人と文のインタフェース『文体の科学』
言葉のスタイルに思考を読み取る。記されたものを、人と文のインタフェースとしての「文体」と捉えなおし、聖書からtwitterまで、さまざまな「文体」を吟味する、面白い試み。
目の付け所がシャープなのは、文体を「配置」だと言い切っているところ。文字や語、かたまりとしての文章が、媒体にどのようなスタイルで配置されているかを、まるごと掴まえてみる。普通、文体論といえば漱石の文体というような文学寄りの話になるが、ここでは「対話」「科学」「法律」など、意識して領域を越えている。さらには、媒体の物質的な側面からも考察する。本であれiPhoneであれ、文はかならず何らかの媒体を通じて入ってくる。つまり、文が象られるインタフェースもひっくるめた文体論なのだ。
そのため、なじみの本から面白い考察が出てくる。手垢がつくほど料理されてきた『吾輩は猫である』を、「距離」で捉えなおす。つまりこうだ、新潮文庫の9ポイント活字で『猫』を読むと、358,020文字になり、これを一列に並べると、1.131kmに至る。本というパッケージは片手で掴めるが、『猫』を最初から最後まで読み尽くすとき、物理的にこれだけの距離を「移動」したことになる。読書は精神の旅だというが、物理的にも同じ喩えが当てはまりそうだ。
そして、身体に引きつけて文を眺めることで、新たな気づきをもたらしてくれる。「科学」の事例として、植物図鑑の説明文を引き、人の立場から書かれていることを示す。たとえば「逆毛」とは、植物の生長方向に向かって逆方向に生えるから「逆毛」という。これが成り立つのは、地面に対して垂直上の方向に立っている存在から見た場合になる。そこには重力があり、それに抗う意識がある前提が隠されているというのだ。わざわざ断ってはいないものの、人という種が見たモノであるという暗黙裏がある。科学の文章は、主観を交えずに記す客観性が重要視されているが、そこには主観ならぬ種観があるという。
ここから面白い分け方ができる。論文や小説や条文という分類ではなく、書き手や特定の人物の主観を「隠す」文体と「隠さない」文体だ。前者は、非人称のモノローグから客観や不偏を装ったものになり、論文や一部の小説・詩歌があてはまる。後者は小説一般と対話文になる。この観点から客観を装ったイデオローグの芸文と言える新聞記事を斬ると、愉しい分析ができるだろう。文体の詭弁性を知るのにもってこいの教材だが、そこまでの深堀りは本書でしていない。
そう、斬り口がユニークなので、俎上に載せる文体がもっと欲しくなる。たとえば、最も数多くの人々の心を動かした文がある。ベストセラーでも聖書でもない。読んだ者の感情を揺さぶり、怒りや哀しみ、ともすると感動を与えた、Windowsのエラーメッセージについて考えると面白いだろう(昔の人なら、「コマンドまたはファイル名が違います」だね)。
あるいは、同じ出来事を99通りの文体で描き分けたレーモン・クノー『文体練習』を挙げるなら、「爆発音がした」まとめや[村上春樹ジェネレーター]で言語遊戯したい。プログラミング言語の文体について触れるのなら、難読化について分析して欲しかった。コードの目的を隠蔽するため、故意にコードやロジックを難解に曖昧にする変換技術は、「文体は人のためのものか?」という興味深い問題を示している。さらには、「手紙」や「注釈」といったテーマで斬っても遊べるだろう。
もう一つ。タイトルから、形態素解析して文の特徴を数値化した小論かと勝手に想像したが、そんな考察は無い。もとの連載時の題名『文体百般』のほうがしっくりくる。次回があるなら、正座して期待する。

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