すんだよ! と声を励ましたい。どうしてもという場合は、パターンを覚えてしまってもいい、「型」なんだから。

 カモリーマン向けのありがちな論理本100冊よりも、この一冊を繰り返すべし。論理の骨法を捕まえる方法を身につけたなら、今度は逆に、把握しやすい「型」をどう展開すればいいかが分かる。文章力とは論理力、これは感性ではなく、訓練で身につく。

論理トレーニング101題

 大事なことなのでもう一度。


1. 書け



2. 削れ



3. マネしろ

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読書の世界の広げかた

 同じ本を読んでも、こうも違うのか!!

 驚き慌てて読み戻り、互いの違いを話すうち、別の視線で眺めてた。読書が「ここでないどこか」の疑似体験なら、読書会は「誰かにとってのどこか」を重ね合わせたものになる。

 アイヴァス『黄金時代』の読書会に参加したのだが、すごい経験をした。十数人が集まって一冊を語り合うと、十人十読になる(10*10よりむしろ10^10)。同時に、「わたしの読み」に固執する愚を思い知る。たまに見かける、裁定者みたいに振舞う「プロ書評家」の唯我読尊が、いかに貧しく寂しいかが、よく分かる。

 なぜなら、自由だから。読みきった上で、「これは合わない」とか「ここは眠くなった」と言えるから。「つまらない」という感想でも、その理由を権威やレトリックで飾らなくていいから。「けれども私はそこが良かった」「いやそれならアレを読め」と交わせるくらい、互いの許容度が大きいんだ。海外文学好きって、他人に厳しい天狗たちというイメージがあったが、きれいに霧消しましたな。

黄金時代 「ガイブン読んでる私カッコイイ」なんてナルシスは皆無で、代わりに面白さに貪欲なバッカスばかり。面白い作品を求めるだけでなく、面白くなる“読み方”に貪欲なのだ。「自分の読み」はあるけれど、「他人の読み」とのシナジーを容れる器がちゃんとある。そんなわけで、『黄金時代』は、まさにうってつけの一冊なり。

 というのも、[アイヴァス『黄金時代』はスゴ本]で述べたとおり、これはファンタジーな紀行文の表面に、古今東西の物語を重ね書き、哲学のアレゴリーを格納しているから。いかようにも“読める”のだ。

 そして、脱線と変形と挿話をマトリョーシカのようにさせず(わざと)崩して畳み込んでいる様は、まとまりのなさとしてポンと放り出される。この『黄金時代』そのものが、作品に出てくる奇妙な「本」のメタファーなんだという指摘を受けて、あっと驚いた。言われてみれば、確かにそうだ。他にも、アンドレ・ブルトンの自動記述をメタで演出した心地悪さとか、コルタサル『石蹴り遊び』を思い出したとか、まさに「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」状態でしたな。

 そうやって、お互いの“読み”を重ねていく行為が楽しい。読書は個人的な営みなのに、シンクロニシティを感じる瞬間が楽しいのだ。カルヴィーノ『見えない都市』やダニエレブスキー『紙葉の家』を想起したのはわたしだけじゃなかったことを確認してホッとする。これが面白かったら、残雪『最後の恋人』を読むべしというアドバイスは貴重なり。

 ああでもない、こうでもないとやっていくうちに、「ひょっとして、これは[○○○]そのもののパロディなのでは?」という意見が出てくる(リンク先に答えがあるけど、一読してからの方が絶対楽しめる)。ええっと調べると、なるほど出るわ出るわ隠喩や指差し、ほのめかしが。訳者ノートのネタバレ集を覗いても、これはない。だが、あらゆる証拠が散りばめられている。

 これは、「わたしの読み」に拘っていたら、一生かけてもたどり着けない喜び。デュオニッソスの読書なり。[uporeke.com]さん、ありがとうございます。

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アイヴァス『黄金時代』はスゴ本

黄金時代 「世界は一冊の書物に至るために作られている」マラルメはそう喝破した。だが、その「本」は絶えず更新され、挿入され、削除されている。なぜなら、「本」について口を開いた瞬間、読者は語り手すなわち作者となるから。

 英訳がamazonのSF/ファンタジー部門で1位らしいが、この傑作は「SF」でも「ファンタジー」でもない……とはいうものの、これがどういう作品か、紹介するのはかなり難しい。

 本書を、虚構の島の奇妙な日常を紹介する旅行記として読んでもいいし、その島にただ一つだけある、始まりも終わりもない増殖する「本」に畳み込まれた物語に呑み込まれても面白い。ボルヘスやナボコフや千夜一夜を想起して、ニヤリとほくそ笑んだりゴクリと唾を飲み込んだりもする。あちこちに隠してある、プラトンやフーコーやレイコフたちの哲学のアナロジーを解くのも、めっぽう楽しい。

 つまり本書は、物語単品でも、物語の重ね書きとしても、物語る行為のパロディとしても愉しめる。表面の物語だけなら「ファンタジー」というラベルも然りだし、じっさいそういう読みで満足できる(この場合、感想文=要約文になる)。

 だが、わざわざ読もうとする人なら、本書を手にするまで背後に積み上げてきた作品群があるだろう。これを読むと、否が応でもそれらを呼び覚ましてくる。その化学反応を試す触媒みたいな一冊なのだ。

 たとえば、「本」にまつわるエピソードは、『砂の本』や『薔薇の名前』、ゲームの「MYST」を思い出す。物理的な挿入・更新・削除が繰り返された「本」は、ボルヘスの迷宮そのものだし、靴下のように「本」を裏返しに剥いて、「本」自体に挿入として貼り付けたいという欲望は、MYSTのラストだ。

 会話や戯曲、映画から物語を招き入れ、変形させていく「開かれた」存在で、脱線に次ぐ脱線、挿入のなかの挿話といった入れ子状に絡み合って進行する。物語やイメージを解き放つと同時に巻き込んでゆく、いわば代謝する「本」なのだ。これを読むことは、闘争だったり掘削になる。跳躍しても遡行するのもありだ。多種多様な「読み」を可能にすると同時に、自らが語り手となって、脱線と挿入を紡ぎだすのもいい。そのとき、読者は作者になり代わる。

 一方で、これはインターネットのハイパーリンクそのものであることに気づき、愕然とするかもしれない。「本」に畳まれた物理的なポケットを探ることで、物語は、いくらでも脱線し、どこまでも精緻になる。

 この「本」を、Wikipediaに喩えたコメントを見かけたが、いい得て妙なり。Wikipedia:「本」というメディアと、ユーザー:島民という読者/作者と、ディクショナリー:ストーリーという構成が、きれいに対比される。Wikipediaを読みふけった人なら、「本」に対する島民の愛情を、わが事のように理解できるだろう。

 また、プラトンの「洞窟の比喩」が、「洞窟の比喩の比喩」としてパロディになっているのに噴いた。ほらあれだ、洞窟で縛られていて、影絵ばかり見させられている人が、「影」を「実体」だと思い込むイデア論の例え話。この影絵を映し出す「火」を「水」に代えてくる。島の奇妙な慣習で、家には「壁」というものが存在せず、代わりに水をカーテンのように滴らせている。

 この水の壁ごしのイメージを、島の人たちは異なるかたちで認識する。向こう側に人がいるのに、男女の睦ごとをしたり、プライバシーをまるで隠そうともしないことに対し、島の女はこう言う「水の壁の向こう側にいる人たちが見ているのは壁の表面に揺れ動くものだけで、その形は私たちにすこし似ているにすぎないの」。イメージとモノ自体は結び付けられておらず、それぞれが独自の生を営むことを願っているという。

 ソシュールの言語学用語でいう、「シニフィアン」と「シニフィエ」の“ゆらぎ”を寓話的にした、島独特の言語慣習も面白い。それぞれ「意味しているもの」「意味されているもの」という意味で、例えば「木(き)」という文字や音声がシニフィアンで、そこから表される木のイメージや概念がシニフィエになる。

 わたしたちにとっては意味を指し示す対の関係なのだが、島では前者は後者の対話を促すものとして受け止められている。対象の名を変えることによって、命名されたモノの特性が増えていくばかりか、モノそのものに影響を及ぼし、変化をもたらすことがあるという。自分の名前すらしばしば変えてしまい、その名によって強制されたものか、最初から内部にあったかは分からないが、シニフィアンどおりの性格や傾向が探り当てられ、目覚めさせられる。

 名詞だけではない。接頭辞、接尾辞、語尾もどんどん変えてゆく、イージーな文法になっている。そんなことが現実に可能かどうかは「ファンタジー」として、興味深いのは、島の文法に馴染むことを「罹患」と称しているところ。そしてこの病は、視覚、聴覚、身ぶりに影響をもたらし、これらを通じて現実が変わってくるという件。まんま、レイコフ『レトリックと人生』じゃねぇか!

 『レトリックと人生』の主旨を一言で示すと、「メタファーを通じて、人は世界を理解する」になる。メタファーは、単なる言葉の綾ではなく、認知や思考が基づいている概念体系の本質を成している、理解の器官だという。さらに、メタファーは、現実に構造を与えているだけでなく、新しい現実を創出するというのだ。認知言語学の理論を島の風習に溶かし込んでいるセンスに脱帽する。ミハル・アイヴァスは哲学の教授だと聞いたが、こういう形で料理してくると、どうしてもウンベルト・エーコを思い出してしまう。

 他にも、モノが文字に見えてくる逆ゲシュタルト崩壊とでも呼ぶしかない現象や、雪片曲線構造を持った物語など、人文哲学ネタまみれの「ファンタジー」は、ごほうびみたいな一冊になっている。もっとメタな眼になって、物語自体が自らを駆動するために語り手を紡ぎ出しているんじゃないかと夢想すると、さらに面白くなる。だが、これも作者(『黄金時代』の作者アイヴァス)の想定どおりだろう。

 くやしいが、おもしろい。再び溺れてみせようか、そんな誘惑に満ちた傑作。これは、[uporeke.com]の読書会の課題図書で手にしたのだが、凄い体験でしたな。uporekeさん、ありがとうございます。

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「歴史」のスゴ本オフで、積読山がさらに高くなる

 好きな本を持ちよって、まったり熱く語り合うスゴ本オフ。

 これが嬉しいのは、「本」つながりで人の輪がどんどん広がるところ。なんせ、「この本が好きだ」とオススメすると、「その本が好きなら、この本はきっと気に入るはず」というアドバイスがリアルで聞けるから。

 毎回テーマを決めて、それに沿った本が集まってくる。大型書店でありがちな特集とは異なり、ド定番のみならず変化球、裏返し、意外なつながりなど、本の大喜利になっているのも面白い。「なぜその一冊なのか」を聞いているうちに、その人となりが見えてくるのは、もっと楽しい。詳しくは、facebook「スゴ本オフ」をどうぞ。

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歴史というテーマで『影武者徳川家康』が出てくるセンスが好い

 今回は「歴史」がテーマ。書店や図書館の歴史コーナーに並んでいる人類史や歴史書をはじめ、美術史、偽史、黒歴史、コーヒーや日本刀、ベストセラーや疫病といった切り口から見た人類史がドラマティックだ。

 さらに、聖書を戦史として読むという指摘が目鱗だ。歴史の改変だったら「ターミネーター」だって“歴史”になるし、遠い先だって未来史として括れる。“人”という存在が介在しなくとも、眼の機能の発展を追いかければ進化史となり、生きた化石であるイチョウの歴史は、そのまま2億年を辿ることになる。自分が、いかに狭くテーマを捉えていたかを思い知らされる。

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猫型フィナンシェ! 寝てる子かわえェ

 ここではいくつかをピックアップしてご紹介するが、網羅的なものは実況tweetをまとめた[人類史から宇宙開発史、ベストセラー史、偽史、性病や流行の日本刀の歴史まで「歴史のスゴ本オフ」まとめ]を参考にしてほしい。

 『おもいでエマノン』(梶尾真治)を“歴史”として捉えたのにはうならされる。「地球に生命が発生してから現在までのこと総て記憶している」美少女エマノンと、彼女に出会った人との交流を描いた名作だ。鶴田謙二のイラストで新装版になっているのを知って二重に嬉しい。初読した頃は、主人公の「ぼく」と同世代だったが、今じゃオトナになった「ぼく」を越えてオッサンになった。エマノンを思い出すとき、ユーミンの卒業写真が脳内を流れるくらいの、「わたしの青春そのもの」。願わくば、いまの「ぼく」たちの手に届きますように。

エマノン1エマノン2

 名著として名高い『人類が知っていることすべての短い歴史』(ビル・ブライソン)は読みたい。ビッグバンから911までを24時間に圧縮すると、人類が農耕を始めてからの歴史が、わずか1秒になってしまうそうな。そして、エーテル、燃素、宇宙定数などなど、人類がいかにデタラメな仮説を作ってきたかがわかる、「人類が知らなかったことすべての短い歴史」の本でもあるという。

人類が知っていることすべての短い歴史1人類が知っていることすべての短い歴史2

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香ばしいホップよりもむしろ、これビールじゃないのに驚いた

宇宙開発と国際政治 『宇宙開発と国際政治』(鈴木一人)は専門書ながらものすごく興味深い。美化された物語としての宇宙モノでもなく、軍事利用を挑発的に告発するものでもなく、きわめて現実的に宇宙開発を分析している。最近の商用ロケットはインドが強いとか、中国の宇宙開発は凄い凄いと喧伝されているが、エンジニアたちは知識人ジェノサイドである文化大革命をどうやって生き延びたのかなど、ドロドロした側面が盛りだくさんだという。

コーヒーが廻り世界史が廻る 『コーヒーが廻り世界史が廻る』(臼井隆一郎)は、近代市民社会の黒い血液・コーヒーで捉えた世界史になる。最初はイスラムの神秘主義者の秘密の飲み物だったのが、イギリス、フランス、ドイツと伝わり、コーヒー・ハウス=情報交換のサロンとなる一方で、植民地での搾取と人種差別にかかわる。コーヒーが廻した世界の歴史は、コーヒーを片手に読みたい。これ紹介したおぎじゅんさん、好きが高じてカフェを開くという。新宿荒木町「珈琲専門 猫廼舎」(ねこのや)で、4月オープンとのこと。今回、出張カフェで淹れていただいた一杯は、生まれて初めて飲んだ一杯みたいで、純粋に深く濃くなめらかだった。

ガリア戦記 歴史ど真ん中の『ガリア戦記』は、紀元前にカエサルによって書かれた、ガリア(現在のフランス)の遠征記録なのだが、これはルポルタージュでありエッセイであり論考でありプレゼンテーションにも読める。oyajidonさんの、「反戦を叫びながらも、この戦記に感動する、人の矛盾さも一つの歴史になる」という指摘に納得。

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上品アロマ濃厚なのに、これワインじゃなくてブドウジュースなの

ベストセラーの世界史 「ベストセラーはなぜ、どのように生まれるのか?」をまとめた『ベストセラーの世界史』は、かなりダークな歴史になる。グーテンベルク以来、500年におよぶ書籍の歴史を振り返り、部数のごまかし、編集者の怠慢、売れまくった屑本など、出版の裏面を読み解くのにこれ以上のものはないとのこと。「よい本であってもよい編集者に恵まれなければ売れない、凡庸であっても編集者によって大ヒットすることもある」は、けだし真実だと思う。甲本ヒロトの名言をヒネるなら、「ベストセラーが一番なら、一番おいしいラーメンはカップラーメンになってしまう」だね。ベストセラーは、「ふだん本なんて読まない人が急いで買った」からこそベストセラーになっていることを忘れずに。

 歴史を「視覚」から捉えた、きりんりきさんのオススメが面白い。まず、進化におけるビッグバン「カンブリア紀の爆発」をテーマに、グールド『ワンダフル・ライフ』を紹介した後、この大変革がなぜ起きたのかという謎を解いた『眼の誕生』(アンドリュー・パーカー)をお薦めする。ある種が光(=視覚)を得たときに陶太圧が起き、種の爆発に至ったという仮説はスリリングなり。さらに、この視覚(=画像圧縮技術)が人工知能の遺伝的アルゴリズムに法っている話から、ユル・ブリンナー主演の映画『ウエストワールド』につなげる。西部劇のテーマパークでロボットが制御不能になる話なのだが、「コンピュータが設計したロボットなので原因不明」という説明がされている。ヒューリスティックに作るとこうなるという、"懐かしい未来"やね。禿頭のガンマンがひたすら怖かったことを覚えているが、あれこそターミネーターだね。

眼の誕生ウエストワールド

情報の歴史 嬉しい噂を耳にする。象形文字から人工知能まで、知と時を貫いて一望できる名著『情報の歴史』(松岡正剛)の新版が出るかも? という話だ。[松丸本舗で著者ご本人から伺ったことがある]が、かなり期待していいのかも……(amazonでトンでもない値がついているので、書影からご確認あれ)。確か、1980年代が「最新」として扱われていたはずなので、アップデートされるのは911や311も含まれて
いるだろう。座右か枕元の一冊にすべく、正座して待つ。

Sugohonrekisi05

日本刀の研師の息子さんの話が面白すぎる

 わたしが紹介したのは、ウンベルト・エーコ『醜の歴史』と『美の歴史』。絵画や彫刻、映画、文学、音楽、哲学、天文学、神学、ポップアートにいたるあらゆる知的遺産を渉猟し、「美とは何か」を追求したのが『美の歴史』で、その姉妹編が『醜の歴史』。うっとり陶酔する絵画や、ぞっと魅入られる図版などを眺めているだけで楽しい&タメになる。並べてみると興味深いのが、美は多様だが、醜は一様だという点。時代や文化ごとに定義されたものが美であるが、醜悪や異形や逸脱は、どの時代どの文化でも通用する。「正義は変数だが、悪は定数」だね。

醜の歴史美の歴史

 紹介された作品は下記の通り。積読山がさらに高くなりますな。

  • 『美の歴史』ウンベルト・エーコ(東洋書林)
  • 『醜の歴史』ウンベルト・エーコ(東洋書林)
  • 『薔薇の名前』ウンベルト・エーコ(東京創元社)
  • 『おもいでエマノン』梶尾 真治(徳間書店)
  • 『時砂の王』小川 一水(ハヤカワ文庫)
  • 『久遠の絆』(PlayStationソフト)フォグ
  • 『たちの悪い話』バリー・ユアグロー(新潮社)
  • 『カイト・ランナー』カーレド・ホッセイニ(アーティストハウスパブリッシャーズ)
  • 『君のために1000回でも』カーレド・ホッセイニ(ハヤカワ文庫)
  • 『ツタンカーメン発掘記』ハワード・カーター(ちくま書店)
  • 『誰がツタンカーメンを殺したか』ボブ・ブライアー(原書房)
  • 『王家の紋章』細川智栄子あんど芙~みん(秋田書店)
  • 『チャイニーズ・ライフ――激動の中国を生きたある中国人画家の物語』リー・クンウー(明石書店)
  • 『敗北を抱きしめて』ジョン・ダワー(岩波書店)
  • 『シリーズ日本近現代史』井上 勝生ほか(岩波新書)
  • 『人間は何を食べてきたか』(DVD)宮崎 駿ほか(ブエナ・ビスタ・ホーム)
  • 『イチョウ 奇跡の2億年史』ピーター・クレイン(河出書房新社)
  • 『ワイルド・スワン』ユン・チアン(講談社文庫)
  • 『穂積重遠』大村 敦志(ミネルヴァ書房)
  • 『137億年の物語―宇宙が始まってから今日までの全歴史』クリストファー・ロイド(文藝春秋)
  • 『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン(新潮文庫)
  • 『世界を変えた6つの飲み物』トム・スタンデージ(インターシフト)
  • 『秘宝館という文化装置』妙木 忍(青弓社)
  • 『名物刀剣 宝物の日本刀』(美術館図録)
  • 『戦国名刀伝』東郷 隆(文藝春秋)
  • 『三国志』吉川 英治(講談社)
  • 『聖書』
  • 『三国志演義』井波 律子(講談社学術文庫)
  • 『孫子』
  • 『コーヒーが廻り世界史が廻る』 臼井 隆一郎(中公新書)
  • 『王様も文豪もみな苦しんだ 性病の世界史』ビルギット・アダム(草思社)
  • 『タイム・マシン』H.G.ウエルズ(岩波文庫)
  • 『風の王国』五木 寛之(新潮文庫)
  • 『隠された日本 中国・関東 サンカの民と被差別の世界』五木 寛之(ちくま書店)
  • 『NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争(DVD)』(NHKエンタープライズ)
  • 『宮本常一が撮った昭和の情景』宮本 常一(毎日新聞社)
  • 『オリガ・モリソヴナの反語法』米原 万里(集英社文庫)
  • 『ガリア戦記』カエサル(岩波文庫)
  • 『歴史にならなかった歴史』ロジャー・ブランズ(文春文庫)
  • 『ジョゼフ・フーシェ―ある政治的人間の肖像』シュテファン・ツワイク(岩波文庫)
  • 『僕たちの好きなガンダム 一年戦争徹底解析』(宝島)
  • 『東大のディープな世界史』祝田 秀全(中経出版)
  • 『ノーゲーム・ノーライフ』榎宮祐(メディアファクトリー)
  • 『日本の米 環境と文化はかく作られた-』富山 和子(中央公論社)
  • 『ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語』スティーヴン・ジェイ グールド(ハヤカワ文庫)
  • 『ウエストワールド』(DVD)ユル・ブリンナー主演、マイケル・クライトン監督(ワーナー)
  • 『眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く』アンドリュー・パーカー(草思社)
  • 『ニューロマンサー』ウィリアム・ギブスン(ハヤカワ文庫)
  • 『終戦後』荒木経惟(ARTROOM)
  • 『本当の戦争の話をしよう』ティム・オブライエン(文藝春秋)
  • 『村田エフェンディ滞土録』梨木 香歩(角川書店)
  • 『われらの父の父』ベルナール・ヴェルベール(日本放送出版協会)
  • 『蠅の王』ウィリアム・ゴールディング(新潮文庫)
  • 『蟻』ベルナール・ヴェルベール(角川文庫)
  • 『ベストセラーの世界史』フレデリック・ルヴィロワ(太田出版)
  • 『ラーメンと愛国』速水 健朗(講談社現代新書)
  • 『情報の歴史』松岡 正剛(NTT出版)
  • 『ぼんち』山崎 豊子(新潮文庫)
  • 『後宮小説』酒見 賢一(新潮文庫)
  • 『蒲生邸事件』宮部 みゆき(文春文庫)
  • 『影武者徳川家康』隆 慶一郎(新潮文庫)
  • 『神話の力』ジョーゼフ・キャンベル(ハヤカワ文庫)
  • 『テンプル騎士団とフリーメーソン』マイケル・ベイジェント(三交社)
  • 『古事記夜話』中村 武彦(たちばな出版)
  • 『疫病と世界史』ウィリアム・マクニール(中公文庫)
  • 『宇宙開発と国際政治』鈴木 一人(岩波書店)
  • 『春風のスネグラチカ』沙村広明(太田出版)
  • 『無限の住人』沙村広明(講談社)
  • 『そのとき歴史が動いた』NHK取材班(NHKブックス)
  • 『ジョゼフ・フーシェ』シュテファン・ツワイク(岩波文庫)
  • 『エディアカラ紀・カンブリア紀の生物』土屋 健(技術評論社)
  • 『移行化石の発見』ブライアン・スウィーテク(文春文庫)
  • 『日本の血脈』石井 妙子(文春文庫)

Sugohonrekisi06

積読山の標高がさらに高くなるオフでしたな

 次回のテーマは、ちょっと変化球→「この一行」だ。決めゼリフだったり、心を震わせたワンセテンスを紹介して、どんな本かを皆に思い描いていただき、最後には種明かしをする、という流れにするつもり。新潮文庫の「ワタシの一行」に似てるって!? もちろんですとも。でも、新潮文庫に限らず、マンガも映画も歌も巻き込んで、刺さった/震えた/残り続ける/大声で/そっと伝えたい一行と、それへの想いを語っていただければと。facebook「スゴ本オフ」で告知するので、チェックしてくだされ。


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糞システムにしないため、私ができること『はじめよう! 要件定義』

はじめよう要件定義 「なぜ糞システムができあがるか?」の答えは、「一つ前の仕事をしている」に尽きる

 詳しくはリンク先を見てもらうとして、まとめるなら、自分の仕事のインプットが出来てないので、仕方なく前工程の仕事を代行しているうちに、リソースと気力がどんどん失われているからになる。これはプログラマに限らず、SEからPM、テスタや運用を入れても、当てはまる。「何をするのか」が決められない経営層が糞だから、あとはGIGOの法則(Garbage In, Garbage Out)に従う。

 では、どうすればよいか?

 「“何をするのか”を決めてもらう」という回答だと、連中と同じ肥溜めに落ちている。なぜなら奴らの“目標”とは、「売上を○%ストレッチする」とか「新規市場を開拓する」といった、現状を裏返した願望にすぎないから。売上アップ/新規開拓のために、どこに注力して、何にリソースを使い、そのために必要な道具(システム)を“決める”ことこそがおまえらの仕事だろうに。呪ったところで仕方ない、現場でできることを粛々とやろう―――だが、具体的に何を?

 それをコンパクトにまとめたのが、本書になる。もちろんマネジメントや政治といった力学はあるけれど、いち担当としてできることが、これ以上噛み砕けないほど噛み砕いて書いてある。要件定義とは何かから始まって、基本的な流れ、定義すべき内訳、ゴールからの逆算の仕方など、助走から離陸まで、「やるべきこと」と「なぜそれをするのか(しないとどうなるのか)」に絞ってまとめられている。

 たとえば、「企画を確認せよ」という。ゴールを確認するための企画書なのだが、企画書なんて見せてもらったことがないのが現実だ(あるいは、誰も読まない稟議のための分厚い束が渡されるかだ)。無いなら作れという。関係する人たちがゴールを確認するための企画書だ。何をどのように作るのか、利用する人の便益、期限と体制などが記されたペーパーでいい。これは、ソフトウェア開発だけでなく、あらゆる仕事に通用する(仕事は一人で完結しないから)。

 そして、あちこちのコラム欄で、要件定義の周辺を説明する。企画の話、マネジメントの話、と飛び火するのを堪えているのが分かる。この飛び火した先の話のほうがめっぽう面白く、机に刻んでおくべきなのだが、もし全部語ったなら、どんどん膨らんでしまうだろう。この分量におさえて、「要件定義だけ」に絞るため、泣く泣く切り上げたのだと推察する。

 いちばん刺さった(というかトラウマを呼び起こした)のは、「要件定義と業務設計を分割せよ」の件。「せっかくだからソフトウェアを活かした業務にしたい。そのためにソフトウェア側の要件がハッキリしないと行動シナリオ(業務設計)が書けない」と言ってくる客だ。

 その結果、「ソフトウェアの要件定義」という作業と、「行動シナリオの検討と設計(=業務設計)」という作業が入り混じってしまい、作業が異様に複雑になる。「要件定義には業務知識が不可欠だ」とか本質からズレた議論が白熱し、白熱するわりに不毛な展開になる。

 これは、発注元がよく使う逃げ口上だ。自分がやってこなかった(やるとは思っていなかった)宿題の理由を、受注側に押し付ける常套句だ。受ける側は、自分の仕事のインプットとなる「一つ前の仕事」なのにね。著者は、この土俵に乗ってはいけないと警告する。ではどうするか? 分割統治せよと答える。すなわち、要件定義「の前」に行動シナリオを書くことを推奨する。

 ここは極めて重要なり。わたしの場合、「打ち合わせの時間を変える」で対処した。同じメンバ、同じ会議室なのだけど、何時から何時を第一部「行動シナリオを検討する」時間と、その後に第二部「要件定義を詰める」時間に分けるのだ。間に休憩を入れて役を変えるだけで、「今のゴールは何か」という共通認識が生まれる(お試しあれ)。

 他にも、「データベースとはシステムを越えて共有する、超グローバル変数だ」とか、「終わったはずの要件定義をやりなおしているのなら、それやった人は要らない子」など、刺さる箴言がさらりと埋め込まれている。要件定義で泣いた人なら、思い出し泣きするかもしれない。

 要件定義で泣かない子になるために、「自分が」できる全てがある。

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死を効率化せよ『医師の一分』

 「死を効率化すべき」という世になるのかも。

 命には値段がある(一人一年、一千百万円)。「優先すべき命」とそうでない命がある(子供・労災を優先、自殺未遂・暴走族は後)。こうした本音は、トリアージのような切迫した状況だと見えやすいが、普通は病院の壁の向こうにある。ひたすら死を先送りにしようとする現場では、「もう爺さん寿命だから諦めなよ」という言葉が喉元まで迫ったとしても、口に出すことは許されない。

 だから、これを書いたのだろう。がんの専門医として沢山の臨終に立ち会ってきた著者が、現代医療の偽善を批判する。自己決定という風潮を幸いに判断を丸投げする医師を嘲笑い、90過ぎの老衰患者に、点滴+抗生物質+透析+ペースメーカーまで入れるのは、本当に「救う」ことなのか?と疑問を突きつける。

 毒舌を衒ってはいるものの、ナマの、辛辣で強烈な批判は、わたしが死ぬ際の参考になる。他人に振りかざしたなら「不謹慎」であり「乱暴」と非難されるかもしれないが、自分の死のコストを考えるならいいだろう。

 たとえば、命の値段を、一人の寿命を一年延ばす(治癒させる場合は、次の病気や事故で、あわよくば老衰で死ぬまで)にいくらかかるのかという指標で計算すると、一人当たりGDPの3倍に相当するという(Sullivan R,et al. Lancet Oncol 2011;12:933)。そして、「一人一年」の延命効果を示すのに、これ以上の費用がかかる治療はコストパフォーマンスとして見合わないという。この主張は画一的だろうが、少なくとも「見える化」は図られている。

 患者の自己責任なんて不可能だとする事例が面白い。食道癌の権威である、フランツ・インゲルフィンガー教授の話を持ってくる。医者の不養生とは言ったもので、この教授、自身の専門の食道癌になる。いざなってみると、これまでの知識は、自分の治療方針を決めるのに全く役に立たない。データなんて他人の結果から出てきた「確率」にすぎず、自分がどうすればいいか答えが出せず、ついにノイローゼになる。

 その時、教授を救ったのは、友人の一言だったという。

 「君に必要なのは先生(doctor)だよ」

 ハッと悟った教授は、同僚を主治医として治療を任せ、自分は職場に復帰する。後の手記の中で、教授はこう述べる。患者の前に「できること一覧」を並べ、あんたの人生なんだから自分で選んでくれというのは、自分の義務を矮小化しているphysicianであって、doctorではないというのだ。

 この教授の話にあわせて、著者は自身に聞かせるように言い切る。「医者は、自分で責任を負わねばならない、患者に負わせてはいけない」と。そして、責任回避に汲々とし、「期待するな」「自分に頼るな」という医者は、「自分に任せておけ、治してやる」という民間医療に負けてしまうと尻を叩く。

 ついでに民間医療のカラクリも教えてくれる。「絶対治る」という民間医療は、ほとんどが入院施設のないクリニックで、いざ悪くなったときに、「うちは入院ができないのでどこかよそへ行け」という逃げ口上を用意しているというのだ。これは上手い、もとい卑怯なテクニックなり。だが、病ではなく現代医療を敵にしてしまった事例を見る限り、[バカは死ななきゃ治らない]は本当だ(わたし自身がそうなる可能性も大なり)。

 今から見える、少し先の未来も興味深い。国立社会保障・人口問題研究所の予測によると、高齢者人口のピークは2042年の3878万人になる。この時代には、現在より40万人多い167万人が毎年死亡することになる。死を「特殊化」して扱うことなどできるわけがなく、否が応でも何らかの「対策」が必要となる。

 高齢者が多くなるということは、死ぬ前の「元気でない期間」も長くなり、ただでさえパンク寸前の病院は収容しきれなくなるという。「自宅で死にたい」というのも良いが、手厚い介護と医療サービスのない「在宅死」なんて、孤独死もしくは野垂れ死にと大差ないそうな(「ピンピンコロリ」は、めったにないから理想扱いされていることを忘れないように)

 かくして、連日、老人の死体であふれる日比谷公園という20年後の未来は、ぞっとするほどリアルだ。65歳以上の志願者を集めて安楽死させろと書いた山田風太郎や、「80以上は死刑!」と言ったビートたけしは、時代を先取りしていたのか。

 使えない国民を自殺まで誘導する国家プロジェクトを描いた『自殺自由法』(戸梶圭太/中公文庫)という鬱小説があるが、似たようなプロットで『往生促進法』のような話が出てきてもおかしくない。コスパの悪い人生を、まとめて楽にさせる世界。ハクスリー『すばらしい新世界』が、気味悪いほど近くに見える。病院のベッドの上で、生身の人に看取られながら死んでゆくというのは、すごく贅沢なことになるのかもしれない。

 現代の医者は、死ぬまで患者と家族につきあうのだから、寿命の番人みたいなもの。つまり、「死神」の仕事まで担っているという。

 どうせなら、いい死神にあたりますように。

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書評のお手本『塩一トンの読書』

塩一トンの読書 すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり。激しく首肯し、振り返って恥ずかしい。というのも、わたしの欺瞞がずばり書いてあるから。

 それは、本についての評判と、実際に本から汲み上げた経験を混同しがちなところ。情報と経験は違う。にもかかわらず、本そのものを読む経験よりも、本についての情報を手に入れることを優先してないか、と問うてくる。ある本「についての」知識を、いつのまにか「じっさいに読んだ」経験にすりかえてやしないか、と訊いてくる。

 自分で読まずに、誰かの評を呑むだけで、わかった気分になってないか。筋だけで「読んだ」ことにしてやしないか。「なにが」書いてあるかだけでなく、「どのように」書いてあるかも含めて、読書の愉しみとなる。漱石の猫の例が秀逸だ。

『吾輩は猫である』を、すじだけで語ってしまったら、作者がじっさいに力をいれたところ、きれいに無視するのだから、ずいぶん貧弱な愉しみしか味わえないだろう

 激しく同意。語りと叙述の技巧や、カメラアングルと節の構成の妙、「なんでこの猫は知っているんだ」という謎解きまで、読んでいる最中に湧き上がる愉しみは、ストーリーに還元されない。わたしの場合、教科書でも読むような初読では分からなかった。中学生の、「お話を知るための読書」では無理だ。著者によると、人生経験を積み、小説作法やレトリックといった、「読むための技術」を身につけたことで、『猫』は新しい襞を開いてくれたのだという。これが、タイトルに通じる。

ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ

 もちろんこれは、ものの喩え。望ましい一日の塩分摂取量(10g)からすると、1トンを半分に分けてざっと計算しても136年を越える。一トンの塩をいっしょに舐めるというのは、うれしいことや、かなしいことを、いっしょに経験するという意味だという。気が遠くなるほど長いことつきあっても、人はなかなか理解しつくせないもの。

 だが、根気よく長いことつきあっているうちに、何かの拍子に、見えない「襞」を開いてくれる。古典には、そういう襞が無数に隠されていて、読み返すたびに、それまで見えなかった襞がふいに見えてくるという。しかも、一トンの塩とおなじで、その襞は、相手を理解したいと思いつづける人間にだけ、ほんの少しずつ、開かれるというのだ。

 そういう襞を、わたしに分かる言葉にして、次々と詳らかにしてくれる。それぞれの批評が絶妙で、選ばれていて、素晴らしく、読みたい本が次々と積みあがってゆく。

 たとえば、ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』を評して、「たよりない、いとおしい、たましい」の内面の遍歴という。これに、孤独に生き、傷つき、ぼろぼろになり、虚空をまさぐって歩く『黒の過程』のゼノンの孤独な遍歴と対比させる。もうセットで読むしかないじゃないか。読むという経験を重い体験にしたというしたたかな作品『アルブキウス』は、存在すら知らなかった。「創作、あるいは虚構、究極的には文学といったものの根源にある、ひそやかな毒を発散するところに私は惹かれる」と絶賛するフェルナンド・ペソアは、この件を眼にした瞬間、速攻で探して読んだ(ペソアbotは知ってたが、元ネタ『不穏の書、断章』は素晴らしい)。

 特に、『細雪』の読みが凄い。わたしの場合、旨い酒でも呑むかのように、するすると酔ってしまったが、谷崎潤一郎が隠した二重構造を冷静に、立体的に解き明かす。雪子と妙子、ふたりの姉妹の対照的な人物のストーリーを並行/交差させるにあたって、日本的な「ものがたり」と西洋的な「プロット」が折りたたんであるという。日常的なこまごまとした出来事を繰り返す「雪子」のモードと、ドラマティックな男遍歴の浮き沈みがある「妙子」の章、それぞれの構成と小説作法をないまぜにして物語を進行させている点に、谷崎の非凡な構築の才能を見いだす。いかにわたしが、「ストーリー」しか見ていなかったか痛く感じる(そして再読したくなる)。

 古典を、その情報だけで読んだことにしてた自分が恥ずかしい。未読の本は手にしたくなり、既読の本は再読したくなる、そういう、誘惑と批判に満ちた先達の一冊。スゴ本ですぞ。

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